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イースターおめでとうございます!

イースター、

    おめでとうございます! 

きょうはイエスさまの復活記念日です。

 「エマオの途上  絵画」の画像検索結果 
復活されたイエスさまがエマオの途上に現れ、弟子たちに聖書を解き明かします。

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きょうは先週のおはなしです。イースターの説教は来週になります。 

 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の説教は『十字架の奥義』(國光勝美牧師)。聖書引証は第一コリント2:15です。

1兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。2なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。3あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。5それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。

 この教団から出されている「つばさ」に、このような記事があります。イエス様が、最後の晩餐の時に食事を摂られ、盃を回される。本来は、過ぎ越しの祭りでは盃を4回まわすことになっている。それでその儀式は完了するのですが、しかし、聖書には、3回までしか記されてはいないというのです。4回目はいったいどこで? 

イエス様が、疵のない神の子羊であるイエス様が、過ぎ越しの血を塗ってくださるというまことのイエス様の十字架の血潮、その成就であるキリストの十字架なのですが、そのときローマの兵隊が、息も絶え絶えになっておられる十字架上のイエス様に向かって、酸い葡萄酒を唇に差し出す。これを、私はこれまで、その酸い葡萄酒は、十字架刑はあまりに辛く苦しい刑なので、それをマヒさせるための麻酔的なものではなかっただろうかと考えておりましたが、「つばさ」の記事を見ますと、イエス様はそれを受けられて、4回目の過ぎ越しの食事を十字架の上で完成された、十字架で事を為し終えてくださったことに目が開かれました。ヨハネ1930の「完了した」という意味は、その過ぎ越しが、十字架の贖いというものがこれですべて完了したという、まさに過ぎ越しの完成の盃であったという示唆が与えられた時に、一層大きな恵みをいただいたことでございました。

Leonardo da Vinci (1452-1519) - The Last Supper (1495-1498).jpg

 

 きょうは(先週)コリント第一の手紙から、『十字架の奥義』という題を説教題で使わせていただきました。

 本来、「奥義」ということばは、ギリシャの神秘主義的な宗教の中の用語でした。ムステイリヨス、或いは秘儀。これがパウロによって、新約聖書に語られています。

エペソ書3:3~6
3:3先に短く書いたとおり、奥義が啓示によって私に知らされました。 3:4それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。 3:5この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。 3:6それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者となるということです。」

ここにあるのは、ユダヤ人だけでなく異邦人もキリストの十字架の贖いによって恵みに与る、これが奥義です。奥義が啓示によって私に知らされた。啓示ということと奥義ということ、これは、しばしばこういうように、真理が隠されていた、隠されていたからこれが奥義ということになっているわけですけれども、これが隠されて神によって啓示された。  神の側から人間では到底知ることはできない真理を神様は与えてくださった、これが啓示、奥義というものの意味するところであります。

聖書の中で、いろいろ奥義と言われるものは、ざっと考えると幾つか思い当たりますのは、三位一体の神様。これも啓示されなければとてもわからない奥義です。よく三位一体は矛盾しているという議論を持ち掛けられることがあります。エホバの方々が言うのは神は唯一だから神が三位一体だというのは偶像であり、神はエホバのみといいます。

三位一体が矛盾していると言えば矛盾しています。これを人間の頭でつじつま合わせをしようとしても不可能であり、聖書に書いてある通りに理解する以外にはない。父なる神と、子なるキリスト、そして聖霊なる神。たしかに聖書は三つのご人格、イエス様が第二位格なるお方が人格を持っておられるということはわかりますが、では、聖霊なる神様がそれをもっておられるということは。聖書に御霊を悲しませてはならないという表現が聖書にはあることにお気づきでしょう。悲しむというようなことは、人格を持っているものにしか帰することはできない。それ一つ取ってみても、聖霊というお方が、ただ単なる影響力だとかいうようなものではない、ご人格を持っておられることは当然わかる。それらのことを認めながら、しかし、神が唯一であると旧約にも新約にも同じように記されているのでございます。

これをどんなに考えてみても、真理に属するものとして受けて、またそれだからこそほんとうのものなのだといえる。こんな限られた人間が、神様を神様であろうはずがない、などと言える程度のものではないのです。これはほんとうに神秘に属する、そのまま受け入れるということに私たちはアーメンとうなずく者です。それからもう一つ、イエス・キリストと仰る方が、神であり人である。神人合一であるといいます。これにしても私たちはクリスチャンとして受け止めているのですけれども、イエスさまが神であるのならば、世の初めから神として存在しておられる。そして、その創造者なるお方が、あろうことか、人として、2000年前に緊急手段のように、肉体をおとりになって、まさに過ぎ越しの子羊となるために、死ぬために人となってくださったという、しかも私たちと何の変わらない人として食事もされ、また黙せ、静まれといって大自然にひとことで、創造者、作り主なる権威をもったご自分を示され、それが矛盾しないでイエス様の内にひとつとなっている、これを神秘と言わずして何というのでしょう。これは奥義として。そしてもう一つ大きなこととして、十字架のもとにと言われる時、十字架というものがユダヤ人にとって、神の呪いの極致であるのです。

