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きょうのことば

 ♪「われらついに輝く御国ににてきよき民とともに御前に会わん」。賛美歌の一節で目が覚める。時計を見ると4時半。きのう起こした説教は5112文字。ワードからこのブログにコピペ。初めからこのページで作成すると、ちょっとした不具合で記事を失ってしまうことがあるからだ。朝に起こすこともあるが、これは時間に追われちょっときつい。きょうはゆったりした心境で更新できそう。小路を隔てた隣家の丈高いレッドロビンの樹木の向こうに朝日が明るい。鳥のさえずりが聞こえている。

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先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。

國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年以上の長きに亘って、岩手で主のご奉仕をしておられます。
 6月2日の説教は『臨在の主と共に』(説教:國光勝美牧師)。第二テモテ41618でした。

第二テモテ4:16~18

4:16私の最初の弁明の際、誰も私を支持してくれず、みな私を見捨ててしまいました。どうか、その責任を彼らが負わせられることがありませんように。4:17しかし、主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。こうして私は獅子の口から救い出されたのです。 4:18主は私を、どんな悪しきわざからも救い出し、無事、天にある御国に入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

<説教>

 皆様方のお祈りを頂きまして、予定通り十和田の教会の方でご奉仕を全うすることができました。懐かしい方々にもお会いできましたし、また、十和田教会は、今の場所に移りましてから78年経っておりますが、新しく加えられた方々もいらっしゃいました。教会の規模は盛岡教会とほぼ同じです。

 さて、来週はペンテコステというお祝いの日を迎えようとしています。クリスマスというと、イエス様がこの世にお生まれになった日を記念するときであります。またイースターというとイエス様が十字架におかかりになられ、墓に葬られて三日の後によみがえってくださった、復活してくださったことを記念する日です。クリスマス、イースターは比較的世の中によく知られております。しかしペンテコステはそう広くは認識されておりません。ペンテコステは、教会の誕生をお祝いする日です。盛岡教会の誕生というのではなく、世界宣教のはじまり、イエス・キリスト様が救い主であるという事を世界に力強く宣教していく始まりであり、教会の誕生の日です。来週詳しく扱いますけれども、聖霊降臨、聖霊がこの世に降って来てくださったという教会の誕生日が来週のペンテコステであります。この聖霊と仰る神様がいわば教会の生みの親といっていいでしょう。聖霊様はそういう立場にある。そのことを心に留めながら、この時期私たちは、聖霊というお方に想いを留めて歩んでおります。

 そんな中で、テモテ第二の手紙、第二テモテをお開きしたわけです。この手紙を書いた人はパウロです。パウロは、新約聖書の多くの部分を、何々への手紙、ローマ人への手紙、コロサイ人への手紙など、13の手紙を書いております。パウロ書簡といいます。他にもヨハネが書いた手紙とかペテロが書いた手紙も新約聖書にはありますが、多くはパウロが書きました。

 パウロがテモテというお弟子さんへ書いた手紙が、このテモテ書であり、第一と第二とがあります。

 きょうは、パウロのお手紙の中でも、いちばん最後の、時間的に最後のお手紙を開いているところであります。それは、実は、このお手紙を書いてから、間もなくパウロは、ネロという悪いローマ皇帝の手によって殺されてしまう。殉教したわけであります。その意味ではテモテ書は絶筆のお手紙であり、また遺言的な内容を持っています。それを心に留めましょう。きょうはその中の4章のいちばん最後の部分を抽出して、そこから恵みを頂こうとしております。

4:16私の最初の弁明の際、誰も私を支持してくれず、みな私を見捨ててしまいました。どうか、その責任を彼らが負わせられることがありませんように。そのためにさばかれることのありませんように。

 これは、パウロがローマの裁判を受けて死刑判決を受けたことについて記しているところであります。裁判のとき誰も自分を支えてくれず、みな自分を見捨てたという非常に悲しいことが記されています。

