きょうのことば
夏至から1週間以上たちました。夏の本番はこれからではあるものの、夏至を過ぎますと一路冬に向かうかの心境ともなります。地震の頻発、災害の大型化などのさ中に、神の平安のうちに守られ進みゆくことができればと願っております。
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先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年以上の長きに亘って、岩手で主のご奉仕をしておられます。
6月23(日)の説教は『霊的祝福の恵み-2』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:エペソ書1:1~14でした。
1:1神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。 1:2私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。1:3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。1:4すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。 1:5神は、みこころの良しとするところに従って、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。 1:6それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。1:7このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。 1:8この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって、私たちのうえにあふれさせ、1:9みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とはキリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、1:10時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。1:11またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。 1:12それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。 1:13このキリストにあって、あなた方もまた、真理のことば、あなた方の救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。 1:14聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。
〈説教〉
(前置きは割愛いたします)
さて、エペソ人への手紙、これはパウロが福音のために迫害を受けて獄中にあったときに書いたお手紙です。このとき、自分が伝えている福音は、どのような意味をもっているのか。投獄されることがなければ、福音を伝え続けていたパウロですが、それを妨害されて獄舎につながれていたときに深く思いめぐらしたそのお手紙が、エペソ、ピリピ、コロサイ、そしてピレモンも含め、獄中書簡でございます。
エペソという教会は、ローマ帝国の中でも屈指の都市でありましたが、そこに向かってパウロが、自分が伝えようとしている福音はこういうものなのだということを書き、ティキコという人物をメッセンジャーとして託した。このことがエペソ書6章のいちばん最後のところにこうあります。
6:21私の様子や、私が何をしているのかを、あなた方にも分かってもらうために、愛する兄弟、主にある忠実な奉仕者であるティキコが、すべてを知らせます。 6:22ティキコをあなたがたのもとに遣わすのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです。
これはティキコがこういう手紙を持っていく使者となったということでありますし、またティキコはこのお手紙だけでなく、コロサイのお手紙とか他の書簡も一緒に携えて、ローマの獄中から、パウロのことを心配している教会宛にこれを持って行ったということになります。パウロがこのエペソ人への手紙を書きティキコに託したときに、これを他の教会にも回覧して読んで欲しいと望んでいたわけです。今の印刷のような時代とは違います。
その証拠に、エペソ書1章に戻りますが、1章1節をご覧ください。
1:1神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ
とあります。聖書をご覧になりますと、本文の方の「エペソの」の右肩にマークが付いており、欄外に〈「エペソの」を欠くものもある〉とございます。つまり、パウロがこれを書いたときには勿論エペソの人たちをまず念頭に置いていたたことは間違いない。「エペソの」が書かれていたでしょう。ただエペソだけではなくパウロが関わった周囲の諸教会にも読んでもらいたいのです。この「エペソの」のところに別の教会名を入れてもよく、そこの教会の人たちにも読んでもらいたいという願望、目的があるわけであります。
そして2節
1:2私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように
これはいわばお手紙の常套句としてクリスチャンがよく書く定型の元がこれです。これは今の私たち宛でもあるのです。パウロがただの常套句のように書いたという以上の響きを読み取りたい。「恵みと平安」、これをパウロは手紙を受け取るすべての教会の人たちに祈っています。
