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きょうのことば

 

先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。

國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年以上の長きに亘って、岩手で主のご奉仕をしておられます。

Dsc05411bokusi  616()の説教は『霊的祝福の恵み』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:エペソ書1:1~3でした。

1:1神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。 1:2私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。1:3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

〈説教〉

きょうからは、このエペソ人への手紙をべースに学びを進めていきたいと導かれております。当然のことながら、その時々に対応した別のみことばを開くこともあるわけですが、基本的にはエペソ人への手紙からですので、この公開説教が祝されますように祈って頂きたいと思います。

(前置きの一部、前回の復習は割愛します) 

 新約聖書のなかにある『ピリピ人への手紙』『コロサイ人への手紙』『ピレモンへの手紙』『エペソ人への手紙』の4つは、パウロがローマの獄中に捕らえられていたときに書いたもので、これらは獄中書簡として分類されております。エペソ人への手紙もその必要があって書かれており、書かれた年代は紀元後の60年であろうといわれております。

 聖書は旧約聖書、新約聖書と大きく二つに分けてあります。ざっくりとお話しするならば、救い主キリスト、メシアについて記されているのが聖書であります。旧約聖書は、そのお方がやがて私たちに与えられますよと知らせ、メシアが与えられるという希望と確信を与えてくれるのが、旧約聖書にある詩歌でもあり歴史でもあり、色々なことがありますけれども、何れ旧約聖書には、やがて我らにメシアが与えられますよという事が記されている。では、それに対して新約聖書の方は、何かというと、こんどは過去を振り返って、その旧約に預言されていたメシアとは、あの十字架につけられ復活されたナザレのイエスご自身ですよということを示している、それが新約聖書です。救い主がやがて我らに与えられますよという旧約聖書とそのお方はナザレのあの十字架につけられ、よみがえられたイエスなのですよということを示して、ほら、その証拠にこういう人生、生涯を歩まれたのですよというイエス様とご生涯を誕生から或いは十字架、復活までイエス様というお方に焦点を合わせて書かれているのが『マタイの福音書』『マルコの福音書』『ルカの福音書』『ヨハネの福音書』ですし、そしてそれを承けたお弟子さんたちが、このようにして教会を作り上げていきましたよという、教会のできあがっていく過程、これが記されているのが『使徒の働き』です。そして、各教会への書簡がありますが、その多くがパウロによる書簡です。それ以外の人たちが書いたお手紙に『ヘブル人への手紙』『ヤコブの手紙』『ヨハネの手紙 第一、第二』などがあります。勿論このヘブル書というのは、誰が書いたかはまだ明確でありません。学者たちが研究しているところです。現代は、ヘブル人への手紙はパウロ書簡ではないだろう、別の人が書いたのではないかという説が多くあります。私が信仰に導かれた当時、まだそれがちょうどボーダーラインの時でありました。印象的なことでありましたけれども、講壇から蔦田二雄先生が、「このヘブル人への手紙の著者についていろいろ論じられていて、他の名前も挙げられているけれども、それがはっきりしない限り、パウロ書簡として分類して差し支えない」といわれました。その当時はパウロ書簡、パウロの書いたお手紙としてヘブル書があったなあと思い出しながら、しかし、これは今後の学者の研究に委ねてよろしいわけで、大切なことは、誰が書いたかというよりもその内容です。そしてヘブルから始まって、最後の黙示録だけは、随分趣の違ったお手紙になっております。新約聖書というのは、ですから、福音書に代表されるイエス様のご生涯と教会がどようにしてできたかという使徒の働きとして、その過程においてパウロが重荷をもって、或いは、こういうことをしてもらいたいという願いをもってその時その時必要に応じて書かれたお手紙が、それが後になって聖書として編纂されるように導かれ、パウロが書いたお手紙が13、それから、その他のいわゆる公同書簡とよばれるもの、そして黙示録など、これらのものはいろいろありますけれども、ぜんぶ、あのお方、ナザレのイエスというお方がメシア、キリストなんですよということを繰り返して示しているということには変わりがないわけであります。これが、新約聖書。

