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きょうのことば

先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。

國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年以上の長きに亘って、岩手で主のご奉仕をしておられます。
 519日の説教は『共にいてくださるお方』(説教:國光ひろ子牧師)。詩篇16:1~11でした。

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詩篇16:1~11

ダビデのミクタム
1 神よ 私をお守りください。

私はあなたに身を避けています。

2 私は主に申し上げます。

「あなたこそ私の主。

私の幸いは あなたのほかにはありません。」

3 地にある聖徒たちには威厳があり

私の喜びはすべて 彼らの中にあります。

4ほかの神に走った者の痛みは 増し加わります。

私は 彼らが献げる血の酒を注がず

その名を口にいたしません。

5 主は、私への割り当て分 また盃。

あなたは 私の受ける分を堅く保たれます。

6 割り当ての地は定まりました。私の好む所に。

実にすばらしい 私へのゆずりの地です。

7 私はほめたたえます。助言を下さる主を。

実に 夜ごとに内なる思いが私を教えます。

8 私はいつも 主を前にしています。

主が私の右におられるので

私は揺るがされることがありません。

9 それゆえ 私の心は喜び

私の胸は喜びにあふれます。

私の身も安らかに住まいます。

10 あなたは 私のたましいをよみに捨ておかず

あなたにある敬虔な者に

滅びをお見せにならないからです。

11 あなたは私に

いのちの道を知らせてくださいます。

満ち足りた喜びが あなたの御前にあり

楽しみが あなたの右にとこしえにあります。


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説教>

 きょうは、主牧が十和田教会でご奉仕をしております。思いがけず3人の新しい来会者がいらしております。私が講壇に立たせていただくのは、ピンチヒッターとして年に12回のことですので、こんどは是非主任牧師がいる日に来ていただいて、いつもの教会の事を知っていただけたらと思います。

 

 けさは詩篇の16篇を開かせていただきます。比較的皆さんが読まれる機会の多い詩篇ではないかと思います。

 詩篇の冒頭に「ミクタム」とあります。全詩篇でこの「ミクタム」と書かれているのは6篇ほどあります。16篇には「ダビデのミクタム」とだけありますが、他の個所を見ますと、「滅ぼすなの調べで。ダビデによるミクタム。ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに」とありましたり「ミクタム。ダビデを殺そうとサウルが人々遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに」とか「「さとしは、ユリ花」の調べにのせて。教えのためのダビデのミクタム。ダビデがアラム・ナハライムやアラム・ツォバと戦っていたとき、ヨアブが帰ってきて、塩の谷でエドムを12千人打ち殺したときに」というように、とても物騒な危険な状況にあってダビデが書いたのが、これら「ミクタム」の詩であります。

 「ミクタム」は、ヘブル語で祈祷とか黙想、黄金的秘密、重要などという意味があるそうです。サウル王の迫害に遭い逃げ回っているさ中にも、ダビデが主との交わりで喜びを経験し、それを源泉に書かれております。神様を全く信頼し従って、神様から与えられた平安、希望、喜びの詩です。
 実は、サウル王に追われながらも、ダビデがサウルに歯向かうチャンスは幾度もありました。けれども、ダビデは、神様が油を注がれて王様にしたサウルには決して手を下すことはしませんでした。ただ、サウル王様がダビデに距離のあるときに、サウル王様を呼びかけて、あなたを手に掛けるチャンスはあったけれども、私は手出しはしませんでしたとつたえるという、そんな事が何回もありました。何れダビデが苛酷な状況にありながら、神様がいつもどんなに幸いなことをしてくださったかをダビデは書いております。

 順次見て行きますと、

2節「私の幸いは あなたのほかにはありません」とあります。辛い状況の中でダビは幸いを感じ感謝しております。
3
節「私の喜びはすべて 彼らの中にあります」。喜びも感じていました。

6節「割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい 私へのゆずりの地です」。ダビデがこれほどに大変な中にいるとは思えないような「実にすばらしい 私へのゆずりの地です」というのです。自分がいま置かれているところにおいて神様に感謝を捧げている。感謝の心を持っているという事です。

8節「主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。」。確信です。これはもう逃げ惑っている者の姿ではないでしょう。

9節「私の心は喜び私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます」。こういうこともあるのかと驚かされます。

11節「あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びが あなたの御前にあり楽しみが あなたの右にとこしえにあります」。環境がどうであれ、どんな困難課題があろうとも、ダビデがそうであったように、またイエス様がそうであったように、主の前に出る時に、喜びや幸いを感謝することができる、平安を味わうことができる事を私たちに示しているように思います。

 この16篇を学んでおりますときに、とても心に掛かることばがありました。6節「わたしはいつも主を前にする」です。「主を前にする」とはどういうことなのか。これは、いつも分かっているような、いつもしているような、或いはそうでもないような、ほんとうは分からない感じもいたします。それは具体的にはどういうことなのか。

祈るとき一瞬止まって主の前に出る事を意識して祈りなさい、また祈祷会だから水曜日にも教会に行くというのではなく、これから主の前に出るのだという意識をもって集会に行くことを心がけるように、また日曜日は主の聖日でわたしはクリスチャンだから教会に行く、このような意識を持つのは尊い事ではあります。それに加えて、私はこれから神様の御前に出るのだという心構えを持つことにより、その継続の中で「私はいつも主を前にしています」という事を体験することができる。意識的に神様の前に出る経験をし、ダビデがそうであったように、喜びや楽しみをほんとうに見出した人たちのことを神の人というのであると書かれております。ほんとうに眼がひらかれました。

 いつも神様の前にいるというのは、いつも教会に来てそこにじっと座っていることではなく、ほんとうに神様の前に出ているという意識を持ち続けること、それが私たちを変えていくという事を大いに教えられました。

