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2017年8月

ひと息

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  けさのクラシック倶楽部、こういう演奏家たちも。ズーラシアンブラス金管五重奏、動物の頭だけの着ぐるみというのかどうか、それをすっぽりと被っての演奏。ふつうのライオンとどこか違うとおもい解説をちょっと見るとインドライオンや猿のドゥクラングールなど絶滅危惧種の動物たちなそう。首から下はタキシード。パフォーマンスが楽しく、ついつい見て聴いてしまった。会場の子どもたちに飽きた気配はなし。個人名は明かされていない。これがメンバーかなという写真はあったけれども。
 きょうの一日の終わりに、グリーグのピアノ協奏曲で、実効性のない一日にほっとひと息、やっと人心地がつく。

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ミサイルがとぶ日にも

 

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 人の世界のいざこざには遠く、ひっそりと静かに咲いている草花。

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大曲の花火

 26日、息子のお膳立てで大曲入り。その前日は桟敷席なども冠水。これは中止かと思いきや、市民一丸となっての開催死守、洗ったり消毒したり。主催者側の懸命さに、ちょっとじんと来ました。会場に向かうときには、怪しげな雨雲が会場上空に。しかし次第に灰色の雲は失せて、ご覧のとおりの青空が。このうっすらとのこる雲が、昼花火の色彩効果を演出してくれ、そして夜の花火が始まるころには、何と、満天の星空に。あけ放たれた大空に、某新聞によれば、たしか1万7千発とあったでしょうか、夜空に次つぎに大々的な一瞬のきらめきを咲かせてくれました。会場までの道で、地元の方が「大曲にはこれしかないからねえ。大会提供花火だけは絶対見ていってください」と。芸術と花火がどう結びつくか思いも及ばなかったが、感心させられた創造花火がいくつかあった。そしてお薦めの大会提供花火は、桁違いのものすごさ。花火などわざわざ見に行くまでもないというこれまでの意識が覆りましたが、ちょっと心のどこかには、環境への影響は……、一昨日までの大雨で大変な人たちがいたんだっけ、などなど。最後に「花火師さんにありがとうをつたえましょう」の掛け声に、70万本はなかったとは思うけれども、会場一面が右に左に揺れ動くライトスティックの海と。
 「大曲の花火」の始まりは明治43年。わたし流に、ちょうど梅村保が盛岡高等農林学校を中退し、鳥取春陽は10歳だった、などと思いめぐらす。
 それにしても、各界の著名人を招くなど、今回作曲家の池辺晋一郎も。花火にこれほどまでの格付けをなし遂げ、全国的なイベントにまで育てあげた大曲の方々の心意気には脱帽したことでした。

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あの花火は、写真ではつたえかねますが、一応、

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 実際にはこれの数十倍、数百倍のすごさ、「こんなお粗末な花火は打ち上げてない!」と花火師さんには叱られそう。

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はじめにことばありき 國光幾代子先生 告別式

 

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 17日に、國光先生方のお母様であり、また一生を神様にささげられた國光幾代子先生(98歳)が天に召されました。21日に聖宣神学院教会で告別式がありました。1919年岡山県生まれ。女学校の時、父の転勤で東京へ。義母の國光良子師の信仰の熱心によって福音を知り洗礼を受け、献身され、最期の最後まで、福音を語られました。
 

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盛岡教会でご奉仕をされる幾代子先生


 この日の國光勝美牧師の説教は『天の故郷を慕う者』、聖書引証個所はピリピ書3:17~21でした。

3:17兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。 3:18というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。 3:19彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。 3:20けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 3:21キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。



 

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大雨のあと

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 とにかく晴れてよかった。大雨のあとは、丈の高い植物たちはみな洗われて、清々しく活き活きとしているけれども、河川の水量は増し、破壊しようとする意志も露わに、凄みながら流れ下っていく。明治橋に、都南大橋東に、のんのんと押し寄せる水。畑の冠水。そして達観して見おろしているかの空と雲。それでもどこか心配そうに見えるのは、それは私の心象か。