 私たちがいま、これから学ぼうとしているところが、どういう位置づけなのか、そして、このパウロの書いた、獄中書簡、これがどういう環境の中で書かれたかというと、パウロが、当時のユダヤ教徒たちの妬みを買い、反感を買い、そして彼らが、ローマ帝国に讒訴してパウロを排除しようとしている、それゆえにパウロは牢獄に捕らえられるという経験を何度かしております。結局パウロは私たちが知る限り、2回大きな投獄経験をして、2回目の時にはネロによって命を絶たれるのですが、これが書かれたときには、ローマの牢獄に捕らえられているのですけれども、まだ比較的、仲間たちとやり取りが可能であったので、獄中において必要があってお手紙を書いた、その必要あって書いた一つがエペソ人への手紙です。ピレモン書という、これは教会ではなくピレモンという個人に宛てた手紙もあります。同じローマの獄中で同じ時期に書かれたものです。 

 パウロはローマで獄中に捕らわれの身となっておりましたけれども、それまでパウロは、この地中海世界を、懸命に旅行しながら、教会開拓、建て上げに情熱を傾けていたのですが、それがいま申し上げましたようなことで、一旦、その働きにストップをかけられ、獄中におりましたときに、これは、ほんとうに摂理、神様の知恵はすごいなと思うのですが、このような時があったからこそ、パウロは、立ち止まって、私が伝えている福音というものは何なのかという事を彼自身深く心の中に確認をする。そして、これが福音なのだと確信したものをパウロは、エペソの人たち、或いはピリピの人たち、コロサイの人たちへと、お手紙を書いていたわけであります。それではエペソはどこにあるのか。エペソはエーゲ海に面しています。当時のローマ7帝国の中でも屈指の大都会であったといわれております。(説教中で用いられた地図ではありませんが「新改訳2017」の地図を参考にご覧ください)
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 パウロはずっとこの地域を伝道していくなかで、エペソに留まり、そして、一旦、きょうはもうほんとうに簡単にしますけれども、この後、もう一度パウロはアンティオケというところに帰ってくるんですね。そして、そこからまた再び、自分の開拓した教会を訪ねながら、再び第3次伝道旅行といってエペソに行き、そこでけっこう長く建て上げのお仕事をした。で、その後、獄中に捕らわれたときに、どうしてもパウロはエペソやコロサイに開拓した教会に心を留めて、必要がありお手紙を書いたとこういう事になるわけであります。

 3節。きょうはエペソ人への手紙の序論のように、いわばこれからエペソの学びをスタートしますよというところを、ちょっとこう力をためて皆さん方と一緒に備えているところでありますが、パウロは、エペソの教会によく私たちがするように、まず挨拶のことばを書きました。1節、2節はまさに典型的な挨拶の文章でありますが、3節には、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」

 祝福してくださるでしょう、ではなく、祝福してくださいましたよね、というように彼が関わった、そして教会として呼び出された人たちの集まりに、そうだったでしょ、そして、天上にあるすべての霊的祝福、これを思います、私たちが、私も含めて異教徒であった自分、宗教というと家内安全、無病息災というようなご利益を求めるのが宗教であり祈りなのだと、そのようなことを考えておりましたけれども、しかし誤解のないように、決して地上的な祝福を求めるのが悪いという意味で言っているのではないのです。それは、私たちの健康が祝されるようにという事は、大切な祈りの課題であります。どうか、霊的なことが善で、肉体的、物質的なものは悪だというようなグノーシス的なといったらいのでしょうか、対立するようなものと考えてはならない。それは間違った教えでありますけれども、ここで言っていることは、私たちにパウロが是非確認したいのは、神はキリストとともに天上にある。この地上にあくせくしているのじゃない、私たちのほんとうの祝福は天上にある。地上における祝福、それは、限りのあるものです。でもそうではない、これは永遠的なものであり、そしてこれは、3節にあるとおり「天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」。

 私たちはそのために、呼び出され、そのために選ばれ、そのために私たちは、傷のない者にされて、たとえばこの4節、「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び」というのです。すごいですね。世の中の始まる前から、神様はイエス様にあって、私たち一人ひとりを例外なしに祝福を与えるために選んでくださって、そしてその私たちを「傷のない者にしようとされた」。これが、神様が私たちを教会に属する者として召してくださった祝福なのです。これを立ち止まって思っただけで、胸の高鳴りを感じますね。私たちはなんという恵みに浴しているのでしょう。

