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きょうのことばーイースター講壇ー

 このページを仕上げているうちに、日がさしてきました。雨に濡れた庭の木々が安心したように光に照らされています。
 すでに45年以上も岩手で主に仕え、伝道をしておられる國光勝美牧師、國光ひろ子牧師。きょうは國光勝美牧師のイースター講壇です。

 

先週21日はイースターでした。聖餐式も執り行われました。

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先週のインマヌエル盛岡キリスト教会のイースター講壇をお伝えします。
『三つの開かれたもの』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証ルカ241332

24:13ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン(十一キロメートル)余り離れた、エマオという村に向かっていた。 24:14彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。 24:15話し合ったり、論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩きはじめられた。 24:16しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。 24:17イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。 24:18そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけがご存知ないのですか。」 24:19イエスが、「どんな事ですか。」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。 24:20それなのに、私たちの祭司長や議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。 24:21私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません、その事があってから三日目になりますが、 24:22仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、 24:23イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエスが生きておられると告げた、と言うのです。 24:24それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 24:25そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。 24:26キリストは、必ず、そのような苦しみを受け、それから、その栄光にはいるはずだったのではありませんか。」 24:27それからイエスは、モーセやすべての預言者から始めて、ご自分について聖書全体に書いてある事を彼らに説き明かされた。 24:28彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。 24:29彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています。」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。 24:30そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。 24:31すると彼らの目が開かれ、イエスだとわかったが、その姿は見えなくなった。 24:32ふたりは話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明してくださる間、私たちの心はうちで燃えていたではないか。」

 

【説教】きょうは2019年のイースターをお慶びする日であります。そして、共に、よみがえりの主イエスさまを囲んで聖餐のテーブルを持たせて頂きたく願っております。また、午後は、天に帰られました方々を記念し、イースターの祈りをもって、例年のように、穴口、松園、新庄とそれぞれのお墓を回って行きたく願っております。天気がよく麗しい春の日になりました。石割桜が満開になったと報じられていました。復活のいのちを覚えながら、この講壇に立たせて頂いております。

 二人の弟子が、エルサレムから地図の⓮にあるエマオに向かって歩いています。がっくりと肩を落として。

ルカ24:13に「ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。 24:14彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。」とあります。一人はクレオパです。では、もう一人は誰なのか。ある方は、もしかすればこの二人は夫婦だったと注解しています。理由は、私たちと一緒に泊まって食事をしていってくださいと強いて泊めているところから、まったく別の人というよりも夫婦と考えるのが自然であること。しかし、他のところでは、誰も断言することはできないともあります。私も、書物や関わった講壇で、夫婦であったとは聞いたことがありません。二人が誰であったか突き詰めることに、大きな意味があるとは思いませんが、もし夫婦であったと解釈しても、イエス様を囲んでの食事であってみれば、大いに意味のあることでしたでしょう。

 エルサレム、エマオ間はだいたい11キロから12キロの距離です。歩いているうちに夕方になり、一緒に食事をしてくださいとなるわけです。

 きょうのこの聖書個所を、私は、「三つの開かれたもの」というテーマで、お話をさせて頂きたいと導かれております。 

 その第一番目は「開かれた墓」であります。イースターは、イエス様の亡骸が墓からよみがえってくださったできごと、この事実に立脚しております。勿論、教会はイエス様の十字架のメッセージを中心的にお話をするのですが、その十字架は、復活と直結しているということを覚えておきたいと思うのです。この復活というできごとがあったからこそ、イエス様が十字架に架けられたときに逃げ出したはずのお弟子さんたちが、強く勇気ある人物に変えられてしまった、この事実であります。福音というのは、この事実に立脚し、ここから始まっています。キリストは実によみがえられた! これが教会のメッセージです。これを心に深く留めましょう。