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よくふる

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 午前はなんとか持っていた空もまた雲におおわれ、この夕暮れにはまた激しい雨が。道ゆく傘を、建物を、クルマを、強かに打ちすえる。もうこれいじょうは勘弁、と思ったところで、力がすっと抜けたように弱まる雨脚。川はきょうも濁流となって、川幅をひろげ、川底をこそげながら、溢れそうな激情を堰堤のうちに辛うじて治めている。空の色と光とは沈み、破壊のエネルギーに勢いづいた水が、下流へ、下流へと、ぐわんぐわん転がりくだっていく。

 しかし、雲が切れるときはくるだろう。真夜中に雲が去れば、空には星が輝いている。地球よりもはるかに大きな星を、地球の片隅から小さく小さく、けれども確かに見ることができるこの不思議。生きていればこそだ。

 雲のあいだから、碧いそらがのぞき、光がさせば、おびただしい水滴が、球面にさまざまないのちを映しだす。花や葉っぱや青空や虹の七色。精巧でもろいガラス細工がいっせいに輝きはじめる。

 外は雨。この雨のむこうに、こんな光景を思い浮かべながら、このひと時をやり過ごそう。

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蓮の花

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 河川敷を浸して流れる中津川の濁流を見ながら橋をわたり、内丸緑地公園を抜けると、宙にまっすぐにこぶしをあげるたくさんの蕾の中で、たった一つ白く大きくひらいていた蓮の花。

 

 

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 きのう庭に来ていたヒヨドリ。ここにはいないが、親鳥と子どもがもう一羽が離れた枝に止まっている。親鳥が時折やってきては、くわえた青いぶどうを子どもに与える。心温まる微笑ましい光景です。

 ヒヨドリは仔飼いにすると人間に慣れやすく、きちんと飼い主を見分けるまでになるそうです。ヒヨドリは頭がいいのですね。平安時代の貴族達がペットにしていたようで、和歌にも詠まれています。なんとなく優雅なお話。ー緑字の部分はエルフの大樹より転載ー

 いま外では大雨がふっている。土砂災害警戒警報が出ている。0時には曇に転じるようだけれども、どうか災害に遭う方が出ないようにと祈る。

 ☆

 きょう原稿を盛岡タイムス社に送信。こんどの金曜日には載るだろうか。

 ☆

 はなしは飛ぶけれども、毎年すがたを現わしたセスジスズメの幼虫が、去年からすがたを見せなくなった。虫が一種類すがたを消すたびに、ああ、また環境が悪くなってしまったかと慨嘆。金をかけるべきは兵器ではなく自然にかけるべき時に、何という事だろう!

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せいしょのことば

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先週、インマヌエル盛岡キリスト教会で開かれた聖書個所は
ネヘミヤ記1:1~2:8

  ここから、悔い改めと祈りによる城壁の再建、そして、信仰の姿勢の再建を学びました。

1章
    1 ハカルヤの子ネヘミヤのことば。
    第二十年のキスレウの月に、私がシュシャンの城にいたとき、
    2 私の親類のひとりハナニが、ユダから来た数人の者といっしょにやって来た。そこで私は、捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。
    3 すると、彼らは私に答えた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」
    4 私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、
    5 言った。「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜る方。
    6 どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。
    7 私たちは、あなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令も、おきても、定めも守りませんでした。
    8 しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください。『あなたがたが不信の罪を犯すなら、わたしはあなたがたを諸国民の間に散らす。
    9 あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れて来る』と。
    10 これらの者たちは、あなたの偉大な力とその力強い御手をもって、あなたが贖われたあなたのしもべ、あなたの民です。
    11 ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」そのとき、私は王の献酌官であった。
2章
    1 アルタシャスタ王の第二十年のニサンの月に、王の前に酒が出たとき、私は酒を取り上げ、それを王に差し上げた。これまで、私は王の前でしおれたことはなかった。
    2 そのとき、王は私に言った。「あなたは病気でもなさそうなのに、なぜ、そのように悲しい顔つきをしているのか。きっと心に悲しみがあるに違いない。」私はひどく恐れて、
    3 王に言った。「王よ。いつまでも生きられますように。私の先祖の墓のある町が廃墟となり、その門が火で焼き尽くされているというのに、どうして悲しい顔をしないでおられましょうか。」
    4 すると、王は私に言った。「では、あなたは何を願うのか。」そこで私は、天の神に祈ってから、
    5 王に答えた。「王さま。もしもよろしくて、このしもべをいれてくださいますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある町へ送って、それを再建させてください。」
    6 王は私に言った。――王妃もそばにすわっていた――「旅はどのくらいかかるのか。いつ戻って来るのか。」私が王にその期間を申し出ると、王は快く私を送り出してくれた。
    7 それで、私は王に言った。「もしも、王さまがよろしければ、川向こうの総督たちへの手紙を私に賜り、私がユダに着くまで、彼らが私を通らせるようにしてください。
    8 また、王に属する御園の番人アサフへの手紙も賜り、宮の城門の梁を置くため、また、あの町の城壁と、私が入る家のために、彼が材木を私に与えるようにしてください。」私の神の恵みの御手が私の上にあったので、王はそれをかなえてくれた。