 すこしお証をさせていただきます。私たちのためにいつもお祈りを頂いております事をほんとうに感謝しております。祈られているということを、最近とみに思わせられます。

 つい先日、私も誕生日を迎えてもう72歳になりました。自分のなかでは、その年齢を意識していない。しかし現実に所々痛みがあり病院に行きますと、「加齢です」と言われると反論もできません。事実そうでしょう。また格別に、皆さんにお祈りいただき、感謝の想いを持ちながら述べさせていただきますが、

 10年ほど前に、心臓の治療を受けまして、死ぬまで飲んでくださいと言われた薬を飲ん

でいます。そしてその後、バセドウ病になりました。耳下腺の腫瘍の摘出手術もしました。そしていまは、膝の治療を受けております。その治療を受けた医師が、昔、教会学校に来ていた先生であったことはほんとうに感謝でした。それとは別に度々病院に行っています。癌ではないかと受けた検査、先週の金曜日に4回目の検査でしたが、幸いにも、まったくその兆候はなく、後半年後にもう一度検査して何ともなければ、もう検査をする必要もないと言われて、大変感謝をしました。
 心臓の薬、血液さらさらの薬ですが、もう10年以上も飲んでおり、出血のときには要注意であることも忘れていました。ところが、夕食の準備をしていて、もうこれで終わりという時に、笑ってしまうぐらいほんのちょっとのことなのですが、指を切ってしまい、なかなか血が止まりませんでした。最寄りの整形外科は、閉まるちょうど7時で、先生もいらっしゃらない、ということで、近くでしたので消防署に行ったところ、手当をして下さったのですが血が止まらなくて救急車で病院へいきましょうと。血が止まらず、押さえられていても床に血がぽたぽたと落ちます。救急車で病院に着いたのが7時半ごろでしたが、それからも血が止まらなくて、押さえつけるなどして12時ちょっと前には何とか止まり、帰宅できました。血液サラサラの薬に関しては、新しいやり方であると薬を減らせるということで、こんどもう一度検査を受けて薬を考えましょうということになっております。

病気、ケガと、伝道者としてこんなことではと、本当に申し訳ないとがっかりし、私は神様の御用をさせていただく資格があるんだろうかと思ってしまいました。ある東北教区の牧師先生が、あなたはいろいろな病気になるけれども不死鳥のようによみがえるねと仰ったことで、ちょっといい気になっていたんですけれども、そうではなかったという事をほんとうに思い知らされて、ほんとうに私はこのままで神様の御用をするのに間に合っているんだろうかという思いが度々襲ってくるようになりました。大丈夫かな、私は御用をさせて頂く資格があるんだろうかという思いになり、どうしましょうと悩んだときに、この詩篇168のおことばを頂きました。

 私はいつも 主を前にしています。

主が私の右におられるので

私は揺るがされることがありません。

「主が私の右におられるので私は揺るがされない」、このおことばにとても励まされて、そうだ主が右にいてくださる、だから私は揺るがされることはないと神様は言ってくださっているし、私もそれを期待して良いんだと思い、ちょっとほっとしました。ところがその前に、私はいつも主を前にしています、という条件のように書かれていました。

「私はいつも主をまえにしている」とはどういうことか、

何通りかの聖書の訳を読んでみました。新改訳聖書では、「私はいつも、私の前に主を置いた」。文語訳では「われ常にヱホバをわが前におけり」。リビングバイブルでは「私は、いつも主のことを思っています」とあります。また口語訳では「わたしは常に主をわたしの前に置く」。新共同訳聖書では「わたしは絶えず主に相対しています」とありました。どれも真実な神様の前でのあり方を見ることができます。

「私はいつも主を前にしています」という言葉に、ダビデなら言えることばかしら、私がそう言うのはあまりに大胆で、臆面もないことなのかしらとも思いました。けれども、私はいつも主を前にしていますといえるほど、イエス様を神様を現実的に鮮明にとらえたいという願いも大きくなっていきました。そして、私が前にしている主は、わたしの右にもなる、右におられる主であり、私と共にいてくださるお方であり、わたしの内にいてくださって、恵みと力を与えてくださるお方である。そして、このダビデの経験しているような喜びや感謝やまた平安を与えてくださるお方なのだと、ほんとうにこの16篇で学ばせていただき、また、感じる実感することができました。聖書を読んでみますと、「主を前に置いた」とか「主が私の右におられる」ということばが、あちこちに出て来ます。そしてそれを、この詩を読んだ方々は体験してらっしゃる。その中の一つがアサフという方の詩にもあります。

「私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりとつかんでくださいました」という言葉がありましたが、それも「私はいつも主を前にしています。主は私の右におられるので、私は揺るがされることはありません」というお言葉と、内容的には同じであるという事を知らせていただきながら、この恵みの中に、この恵みの自覚の中に日々歩ませていただいて、私自身が神様が良しとされるまで御用を果たしたいと願っております。締めくくりに16篇の9節~11節、これは私自身の証でもありますが、これを読ませて頂きます。

 

9 それゆえ 私の心は喜び

私の胸は喜びにあふれます。

私の身も安らかに住まいます。

10 あなたは 私のたましいをよみに捨ておかず

あなたにある敬虔な者に

 

 

滅びをお見せにならないからです。

11 あなたは私に

いのちの道を知らせてくださいます。

満ち足りた喜びが あなたの御前にあり

楽しみが あなたの右にとこしえにあります。

 

ほんとうにこのことを私自身の証として申し上げることができるような障害を歩ませていただきたいと思いますし、また、神様の前に在らせていただき続ける時に、イエス様はそのようにしてくださると、信じることができる、多くの先輩方が、そのように証しを遺してくださっております。その道をわたしもたどらせていただきたいと願っております。

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