死というものが何を意味しているのか、そして人間がこの死から誰一人逃れることはできないのですが、イエス・キリストは死の恐れから、死の鎖から私たちを解き放ってくださった。その最たる見本、或いは、その初発、初穂となられたイエス様のようにして、人はよみがえるんですよと私たちに、はっきりと示してくださった。ここから福音というものが、2000年の昔から、スタートしたわけであります。どうか、この開かれた墓、これが、イースターの第一のメッセージだということを覚えたいと思います。

ローマの兵隊たちは、彼が三日後によみがえるなどとたわごとを述べていたけれど、もし本当にそのようなことがあったとすれば大変なことだと、イエス様を埋葬してから墓の入り口を塞いだ石にローマ皇帝の封印をしました。ローマ皇帝の封印は、当時の地上における最高権威であり、石を動かしたものはローマ皇帝への反逆となります。しかし、地上における権威はものともせずに、この石はまろばし去られます。御使いが、「どうしてあなた方は生けるお方を死んだところでさがすのですか。あの方はここにはおられません。よみがえられたのです」と弟子たちに伝えました。

24:18そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけがご存知ないのですか。」 24:19イエスが、「どんな事ですか。」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。 24:20それなのに、私たちの祭司長や議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。 24:21私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません、その事があってから三日目になりますが、 24:22仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、 24:23イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエスが生きておられると告げた、と言うのです。 24:24それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 24:25そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。 24:26キリストは、必ず、そのような苦しみを受け、それから、その栄光にはいるはずだったのではありませんか。」

こうして、イエス様と二人のお弟子さんたちとの話し合いが始まるわけです。

 私たちの福音は、死を打ち破ったイエス様の復活の事実から始まったことを、どうぞ覚えていただきたいと思います。午後にお墓に行きますけれども、「ここにはおられません。よみがえられたのです」とある通り、亡骸はそこに葬られてありますけれども、しかし、「きょう汝われと共にパラダイスにあるべし」と仰るお方のところに、いまわれらの愛する一人ひとりがそこにあるのだということを、しっかりと心に留めて行きたいと思います。このイースターの喜びをもって、午後に回りたいと思うのです。 

 その第二番目は、「開かれた聖書」です。
24:25
そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。 24:26キリストは、必ず、そのような苦しみを受け、それから、その栄光にはいるはずだったのではありませんか。」 24:27それからイエスは、モーセやすべての預言者から始めて、ご自分について聖書全体に書いてある事を彼らに説き明かされた。

聖書を、預言者たちは知っていたのですけれども、心が鈍くて信じることができなかった。ほんとうの意味で、聖書はまだ開かれていなかった。しかし、イエス様が語ってくださったとき、

24:32ふたりは話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明してくださる間、私たちの心はうちで燃えていたではないか。」

私たちにとって聖書は開かれたものです。そこから湧き出てくるイエスさまのいのち、これを聖書から私たちは見ることができるのです。「開かれた聖書」。世の中の本とはまったく異質な聖書に私たちのいのちの泉を見いだし、ほんとうに聖書が開かれているもの、そのような者たちでありたい、それが、イースターの大きな恵みであることを覚えたいと思います。

第三番目は、「開かれた目」です。

24:29彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています。」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。 24:30そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。 24:31すると彼らの目が開かれ、イエスだとわかったが、その姿は見えなくなった。

「目が開かれた」、これは聖霊の働きです。これによって彼らの目が開かれたという事を申し上げたいと思うのです。「できるようになる」、これは聖霊のお働きです。

人が主に立ち返るなら、いつでも、そのおおいは取り除かれます。主は、御霊です。そして、主の御霊がおられるところには、自由があります。私たちはみなおおいを取り除かれた顔に鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと主とおなじかたちに姿を変えられていきます。これは、まさに、御霊なる主の働きによるのです。