 

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写真

 岩手大学図書館に行った。岩手師範のある一項目を調べたかった。どうも適当な著書が見つからず、とりあえず教育学部の年誌を手に取り、椅子にかけて机上に置き、最初の頁から読むつもりだったが、何気なく真ん中あたりを先ず開けると、学生とその恩師とが並んで映っている。それが見ると、私がよく存じ上げているお顔。もう亡くなられたけれども、在りし日、奥様と共に教会の礼拝に毎週集われていたSさんであった。もしこの写真が私に語り掛けてくれるとしたら何と? 「がんばってるね」或いは「がんばりなさい」かな、などと想像する。奥様は今も変わらずに私を可愛がってくださる。私がせきをしたりすると、背中をさすってくださる。手を差し伸べてきて握ってくださる。励ましてくださる。食事をご一緒したときもあった。開いた頁が1頁後か前かであれば、この写真を見ることはなかったろう。不思議だった。
 Sさんから頂戴した書を玄関に飾ってある。『日々新た』、実に清々しい筆遣いだ。
 結局、目的の項目の調べをつけることはできなかった。やはり県立図書館の方でじっくり探した方がいいかもと思いながら閉館に迫られ退去。
 さて、きょうは何を書こうかと思いめぐらした時、「星の世界」の作詞にまつわるエピソードも浮かんだが、図書館で見た写真も鮮やかに浮かんできて、写真の方を書き記す。

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雑感

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 これも半月ばかりまえの写真。お盆時期になると、お墓に備えるのにふさわしい花は咲きおえてしまう。グラジオラスやユリといった華やかなものは姿を消し、フロックスやリナリア、小菊、遅いめのアガバンサス、ブットレアなどが辛うじて庭を寂しさからまもってくれている。ふと見上げると、サルスベリが青い空に映えていた。pencil

 毎日のようにヒヨドリが2羽の子どもたちを連れてやってくる。最初は母鳥にはぐれないように、つかず離れずしていたのが、いまでは、堂々と自由に飛んでくる。ぶどうが目当てで、がさごそと棚のほうから音がしている。2羽の小鳥を見るまでは、ぜんぶは食べられないように何とかしなくちゃと思っていたのだが、今は、まあいいじゃないの、この葡萄がなくたって困ることは何もない、という心境になっている。こんな調子で、ブルーベリーは大方は鳥たちに食べられてしまった。なぜかスグリは食べない。ラズベリーも食べられた気配はない。摘みとって冷凍庫に入れてある。幸いなことに、友達には、ジャム作りの達人がいる。pencil

 そういえば、今朝のクラシック倶楽部、エドガー・モローのチェロリサイタル、最後の『チャールダーシュ』だけだったが、またチェロが聴きたくなった。

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はじめにことばありき

 明治・大正をたどっていると、活躍した人々の中に、いかにキリスト教の影響があるかを知らされている。意外なことに、大杉栄も洗礼を受けているひとりだ。そのあと、人生をどう歩んだかはそれぞれだけれども、たとえ伝道者にならないとしても、一つ二つ社会から顰蹙を買うような失敗があったとしても、ありよう、考え方、事跡に何某かをもたらしているように思う。
 いま岩手に偉人が出ないのはなぜかと聞いたことがある。神の不在、理由はこれではないのか、そんな気がする。

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 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の礼拝の説教題は『さあ、取り掛かろう』、聖書の箇所は、ネヘミヤ記2:11~18でした。

