先週は筆者が高校の同期会で役目もありましたので欠席いたしましたが、教会からデータを送っていただき起こしました。
きょうは岩渕まことさんのコンサートがあります。

先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年以上の長きに亘って、岩手で主のご奉仕をしておられます。
6月30(日)の説教は『みこころの奥義』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:エペソ書1:1~14でした。
1:1神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。 1:2私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。1:3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。1:4すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。 1:5神は、みこころの良しとするところに従って、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。 1:6それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。1:7このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。 1:8この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって、私たちのうえにあふれさせ、1:9みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とはキリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、1:10時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。1:11またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。 1:12それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。 1:13このキリストにあって、あなた方もまた、真理のことば、あなた方の救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。 1:14聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。
〈説教〉
(復習にも新たに加えられた事項がありましたが割愛いたします)
きょうは「キリストにあって」を念頭に置きながら、エペソ人の手紙1章の7節、8節、9節にスポットを当てて見ていきたいと導かれております。
7節に心を向けましょう。
1:7このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
「その血による贖い」、この意味をはっきり理解することは、クリスチャン信仰生活には極めて重要なことです。これがわからないと、イエス・キリストの十字架が持っているほんとうの意味を理解することができません。聖書は徹頭徹尾、血による贖いを伝えております。それはイエス・キリストの十字架にあらわれるものであり、これによって人の、人類の罪が赦される。そのことを見ていきたく思います。
血による贖いは、創世記の3章の21節にも書かれております。
3:21神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って、彼らに着せられた。
まだ人間が罪を犯すまえのエデンの園において、アダムとエバ、人間は祝福にあふれた生活をしておりましたけれども、人間が罪を犯してしまったことのゆえに、神様からの裁きを受けねばなりませんでした。神様の戒めを破って彼は死ななければならない。罪を犯したがゆえにエデンの園から追放されるというその大きな悲しみの中に、憐れみ深い神様は、アダムとその妻のために、罪を犯してしまったその者のために、手ずから皮の衣を作って彼らに着せられたのです。このときはじめて、エデンの園において動物の血が流され命が絶たれました。血を流し殺された獣の皮衣がアダムとエバの衣として、神様によって提供されました。神様が人間に備えてくださった着物です。神様から直々に与えられた動物の命の代償である毛衣でした。こうしてみますと、聖書はそのはじめから人間の罪の贖いには動物の血が流され命が絶たれ、その毛の衣によって覆われることでしか人間は神の前に出る事ができないことを教えているのです。聖書はまさしく血塗られた、ある意味凄惨な書物です。もっとも凄惨な場面が主イエス様の十字架である、聖書はそこに焦点が合わせられていると言ってよろしいでしょう。
みなさんはノアという人物をご存知でしょう。創世記8章の20節
8:20ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜から、またすべてのきよい鳥から幾つかを取って、祭壇の上で全焼の捧げものをささげた。
陸をも沈めるほどの大雨のとき、ノアは箱舟に乗り込んですべての破滅から逃れました。再出発のとき、ノアがいちばん最初にやったことは、主のために祭壇を築いたということなのです。そして、彼らにとって最も大切であった家畜、それも最もきよい家畜を生贄(いけにえ)として屠り血を流して捧げ、神様に礼拝を捧げました。これも、いかに動物の血が流される生贄というものが主の前に必要であるかを示しています。
こんどはヘブル人への手紙、このヘブル人への手紙というのは、旧約聖書を良く知っており、その律法に従って生きていたヘブルのユダヤの人たちに、旧約聖書に書かれていた生贄とは、実はイエス様のことなんですよと教えようと記されたものなのです。その9章22節。
9:22律法によれば、ほとんどすべてのものが血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。
ここに明確に、十字架の贖いというものがなければ、人間の罪の赦しはあり得ないとあります。
もう一つ、第一ペテロ1章2節。12使徒の中でも代表的な人物ペテロが、自分の受けていた福音をお手紙としてまとめた中の1章2節、
1:2父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人達へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かに与えられますように。
恵みと平安、あのパウロのお手紙と同じ書き方ですけれども、ペテロは、その呼びかけている者たちに、「あなたがたはキリストの十字架の血の注ぎかけを受けるように神様に選ばれた人たちです。呼びだされた人たちですよ。教会は神によって呼び出された人たちの集まり、あなたがたはその十字架の贖いの血潮を受け取るように選ばれた人たちなのですよ」とはっきりと私たちに示していてくれます。
エペソ1章7節に帰ります。
1:7このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
私たち罪びとは、動物の血が流され殺されなければ神様の前に義と認められない、正しい者と認められない、受け入れられないということは、創世記の3章のときから、もう始めから啓示されている。神の前に正しい者として受け入れられるためには生贄が必要でした。どうしても必要だったのです。エデンの園のときに、神様は、自ら動物を屠ってくださいました。イエス・キリストはまさしく、神様がご自身の手によって屠った仔羊なのです。イエス様は、十字架の上で血を流して、自らが命をかけて血を流し、「主よ父なる神よどうぞ私の十字架の死に免じて彼らを赦してあげてください、義と認めてください、御前に立つことができるようにしてください」と祈られた。このキリストの十字架がなければ、私たちは決して主の前に立つことはできないのです。そしてまた、これこそが、私たちへの神が備えてくださった愛のわざなのです。罪の中に永遠の滅びの中にあらねばならない私たちを、滅びから救うためにひとり子をお与えくださった。ヨハネ3章16節、
3:16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神の仔羊の贖いの血。これが私たちには不可欠であることを、ようく心に留めさせていただきたいのです。
そして、エペソの1:7にあるように
1:7これは神の豊かな恵みによることです
受けるに値しない者に対するはかり知れない神様の恵み、これがイエス・キリストの十字架の救いなのです。そして8節、
1:8この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって、私たちのうえにあふれさせ
そして9節
1:9みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とはキリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい
つまりこのことこそ、キリストの十字架の御心、奥義なのです。
奥義(おくぎ)は、何らかの修行を積んで獲得せられるものとは違います。一般の宗教でいわれる奥義(おうぎ)と同じ字を書きますけれども、全く違います。
これは信仰によって与えられる聖霊が、ああそうだ、私はそういう者なのだという事実を悟らせてくださる。ああそれは私のことですと認罪を示してくださる、これこそが御心の奥義なのです。これは神に選ばれた者のみに認識されるものです。人間的な論理だけでキリスト教神学など色々なものを勉強し、これがヘブル語で、これがギリシャ語でなどと論じたてたとしても、それは奥義とはいわないし、いえません。それで学者が皆救われているかというと、神による救いは、そのようなこととは関係のないことです。むしろ、心砕かれ、神の前にへりくだって、ああこの私だ、この十字架が私に必要なのだ。私はこれほど神様に愛されている。主よ、ありがとうございます。そのことがわかる、それこそ神の御心の奥義であり、それは聖霊によって与えられます。13節、
1:13このキリストにあって、あなた方もまた、真理のことば、あなた方の救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
このエペソ人への手紙が、何のために書かれたのか、私たち、この機会に、どうかこれらのことを心に留めたいと願うことであります。
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