「恵み」とは何か。神学者たちは「受けるに値しない者に対する神の御好意」と定義づけております。言い得ています。受けて当然というなら、それを受けたとしても、「恵み」とはいわないでしょう。しかし、受けるに値しないようなこのような者に惜しみなく与えられる神様のご好意、これが「恵み」である。この盛岡教会の一人ひとりもまた「父なる神と御子主キリストから、この神様の恵みがありますように」と祈られているのです。
それから、もう一つ「平安」、これをパウロは挨拶しております。「恵みと平安があなたがたの上にありますように」。パウロが述べているこの「平安」とは何だろうか。みことばの中に思いめぐらすときに、ヨハネ14章の27節、これはイエス様が最後の晩餐の時にお弟子さんたちと間もなく数時間後に捕らえられ十字架に架けられようとしているときです。それに対する不満をお弟子さんたちが感じていたときに、
14:27わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません
と諭し励まします。文語訳のヨハネ16:33で「此等のことを汝らに語りたるは、汝ら我に在りて平安を得んが爲なり。なんぢら世にありては患難あり、されど雄々しかれ。我すでに世に勝てり」とイエス様は仰っています。
パウロは「どうか平安があるように」と書きますが、それはイエス様の平安、私の平安、誰の平安というよりも、あのゲッセマネの祈りにおいて血の汗を流して祈られたお方が勝利を得て心定まった。イエス様の平安はわたしの平安です。十字架の上に持っておられたあの平安、それをパウロは、きっと心に留めながら、あなた方もきっといろいろな出来事に、これまでも、そしてこれからも直面するだろうけれども、だいじょうぶ、イエス様が持っておられた同じ平安、それがあなた方にあるのだよ、それをパウロは挨拶のことばとして教会に語りかけているのです。
そして、もう一つ心に留まったことがあります。テモテへの手紙ですが、パウロがテモテというお弟子さんに書いた手紙です。これもある意味、定型的なパウロのお手紙の書きだしです。第一テモテへの手紙の第一章の冒頭、
1:1私たちの救い主である神と、私たちの望みであるキリスト・イエスとの命令によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、 1:2信仰による、真のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。
このテモテという忠実なパウロの後継者である人物は、どちらかというと内気な、或いは腺病質なといったらいいでしょうか、そういう弱さも持っていた。それを誰よりもよく知っていたパウロです。テモテという個人に書いたこの手紙は、教会に向けて書いたお手紙の挨拶とはちょっと違います。「恵みとあわれみと平安」、恵みと平安だけではなく「あわれみ」も書き込まれている。パウロはテモテという人物をよく知っていたので、「あわれみ」も入れたのです。この「あわれみ」はどういうことばなのか。「窮状、困った状態にある人に対する同情」、そしてこれは「神の真実な愛」であります。パウロは、テモテがいま直面している状況を想像しながら、神様のあわれみがテモテにあるように。窮状にあるひとに対する同情、そしてこれは神の真実な愛です。これがこの第一テモテ1章2節にある「恵みとあわれみと平安」です。
また、1章1節をご覧ください。
1:1神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ
ここで「聖徒たちへ」と呼びかけています。さきほど申しましたように、これには同じ内容をあちらの教会、こちらの教会に回覧してもらいたいという願いがある。これは私たち盛岡のこの私たちにもパウロは呼びかけていると恵みを受け留めたいと思います。「キリスト・イエスにある忠実な盛岡の聖徒たち」。何だか照れてしまうな、聖徒たち、そんなに聖徒たちじゃないんだけど、という思いがかすめないわけではない。でも、そんな私たちに、たとえばコリントの教会の人たちもパウロは聖徒と呼んでいます。ということは。コリントという教会は、これでもクリスチャン? というような類の分派、分裂、不道徳があった、これが神のみ名の教会にあっていいの? と思わず眉をひそめてしまうような類の教会に対して、パウロは「コリントにある聖徒たちへ」と呼びかける。この場合の聖徒というのは、いわゆるよくできた欠けのない立派な人という意味では必ずしもない。そうではなく、イエス様、神様から、さあ、あなたを呼びます。呼び出された人たちが教会ですよね。エクレシア、呼び出された人たちの集まり。ですから、私たちは、胸を張って聖徒という呼ばれ方をしてもいいのです。そういう意味でコリントの聖徒たちと呼ばれるような使われ方をしている。呼び出された人たちの集まりだけれども、世から呼び出された私たちは、やはり、神様の前に聖徒と呼ばれるその者に相応しくありたいという願いが、だからこそ願いを持つのですけれども、しかし、できているから聖徒と呼ばれるのではない。呼ばれたからそうありたいと願うのは当然ですけれども、しかし、できているからあなたたちを聖徒と呼ぶという意味ではないという事で理解していただきたいのです。
先ごろのエピソードを紹介したいと思います。木曜日に北上の集会がありました。信者の方々の訪問や集会にはふつうはひろ子先生と一緒に行きます。その日は、たまたまYさん、Aさんも同乗していました。いつもハンドルを握るときに一こと、ことばに出す出さないは別として先ず習慣的に「主よ守ってください」とお祈りを捧げるのですけれども、その時は、ある意味非日常でしたので、思わず「大切な姉妹方をお乗せしているので運転をお守りください」とことばが出ました。後ろから笑い声が聞こえて「大切なんですって」と姉妹方の声。するとひろ子先生が「そうよ、大切よ」と。それは決して大げさでも何でもない。「大切な方をお乗せしていますから」という祈りが自然に出てきました。その時にその後ろで交わされた会話がふっと心に留まったのです。イエス様は私たちを大切な一人ひとりとして名前を挙げて呼び出してとりなしていてくださるお方なのだという事。ああ、そうだ、わたしたちのような者も主は大切なものとして呼び出して、値積もって祈っていてくださる。お互い何という恵みの中にいる事か、心からそう教えられたことです。私たちは神によって選ばれ、召され呼び出されている、そういう者であります。前回、「キリストにあって」を繰り返しましたが、この事は特にこのキリストにある特色である事をもういちど心に留めさせていただきましょう。
