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2018年9月

きょうのことば

013
 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の説教は、コロサイ書3:22~4:1からで、題は『仕える者として』(説教・國光勝美牧師)でした。
3:22奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。 3:23何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。 3:24あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。 3:25不正を行なう者は、自分が行なった不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。
4:1主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。
<メモ>

 

・イエス様は、父なる神の御前に、しもべの姿をとられたとすれば、まして私たちがどうあるべきか。主に倣うべきではないのか。

 

・ピリピ2:1、2がある。
2:1こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、 2:2私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」

 

この関係性で、すべての人との関係を築きなさい。

 

・自分を空しくし、死に至るまで。

 

マルコ10:44、45

 

10:44あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 10:45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

 

・自分の立場・権利を放棄して徹底的に奴隷となること。

 

主は、最後の晩餐のとき、弟子たちの足を洗いました。裏切ると知りながらユダの足も洗いました。

 

キリストの恵みと憐れみを知っているなら、福音に生きているなら、これらはできます。そして、ケアを求め望んでいる人がいたなら、その人と同じ目線に立ってください。
 

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今朝のクラシック倶楽部

今朝の「パリ木の十字架少年合唱団」、朝から清々しい気分、心地よい一日のスタートとなる。企業でも、クリスマスの準備はとっくに始まっているだろう。クラシックの愛好家は高齢化が進んでいるということだが、やはり心が癒され落ち着く。サン・サーンスの「クリスマス・オラトリオ」を聴けたのは幸い。名曲アルバムでサン・サーンスの「交響曲第3番オルガン付き」が紹介されたばかりだ。彼は、「人生のすべてをこの曲に注ぎ込んだ」と言っている。天が喜び、地が歓喜する最たる曲が、このオルガン付きかと思うが、きょうの「クリスマス・オラトリオ」にもそのような共感を得た。窓から子どもが転落死、6か月後には息子の病死と、どん底を潜った作曲家が、天にも地にも嘆きと不可解、不条理を訴え、神との深い交感から悲しみを浄化させ、神への信頼に転じ、ついに光と結実させた曲であると思われた。
 きのうのオール・アメリカン・ボーイズ・コーラス の演奏もよかった。元気をもらった。クラシック倶楽部で、少年たちの爽やかな歌声に出会うことができた。最近にない有難い企画だ。

 きょうの“名曲”は「砂山」。北原白秋、中山晋平の作。白秋は1922(大正11)年6月、新潟での童謡音楽会に招かれ、小学生2000人の大歓迎を受ける。白秋は佐渡島を一望できる浜の光景から詩が浮かぶ。それを中山晋平が作曲して、雑誌『小学女生』大正11年9月号に発表。 この詩には山田耕筰も作曲しているようだ。興味深かった。

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おすすめ賛美歌6曲

<パイプオルガンで弾く、癒やしの賛美歌>
https://youtu.be/EekqPcQUBYs

<讃美歌404番 山路こえて>
https://youtu.be/1oOQUkEfalQ

<讃美歌320番>
https://youtu.be/rjz609Zu7iM

<讃美歌461番 主 われを愛す>
https://youtu.be/9hP6MYWxLzk

<讃美歌312番>
https://youtu.be/giBl7_Jr8K0

<讃美歌106 ♬あら野のはてに>
https://youtu.be/9mr1GeJe_LQ

(選曲は息子です)

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きょうのことば

 咳が治りきらず、かといって薬を服用するほどでもなく、一応のやるべきこと、主に終活といった片付けだったけれども継続的に実行した一週間を過ごすうちに、カレンダーは9月も残すところ8日、時の流れは速いはやい。

007
 
 先週の教会の説教は『新しい人の生活』。引証は、コロサイ3:18~25でした。
3:18妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。 3:19夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。 3:20子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。 3:21父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。 3:22奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。 3:23何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。 3:24あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。 3:25不正を行なう者は、自分が行なった不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。

<心に留まったことば>
・聖書に書いてあるとはいっても、現実はそんなきれいごとじゃない、と言いたくなる私たちの口を封じるのは、十字架の贖い、つまり、7を70倍にするまでに、完璧に赦してくださる十字架の愛である。
・善意の批判というものはあり得ない。批判は相手をつぶす。しかし、忠告は相手を建てあげる。

