きょうのことば
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇、説教の概要をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年以上の長きに亘って、岩手で主のご奉仕をしておられます。
5月19日の説教は『喜びに溢れて』(説教:國光勝美牧師)。ピリピ書4:4~7でした。
<説教>
私たちはいま、ペンテコステを前に、ご聖霊様との関りを深めていきたい、それは喜びということに表される信仰生活ではないだろうかと導かれまして、きょうは「喜びに溢れて」というメッセージを準備させていただきましたが、いつものように、先ずは、前回(5月12日)の『助け主なる聖霊』(ヨハネ伝14:15~18)の簡単な復習をいたします。
御茶の水学生キリスト教会館のはじまりとなったアイリーン・ウェブスー・スミス宣教師のおことばがあります。
“As thou goest
step by step
I will open up
the way before thee”
あなたが歩む一歩一歩、わたしはあなたの前に道を開く
このおことばは、ウェブスター・スミス先生の生涯を導いたというだけでなく、同じ主が、今も、私たちと同じようにあってくださるということです。
すでに学びましたパラクレートス(ギリシア語: 'ο Παρακλητος)、これは私たちに与えられております聖霊であります。私たちのよき弁護人であり、私たちのよき仲保者、執りなし手であってくださる。これを「助け主」と呼んでいます。
ヨハネ14:16
そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
これはイエス様が十字架におつきになられる直前のお弟子さんたちとの交わりである最後の晩餐での会話です。イエス様が、どうやら遠く離れたところに行ってしまわれるという不安、恐れがお弟子さんたちの中にふっと湧いてくるときに、イエス様が、いいやわたしが去ることは、あなた方の益なんだ、そのもう一人の助け主は、いつまでもあなたがたとともにいてくださるお方なのだ、そしてこの助け主、つまり聖霊なるお方は、真理を、聖書の深いところを私たちに教え、私たちに思い起こさせてくださいます。
ヨハネ16:7にあります。
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
このように、わたしが去っていくことはあなた方の益、わたしが去っていかなければ、あなたがたのところに聖霊なる助け主はおいでになりません。わたしが去ってから、わたしはあなた方のところに助け主を遣わします。
イエス様というお方を私たちは、みことばを通して知るわけですけれども、もしイエス様の肉体を考えるなら、ペテロのところにイエス様が現れているときにはヤコブのところにはイエス様はおられないということになります。物理的な制限というものがあります。でも、聖霊なる神様は、それらのことを超えて、いつでも信じる者の心の中におられます。イエス様というお方を、いつも現実的なものとしてくださる。これが、パラクレートスという聖霊なる神様の働きです。そして聖霊様は、私たちがどのような存在であったとしても、執りなし手であってくださる。私たちの弁護をしてくださるお方、仲保者であり、ともに、最善の執りなしをしてくださる。これが聖霊なる神様のお働きなのだということです。
きょうはそれらの事を下敷きにしながら、『喜びに溢れて』と題しましたが、主にピリピ4:4に注目をしたいと願っております。
ピリピ4:4いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
このお言葉には、カギが幾つもある。一つは、「いつも」という言葉です。私たちはいつも喜んでいるだろうか。それから、もう一つは、「主にあって」です。主にあって喜ぶ。そして「喜びなさい」という命令があります。経験的に、喜びというのは、命令されたからといって喜べるものではありません。喜びというのは、命令されたからできるできないの問題ではない。でも聖書でパウロはこう言っています。「喜びなさい」、しかも念入りに「もう一度言います。喜びなさい」。ということは、私たちは、ややもすると、喜びというものを失ってしまう存在なのです。そのややもすれば、大切な喜びというものを失っているときに、「いいですか、あなたはいま喜んでいますか」と質される。「いつも主にあって喜びなさい」、こうおことばはいっているわけです。
聖書の「主にあって」の欄外に注釈がついています。別訳があり「主を喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」とも訳せる。こうなると、ああなるほど、と。本文に書かれてある「いつも主にあって喜びなさい」ということと、「いつも主を喜びなさい」では何が違うでしょう。本文の方は、いつも主にあって何かを喜ぶ。たとえば、非常につらい経験、思わないアクシデントがあっても主にあってそれを喜ぶ、というように理解できますね。できるなら避けたい、けれども、主にあって、それをも喜ぶんだよと、こういうことになります。しかし、欄外の方を見ると、主を喜びなさい、いつも主を喜ぶ。何かを、ではない、主を喜ぶ、このようにあります。