4:17しかし、主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。

 パウロは最後に命を賭してローマの裁判に立ち、なぜ私はこのようになっているのかを命がけで弁明した、これで、すべての国の人々に、み言葉を宣べ伝える機会が与えられたと、このように味わうことができます。

 きょうは、このだいたいの背景をご覧いただきまして、このパウロのこの時の経験を、今日の私たちの経験としてしっかりと咀嚼することができるように、パウロの経験が、つまり、信頼している者からも見捨てられて、誰も自分を弁護してくれる人はいない、孤立してしまった、だけれども、主は私と共に立って、私に力を与えてくださったという事、このパウロの経験、これこそ実は聖霊がもたらしてくださる経験であります。これは、いまも私たちに提供されている恵みでもあるのです。これを捉えることができたなら、今日のみ言葉の御用は果たされるのではないかと思っております。

 

 さて、私たちの生涯的な課題は何か。この神様を人格的存在として把握する、神様を、ああ、私をほんとうに愛し、いま私のうちに居てくださるということを確かに把握する事が、どれだけできているだろうか、これは私たちの生涯的な課題であります。このことを理解していただくために、例話を考えました。

 みなさんは電話をするとき、どれぐらいお話しされますか? それは用件によって違うでしょうし、その人の性格によっても違うでしょう。  ある方がM先生に電話をかけたそうです。通じないのでしばらくしてからかけたところが、やはり通じない。1時間後にかけたところ、まだ通じませんでした。
 電話での話が長びくという事は、人格を持っている者どうしだからこそ、それだけ長く話すことができるわけです。そして考えました。一人でお祈りをするとき、そう、神様とお話をする時間の事ですが、5分、それを長く感じるか短く感じるか。どうでしょう。もし5分のお祈りを長く感じて、もう5分以上そこにいることができなくなるとするならば、それは、神様というお方との人格的な交わりが希薄であることを意味しないでしょうか。しかし、神様というお方をしっかりと、人と人とが顔を合わせてものを言うように、ちょうどさきほどの電話のように、神様とお交わりをするときに、1時間が、2時間が短く感じてしまう。私たちはこの神様というお方と、どれだけ人格的な交わりができているでしょうか。生涯的な課題として、これはしっかりと捉えなければいけないと思うのです。

 実はパウロがこのお手紙を書きましたときに、パウロは、神様との交わりが非常に深く親密にできていたからこそ、この1617節のような証ができるのです。
 16節をご覧ください。「私の最初の弁明の際、誰も私を支持してくれず、みな私を見捨ててしまいました」。また16節より前のところを引用しますと、10節「デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケへ行ってしまいました。またクレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行きました。ルカだけが私とともにいます」。みんな自分を去って行ってしまった。14節にも「銅細工人のアレクサンドロが私をひどく苦しめました。その行いに応じて、主が彼に報いられます」。よほどひどい仕打ちをパウロは受けたらしい。これを見ると私は、あら、クリスチャンらしくない、右の頬を打たれたら左の頬を出すようにとイエス様は教えていたのに。その代表的なパウロが、アレクサンドロがひどく悪辣なことをした、ひどく苦しめた、その行いに主が報いられるようにと、このような物言いをしている。ここは最後の遺言書のようなところであるにも関わらずこのように吐露している。この時のパウロの孤独、悲哀がわかるでしょう。まさに彼はその真ん中にいたわけです。どうですか? 私たちもそういう人からの誤解を受けたり、孤独になってしまう、人から裏切られてしまうことがある。ああつらい。こういう経験をすることはないでしょうか。そんな時に、臨在の主と深く交わることができる。その時に、アレクサンドロのこともそうですけれども、さまざまな事柄を神様の前に告白することです。そして、その問題を祈りのうちに昇華させていくことです。アレクサンドロの問題も神様の前にお祈りをすることによって昇華させられていく。16節を見ても、みんな私を見捨てて行ってしまった、どうか、その責任を彼らが負わないようにしてくださいというように、もうパウロは、ほんとうにありのままの弟子たちの姿をここに見ている。神様、こんなつらいことがあるんです。こんなにあの人に苦しめられているんです。こんな課題に今直面しているんです、ということを、パウロは告白しているのです。
 

