きょうのことば
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会では、『受難のしもべなるキリスト』と題し、40年以上も岩手でひろ子牧師と共に伝道しておられる國光勝美牧師が説教をなさいました。聖書引証はイザヤ書52:13~53:12でした。
「主のしもべ」とは、「神の御心を遂行する者」という意味です。まさしく、イエス・キリストは、御父の御心を成し遂げてくださったお方であり、それが、「受難のしもべ」であります。それを、きょう一つひとつ見ていきましょう。
「主のしもべ」とは、「神の御心を遂行する者」という意味です。まさしく、イエス・キリストは、御父の御心を成し遂げてくださったお方であり、それが、「受難のしもべ」であります。それを、きょう一つひとつ見ていきましょう。
イザヤ53:1
私たちが聞いたことを、だれが信じたか。
主の御腕はだれに現れたか。
この福音、十字架のキリストの贖いを、誰がいったい信じただろうか。これは驚くべきメッセージです。神が人となって私たちの罪の贖いを成し遂げて、救いを成就してくださったというのが、これが私たちの聞いたことです。そんなことをいったい誰が信じることができるでしょうか。主の御腕は誰に現れたのか。こんな地の果ての私たちのところまで、今届いています。
この福音、十字架のキリストの贖いを、誰がいったい信じただろうか。これは驚くべきメッセージです。神が人となって私たちの罪の贖いを成し遂げて、救いを成就してくださったというのが、これが私たちの聞いたことです。そんなことをいったい誰が信じることができるでしょうか。主の御腕は誰に現れたのか。こんな地の果ての私たちのところまで、今届いています。
2彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。
砂漠の地から出た根のように、
彼には見るべき姿も輝きもなく、
私たちが慕うような見栄えもない。
「彼」という名称が使われています。そのしもべは、まさに主イエス・キリストご自身。彼は、主の前にひこばえのように生え出た。ひこばえとは、木の切り株から根元から生えてくる若芽のことで、太い幹に対して孫(ひこ)に見立てて、ひこばえというのですが。死んでしまったようなそんなところから命が出て来た。神に背いたイスラエル民族のことを思います。神に選ばれたアブラハムの子孫であるイスラエルが、本来の大木であったとするなら、しかし、イスラエルは、彼、イエスさまを拒絶しました。そして神によって滅ぼされてしまった。しかし、滅ぼされてしまったそのイスラエルのところから、イエス・キリストは、アブラハムの子、ダビデの子、イエスキリストの系図といって、まさしくこの方が、ひこばえのように出て来た。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。ナザレの貧しい大工のこせがれとして。宮殿のようなところに生まれたのではありません。ナザレは人々から蔑視されていた地域です。あんなところから、あんな貧しい大工のこせがれが、なんで、どうして「彼」と呼ばれるようなものが出るの? こんなことは誰にも信じることができなかったでしょう。
「彼」という名称が使われています。そのしもべは、まさに主イエス・キリストご自身。彼は、主の前にひこばえのように生え出た。ひこばえとは、木の切り株から根元から生えてくる若芽のことで、太い幹に対して孫(ひこ)に見立てて、ひこばえというのですが。死んでしまったようなそんなところから命が出て来た。神に背いたイスラエル民族のことを思います。神に選ばれたアブラハムの子孫であるイスラエルが、本来の大木であったとするなら、しかし、イスラエルは、彼、イエスさまを拒絶しました。そして神によって滅ぼされてしまった。しかし、滅ぼされてしまったそのイスラエルのところから、イエス・キリストは、アブラハムの子、ダビデの子、イエスキリストの系図といって、まさしくこの方が、ひこばえのように出て来た。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。ナザレの貧しい大工のこせがれとして。宮殿のようなところに生まれたのではありません。ナザレは人々から蔑視されていた地域です。あんなところから、あんな貧しい大工のこせがれが、なんで、どうして「彼」と呼ばれるようなものが出るの? こんなことは誰にも信じることができなかったでしょう。
3彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で、病を知っていた。
人が顔を背けるほど蔑まれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