ちいさな事ではありますが、このまえ経験したところですが、H兄、今回、呉市の方から、この教会で7月7日に開かれる岩淵まことさんのコンサートのために来てくれることになっておりました。しかし、もう一つ、H兄の方には長年に亘る祈りの課題があります。それは、90を超える母親の症状が強まってきていることです。現在の家では暮らしにくいので、何とか別の住居をと探したのが、それが呉市にある市営住宅なのですが、抽選があり倍率が高い。それが不思議なように当たり、移ることが可能になりました。ところが、市の連絡には、7月1日から7月14日の間に移動してくださいとありました。どうしましょうということでした。どうか皆様も祈ってください。抽選に当たったのはいいが、引っ越し日時はちょっと待って欲しい、そんな感じでした。
これは小さな事ですが、きっと皆さん方、こんなこと到底喜ぶことはできないと思われるような事が次つぎに起こってくる事を知っています。みんなそういうところを経験するのです。でも、「いつも」なのです。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」。これを思いめぐらしていた時に、私はひろ子先生から聞いた事ですが、少女パレアナを思い出しました。牧師をしているお父さんの家庭に生まれたパレアナという少女が、両親が亡くなり、叔母さんにあずけられます。叔母さんはお金持ちですが、子育ての経験がなく、扱い方がわからず厳しく当たったりもし、パレアナにとっては大いに辛いことも経験する。そんなとき、パレアナは、お父さんから教えてもらったゲームを思い出します。それは、どんな辛い苦しい状況に直面したとしても、その中から何かいいものを見つけ出して、それを喜ぶ、というゲーム、つまり喜びを発見するゲームでした。これは魅力的ですね。ふつうでは到底喜べない、むしろ愚痴や呪いさえ発したくなるような環境であったとしても、何か喜びの材料を見つけて喜ぶ。喜び発見ゲームを彼女ははじめるわけです。どうでしょう、私たちの喜び発見ゲームは。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」、「いつも主を喜びなさい」。
最後に、ずっと以前に聞いた羽鳥明先生のお話しですが。有名な寺院に井戸があった。行ってみると、その井戸の底には、ゴミや紙くずなどが埋まっていて水がなかったというのです。きっと以前は、名水の井戸と呼ばれていたのでしょうが、それが、ゴミで埋まってしまい今は出ていない。先生が仰るに「あなた方の心の中の喜びの井戸は湧いていますか? それとも何かゴミのようなものがあって井戸が涸れてはいませんか? 或いは、モンスーン井戸、台風があって大水があったときは井戸から水が湧き出しますが、そうでないときは涸れてしまう。たとえば大きな集会に出たときに、心の井戸が大掃除され新鮮な喜びの水が湧き上がる。それが一時的なものであれば、すぐに水は、喜びは途絶え閉ざされてしまう。そういうことはないでしょうか。しかし、「主にあっていつも喜びなさい」というこのおことばに想いを留めるのならば、私はイエス様にこんなに愛されている、愛される価値のない者なのにイエス様が私のために命を捨てて、贖いを成し遂げ、よみがえってくださったというそのことを心に留めるとき、私たちは、ほんとうにアーメンと喜びを持つことができます。
もし私たちに喜びが失われているとするならば、このイエス様による贖いの十字架の復活の福音の恵みが何かによって自分たちが罪を犯してしまったがゆえに、それをお詫びしていないがゆえに、紙くずのようなものが次つぎに埋まってしまって、それを途絶えさせてしまっているのではないか。
しかしピリピ書においてパウロは言います。「いつも主にあって喜びなさい。」
この教団の内山先生が、今年の抱負で述べておられました。
「喜んで礼拝に集う教会、これを目指しましょう」
喜びがない、それは生きる上でとてもつらいことです。ですから、喜びは生きるための必須のものです。どうか礼拝に集うとき、喜びというものが心の中に溢れるように。この教会にいらしたとき、辛いことをいっぱい潜って教会に入ってこられたとしても、ああ、こんな者を、こんな私をイエス様は愛していてくださるのだという事にはっと気づいて、ここで賛美歌を歌い、ここで、み言葉に耳を傾け、祈りを捧げるときに、ああ、そうだ、私は愛されているのだという事に気がついて、喜びに溢れる、そんな教会を目指していきたいものです。
ピリピ4章「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」
ネヘミヤ8:11「主を喜ぶことは、あなた方の力」そして「あなた方の力を主が喜ばれる」
そして聖なる永久運動、「神様の恵み」「私たちの信仰」、この二つが回り続けること。これがペンテコステを前にした私たちの教会のあり方でありましよう。
⛳ICレコーダーから起こしています。 6時5分更新。
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