ガラテヤ3;13

3:13キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれたものとなることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

はっきりと、パウロがイエス様の十字架というものが、私たちを律法の呪いから贖いだしてくださると言いました。そして、これが旧約聖書の何処から出ているのかというと、

申命記21;23

23その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神に呪われた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる土地を汚してはならない。

どれほどイエス様の十字架というものがユダヤの人たちにとって呪われた者という意深いものであるかを、はたと気づかされる聖書の個所であります。神様が、ユダヤ人たちにモーセを通して与えてくださった律法、それは、これをまもり行うならばあなたがたは、この律法によって祝福される。この神が与えてくださった律法を感謝して受け止めてこれを行っていくならば、この道を歩む者は必ず祝福されるということを、神様は祝福を与えてくださるために、決して神様は、私たちを呪おうとするためではなく、祝福のルールとして、黄金のルールとして、私たちに与えてくださったのが律法だった。人に祝福を与える、このように生きなさいという黄金律を与えてくださったその実は、律法が、それがあればあるほど、私がどんなに頑張っても、その神様の律法を行うことができない。私はまじめに一生懸命に生きています。といっても、この律法という鏡の前に自分を映し出したのならば、自分が何と穢れたものであるか、そのことに、残念ながら気が付くわけです。祝福を与えるはずの律法が罪を犯してしまっている私たちには、それが呪いになってしまっている。誰一人律法を行う事によって神の前に立つことはできない、その、律法の呪いから私たちを解放してくださったのが、イエス・キリストご自身だったのです。

まことに、一点一画もくずされることのない律法を全うされたお方が、イエス様でした。人として、神の祝福とされる律法を完全に人として実行してくださった、そのお方が、だからこそ、欠けだらけの、どうしても救うことができない自分自身をどうすることもできないような自分の身代わりとなってくださった。神の律法を満足されたお方です。最後の血の一滴までも注ぎだして、私たちのために呪われてくださった。神の裁きを一身に負ってくださった。これを、知れば知るほど私たちは、もう、感涙のほかはありません。キリストの十字架はすべてを成就したというのは、まさに、この神の律法もぜんぶ成就してくださった、あらゆる意味ですべての事が完成した。私たちをそこから解放してくださったわけであります。

ユダヤ人以外の者にとって、つまり、ローマ人にとってはどうでしょうか。ローマ人たち、彼らは、もちろん犯罪を犯した者には死刑が与えられます。そしてそのいちばん残虐なのは十字架刑で、その当時からありました。そして、その十字架刑はローマのしきたりとして、ローマ市民権を持っている者は、どんなに罪を犯しても重罪であっても十字架による死刑はできないことになっていたと言われています。それほど、ローマの死刑の方法としてみたなら残虐であるのが、異邦人の十字架の意味でありました。不思議な事です。人間の残虐性の一番表れている、一番拒絶しているそれが異邦人の十字架である。それが、ユダヤの人たちから見たのならば木につけられた者は神に呪われた者であるということが見事にクロスして、重ね合わせられた時に、十字架というものを深く考えさせられます。

第一コリント2:4をお開きください。

4そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。

 いまここに、スクリーンに、ノーベル賞級の発見にブラックホールの画像化できた、空想によってではなく、データによってきちんと観測し、ブラックホールが空想ではなく実際のものとして捉えられた。きっと皆さん方、日本とか、アメリカ、チリというような色々なところから観測して、漸く遠いそこに行ってあるはずだというものを見つけた。これを見ながら、私たちクリスチャン、十字架の意味をお話しさせていただいた、これをほんとうに知ることができている。もちろんこれは一つの足掛かりとしてのお話しですけれども、私たちは、これと同じように、ほんとうに神様の愛、イエス・キリストの2000年前のカルバリの十字架において示された神の愛というものを、私たちは、神の力によって、漸く知ることができている。当たり前のように語っているのですが、このことを知っている人が果たしてどれだけいるのでしょうか。世の中には、多くの知恵のある人たちがいる。コリント一章、2章にもありますが、この世の中には知恵のある人がいっぱいいて、神の愛を探ろうとしてもわからない。私たちには、神様の愛、聖霊の力によってあのカルバリの2000年前の十字架の出来事が、これは私の救いのためなのだとはっきりとわかる。これは驚くべきことです。どれぐらい光年のことを見つけたと言って騒いでいるかわかりませんけれども、私たちは、2000年前のあのカルバリの十字架に神様の愛が現れているのだということを、涙ながらに感謝し受け入れることができること、これは生涯の大発見であることを教えられることです。

 

第一コリント2:14~16

2:14生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊のことは御霊によって判断するものだからです。 2:15御霊を受けている人は、すべてのことを判断しますが、その人自身はだれによっても判断されません。 2:16「だれが主のみこころを知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。

 どうか十字架に示された神の愛が、アーメンと私たちに受け入れられている皆さん方  まさにそれこそすごい神様の愛の真理を知っている者であることに感謝したいと思います。 

 それではどうか意義深く受難週を迎えてください。そして、どうかこの次の日曜日、喜びと感謝をもって、イースターと聖餐式を迎えさせていただきたいと願うことです。

 

⛳4時37分 更新

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