 で、これを確認するために、もし皆さん方、ご自分の聖書であるのならば、要所要所に印をしておいて頂ければ嬉しいなと思います。参考になるかどうか、いま消えるボールペンってありますでしょう。ちょっと熱を加えるとぱーっと消える。聖書を汚したくないという方は、熱を加えるときれいになりますし、でも自分の聖書だから、思いっきり汚して、自分の恵みをここに書き込んでいく、それもまたとてもすばらしい恵みです。

 きょう私は皆さんと一緒に「キリストにあって」ということばを聖書にマークをして頂きたいと思います。最初が1章の3節。「私たちの主イエスキリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」。これは、「キリストにあって」の祝福なのです。4節「すなわち神は世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる傷のないものにしようとされたのです。」。もう私たちは、「この方」というそれを離れたのならば、何もこのすばらしい天の祝福から縁のない者になってしまう、選ばれていない者になってしまう。けれどもクリスチャンは「この方にあって」呼び出され選ばれた者なんですね。「この方にあって」なのです。6節「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光」。私たちはこのキリストにあって、この神がその愛するお方にあって、私たちはこういう祝福の中に選ばれ召されている者なのです。7節「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています」。これは神の豊かな恵みによることです。「キリストにあって」なのです。どうですか、この「キリストにあって」。19節、「みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい」。この9節のキリストにあって私たちに恵みの奥義が知らされている、心が震える思いです。私たちはその奥義に与るものとされた。日本的な奥義というのとは違うということを前回コロサイのときにもお話ししました。秘められた、だけれどもクリスチャンたちには、ああそうかとわかる神様の、つまり十字架の奥義なんですね。十字架の奥義というのは、目の隠されている人たちにはぜんぜんわからない。だけれども目が開かれている人たちには何というは恵みでしょうか、こんな私にです。110節「時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められる」。これは後ほどに学んで行くうちにわかるのですが、このキリストの福音、救いというものが、ユダヤ人だけに対するものじゃないよ、異邦人にもどんな者であったとしても信じるものすべてが、もう、イスラエルであろうがギリシャ人であろうが、つまり選民であろうが異邦人であろうが、イエス様にあってこの奥義に恵みに与った者たちが一つになる、これが教会である、それはキリストにあって。11節「またキリストにあって、私たちは、御国を受け継ぐものとなりました」。13節「このキリストにあって、あなた方もまた、真理のことば、あなた方の救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました」。この「キリストにあって」。今はパソコンによって検索という事ができるので、この「キリストにあって」というところがどれだけ出てくるだろうかとパウロ書簡をみたんですが、エペソ書が圧倒的に多い、特にこの1章が多かったですね。勿論違うところにも幾つかありましたけれども、これだけエペソ1章の前半に。ああパウロはこれを言わんとしている、「キリストにあって」。この抽出された数を改めて見ます、「キリストにあって」。

 お話しを締めくくります。私はきょう、「キリストにあって」という事がどれだけ私たちの信仰生涯において生命的な確信的な部分であるかという事をみことばを通して確認していただいたと思うのです。「キリストにあって」もろもろの霊的な祝福を得る。では「キリストにあって」とは、どういうことなのか。これをどうご覧になりますか。このスクリーンに敢えて接着剤の絵を描いてみました。信仰という接着剤で、しっかりとイエス・キリストご自身に密着していることです。これがしっかりしているときに、「キリストにあって」。私たちは「キリストにあって」天上にあるすべての霊的祝福を、私たちを愛して下さった神様の恵みをあふれるばかり受けることができるようになります。これが1章の3節です。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」

 

※今回は、6141字をレコーダーから起こし、できるだけそのまま筆記させていただきました。聖書の分類は簡略に記してございます。時間的な事情で毎回このペースでできかねることもあるかと思います。その時は抜粋となる場合もありますが、内容に忠実にと心がけます。

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