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2017年9月

松見ヴァイオリン教室の発表会をのぞく

自分の関係者の発表があるので行ってきました。

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小3   モーツァルト 『ロンド』

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小6  ドヴォルザーク『ヴァイオリン協奏曲 イ短調 第一楽章』

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小6  ドヴォルザーク『ヴァイオリン協奏曲イ短調 第三楽章』

 よく頑張って練習し、弾いている事に感心しました。他の生徒さんたちの演奏も、よくここまでと感じ入りました。

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「キープ・オン・ゴーイング」

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 午前中、葡萄の木の始末だった。「われは葡萄の木、汝らは枝なり」というあの有名なことばが心に通っていた。作業中にたまに金木犀のかおりが。

 朝の散歩で、いつもそのように考えたことはないのだが、いつになく、ああ、この家の方は亡くなったんだっけ、ああ、この家の犬もずいぶん大切にされていたのが……やがては自分も、とここまで行き着いたとき、けれども生きて行かなくちゃ、前を向いて、と自分で自分を励まして帰宅。
 ほどなく日野原先生のインタビュー映像が。「キープ・オン・ゴーイング」。前へ前へと進み続けること。こうして動けるうちは、動けなくなったとしても「キープ・オン・ゴーイング」。歩み続けなければならない。滞ってはならない。

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写真一葉

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 主役は雲。「きょうはどんな一日?」と仰ぎ問う樹木や草や川、歩道、ビルや鉄塔やホールに、「風の向くまま、気の向くまま、しかし、案ずるなかれ、万事相はたらきて益」と、朝のまだ動かない青の地表近くに、まったりと寛ぎほくそ笑む雲。

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はじめにことばありき

 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会では聖書のネヘミヤ記2:17,18から、『神の恵みの御手』と題し、国光勝美牧師の説教がありました。

17 それから、私は彼らに言った。「あなたがたは、私たちの当面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。」
    18 そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また、王が私に話したことばを、彼らに告げた。そこで彼らは、「さあ、再建に取りかかろう」と言って、この良い仕事に着手した。


<メモ>
ネヘミヤの使命は城壁の再建でした。「神の御手」は、どんな手なのか。

 マタイ伝14章でペトロが、「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」とイエス様にいうと、イエス様が「来なさい。」と言われたので、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。すると、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と。
 このように、イエス様は、すぐに手を伸ばして摑んで助けてくださる。まして私たちが、神様のための働きをしようとするときには、イエス様の御手が私たちの手の上に置かれている。だから私たちは、先ず、神の仕事に着手することです。とにかく着手しなければ、神様の働きは進んでは行きません。

 ☆  ☆  ☆

以下は、特別企画集会のご案内です。

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秋よ、ようこそ

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昔むかしも面白い

  いま盛岡タイムスに連載している鳥取春陽の叔父鳥取萬次郎に関しては、経歴を調べるのにけっこう時間がかかった。目星をつけた学校の記念誌などはもちろんのこと、岩手県教育史にも1項目はあったが、なかなか。そこで年代の目星をつけながら、新聞の年度末、年度始めの異動記事をさがし出し、経歴のあらかたは埋まった。最後にやってよかったという萬次郎の功績というか、紹介したいようなそれが出てきたので、無駄にはならなかった。別件を探していたら、ひょっこりと萬次郎の事項が出てきたこともある。

 いつも思う事だが、ふと、こんなことをしていて何の役に立つのか自問自答している事がある。それが、また何かに背中を押されているみたいに、また別な資料をあたり、それで出てこないと、こんどは、どの辺りから切り込めばよいかを考えている。そしてふと、ああ、これだな、ああ、あれを読めばいいな、などと続けている。やっているのか、やらされているのかわからない心境になることもある。しかし、いつも、何か天的な助けを感じている。

 ミサイルが飛んだ日にも、水爆実験が為されるか否かの騒ぎのときにも、凡人は、ただ淡々と、目の前に置かれた事を、端からこなしていく以外にはないのを実感。

 ☆

 石川天涯の「東京学」、あの時代、明治に、これぐらいの実業の書があったことに驚く。読み終えて、これを実行したら、いったいどんな人物像が……、と考えたとき、真っ先に浮かんだのは田中角栄だった。もっともロッキード疑獄以前の角栄のことだけれども。

