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きょうのことば

 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。この日に洗礼を受けられ方がいらっしゃいました。大変感動的な場面に居合わせることができました。その昔、ハルビンがハルピンと呼ばれていた時代に、厳冬には松花江に馬車や自動車が走れるほど厚く氷が張りますが、その氷をたたき割って、そこで洗礼が授けられていたことをふと思い出しました。受洗者の決意はそれと同じです。教会の床の洗礼槽の二枚の蓋が持ち上げられると、その底に水が張られています。そこに牧師と受洗者が相対して立ち、式文が告げられ、受洗者が牧師によって抱えられ水に浸され上げられます。感動しました。

國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年以上の長きに亘って、岩手で主のご奉仕をしておられます。
 6月9日()の説教は『教会の誕生』―ペンテコステ講壇―(説教:國光勝美牧師)。聖書引証:使徒82640でした


8:26さて、主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこは荒野である。 8:27そこで、ピリポは立って出かけた。すると見よ。そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、 8:28帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。 8:29御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。 8:30そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることがわかりますか。」と言った。 8:31するとその人は、「導いてくれる人がなければ、どうしてわかるでしょうか」と答えた。そして馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。 8:32彼が読んでいた聖書の個所には、こうあった。

「屠り場に引かれて行く羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている小羊のように、
彼は口を開かない。
8:33彼は卑しめられ、さばきは行われなかった。
彼の時代のことを、だれが語れるだろう。
彼のいのちは地上から取り去られたのである。」

8:34宦官はピリポに向かって言った。「お尋ねしますが、預言者はだれについてこう言っているのですか。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」 8:35ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた。 8:36道を進んで行くうちに、水のある場所に来たので、宦官は言った。「見てください。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」  8:38そして馬車を止めるように命じた。ピリポと宦官は二人とも水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。 8:39二人が水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られた。宦官はもはやピリポを見ることはなかったが、喜びながら帰って行った。 8:40それからピリポはアゾトに現われた。そして、すべての町を通って福音を宣べ伝え、カイザリアに行った。

<説教>

きょうはペンテコステの日です。使徒行伝21節に、「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた」とございます。これは、愛するお方を十字架につけられてしまったお弟子さんたち、しかしまた、そのお方が復活されたという事をそれぞれが知りながら、尚、混乱の中に、整えを頂かなければならないペンテコステまでのこの50日間であったように思います。


 使徒21節に「皆が同じ場所に集まっていた」というのはまさに、一人ひとりが、この大切な福音、頼みとしていたイエス様は、もう天に帰られてしまった。見ている間にオリーブ山の上から天に帰られてしまった。残された私たちは、お互いによく知っている通り、これといった秀でたものもない普通の者たちばかり、こんな私たちにいったい何ができるでしょうか。しかし、彼らは、一つところに集まっていたとあります。これは、イエス様が、二人でも三人でも私の名によって集まっているところには私もそこにいる、とマタイの福音書に記してございますが、それで一つの所にイエス様のお名前によって集まっていた、その時です。不思議なできごとが起こったのは。 

2節「天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った」とございます。私たちは、台風の激しい風を経験しておりますけれども、突然、ものすごい風が吹いてくるような尋常ならざる響きと共に家全体にその音が響き渡りました。そして3節を見ると
「炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった」4節「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」
 いったい何を話し始めたのか、それは、イエス・キリストの救いの福音です。私たちが救われた、まさにその福音を、それぞれの国の、まだ習得したこともない国のことばでお弟子さんたちが語り始めたという、非常に驚くべきできごとが起きたのです。そしてその後の5節からに、その顛末が記されております。実はこれが、教会の誕生になったのでございます。
 「教会」は、本来、新約聖書でギリシャ語で書かれており、「エクレシア」といいます。これが、「教会」と訳されていることばであり、「呼び出された者」という意味です。何かの目的で、使命をもって呼び出された者たちが集まっているところが教会なのであります。

