きょうのことば
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の國光牧師の説教をお伝えします。國光夫妻は岩手で40年以上も弛まずに伝道を続けて来られました。
聖書引証はイザヤ書52:13~53:12
説教題「受難の僕・キリスト」
まず、使徒の働き8章をお開きします。
8:25こうして、使徒たちは証しをし、主のことばを語った後、エルサレムへに戻って行った。彼らはサマリヤ人の多くの村で福音を宣べ伝えた。
8:26さて、主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこは荒野である。 8:27そこで、ピリポは立って出かけた。すると見よ。そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り
いまエチオピアはクリスチャンの国になっています。その背景がここにあるわけです。エチオピアの女王の全財産を管理する立場にある高官が、ちょうどこの時、礼拝のためにエルサレムに居たのです。まことの神様を慕い求める者たちを、世界のどんな環境にいても、神様はのこしておられるようです。このエチオピアの宦官が礼拝に行き、帰る途中でピリポに出会ったのです。宦官は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。エルサレムに上る、これは生涯そう多くはない、彼にとっては貴重なエルサレム詣でです。そこでお土産、記念として手に入れたのがイザヤ書の写本だった。高価だったでしょう、彼にとっては一世一代の買い物だったかもしれません。揺れる馬車の中で、熱心にイザヤ書を読んでいた。彼がどれほどユダヤのまことの神様に、ちょうど星に導かれたあの博士たちが、異教徒の中にありながらユダヤ人の王として生まれたお方は、どこにいるのかとたずね歩いたようなまじめさ、思いをもってこの宦官は、イザヤ書の写本を寸暇を惜しんで読んでいた。その時、御霊がピリポに近寄って、さあ、あの馬車と一緒に行きなさい、と命じられる。走って追いかけたところが、何と預言者イザヤの書を読んでいるのが聴こえた。見えたんじゃなくて聴こえたのです。宦官の真剣さがわかります。ピリポは言います。「あなたは、読んでいることがわかりますか。」すると31節、「導いてくれる人がいなければどうしてわかるでしょうか」と答えた。宦官は、馬車に乗って一緒に座るようにピリポに頼んだ。私は、ピリポがどのようななりをしていたのか想像できませんが、エチオピヤの宦官の方はきらびやかに着飾ったエルサレム詣での帰りです。ピリポはたぶん見すぼらし様子だった。もう相手がどんな身分であれ、「読んでいることがわかりますか」と聞いて来た知っていそうなピリポに、宦官はとにかく教えてもらいたかった。謙遜な気持ちで導いてくれる人がなかったら、どうしてわかるでしょうかと、素直に彼は答えます。そして、どうぞ私の横に座って、もし、導いてくださるなら教えてくださいとピリポに頼みます。
すると31節、彼が読んでいた聖書の個所はこうであった。「屠り場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている子羊のように彼は口を開かない。彼は、卑しめられ、裁きは行われなかった。彼の時代の事を誰が語れるだろうか。彼のいのちは、地上から取り去られたのである。」
宦官は、読んではいるが意味が分からない。ピリポに向かって言った。「おたずねしますが、このイザヤという預言者はだれについて言ってるのですか。自分についてですか、それとも誰かほかの人についてですか。」
するとピリポが口を開いて、この聖書の個所から始めて、イエスの福音を宦官に伝えました。ピリポの53章があのイエスさまのことであると、それを彼に教えたのです。そして、36節、道を進んでいくうちに、水があるところまで来たので、宦官はもう耐えられなくなって洗礼を請います。
「見てください、みずがあります。どうか、私がバプテスマを受けるのに何の妨げがあるのでしょうか。
そして馬車を止めるように命じる。ピリポと宦官は二人とも水の中に下りていき、ピリポが宦官にバプテスマを授けました。彼が水から上がってきたとき、主の霊がピリポを連れ去られた。宦官がもはやピリポを見ることはなかったが、喜びながら帰っていった。
すばらしい出会いがここにありました。私たちは、4月はいろんな違った場所に導かれる。そこであなたを待っている人がいるでしょう。ピリポのように、ああ、それは実はイエス様のことなんですと、お話しできたなら何と幸いなことでしょうか。導く者がなければ、誰がこのお方を知ることができるでしょうか。いにしえ、それこそ、あのエチオピアの宦官が、エルサレムに詣でたとき、そこにいけにえがささげられていました。そのいけにえは、自分が罪を犯した償いのために、罪のない動物のいけにえが捧げられた。やがてほんとうの動物ではないいけにえ、つまりイエス様が捧げられる。それを意識していた事でありましょう。このお方、罪のないお方が、自らをいけにえとして、神さまに捧げられたということは、全人類の罪のために捧げられたものと見ることができます。
ここでイザヤ書53章にもどります。
イザヤ53章7節
彼は痛めつけられ、苦しんだ。
だが、口を開かない。
屠り場に引かれて行く羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
彼は口を開かない。
イザヤ53章8節
虐げと裁きによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことか。
彼が私の民の背きのゆえに打たれ、
生ける者の地から絶たれたのだと。
53:7はイエス様の事です。ヨハネ1:29、その翌日、ヨハネは、自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪をとり除く神の子羊」、バプテスマのヨハネは、イエス様を指さして、この方こそ私たちが待ち望んでいた救い主であると言ったのです。
出エジプト記24章8節モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」
「民に振りかけ」、これはほんとうに思い切った訳ですが、イエス様は、私たちの罪のためにあらゆる責苦に遭われ、救いのために、血を流されました。
ヘブル9:23、ヨハネ19:32~37、出エジプト12:46、第1コリント5:7も開かれました。
イザヤ53章9節
彼の墓は、悪者どもとともに、
富む者とともに、その死の時に設けられた。
彼は不法を働かず、
その口に欺きはなかったが。
ここにイエス様の埋葬が預言されています。この預言から700年後、十字架上で息絶えたイエスさまを、アリマタヤのヨセフが、自分のために準備しておいた新しい墓にイエス様を受け入れて、葬りました。そして、ニコデモが没薬と沈香を持ってきて、イエス様の埋葬の準備をしました。預言通りです。
イザヤ53章10節y
しかし、彼を砕いて病を負わせることは、
主のみこころであった。
彼が自分のいのちを
代償のささげものとするなら
末永く子孫を見ることができ
主の御心は彼によって成し遂げられ
イザヤ書53章12節
それゆえ、
わたしは多くの人々を彼に分け与え
彼は強者たちを戦勝品として分かち取る
彼が自分のいのちを死に明け渡し
背いた者たちとともに数えられたからである
彼は多くの人の罪を負い
背いた者たちのために、とりなしをする。
ここに、受難のしもべの「成就」が預言されています。ヨハネ19:28に「それからイエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」といわれた。」とある通りです。「死」と「サタン」からの究極的な勝利と凱旋です。ローマ6:4に「わたしたちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」とあるとおり、この新しいいのちに歩ませていただきましょう。
⛳説教の概要、割愛部分もあることをお断りして6時35分、何とか 更新
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