 昔むかしをやるのも、けっこういろいろな気づきがあって面白い。

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木曜更新

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 カレンダーを見ると、なぜか木曜日に更新を怠っている。週の半ば、疲れがでるか気が緩むか、休みたいと思う間もなく、なぜか疑問もなくその日を終えてしまっている。きょうも午前、午後とぶどう棚の作業。ぜんぶ葡萄を採ってしまった。前に採って煮てあったものは、手をかけようかと思ったが、疲れが出たので、そのまま冷凍。

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無題

  きのう、写真を撮りだめしたはずが、PCに取り込んでみると、アップしたいと思うものが少なかった。

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 研修会場を出ると雨が降っていた。やみそうもない。雷が雲の中で歩行者を威嚇している。落ちるかな、だいじょうぶでしょ、心の中で繰り返す。しているうちに、もし今打たれて死んだとしたら、その時はその時。腹を括って歩きに歩く。腹を括ると、ひどく気が楽になっていた。雨もまたよし、雷鳴のフォルテッシモだ。



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盛岡タイムスに原稿送信

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 できるだけ歩かなければ。あがきでも焦りでも、理由は何でもいいのだ。動かずにいる事がいちばんよくない。とにかく足の向く方向へ。某デパート前のベンチでひとやすみ。ハンギングバスケットに水を与えている人影。そして見あげる空の青さ。

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 きのうは石垣フェステで若い人々がぎっしりと詰めかけていた盛岡城跡公園。けさは役目を終えたステージやテント、椅子テーブルが充足感をのこして、片づけられるのをしずかに待っている。傍には運搬用のトラックが横づけされている。
 階段をのぼってゆくと、ちょうど朝日がさしてきていた。 
 

 午前中は800字原稿の仕上げと送信。こんどの金曜日の掲載か。

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台風18号通過

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 ふだんはひっそりと黙している樹木たちが、まともに強風にあおられて、にわかに覚醒し、この時とばかりに、鬱憤を晴らしたものか、縦横に首をふり、髪をふりみだし、底からの力にぐあんぐあん揺れている。へし折られそうで折られず、吹き千切られそうで千切れない。
 地の面を泥水に浸し、雲をぐんぐんと東に押しやり、そこいらじゅうにゴミを吹き散らし、ひとの眼に戸惑いと悲しみと絶望の涙をのこして、台風18号は素知らぬ顔で北北東へと去っていった。

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いのり

  ミサイルの脅威、台風情報、いまだ未解決の原発と、容易ならざる日常ではあるけれども、きのうまる一日していたことは、草取り。これまで放置していただけ真っ正直にのび放題に繁りに茂った雑草の一掃、こんなことをしている場合かと思いつつ。しかしこういう家の仕事は、時間的な損失だと費やした労力が悔しくなるわけでもない。庭仕事はふしぎに心が静かになる時間でもある。

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 先週の
インマヌエル盛岡キリスト教会の聖書の引証個所は、ネヘミヤ記2:17、18で、『避け所なる祈り』と題して國光勝美牧師のメッセージがありました。

17 それから、私は彼らに言った。「あなたがたは、私たちの当面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。」
    18 そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また、王が私に話したことばを、彼らに告げた。そこで彼らは、「さあ、再建に取りかかろう」と言って、この良い仕事に着手した。


<説教の要点>
 ネヘミヤは、廃墟と化したエルサレムの惨状をきいて嘆き、祈りというシェルターにとびこみ、断食して祈ったというのです。ネヘミヤ王から事情を尋かれたので、実情を申し上げたところ、王はエルサレムの修復に力を貸そうとした。ところが、サンバラテが、ユダヤ人たちを嘲笑ってこれを妨げようとする。しかし、ネヘミヤは屈することなく祈りに祈りを積んで負けず城壁の再建を図っていく。取り掛かったものの、生活の困窮や仲間たちのいざこざが起きてしまう。ネヘミヤはまたも屈せず「これだけ自己犠牲を払って再建に取り掛かっているのですから、神よ、これを評価してください、反逆する敵をやり返してください」と、どこまでも神に食い下がり赤裸々に祈りつづけますが、この祈りのシェルターを持っていることが、ネヘミヤの強さでした。神を心から信頼し、祈りのシェルターに飛びこむこと、これが勝利の秘訣です。


 

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あと数分できょうも終わる

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 あれこれやっているうちに、もうこんな時間。写真一枚でとにかく更新。撮ったのは5日か6日だったかな。あやふや。

