きょうのことば
いま、この記事をアップするにあたって、かなりの時間、考え込んでしまいました。それは、これを書く目的が、自分が完全な正しいものであると、自分の不完全さを覆うためであるのかどうか、その点です。結論は、自分の見てくれをよくするためでは、断じてない、それだけは確かです。いまこのときに、すこしはまともであろうと努力している段階であれば、たとえ力が及ばなくとも、いまこの時点で神を見上げている状態であるがゆえに、神は、これを受け入れてくださる、そう思われます。これは個人ブログであり、義務として書かせられているのでもなければ、ある意味、教会、牧師のために書いているわけではありません。これが誰かのどなたかの何かの救い、助けになればという思い、そして、きょうは日曜だから、と習慣づいている側面もあります。
先週、インマヌエル盛岡キリスト教会では、ヘブル11:1~6から『聖なる永久運動』と題し、國光勝美牧師からおはなしがありました。
ヘブル11:1~6
11:1さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
11:2昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。
11:3信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。
11:4信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
11:5信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。
11:6信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。
<メモ>
神を求める、いったい神に何を求めるのか。
神ご自身を求めることは霊的なすばらしいこと。ならば、いわゆるご利益を求めるのは、低劣なことなのか。「神がご自分を求めるものには報いてくださる」とありますが、何を報いてくださるのでしょう。
マタイ20:32では「イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのですか」」。またピリピ4:6「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」とあります。
あなたは、神に何をしてもらいたいのか、どうなりたいのか、はっきりしなさい、と言っています。
神にすすんで近づき、神にはっきりと申し上げるものを神は喜んでくださいます。どちらが霊的かということではなく、実はどちらも霊的には表裏一体なのです。神ご自身と祝福の聖なる永久運動です。
第一ヨハネ5:14「何事でも神のみこころに従って願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です」とある通りです。具体的に切に祈ることです。これは神ご自身を祈り求めることです。神の願いと一致することです。ですから、大胆に憚らず、祈りをもって、神さまこうして下さいと祈る、これが信仰です。
※以上は説教の一部、概要です。詳しくは教会にいらしてお聞きください。
6時5分 更新
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