 私は山歩きが好きですが、その山歩きでの事です。これは私たちのありのままの経験、それをお話しするわけですけれども。様々な問題、課題を思いながら、山道を登って行きます。どうしてこんな事が生じるのだろうか。神様と語り合いながら問題課題を主の前に提示し訴えます。つづら折りで神様はこちらの方に。そうだ、神様を見上げてハレルヤ、このようにやっていこうと思うわけですね。そしてまた、坂道を登っていきますと、課題になっていたものが、またぞろ、でもなあ、という思いが心に生じてしまう。でもなあ。いや、さっきあれだけ神様の前にお祈りをして、そうだ、神様が助けてくださると信じたんだから、そうだ、すべて主にお委ねしやっていこう、ハレルヤ! というところに落ち着くんですねえ! で、解決したかなと思って、その道を上の方に上って行きますと、また同じ問題が同じように心の中に翳りを落とす。だけど、さっきハレルヤといってお委ねしたじゃないか。でもあの問題、どのようになるんだろうか。そして祈り続ける中に、問題がだんだん、だんだんと昇華されていくのを覚えます。

 今一つのお話ですが、蔦田二雄先生、この教団の創設者ですが、いまだに思い起こします。彼は、太平洋戦争の時に、天皇中心の日本の国体にそぐわなかった。天皇陛下も罪びとだとお前は言うのかといった特高の取り調べに、何人かの先生方が投獄されました。蔦田先生は、そのときの体験を書いておられます。
「なぜこのような理不尽を経験しなければならないのか」。そこで蔦田先生は、深くこれまでの自分の生き方あり方を、神様の前に告白し、神様との交わりを深める中に、それがだんだん昇華されていくのを知るのです。彼は、そう表現しています。なぜホーリネス系の教会だけがこのような迫害を受けねばならないのか。何年か前に、生き方の違いから指導者と仰いでいた人物と袂を分かたねばならない、そういう悲しい出来事を蔦田先生たちは経験していました。で、別れてそれぞれが別行動をとるようになった時に、お互い神様を愛していながら、しかし、あの時の発した言葉、その時の心の思い、そういったことを深く考えるときに、これはいかほどに神様のみ名を辱めたことになったことか。そのような深いところに自分自身の問題を掘り下げて、そして血潮を仰いで、あの人が悪いんじゃない、あの時の私の方の心根はどうだったのか。相手はどうだったのかという事を一つひとつ光の前に出ていったとき、そこに、ああ、ここはむしろ牢獄ではなくして、これはまるで、修道院のようなものだ。神様と深く交わることができる場所なんだ。鉄格子から漏れて入ってくる月の光とか、それを見ながら、もはやここは牢獄にあらず、修道院の部屋であるというように、そこでほんとうに深く神様との交わりをしていった、そのことを、このテモテの文の中に見るのです。
17節「しかし、主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました」。この「ともに立ち」を手元の資料で調べてみますと、これは、「裁判の時にすぐ傍らに立ってくれる」という意味があるのだそうです。ほんとうにイエス様が私のすぐ横に立っていてくださる。多くの者たちが去って行ってしまった。だけども、イエス様は私と一緒にすぐ横に立っていてくださる。そして、私に力を与えてくださる。これがポイントです。「主が私とともに立ち、私に力を与えてくださる」。

 神様の前に深くふかく扱われ、そして砕かれ、血潮を仰ぎ、神様の前に悔い改めたとき、神様は私の私たちの味方です。「神もし我らの味方ならば誰か我ら敵せんや」。主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいます。このことを可能にしてくださるお方は聖霊である神様です。この神様が私たちの心の中に、この事実を体験させてくださる、そのことを私自身証しをさせて頂きたいと存じます。

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