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きょうのことば


   盛岡市、午前3時、-2.5℃。午前6時、-4,1℃。午前9時-0,7℃予報。夜明け前はよく冷える。いちばん冷える。そして朝が来る。夜が明けるのだ。


 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の説教は『パウロの福音3』(國光勝美牧師)。聖書引証はガラテヤ1:11~17でした。

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地図は「新改訳聖書2017」より
ガラテヤ1:11~17
1:11兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。 1:12私はそれを人間からは受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。 1:13ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなた方はすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。 1:14また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。 1:15しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、 1:16異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、 1:17私より先に使徒となった人たちにエルサレムにも上ることもせず、すぐにアラビヤに出て行き、再びダマスコに戻りました。

 パウロの開拓伝道によってできたガラテヤの教会に、パウロが伝えた福音とは別な教えを持ち込んで、教会を混乱させている者がおり、それはならないと、パウロが認めたのがこの「ガラテヤ人への手紙」です。
ガラテヤ1:1に「人々から出たのではなく、人間を通したのでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロ」とありますが、このパウロが伝えた福音こそが福音です。ところが、パウロの立場を揺るがせ、パウロのことばに不信感を抱かせようとするる者たちが出たのです。福音がゆがめられる時、パウロははっきりと注意しました。使徒となってからも、ユダヤ主義的な教えからなかなか抜けきれない者もおり、「キリストを信じる信仰によって救われるというのは、たしかにその通りだが、アブラハムの末に福音を与えてくださる神なのだから、先ずユダヤ教になって、それからイエス・キリストによって律法から自由にされるという福音に与ることができる」などと言いだしていた。それに対し、パウロは言う。「律法から解放していただいた者を、もういちど律法に入れて解放するなど、とんでもないことだ」。
ガラテヤ1:6で、パウロは、「私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに」と言っていますが、パウロの残念な思いがどれほどであるかがわかります。そして、1:9で、「私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音を、あなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。」とまで言っています。この「のろわれる」には、「アナテマ」が使われており、非常に厳粛な、破門する、という意味が含まれています。
 私たちは、福音の中心を、どれだけしっかりと捉えているでしょうか。福音の中心がずれているとき、だんだん信仰がおかしくなってしまう。そういう実態が私たちの周りにはあります。私たちが、何を福音の中心とするか、それは「きよめ」です。新生、聖化、聖潔、神癒、再臨、どれ一つとっても大切な要素です。この四つのうち、何を中心に据えて福音を理解するか、それは「全き愛」即ち「聖潔(きよめ)」です。「全き聖潔」こそ福音です。
※以上、簡略ですが、説教内容を書かせていただきました。


6時45分 更新

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