11 こうして、私はエルサレムにやって来て、そこに三日間とどまった。
    12 あるとき、私は夜中に起きた。ほかに数人の者もいっしょにいた。しかし、私の神が、私の心を動かしてエルサレムのためにさせようとされることを、私はだれにも告げなかった。また、私が乗った獣のほかには、一頭の獣も連れて行かなかった。
    13 私は夜、谷の門を通って竜の泉のほう、糞の門のところに出て行き、エルサレムの城壁を調べると、それはくずされ、その門は火で焼け尽きていた。
    14 さらに、私は泉の門と王の池のほうへ進んで行ったが、私の乗っている獣の通れる所がなかった。
    15 そこで、私は夜のうちに流れを上って行き、城壁を調べた。そしてまた引き返し、谷の門を通って戻って来た。
    16 代表者たちは、私がどこへ行っていたか、また私が何をしていたか知らなかった。それに、私は、それをユダヤ人にも、祭司たちにも、おもだった人たちにも、代表者たちにも、その他工事をする者たちにも、まだ知らせていなかった。
    17 それから、私は彼らに言った。「あなたがたは、私たちの当面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。」
    18 そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また、王が私に話したことばを、彼らに告げた。そこで彼らは、「さあ、再建に取りかかろう」と言って、この良い仕事に着手した。

※インマヌエル総合伝道団は、統一原理教会、ものみの塔といった新興宗教ではありません。

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癒しの空間

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 かなり前の写真ですが、
みどりあふれる空間、癒しの空間。

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虫の音

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  花火の写真はないけれど、いま20時8分。盛んに花火が打ち上げられる音が聞こえる。盛岡花火の祭典だ。19時25分から20時半までとなっているから、あと20分ほどで音が止むだろう。二男が河川敷のどこかで見あげているはず。主人は人混みは苦手。わたしは是非にも見たいというところは過ぎて、見ても見なくとも、どちらでも、の人となってしまった。pencil

 同期生の息子で、彫刻家黒沼令のこれまでの作品が出ているという。お母さんから、よく制作現場のようすなどを聞いている。私は、独創性に於いては、舟越桂に並ぶ作家だと思っている。木の材質を見極め、用いる箇所によって使い分け、細かく丹念に組みあげていく、組みたててというよりも、具現化せんと意匠を組みあげている。多くの作品の中でも、私は、何かを背負わされているような、哲学的な連想が引き出される作品に惹かれる。果たしてどこに行きつくのか、しかし、安住の地は永遠にないかのようにも見える像。ご家族の期待が推し量られる作品群だ。pencil

 庭にアブラゼミの死骸が落ちていた。一昨日鳴き声を聞いたように思う。思うというのは、例年のように生命力を感じさせるようなしっかりとした力強さがなく、聞いたという実感に乏しかったせいだろう。もしかすると、蝉は羽化したばかりの第一声が最も力強いのかもしれない。さあ、今から翔べるんです! この世界を翔べるときが来たんです! とでもいうように。それが、紅葉の木の根元に、自分の足元に無惨にころがっていたのだ。蟻に喰い荒らされたのだろうか、凛とした形が失われている。東京は9日は37,8℃あったようだけれども。息子たちは大丈夫だろうか。きょうも当地25℃はあったようだが、もう夏は引きあげようとしている。
 いつしか花火の音は止み、虫の音が聞こえる。pencil 

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ヨナ抜き

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 明治唱歌には、よくヨナ抜き短音階とかヨナ抜き長音階という音階が出てくる。当時は、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、を、ヒ(一)、フ(二)、ミ(三)、ヨ(四)、イ(五)、ム(六)、ナ(七)と表記した。ヨナ抜きというのはファとシを除く、ということだ。ヨナ抜き音階は日本人好みといわれる。
 『故郷の空』はスコットランド民謡だが、これを、奥好義(よしいさ)が、ヨナ抜き長音階に作り変えている。こうすれば、邦楽に似た旋律になるので、西洋音楽に不慣れな耳にもなじみやすいのだという。ー参考は『唱歌・童謡ものがたり』(読売新聞文化部)岩波書店note

 