 聖霊の働きによって私たちは、イエス様は、ああこのお方なんだ、と知ることができる。

ヨハネ141617を読んでみます。
14
:16そして私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでもあなた方とともにいてくださるようにしてくださいます。14:17この方は真理の御霊です。
 真理の御霊によって、私たちはイエスさまというお方を知ることができるのです。
ヨハネ14:26しかし、助け主、即ち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなた方に話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

ヨハネ1613しかし、その方、すなわち、真理の御霊が来ると、あなた方をすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分からかたるのではなく、聴いたことをすべて語り、これから起こることをあなた方に伝えてくださいます。16:14御霊はわたしの栄光を現わされます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。

 このように真理の御霊、聖霊なる神様によって私たちは復活の主イエス様、このお方が今も生きておられるお方だという事を、目が開かれて、ほんとうの意味で知ることになるのです。 

 きょうのお話を締めくくります時、開かれたもの、それは、第一番目に、「開かれた墓」と申しました。これは全能の神様が、ご自身の力をキリストの復活によって、現してくださった聖霊なる神様の働きによるものです。このお方によらなければ、この石をまろばし去ることはできません。これを、今の私たちに当てはめたいと思いました。私たちはイエス・キリストの復活を信じている者たちです。そしてこれが、あのマリヤ、マルタ、その兄弟の復活でありますが、マリヤもマルタも兄弟もイエス様を信じていたのです。それでも、もう死んで4日もたっている、彼は臭くなっていると言います。しかし、その時に、イエス様は、信じなさい、このように彼らに仰いました。同じように、この信仰というのは、聖霊様によって主よ信じたい、信じきれない自分を助けてくださいと、まだ全きものとはなっていない。の変貌山の時、麓におりてきたとき、子どもが火の中、水の中で発作を起こしていた。聖書でいうなら、悪霊に憑かれて彼は殺されようとしている。助けてくれとお弟子さんたちに頼んだけれども、どうする事もできない。イエス様助けてください。信仰なき私を憐れんでください。ある意味矛盾するような、しかし真実な叫びを言いました。私たちも、現実生活の中で、これは不可能だろう、聖書ではそうなっているけれども、そりゃそうだけれども、とても、というような不信仰な想いがある。もう4日も経って弟は腐っています。もし信ぜば神の栄光を見んとまで汝に言いしにあらずや。イエス様が仰られたその信仰を、或いは、信仰なき我を憐れみたまえと叫んだあのお父さんのように、私たちは、聖霊の力によって、不信仰な私の心の中にある大きな岩をまろばし去っていただくと、イエス様をしっかりとよみがえりの主として受けることができる、そのようなイースターであらせていただきたい。これが開かれた墓です。そして2番目に開かれた聖書です。聖書を通して聖霊によってよみがえりのイエス様の事実を、あの知っていながら俯いてとぼとぼとエマオを旅しているあのお弟子さんたちが、イエス様によって、聖書によって、ああそうだった、ああそうか、聖書の力であるおことば、これによって生かされる。当時の事ではなく、今の私たちにとってです。今、私たち聖書を開きます。聖書を読みます。でもその時、先ほどのコリントではありませんけれども、その目におおいがかぶさっていて、イエス様だという事がはっきりわからない。生きていたという事がはっきりわからない。そのとき顔おおいが取り除かれて、聖霊によって、ああ、そうか、神を信じるってこういう事なんだ、と御言葉によって励まされる、この経験をした人は、ほんとうにイースターの恵みの中に生きる人です。どうか開かれたみことば、これによって立ち上がり、歩む者とさせていただきましょう。そして、もう一つ開かれたのは、イエス様といっしょに交わることです。レンブラントのエマオの絵があります。

ルカ2430そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。24:31すると彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。

これから私たちは、パンと葡萄酒液をともに食させていただきますけれども、十字架の贖いと復活のイエス様のいのち、それに私たちは、臨在の生けるイエス様を今私のいのちとしています、こう告白し、聖餐のテーブルに与ることができたなら、ほんとうに幸いな2019年のイースターであるとこのように思います。

 

⛳5時50分 更新

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