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呆けてみる

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 「春は草穂に呆け
  あてごとはみんな消えるぞ」

 賢治のこの部分、「呆け」。このことばに、妙に捉えられた。賢治とは関係なく。
「呆ける」。そして呆けた心境になってみる。蜃気楼を浮かべたり、深い朝もやに体を浮かせてみたり、肉眼を見開いてミクロを見ようとしてみたり、果ては、植木等のスーダラ節までが浮かんできて、緊張がほぐれ、ひどく愉快になってきた。「君、あしたまでにこの報告書を作ってくれないかね」「ま、ま、ま、課長、そんなことはあさって考えましょ、あさって」とかなんとかのセリフも勝手に考えて、それこそホーホーホーと声をあげたくなるような、そんな惚け気分に浸かってみる。肩の力がすっと抜けた。


 

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整理

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 世界の思想全集、これは主人のものなのだが、全80巻はあったか、了解を取り付けて思い切って処分しようと手をかけた一冊。西洋の近代のはしりともなった作品だった。腰かけて頁をめくる。片づけどころか、捨てるのがもったいない、けれども、よく言われるように、終活は体力のあるうちに、を思い出す。この手の全集は、70、80巻で50㌔はある。けっこう重いのだ。日本文学全集を処分したばかり。古書店だって買ってくれるものは限られている。持ち込まれても迷惑がられるか、そのまま持ち帰ることになるのが関の山。自分のもので捨てられるものは、思い切った決断もしながら処分に踏み切った。
 いまはネットでなんでも見ることができると捨てる決意をしたのだが、この頃は、ネットではあまり本を読まなくなっている。眼が疲れるのだ。
 スペースを空けたい。しかし捨てるのはもったいない。こんなせめぎあいもある。花や樹木の図鑑はとっておきたい。しかし昆虫や鳥、キノコはどうしよう。
 小屋のなかのもの、かなり捨てたけれども、まだまだある。舅姑の遺したものも。いつの間にか息子たちが必要かどうかが判断基準になっていた。

 三食事欠かず、凍え死なない程度の衣服があり、住む家があれば、この災害の多い時世に感謝すべきかと思う。

 

 

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 ユリノキ。

  ☆

   素朴な琴
              八木重吉
       
    このあかるさのなかへ
      ひとつの素朴な琴をおけば
      秋の美しさに耐えかねて
      琴はしづかに鳴りいだすだらう
 

 ☆

 

    雨
            ぶんな

 どんよりとした空から
 あめはぽつりぽつりと
 もし天気予報がなければ
 止むかもしれないね
 しかしもう知っている
 ふるのだ
 ふらずにはいないのだ
 地のうえに
 水のおもてに
 幾千の葉っぱの上に
 窓ガラスに映るのは
 白けた襖の波もよう
 高さもきままな書籍
 CDラックのせめぎあい
 そのまた奥に映るのは
 形の失せたマンションや
 アパート、家屋の窓あかり
 息をひそめる樹木たち
 雨あしは見えない
 ふっているのかいないのか
 しかし雨音が
 遠近もなく
 高低もなく
 たまに強弱を揺らしながら
 時というマエストロのまえに
 淡々と足並みをそろえている
 
  
 
 
  

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はじめにことばありき

 30分と駆けなくとも、こんな爽やかな緑の中に道が貫かれている。ほっとします。自然が身近にある、これも盛岡のいいところかなと。どこかにクマが潜んでいるかもしれませんが、遭遇しない限りは快適です。自然はクマにとってもヒトにとっても神の恵みであるはず。

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 先週、インマヌエル盛岡キリスト教会で開かれた聖書個所は、ネヘミヤ記2:17,18、國光牧師による説教は『修復に立ち上がろう』でした。

17 それから、私は彼らに言った。「あなたがたは、私たちの当面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。」
    18 そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また、王が私に話したことばを、彼らに告げた。そこで彼らは、「さあ、再建に取りかかろう」と言って、この良い仕事に着手した。


 いまの教会を目にして、廃墟となってはおらず、火で焼き払われたままになってもいない。わたしには、そう見えている。決して大きな教会ではない。けれども、お一人おひとりが、あたたかい。熱心でおられる。いまを謙虚に、懸命に生きておられ、わたしなどは、照らされることしばしばです。

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太田カルテットが書かれている著作物

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 太田カルテットを風化させるべきではないとの意識から、新聞などに書きのこしてくださった、または新聞取材に応じられた方々。

