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メリークリスマス!

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きょうは第四アドベント、
     クリスマス、おめでとうございます!
 
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先週のインマヌエル盛岡キリスト教会では、第三アドベント講壇『救い主の誕生』と題し、ルカ2:1~7から、國光勝美牧師がお話しくださいました。
ルカ2:1~7
2:1そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。 2:2これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。 2:3それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。 2:4ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、 2:5身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。 2:6ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、 2:7男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
〈メモ〉
主牧は、カナンの園でもご奉仕をしてらっしゃいますが、そこのお子さんが、ルカ伝のイエスさまのおはなしを聞きたいと仰ったとか。たしかに最も親しんでいるのがこのルカ伝にあるお誕生の場面です。それを受けてでしょうか、きょうはここのところからのお話をいただきました。何十年も聞き続けている場面ですが、この年もまた新たな想いで心に留めるは意味あることとして始められました。
皇帝アウグストとありますが、これは天皇陛下という社会的な立場をあらわす呼称です。アウグストの実名はオクタビアヌスです。住民登録の勅命、これは、課税額や軍隊徴用のための一斉調査であり、いまでいう国勢調査で、これが発布されたわけです。ヨセフとマリアは、エルサレムから140キロも離れたナザレに住んでいました。そこからベツレヘムというダビデの町(エルサレム)に上っていかなければならなかった。マリアはその時、すでに身重になっていました。もしアウグストの勅令がなければ、ヨセフとマリアは、エルサレムに行くことはなかったでしょう。
身重のマリアが、ここまで退避せざるを得なかった理由はどこにあるのか。もちろん勅令が出たからではありますが、このことはすでにミカによって預言されており、この預言の成就のときであったのです。ミカ5:2に
 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。
とあります。
 ミカ書はイザヤ書とほぼ同じ時代で、紀元前8世紀に記されたものです。このミカが、イスラエルを治めるものがベツレヘムから出ると預言していたのです。
 ヨセフはダビデの血筋であり、ベツレヘムの出身です。皇帝アウグストが、自分の領土の国勢を調べるために命令を出したので、ヨセフはマリアを連れて、ベツレヘムからエルサレムにやってきたのです。
 神の御意(みこころ)は、アウグストのように、神を知らない人物を通してでも必ず推し進められるものです。この教会が建つに至ったときもそうでした。当初の候補物件に当たるために現地に行ったところ、そこの方が、より相応しい物件があると、いまの教会の土地を紹介してくださいました。

 神がご自分のわざをすすめようとなさるとき、不思議なように、教会とは関係のない世の中の人を通してでも、ご自分のわざを進めます。ミカの預言は、アウグストがたまたま発した勅令によって成就しました。
 ルカ2:7に出てくる飼い葉おけは、どんなものだったでしょう。
お生まれになった主は、木で作られた飼い葉おけに寝かされている、クリスマスカードなどによって、私たちはこのようにイメージしていますが、さて、実際はどうだったでしょう。
 多くの学者たちの見解が一致するところは、木の家ではなく、木の飼い葉おけではないようです。イエスがお生まれになったところは、石灰岩が多く、石灰岩の洞窟を利用して家畜などを飼っていました。洞窟は温度が安定しており、暗いところではなく、これを利用して家畜を買うのはめずらしいことではなかった。主が寝かせられたところは木づくりではなく、石灰石、削りやすく加工しやすい石灰岩に干し草を敷いて寝かされていました。
ルカ2:8、9
2:8さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。 2:9すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
 イエスさまは、絢爛豪華な宮殿にうまれたのではありません。もしそのようなところにお生まれになったとしたら、羊飼いのように貧しく身分のないものは、とてもお会いすることなどできませんでした。このように、誰でもがやってくることができるところに、ほんとうに自らを低くし、しかも罪びととして我々の兄弟となられ、罪から救うためにこの地上に来られました。そしてついには、十字架の上でさいごの一滴まで血を流され贖いを成し遂げられたのです。
 
「ベツレヘム」のそもそもの意味は、「パンの家」。霊的に解釈すると、「わたしはいのちのパンであると」という意味です。
 今日はピリピ2:6~11節を最後にお開きします。パウロのクリスマスといわれている箇所です。
2:6キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 2:7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 2:8キリストは人間と同じようなかたちになり、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。 2:9それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 2:10それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 2:11すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
 このことばこそ、パウロがのべているクリスマスの事実です。パウロが理解したクリスマスです。これに、ともに肯かせていただきましょうと、しめくくられました。
 ※聞き違いもあるかと思いますが、簡略ではありますが、おつたえいたしました。

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