「キリストにあって」、私たちを祝福して下さるという事。祝福の所以、基であるおことばを挙げますが、1:3「キリストにあって」、それから1:4「この方にあって」、1:6「その愛する方にあって」、1:7「このキリストにあって」、1:9「キリストにあって」、これだけ次々と、「キリストにあって」これらのことを得ている。1:10「キリストにあって」、1:11「またキリストにあって」、1:13「このキリストにあって」。
「キリストにあって」ということは、どういうことなのか、つまり私たちが信仰によってイエス・キリストと一つとなって、これがきょうお話しさせていただいた忠実な聖徒たち。繰り返すようですが、何か立派な人物だからではない。「このキリストにあって」というその意味において、私たちは聖徒として呼ばれている。
4節をご覧ください。
1:4すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです
神に選ばれ、そして傷のないものとして、私たちは永遠的な祝福を受けるために神様に選ばれたということです。
きょうは、これにすこし踏みこんで締めくくらせて頂きたく思います。
5節をご覧ください。
1:5神は、みこころの良しとするところに従って、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました
これは、立ち止まって、この意味を当てはめてみる時、とんでもない恵みです。私たちをイエス・キリストによって神様がご自分の子にしようと愛をもってあらかじめ定めておられた。世界の基の据えられる前から、この方にあって私たちを世から選んでくださって、呼び出してくださって、御前にある聖なる、傷のない者にしようとされて、私たちを神のご自分の子どもにしようと愛をもって世界の始まる前から定めていてくださった。思わずエーっと言ってしまいます。
「ベン・ハー」という映画をご覧になったことがあるでしょうか。私は中学校のころに初めて見ました。
主人公のベン・ハーとメッサラは、本来は親友でした。メッサラは時の権力者であるローマ皇帝に取り入って出世を図ろうとします。メッサラは出世欲にとりつかれていた。俺はローマで出世するんだ、ローマ皇帝のもとでという価値観、人生観で生きていく。片やユダヤ人のベン・ハーという誇り高き家系にある彼は、自分の同族がローマ帝国によって苦しめられていることに非常な怒りを感じていた。メッサラは親友なのですが、ベン・ハーとは生き方が違う。そしてとうとう行き違いがあって彼は捕らわれの身となり、ガレー船の漕ぎ手とされてしまう。ところがその船が襲撃されたとき、ベン・ハーは、敵であるローマの将軍を助けました。将軍は命の恩人であるベン・ハーを「おまえは私の子どもだ」と将軍の跡取りの印として指輪を与えられる。この権威をもってベン・ハーは、自分の母親、自分の妹の居場所を吐かせます。私はローマの将軍の跡取り息子、私はこういう者である、それを示す一場面です。
あの指輪ではありませんが、私たちは罪と滅びの中にあった。生まれながら神のみ怒りを受けるべき私たちが、不思議な恵みによって呼び出されて、私の罪の身代わりとして、神のひとり子が、命をかけて救ってくださった。私たちは、その神の子どもとされる指輪、それは十字架のイエス様の血潮によって、この者は、わたしを信じているこの者は、わたしの子どもである、わたしが命をかけて彼をわたしの子としたのである。神はこのようにいってくださる。エペソ1章5節にあります。
1:5神は、みこころの良しとするところに従って、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
こんな私たちがイエス様を信じて罪赦されて神の子どもとされる特権が与えられた、もっと正確にいうならば、イエス・キリストによってご自分の子とする、これには「神は」という主語がありますから、父なる神様のキリストによってご自分の子どもとせられた、そういう意味です。そして私たちがそのようなものになることによって、6節、
1:6それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
つまりイエス様が十字架の贖い、私たちが神の子どもとされるというこのようなすばらしいことをしてくださったことによってイエス様ご自身が崇められるということです。イエス様の十字架のすばらしさ、こんな者たちを救うことがおできになるイエス・キリストご自身が神のみ前に大きな栄光を受ける。神の恵みの栄光はほめたたえられるため、これを読んだとき、この者たちの救いがいかほどに大きなものであることか。13節、
1:13このキリストにあって、あなた方もまた、真理のことば、あなた方の救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
信じたことによって私たちはイエス・キリストの十字架の血潮によって、約束の聖霊によって証印を押されたのです。あなたはわたしの大切な子どもだ。すばらしいこのことが神の栄光につながるのだ。
どうぞこの福音を更にさらに私たちのものとし、これに生きていくお互いであらせていただきましょう。
※7,053字の打ち出しと編集の労を神様にお捧げいたします。 5時3分 更新
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