村井正一氏   昭和37年6月岩手日報「盛岡弦楽四重奏団のこと」。
           他多数
池田盛雄氏   昭和46年1月岩手日報「ばん茶せん茶
新藤武氏    昭和53年6月岩手日報「岩手の音楽回顧 新藤武氏の講演か             ら」。他多数 
達増寛一郎氏   昭和55年10月岩手日報「ばん茶せん茶」

    

 太田カルテットが書かれている著作物

「朝暾に額ずく・太田村誌」編纂代表者 館沢繁次郎 1935(昭和10)年刊
「岩手の音楽教育 教師を中心とした史的概観」吉田久五郎編著 岩手音楽教育学会 1973年
「なつかしのアルバム盛岡寫眞帳 下巻」1978年
板谷英紀著「賢治幻想曲」 1982年
佐藤泰平著「セロを弾く賢治と嘉藤治」洋々社 1985年
「太田の昭和史」太田の昭和史編集委員会 1993(平成5)年
「盛岡劇場ものがたり」 盛岡劇場編集 盛岡市発行 1996(平成8)年  
佐藤信夫著「太田クワルテット物語 岩手の洋楽の草分け」 盛岡タイムス社 1998.5
中ぶんな(加藤和子)著「光炎に響く」  新風舎  2006年 

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原稿提出

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盛岡タイムスに入稿。こんどの金曜日に掲載か。このことには、神が関与し助けてくださっている、そんな思いを強くしたきょう。

 ☆

 夕方6時からの食事会。久しぶりに兄弟姉妹、甥、姪とその子供たちに会うことができた。高校生1人、幼児3人も参加。

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綱取ダム

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はじめにことばありき

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 先週、インマヌエル盛岡キリスト教会では、ネヘミヤ記2:11~18から、『再建の恵み』と題し、國光勝美牧師の説教がありました。

ネヘミヤ記2:11~18
11 こうして、私はエルサレムにやって来て、そこに三日間とどまった。
    12 あるとき、私は夜中に起きた。ほかに数人の者もいっしょにいた。しかし、私の神が、私の心を動かしてエルサレムのためにさせようとされることを、私はだれにも告げなかった。また、私が乗った獣のほかには、一頭の獣も連れて行かなかった。
    13 私は夜、谷の門を通って竜の泉のほう、糞の門のところに出て行き、エルサレムの城壁を調べると、それはくずされ、その門は火で焼け尽きていた。
    14 さらに、私は泉の門と王の池のほうへ進んで行ったが、私の乗っている獣の通れる所がなかった。
    15 そこで、私は夜のうちに流れを上って行き、城壁を調べた。そしてまた引き返し、谷の門を通って戻って来た。
    16 代表者たちは、私がどこへ行っていたか、また私が何をしていたか知らなかった。それに、私は、それをユダヤ人にも、祭司たちにも、おもだった人たちにも、代表者たちにも、その他工事をする者たちにも、まだ知らせていなかった。
    17 それから、私は彼らに言った。「あなたがたは、私たちの当面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。」
    18 そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また、王が私に話したことばを、彼らに告げた。そこで彼らは、「さあ、再建に取りかかろう」と言って、この良い仕事に着手した。

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激流の川面にひょうひょうと

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 先だって、大雨がふった翌朝に、ものすごい勢いで流れる濁流に、二羽のカモがひょいとすべりこんだ。流されるのではと見守る。それが川下に流され流されしながらも、結局対岸へと泳ぎ切り、軽々と草地にあがった。流されそうに見えて、むしろ奔流を楽しみながら飄々と渡り切ったかの印象がのこった。

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はばたき

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  けさのクラシック倶楽部、点けてみるとバッハだった。きょうの番組をパリの木十字架少年合唱団と勘違い。それでもバッハはいつも新しい、わたしにとってはそうだ。すこし残念だけれども、これはこれでOK。

 はや9月。庭の花がめっきり少なくなるのもこの月。

 身の回りに、病気になった方々のはなしを聞く。病気について、聖書にはどうあったろう。盲目の方についてイエスが言っておられる。

けれどもこの弟子たちにイエス様は、「あなたがたの思っていることは違う。この病いは、罪と関係のないものです。もちろん悪魔の攻撃の結果でもない。神の栄光が現われるためにどうしても必要なものである。」と言われました。
主なる神がいかに偉大な方であるかが現されるために、この男は産まれつき盲目になって産まれてきたのです。

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