 私の小さい頃の事。夏休み冬休みというと一戸にある親戚の家に泊まりに行っていた。蓋に蒔絵のついた漆塗りの小さな小箱があり、それを開けると、細く小さく美しく澄んだ金属音が、一音一音をあたかも自らで確かめるかのようにメロディーを響かせる。『天然の美』のオルゴールだった。帰るときに荷物の中に入れられてあった。
 後になって、この曲が、サーカスやチンドン屋の定番曲であると知る。どうしても最初にオルゴールで聞いた趣きとは重ならなかった。興行で聞く音は、いかにも弾き古され、ややもすると軽すぎて聴こえもした。
 近年になって、『天然の美』は『美しき天然』、そして、そのはじめの旋律、作詞、作曲のはじめは、頽廃的でもなければ、浮薄なものでもない事を知りうれしかった。クラシック畑にある方の中にも、よく内容を掴めていない演奏があるように、サーカスやチンドン屋の方々にも、その二通りはあるだろう。音楽の本来的な意義、用途などを考える時に、どちらが良い悪いなどと簡単に言ってしまうつもりはないけれども。note

 

 ジンタは、民間オーケストラが無かった明治時代、1887年(明治20年)に海軍軍楽隊出身者を中心に、30名ほどのメンバーで「東京市中音楽隊」が結成された。東京市中音楽隊は行進曲ポルカワルツ等を演奏し、西洋音楽を庶民に普及させることに貢献した。ーウィキペディアより転載note

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やっと更新

 おとといまでの暑さと忙しさに、ブログ更新ができませんでした。それでも盛岡タイムス提出用の800字原稿はきのうのうちに提出。通れば、こんどの金曜日には載るでしょう。
 
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 日曜日の18時から、立川ゆかりさんの出版パーティーがありました。岩手日報社社長の祝辞を受ける立川さん(左の着物姿)。これに、作家の平谷美樹さん、松田十刻さん、工藤なほみさんがつづきました。
 もりおか童話の会代表の浅沼誠子さん、文芸誌『天気図』を代表して、はらまもるさんが花束を贈りました。
 

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 きょうは午前中から、というよりも昨日から自治会がらみの所用を果たす。かなり昔のことではあるけれど、円子正が、セレモニーで、盛んに『天国と地獄』を演奏しまくった時期があるけれども、そんな忙しさ。きょうは風もあり気温もそう高くはなく過ごしやすかったが、きのうの午前までの暑さときたら、オッフェンバックの威勢のいい音符までが、ふやけて流れだし、音符の液体が曲線を描きそうなぐらいだったのだ。

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聖会をこえて

 先週は、1~3日まで東北聖会があった。2日、新幹線で1時間半で郡山着。バスで会場へ。大ホールがけっこう埋まっていた。盛岡から行った姉妹と同室、毎週礼拝で顔を合わせながらも、ゆっくりと話すのは数十年ぶり。メッセージを聞くときも、食事も共に。他の教会の方々とも再会。楽しい2日間となり感謝しきり。

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 先週の教会の礼拝メッセージ『天にある永遠の家』の聖書引証は、第二コリント5:1~10でした。

5:1私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。 5:2私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。 5:3それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。 5:4確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。 5:5私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。 5:6そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。 5:7確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。 5:8私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。 5:9そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。 5:10なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

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盛岡さんさ踊り


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 1~4日までの盛岡さんさ踊り。もっとも2、3日は聖会で他出。紅海をふたつに分け、マナをふらせ、水を湧きださせるという大きな奇跡もあった、しかし、いま、あなた方のうちにこれまでに起きた小さな奇跡の数々を思いだしましょうとのメッセージを土産にきのう帰ってき、そしてきょう、大人から幼い子供たち、学校、職場、町内会、家庭からと多くの市民の参加を観にいってきました。

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 太田太鼓の登場。沿道に立ったときに、ちょうど現れてくれました。太田との縁を覚えたことです。

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8月

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 暑い。けれども、どこかもう秋の気配。アブラゼミの声をまだ聞いていない。土曜日に花の苗を買いに行った先のガーデニング。

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 きょうから盛岡さんさ踊り。買い物に行く道すがら、髪をきれいに整え、浴衣をぴしっと着込んだ女性たちが、会場となる中央通り方面へと流れていった 。

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