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はじめにことばありき

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きょうは第三アドベントです。

 先週、インマヌエル盛岡キリスト教会では、聖書のテトス書2:11~14から、「現れた神の恵み」と題し、國光牧師の説教がありました。

2:11というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、 2:12私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、 2:13祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。 2:14キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

<メモ>
 クリスマスに、よく使われる色彩は、赤と緑ですが、赤は、イエス・キリストの十字架の贖いを、緑はイエス様の誕生と平和をあらわします。
 当時は、社会の底辺にある羊飼いという職業の人たちに、真っ先に救い主の誕生が告げられました。「すべての人を照らす」のすべてには、どんな例外もありません。
 神の救いとは何か、それは、神の前に義と認められること。罪のゆるしをいただくことです。と同時に、神の子どもとしての特権が与えられます。
 聖書には、放蕩息子のはなしがあります。お父さんが生きているうちに、強いて財産分与を受け、結局は放蕩三昧で、ぼろぼろになって帰ってきますが、息子の悔いが真実であったので、お父さんは、この息子を完全にゆるし、両腕を広げて迎え歓待します。これが神の恵みです。
 この神の恵みはどこに現れたのか。ベツレヘムの馬小屋でした。もし宮殿にでも生まれたならば、ごく限られた人々しか会うことは叶わなかったでしょう。しかし馬小屋だった。身なりがどうでも、格式がなくとも、裕福であろうと貧しかろうと、誰でもが訪れることができる馬小屋に生まれてくださった。また神の恵みはどこに現れたのか。それはカルバリの十字架の上にです。十字架で流した血が、自分が犯した罪の身代わりであると信じたものを赦し、罪なきものとし、神に受け入れられるものとしてくださる。イエスの十字架の隣の十字架につけられていた強盗も、イエスさまを信じて赦され、パラダイス、天国を約束されました。そしてまた、神の恵みは、私たちの心にいま、そのわざが為されています。感謝したいと思います。


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