「彼」は、徹底的な侮蔑、徹底的な拒絶に遭います。ヨハネ1:11にも同じことが書かれています。ユダヤの人々は拒絶し、排斥したのです。「私たちも彼を尊ばなかった」。私たちも、なのです。あの人は、この人は、ではない、私も。私たちは、私は、この主のしもべを、どのように迎えているでしょうか。私たちも、かつては彼を尊ばなかった者です。神なんかいるものか。自分が自分の思うようにして何が悪いんだ。私たちも、彼を尊ばなかったのです。
「彼」は、徹底的な侮蔑、徹底的な拒絶に遭います。ヨハネ1:11にも同じことが書かれています。ユダヤの人々は拒絶し、排斥したのです。「私たちも彼を尊ばなかった」。私たちも、なのです。あの人は、この人は、ではない、私も。私たちは、私は、この主のしもべを、どのように迎えているでしょうか。私たちも、かつては彼を尊ばなかった者です。神なんかいるものか。自分が自分の思うようにして何が悪いんだ。私たちも、彼を尊ばなかったのです。
4まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みを担った。
それなのに、私たちは思った。
神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
ある人は言います。私が頼んだわけでもないのに、勝手に身代わりだ身代わりだなどと言われて、甚だ迷惑だと。ほんとうにそうなのです。彼が勝手に身代わりをして担ってくれた。この「勝手に」が神の御愛なのです。それなのに、私たちは、頼んだ覚えはないね。こういってキリストを拒絶しているのです。「それなのに」彼は苦しめられ罰せられた。「それなのに」、これは、人間の罪をよく表している接続詞です。神がこれほどまでの愛を示してくださったのに、それなのに私は、あんなものは頼んだことはないね、2000年前に十字架に架かったと言われたって迷惑だ。これが人間の罪を表す「それなのに」です。
ある人は言います。私が頼んだわけでもないのに、勝手に身代わりだ身代わりだなどと言われて、甚だ迷惑だと。ほんとうにそうなのです。彼が勝手に身代わりをして担ってくれた。この「勝手に」が神の御愛なのです。それなのに、私たちは、頼んだ覚えはないね。こういってキリストを拒絶しているのです。「それなのに」彼は苦しめられ罰せられた。「それなのに」、これは、人間の罪をよく表している接続詞です。神がこれほどまでの愛を示してくださったのに、それなのに私は、あんなものは頼んだことはないね、2000年前に十字架に架かったと言われたって迷惑だ。これが人間の罪を表す「それなのに」です。
5しかし、彼は私たちの背きのために刺され、
私たちの咎のために砕かれたのだ。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
そのうち傷のゆえに、私たちは癒された。
「しかし」とあります。大変意味の深いこの「しかし」です。そんな私たちにも関わらず、神様は、私たちの罪をぜんぶ彼に負わせて砕いてくださった。
ヨハネ1:12にあります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」。ここに「しかし」とあります。これもまた偉大な憐れみの「しかし」です。
「しかし」とあります。大変意味の深いこの「しかし」です。そんな私たちにも関わらず、神様は、私たちの罪をぜんぶ彼に負わせて砕いてくださった。
ヨハネ1:12にあります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」。ここに「しかし」とあります。これもまた偉大な憐れみの「しかし」です。
6私たちはみな、羊のようにさまよい、
それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
しかし、主は私たちすべての者の咎を
彼に負わせた。
ここに「しかし」。私たちは滅んで当然の者であった。「しかし」、主は私たちすべての咎を彼に負わせた。この「しかし」をしっかりと理解し、キリストとわたしとの今の関係はどのようになっているのか、吟味しましょう。
ここに「しかし」。私たちは滅んで当然の者であった。「しかし」、主は私たちすべての咎を彼に負わせた。この「しかし」をしっかりと理解し、キリストとわたしとの今の関係はどのようになっているのか、吟味しましょう。
7彼は痛めつけられ、苦しんだ。
だが、口を開かない。
屠り場に引かれて行く羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
彼は口を開かない。
主のしもべなるキリストと、私たちは、私は、今どのような関係に生きているでしょうか。
主のしもべなるキリストと、私たちは、私は、今どのような関係に生きているでしょうか。
6時10分 更新
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