 きょうは2章の5節以降は省略いたしますけれども、それは何かというとイエス・キリストの福音を聞いて、そして悔い改めた人たちのことでありまして、時間がありましたらば、「礼服を着た人たち」のはなし、或いは備えられ届けられている「礼服」とはどういう事かをお話しするつもりでございました。簡単に触れますと、それは、すべての者に神様が、さあいらっしゃい、と呼びかけていてくださるのですが、しかし、そこには、神様の呼びかけに応じたくない人たちもいるわけです。よしその中に応じた人がいたとしても、神様が用意してくださった礼服を着てこなかった、持ってこなかった、この「礼服」というのは、イエス・キリストの十字架の救い、イエス・キリストの贖いという、その神様が用意してくださったキリストの十字架の救いのことなのです。この神様が与えてくださった礼服ではなく、自分の良い行い、自分の誇るべき行いによって私は天国にはいることができるというように考えている人たちについて触れたいと思ったのですけれども、きょうは、ここには十分触れることはいたしません。つまり、イエス様を信じる人たちの集まり、これは、「キリスト・イエスは、罪びとを救うために世に来られたということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪びとの頭です」というこのおことばを、この神様の語りかけを聞いて、あ、そうだ、これを、この呼びかけをそのまま受け入れる、そして、私は、そのイエス・キリスト、罪びとを救うために来られたイエス様に呼び出された者である。クリスチャンとは、そういう人たちが集まっているところです。それは、私たちが悔い改め、そして、

「もし私たちが、自分の罪を告白するなら、神は真実で正しいかたですから、その罪を赦し、私たちをすべての罪からきよめてくださいます」

 とありますが、自分の罪を告白するなら、神は、真実で正しいかたですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。これが悔い改めに表れる信仰であります。きょうのS兄の洗礼の後に、記念のお祝いに、福音賛美歌集を差し上げたいと思っておりますが、賛美歌の中に、このおことばを記させていただきました。
 この前の水曜日に、このおことばを心に留めたS兄が、「その通りです。私は、このお方を心から信じます」。そう告白をなさいました。その時に、ひろ子先生が、「こんどの日曜日がペンテコステという幸いな教会の恵みの時ですけれども、どうでしょうか、洗礼をお受けになられますか?」。S兄が「心から喜んで是非お願いします」と仰いました。
 洗礼にはいくつかの形がございます。どれがいいとか悪いとかいう事ではありません。滴礼という方式、灌礼という方式、或いは、浸礼という方式があります。S兄は、「できたら、どっぷりと浸る形式でお願いしたい」と申し出られました。

 そのお話をしているうちに5月の26日に私が十和田の方に行っていた話になりました。十和田での礼拝が終わって交わりの時に、盛岡の教会の事も気にかかりましたので連絡をとってみると、その時に、3人の新しい方々がお見えになった事をひろ子師から聞きました。そのときの様子ですが、いらした3人のうちのS兄の横に座ったのがA兄でした。さまざま話を交わしたわけですが、その日は役員会があったために、A兄は後ろ髪を引かれるような思いで役員会のほうに出席されたという事も伺いました。
 A兄が、S兄のことで、「先生、使徒の働きの8章が心にあるのです」と仰いました。私は、9章ならば回心のところですが、さてはて、う~ん8章、そうだ、なるほど、なるほどと、これだなといたく得心したのであります。それが、きょうの礼拝のメッセージの8章のところであります。