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盛岡タイムス「楽都のユニゾン」連載第38回

 第38回の補足事項を、後でまた調べるとなると時間を要することでもあるので、後日すぐにめくれば出せるように書き留めている。
 エルマン以降関東大震災までの帝国劇場来日
大正10年2月 エルマン(バイオリン)
同年   5月 シューマンハインク
同年   9月 ロシア歌劇団 第二回の来日
大正11年5月 ジンバリスト(バイオリン)
同年   7月 ピアストロ(バイオリン)
同年   9月 アンナ=パヴロヴァ(舞踏)
同年   10月 キャスリン=バーロー女史(バイオリン)
同年   11月 ゴドウスキー(ピアノ)
大正12年1月 カービーイタリー歌劇団  
           ※二流どころのアーテストとの混合
同年   3月 プルメスター(バイオリン) 
同年   3月 バルダス(ピアノ)
同年   4月 ホルマン(チェロ)
同年   5月 クライスラー(バイオリン)
同年   夏~ モジューヒン(バリトン)
            -堀内敬三著「音楽五十年史 下」ー
大正の作曲家
本居長世(もとおりながよ)
藤井清水(ふじいきよみ)
梁田貞(やなだただし)
室崎琴月(むろざききんげつ)

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きょうのことば

 きょう一日どう過ごしたか、一応毎日備忘録に書いておいてはいるけれども、神様の前には、何を為したかよりも、神様に対してどういう想いをもって過ごしたかが大切なのかもしれない。日曜というと半ば自動的にこれを書いているが、自分の立場では、聖書に書き加えや削除はすべきではないのだろう。そういった意味で説教に関して書くことにも近頃畏怖を覚えてもいるところです。
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 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会では、『新しい人の人間関係』  ( 説教國光勝美牧師)と題し、コロサイ3:18~21からのおはなしがありました。
 3:18妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。 3:19夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。 3:20子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。 3:21父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。
 國光ご夫妻は、日々ご夫妻で主に仕え、共に聖書を読み、皆様のために祈っておられますが、これが聖書にかなったすがたであるのだなと思いつつおはなしをお聞きしたことでした。

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きょうのことば

 先週は、地域行事のために教会を欠席。しかし、こちらが教会を欠席しても、神はどこをも欠席されることはないのでは。
 この7日間は、夏の疲れと風邪が重なり、最低限の家事以外は俯瞰。漸く一週間目のきょう人心地がついている。
 この間、北海道震度7。立て続く地震、豪雨、土砂崩れ。またしても、に心痛みつつ、ボランティアの方々の真心こもる支援に、臥せっていたこちらまでが温かさをいただいた。
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 けさ心に通った賛美歌があったが、何番であったか、探しあぐねているうちに、エゼキエル書の枯骨の谷が浮かんだ。干からびた骨からもいのちがふたたび息を吹き返す、こんなことがあるようなのだ。

37:1 主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。37:2 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。37:3 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」37:4 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。37:5 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。37:6 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」37:7 私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。37:8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。37:9 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」37:10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。37:11 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。37:12 それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。37:13 わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。37:14 わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。――主の御告げ。――」

  

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盛岡タイムス「楽都のユニゾン」連載第37回

 盛岡タイムス連載の「楽都のユニゾン」、きょう第37回ですが、太田カルテットが影響を受けたミッシャ・エルマンに触れています。
 エルマンは、1921、37、55に来日。21年がエルマンの最盛期でした。手元にあるのは、55年10月で、実は「いまさらエルマンでもあるまい」とまで言われたころ。しかし、カサドとの共演は名盤であることも確か。
 この盤に付された解説書には、往時のエルマンが綴られています。
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 また、エルマンの最晩年に、エルマンのピアノ伴奏を15年間務めたジョゼフ・セイガーは、「エルマンが亡くなった後、シェリングやリッチなど多くのヴァイオリニストと共演したが、エルマンだけはまったく異なる世界の人で、彼独自のクラスに属していました。彼が奏であげる音楽は、ユダヤ人の魂のエコーであった」と述べています。徹頭徹尾主情的な演奏であったようです。-ディスク解説よりー

 

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きょうのことば

 いま時期の5時はまだ薄暗い。先ほど新聞受けに配達の音がしていた。いまから来るのは夜ではない。天気がぐずついているとしても、いまより暗くはならない。雲の向こうで、光がにじみ出ようとしている。
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 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会では、『いのちなるキリスト』(説教國光勝美牧師)と題し、コロサイ書3:1~4からのおはなしでした。
3:1こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。 3:2あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。 3:3あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。 3:4私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。
〈説教の概要〉 
 人は、生まれながらに、自分の欲望のために、地にあるものを求める性質を持っています。いのちの二重性はみなが持っているものです。しかし、クリスチャンとなったとき、永遠のいのちであるゾーエーといういのちに変えられます。もともとのいのちはビオスというのですが、これがゾーエーとなる。
 キリストとともによみがえさせられた者はみな、このゾーエーのいのちを持っています。それで天にあるものを慕うようになります。天にあるまことの故郷をおもうのです。
 これは神に隠されてあるいのちです。私たちは神に愛され守られています。私たちが、危険から眸を守ろうとしてぱっと瞬きしますが、神は私たちを眸のように愛され、危険が迫ると、そのようにして、ぱっと私たちを守ってくださいます。
 主がこんど現れるのは、飼い葉おけではありません。主は御使いとともに再臨します。勝利の証人として、天から現れてくださいます。

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