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きょうのことば

 けさは、つい起床が遅れました。このページを読んでくださっている方々にお詫びいたします。
 きのうは、盛岡市民文化会館で、オペラ「フィガロの結婚」を鑑賞。席は二階の後部でしたが、オケや声楽の技術、表現はいうまでもなく、オペラグラスで、表情、衣装、指先、つま先にいたるまで、演出のすばらしさを観る機会を得、感謝でした。当初は、オペラ講座で学ぶだけで、と思っていたのですが、全5回が終わる頃には、これはもう本物を見ないわけには、となったのでした。これも神様の恵みです。感謝いたしました。
インマヌエル盛岡キリスト教会の礼拝で歌われた賛美歌の一つです。ユーチューブからです。お聞きください。


 先週の日曜日は、聖書のマルコ伝9:14~29から「信仰と不信仰の狭間」と題し、國光勝美牧師がおはなしくださいました。
14さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。
15群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。
16イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。
17すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。
18その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」
19イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
20そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。
21イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。
22霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
23イエスは言われた。
「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
24するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
25イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
26すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。
27しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。
28イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」
29すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」
〈メモー概要ー〉
 上記の22、23節をストレートに享けとめ、どう自分にあてはめるべきかを考え、このおことばを信じて、神さまの栄光を拝する在り方を取りたいとのおすすめがありました。
 筆者は、私的には、こういったおことばが、生きる上での起爆剤となり、どんな状況にあっても今を生き抜く力、生き抜いていける力となる、そういうことであると思っていたのですが、
 主牧の教えてくださるところ、あらましは以下です。
 神から離れる、それがある限り、神を喜ばせることはできない。神なんか嫌いだ、そのような罪の本質があるとき、のこっているとき、神を信じる信仰により赦されていても、神に喜ばれることはできない。神に反逆する心があることが問題である。これを解決しなければならず、ここでもまた、信仰をもったときと同じように、十字架には罪を赦す力があることを信じ、日々に、その都度に、信じ、悔い改め、祈ることです。人間の脆弱さ、神を信じきれない不完全さは、成長することで解決されます。きよめられても尚、人は人間の脆弱さを持ちつつ進んでいく存在です。到底、そんなことは信じられないね、とサタンのささやきに耳を貸してしまう。山が海に移るなんて、バカバカしい、そんなことはあり得ない、そう思ってしまう。神の善意、力をこのように思ってしまうことを、主牧はサタン的疑惑と表現します。
 未熟さからくる疑惑には、罪の要素は入っていません。自衛隊が高所から飛び降りる訓練を積み重ねることによって、それが容易にできるように、信仰も同じことがいえます。
 「神を信じなさい」とは、「イエスさまが父なる神さまにお持ちの信仰を持ちなさい」ということであり、これが父なる神への愛と信仰です。
 イエスさまには二つの驚きがあります。一つは、マルコ6:6にあるように、私の不信仰を驚かれます。そして一つは、マタイ15:28にあるように、私の信仰が立派であることにも驚きを示されます。
 イエスさまの持っておられる信仰をもって歩みたいものです。

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