 この8章の26節、ピリポという一人の伝道者が、神様に導かれてこのガザ(この地図の死海の西方)というところ、荒野に向かっていくのですが、そんなところに、ピリポは神様に導かれていくようになる。さて不思議なことよ、と思われたでしょうけれども、そこに行きましたところ、ちょうどそこに2728節、29節にありますが、真実に神様を求める一人の人物、エチオピアのカンダケの高官が、この27節を見ると、礼拝のためにエルサレムに来たのでした。これはそう簡単に来られるような時代でも環境でもなかった事は想像できますね。ですから、これほどまでに、この高官は神様を求めていた。真の神様を礼拝したい、お仕えしたいという渇きをもって、もうこれは生涯に一度だけになるかもしれない、そのような思いをもって彼はエルサレムに行ったのです。そして、やっと果たしたエルサレムの礼拝を大切な記念として求めたのが聖書の写本でした。大変高価であったはずです。しかし、彼は自分の人生を賭けてしっかりと手に入れたのです。帰りの場車の中でも、時を惜しむように、いったい本当の神様の恵み、祝福とは何なのだろうかと読んでいる。神様は、ピリポに、さあ、あそこに行きなさいと御霊によって命じられます。そして30節、ピリポがそこに走っていくと、何と彼は預言者イザヤの書を読んでいた。ヘブルの言葉で書かれているものでしょうか。ピリポにそれが聞えてきたので、「あなたは、その読んでいることがわかりますか」と問うと、38節「導いてくれる人がいなければ、どうしてわかるでしょうか」。そして、さあ、どうぞ横にお座りください。そこでピリポがその馬車に一緒に座って宦官がいま読んでいる箇所をのぞきますと、ちょうど32節、33節であり、あのイザヤ書53章のイエス様の十字架の預言と言われるところに差し掛かっているところなんですね。そして、何と34節を見ると、このエチオピアの高官は、ピリポにお願いします。「誰について、預言者はこういっているのですか、教えてください」。するとピリポは、その聖書の箇所から始めて、イエスの福音を語ったのです。宦官にはわかりました。そうか、屠り場に引かれて行く羊というのはいけにえの子羊である。それは私たちの罪の身代わりとなるべきお方、まさに過ぎ越しの子羊の血潮、このお方こそまことのメシア、救い主なのだという事を、彼はピリポを通して知ったわけであります。

 すると36節「道を進んでいるうちに、ちょうど水のある場所に来た」。ほんとうに測ったように、ちょうど、水があった。ちょうど。神様の時というのは、そういう不思議な事だろうと思います。そして、宦官の方が「見てください、水があります。私がバプテスマを受けるのに何か妨げがあるでしょうか」。
 イエス・キリストを信じ、悔い改め、信じた者は、どれぐらい教会に通っているかとか、どれくらい聖書を知っているかとか、どれくらい何かという事は、本質的な問題ではなく、いちばん大切なことは、「キリスト・イエスは罪びとを救わんために世に来たり給えりとは信ずるまさしく受くべきことばなり。我はその罪びとの頭なり。そう自らを、罪を認め、そのために、イエス様が死んで十字架の死と、そしてよみがえりを成してくださったという事を信じたのならば、もうそれは、立派に洗礼を受ける資格がある者であります。

これから洗礼をお授けしますけれども、それは、これまでの旧い自分、今までの救いに与る以前の自分が、水の中にどっぷり浸ることによって旧い自分がキリストと共に、十字架の死と共に死ぬ、水の中にどっぷり浸ることによって、旧い自分が死ぬことを意味いたします。そして、洗礼式の持つもう一つの意味は、そこからこんど出て来た時、新しい自分、それは、どういう自分かと言いますと、罪が赦された自分。神に正しいと認められた自分、そして、新しいキリストのいのちが、復活のよみがえりのいのちが与えられている自分。そして放蕩息子があのお父さんのもとに帰って、お父さんのものをすべて受けたように神の子どもとしての祝福を頂戴することができる。

 旧い自分に死に、キリストの十字架を死にあわせられ、そして出て来た時に、キリストの新しいいのちに与り、罪赦され、義と認められ、新たないのちが与えられ、神の子どもとされるという証しとなるのであります。

 そして私たちは、きょうは教会の誕生日、教会はエクレシア、呼び出された者の集まりと最初に申しました。イエス・キリストの救いに呼び出された者たちは、いま地上における教会に私たちは、属しています。エクレシア。しかしまた、既に天にお帰りになられた方々とともに、キリスト・イエス、神の右に坐したもうところのお方、天にも教会がある。天の教会。私たちは地上における信仰の戦いを生涯戦い抜いて、天の教会に移されます。
 摂理的には、私たちはインマヌエル盛岡キリスト教会という地上における教会にいま属しているわけでありますが、しかし、それは、目に見えない、同じ呼び出された他の群れのすばらしいクリスチャンたちと一緒の家族であるという事も忘れてはならない大切な事でございます。きょうはこれらの事を思いながら、最初に洗礼式を持たせていただきたく思います。

 ☆

洗礼の司式のうちに、福音賛美歌261番が奏され洗礼式が執り行われました。

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洗礼式の後には聖餐式がありました。

 

⛳この5180字を記させていただくという労を神様に捧げます。 6時45分更新 

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