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盛岡タイムスの連載「楽都のユニゾン」第47回が出ました。

「楽都のユニゾン」第47回、今回は、関東大震災のあと、まだ2か月しか経っていない危険ともいえる東京に、被災の甚大さを聞きつけて、バイオリンを抱え駆けつけてくれた世界的な音楽家がいたことをちょっと書かせていただきました。ややもすると冷たい音色ともいわれるハイフェッツ、しかし、ハイフェッツのあたたかさに、多くの人々が心打たれ涙したにちがいなく、太田カルテットの誰々が行っていたかはわかりませんが、赤澤長五郎が行ったことは確かで、恐らくはほかの3人も行っただろうと思われます。当時、ハイフェッツは1901生まれ、震災は1923、22歳という若さでした。山田耕筰は、恐らく通訳としての役目もあって行っていたかと思います。


以下はWIKIからです。

ウィリアム・スタインバーグ指揮(William Steinberg, 1899年8月1日 - 1978年5月16日)は、ユダヤ系ドイツ人指揮者。第二次世界大戦後にアメリカを中心に活動しており、もっぱら英語名で知られる。

ケルンに生まれ、本名はハンス・ヴィルヘルム・シュタインベルク(Hans Wilhelm Steinberg)といった。1933年ナチスによりフランクフルト歌劇場から引退を余儀なくされた上、演奏活動を制限されたことから、1936年イギリス委任統治領パレスチナに移住した。同地でブロニスワフ・フーベルマンらと共にパレスチナ交響楽団(現イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団)を結成し、指揮者を務める。

第二次世界大戦後に欧米の楽壇に復帰し、1945年から1953年までバッファロー・フィルハーモニー管弦楽団を、1950年代にはロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した。1952年ピッツバーグ交響楽団の音楽監督に就任し、1976年までの長期間にわたって同楽団を指導した。同楽団とは来日公演も行っている。名ヴァイオリニストナタン・ミルシテインの伴奏者としても有名である。また、1969年から1972年までボストン交響楽団音楽監督を兼任している。

ニューヨークで他界した。

 

RCAビクター交響楽団米・ニューヨークを本拠とするRCAレコードの録音用オーケストラ。レコード会社のRCAビクターによる録音用オーケストラ、RCAビクター管弦楽団が1943年に停止したのを受けて、新たにニューヨークでRCAビクター交響楽団として編成。ニューヨーク・フィル、メトロポリタン歌劇場管、シティー・センター、NBC響などからの選抜メンバーによる編成と言われる。ニューヨーク・フィルの変名とも。その後はフリッツ・ライナーが事実上の音楽監督となった編成が著名で、ウラディミール・ホロヴィッツのピアノによるベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」やラフマニノフのピアノ協奏曲第3番などの録音がある。ライナーとは別組織の臨時編成も存在。

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