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きょうのことば

 さて、けさの庭のようすはと、先ずはひと回り。咲き終えたチューリップがさいごの花びら一枚を辛うじて先っぽに留めていたり、砂利の隙間にルピナスの小指ほどの芽が出ていたり、スギナのあいだに紫のオダマキが咲いていたりと書けばきりもなくたくさんのドラマ。一つひとつにありがとう、ありがとう。

Dsc03592

先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。

当教会の國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年以上の長きに亘って、岩手で主のご奉仕をしておられます。


『石を取りのけなさい』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証ヨハネ伝111744

11:17イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。 11:18ベタニヤはエルサレムに近く、十五スタデイオン(三千メートル)ほど離れたところにあった。 11:19マルタとマリヤのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた。 11:20マルタは、イエスが来られたと聞いて出迎えに行った。マリヤは家で座っていた。 11:21マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。 11:22しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」 11:23イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」 11:24マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」 11:25イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。 11:26また、生きていてわたしを信じる者は、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」 11:27彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」 11:28マルタはこう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」 11:29マリヤはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。11:30イエスは、まだ村にはいらず、マルタが出迎えた場所におられた。 11:31マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、ついて行った。 11:32マリヤは、イエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」 11:33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、 11:34「彼をどこに置きましたか。」と言われた。彼らはイエスに「主よ。来てご覧ください。」と言った。 11:35イエスは涙を流された。 11:36ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」 11:37しかし、彼らのうちのある者たちは「見えない人の目をあけたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか。」と言った。11:38イエスは、再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。 11:39イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっています。四日になりますから。」 11:40イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」 11:41そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。 11:42あなたがいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、回りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」 11:43そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」 11:44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

 前回のイエス様の復活を念頭に置きながら、今回はラザロのよみがえりについてお話しいたします。『その石をとりのぞきなさい』。これがきょうのメッセージの中心です。

 先ずキリストの復活について記されているお言葉を、これから幾つか開いていきます。

使徒2:24
しかし神はイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。

使徒2:32

このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。

使徒13:33

神はイエスをよみがえらせ、彼らの子孫である私たちにその約束を成就してくださいました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ。』と書かれているとおりです。

使徒13:34

そして、神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちて滅びることがない方と

されたことについては、こう言っておられました。『わたしはダビデへの確かで真実な約束を、あなたがたに与える。』

ローマ4:24

私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。

ローマ8:11

イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。

ローマ10:9

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

ガラテヤ1:1

人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと

エペソ1:20

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、

コロサイ2:12

バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。

ペテロ第一1:21

あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。

 これでもか、これでもかというように、イエス様の復活が誰によってなされたかが記されています。キリストの復活は誰のわざであるのか。 キリストは復活したという表現と、キリストは復活させられたというのとは微妙に違います。今まで縷々見てきたのは、キリストは神によってよみがえらせられた。キリストの復活は父なる神による。神がキリストを復活させたという言い方の方が正確であるのです。私たちの復活と、キリストの復活は、ともに神の力なのです。キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられたのは神です。キリストは神の大能の力によって甦らされた、という受け身がいつでも使われていることを、しっかりと心に留めておくべきです。

 イエスは死からよみがえった。これは正しいことです。しかし、この聖書がほんとうにいっていることは何かというと、イエスは死人の中からおこされた。受身形なのです。神はイエスをよみがえらせた。このいわんとしているところは、おわかりいただけると思います。つまりイエス様は、父なる神様がご自分をよみがえらせてくださると完全に信頼されたから、十字架の死へと向かわれた。そして、イエス様は復活を通して、その正しさを証しさせられた、という事ができます。イエス様が神だったから復活できたという理解ではなく、もちろんこれはイエス様が神であることを否定しているのではありません。ただ言わんとしていることは、イエス様が神だから復活されたというのではなく、イエス様は、人としてこの世に来られて、そして、自分を死からよみがえらせる力を持っている父なる神様を信じて、その信仰によってイエス様は復活してくださった。神はその大能によって、力をキリストの内に働かせる。だからこそ、初穂となってくださった。私たちと同じ人間として、神様を100%、あなたは何でもお出来になる方なのだという事を信じてイエス様が復活された、同じように私たちもこの神様を信じることによって復活できる。これを下敷きとすれば、もうラザロのところに多くの時間を費やす必要はないかと思います。

ヨハネ11:38
イエスは、再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。

 「憤る」。イエス様が憤った例は、神殿が商売の場所とされていたときでした。イエス様は憤って机をひっくり返しています。いつも柔和でいらっしゃるお方が、ほんとうにお怒りになる。神様の家をあなたの利得と欲望のために使うとは何事か!神の家を利用しているというそのことに対するイエス様の激しい憤りを私たちは知っています。この時も同じ憤りです。この憤りは、日本語の意味では到底当てはまらないほどの憤りで、ギリシャ語では激怒というほどのものです。死んでもう4日も経っている、臭くなっているじゃないかという不信仰に対しての怒りとも理解することができます。或いは、人間が神に背いた結果の死という、いやはての敵である死というものが、かくも残酷なもの、人間を悲しみのどん底にまで追いやってしまうという、死というものに対するイエス様の怒りです。イエス様はラザロをほんとうに愛しておられる、けれども、亡くなってしまったラザロ。死というものの何という残酷なものであるのかという悲劇。これに対してイエス様は本当に憤っておられる。

 私たちは神の大能を信じ知っていながら、しかし、ほんとうにそれを信じ切ることができない不信仰、それに対してイエス様はほんとうに憤りを持たれるのです。どうして信じることができないのか。イエス様は不信仰に対して、ほんとうに悲しみ、あの両替商への憤りはわかるのですが、神を信じ切ることができない者に対して、イエス様は憤られる。「もし信じるなら神の栄光を見るといったではないか」。聖書の中には、何度もなんどもイエス様の復活の場面が書かれてある。神は必ず死者の中からよみがえらせてくださるお方であると信じることができます。その通りに神様はイエス様を復活させてくださった。そして信じる私たちをも復活させてくださいます。

 私は、きょうのお話を締めくくりますときに、自分自身の整理のために、絵を描いてみました。(絵は割愛しました)ここに書きました一つの石、この石は不信仰かもしれない、或いは障害物と見ていいでしょう。これは非常に大きい。しかし私たちは、てこの原理を知っています。キリストの復活、全能の神様が、死者の中からよみがえらせてくださるという事実、どんな重いものがかかっても、この支点はつぶれない。そして、もう一つ、ここに差し込まれる棒は、神の言葉以外にはない。偽りのない神様のおことばが、ここに、しっかり差し込まれて、そして、キリストの復活というこの大いなる事実を支点にして、ここに私たちの信仰を働かせる。到底動かすことができないような大きな岩が、私たちの信仰が小さくあったとしても、これは、てこの原理はすごいものです。この石をまろばし去ってくれる。「もし信じるなら神の栄光を見る」。 きょうのメッセージは、私たち、ああダメだーと思うような現状を認めても、この神の言葉とキリストの復活という確かな事実に神の言葉を差し込んで私たちの信仰はたとえ小さくあったとしても、聖霊の励ましによって助けられるならば、必ずそれは取り除けられるものなのです。 私たちの信仰は神にかかっています。

 

⛳6時15分 更新

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