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日曜日

 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の礼拝説教をお伝えします。さまざまに忙しく、毎週はできかねますが、不定期ではありますが、できるときだけでも書かせていただきます。

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聖書引証個所はヨハネ伝14:1~3
14:1「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 14:2わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 14:3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

説教 『再臨の主を待つ』(國光勝美 牧師)
 再臨とは、イエス様の救いがどんなに素晴らしいものであるのか、その完成として場所を備え、そしてあなたを私のもとに迎える、一緒にいるんだ、これが神様の救いの完成のときです。しかし世の中では、終末とは最終的な破滅を指し、聖書の中にもハルマゲドンということばがありますが、このことばだけがひとり歩きをしていることがあります。究極的な破滅と理解されています。いま2017年ですが、2000年になったときのことが思い出されます。世の中にヒステリックな出来事がありました。2000年問題、データがぜんぶ狂ってしまい大混乱が起きるとか、ノストラダムスの予言で世界の終わりは予言されているのだなどと、騒然としました。

 ここで私たちは、聖書のいう終末をきちんと理解しておきましょう。
イエスさまがお誕生くださった、そして、十字架に架かり復活をされた。復活をされたイエス様が天に帰っていかれた。私たちは、これを過去の出来事として知っております。オリーブ山の上から、弟子たちが見ている間に天に引き上げられていく。何のために? それは私たちの罪の解決をしてくださるため。そのために、神の子羊なるお方が、十字架に架かり、贖いをなし遂げ、完成して父なる神様のもとに、無事にあなたの使命を果たして帰ってきましたとイエス様が天に帰って行かれた。そしてその人の罪の贖いという大きな出来事をなし遂げられた報告を聞かれたあと、父なる神様は、こんど聖霊をこの世にお与えくださった。三位一体の第二位各であるイエス様が大活躍をされた時代の後に、聖霊が降臨してくださいました。それが使徒の働きの2章に記されているできごとです。そして、この時から、教会の働きがはじまりました。

 聖霊が降ったとき、ペテロたち、そのほかの使徒たちは、あなた方が十字架につけたあのお方こそ救い主であるといって、悔い改めを迫りました。このメッセージがエルサレムから始まって、ユダヤ全土、サマリヤ及び地の果てにまで、このメッセージが広がっていくのであります。ですので、私たちが受けたこのメッセージは、辿っていくなら、十字架にたどり着く。ここからメッセージが始まっているのです。そして今は、聖霊の時代。しかし、やがてこの時代が終わります。教会が天に瞬く間にあげられる時がきます。第一テサロニケ4章
4:16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 4:17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 先ほどのヨハネ14章1~3と突き合わせてご覧ください。これはユダヤの人たちの結婚ということが、その習慣が背景となってなるほどと頷くことができます。ユダヤの人たちは、結婚するときに、花婿が花嫁を迎えます。そのとき、花婿のお父さんが、この子供たちの結婚に関わる了解があり、そのすべてのついえというものは、父親方がぜんぶを備える。そして、花婿が父親の了解を得て、花嫁を迎えるわけです。そしていよいよ結婚式が行われる。これはヨハネ伝14:3にある「わたしは場所を備えに行く」というこの場所とは、「婚宴の場所」のことです。そういう背景が、ここには暗示されているわけです。そして「あなたがたをわたしのもとに迎えます」。花嫁は、イエス様の十字架の血潮によって罪きよめられた者として、嬉々として、その待つ慕ってやまないお方のもとに私たちは瞬く間にあげられるのです。それが、この第一テサロニケ4:16、17なのです。すばらしい恵みをあじわうことになります。

 イエス様としてみたなら、子羊としてみたのならば、ご自身が命をかけて最後の最後まで私たちを贖ってくださったその花嫁をイエス様は喜んで迎えてくださる。花嫁なる私たちも、このお方を今か今かと待っているうちにあげられる。このような記事を読むごとに、私たちの信仰が生きたものとなりますように。このお方とともにある。心いっぱい感謝を覚えたいと思います。その時の教会というのは、目に見えない、だけれども主イエス様の贖いを一人ひとり信じ罪ゆるされ、イエス様の新しい命が与えられている、生まれ変わった本物のクリスチャンたちが、地上の目に見える教会というのではなく、まことのクリスチャンたちがこのお方の胸に携えあげられるのです。クリスチャンたちが、ある日ある瞬間、突然いなくなってしまう。そして残された者たちは、大艱難時代を通ります。これは神なしと、それを良しとした生き方をした人たちに降りかかります。神を否定したひとたちが、どれほど暴力と争いと破滅に向かうのか、これは地上における大艱難時代です。

 しかし、それとともに、尚、この時に聖霊の働きはまだ残っている。そうじゃないと悔い改めはできませんから。この地上に残されてしまっている人たち、民族的にいうのなら、それは、イエス・キリストを拒絶したユダヤの人たち、イスラエルの人たちのことです。その人たちは、あんなナザレのあんな者が、メシヤであるはずがないと拒絶して十字架につけたあのお方が、しまった! と気づかされる。この時代でも人が救われるのは、悔い改めと信仰です。別な特権があるわけではありません。同じことです。私たちが救われたのも悔い改めと信仰です。ただ聖霊によって、イエス様の2000年前のあの十字架はあなたの罪のためだったと言われたときに、不思議なように、ああ、そうだ、わたしはそうだと自覚する恵みに与る。悔い改めてイエス様を信じて、同じことが残されている。これは7年間というように聖書でいわれております。特に前半の3年半と後半の3年半というのは、また趣が違っていますけれども、しかし二つ合わせて地上における艱難時代というのがございます。そして、もうだめだ、もう地球は終わってしまう、神無しとして築いたバベルの塔はもうこれまでだと、その時、神様が、始めに神が、と仰った神様が、歴史を締めくくられる聖書のいう終末、それは、キリストを拒絶し続けた者にとっては、それは、裁きです。しかし、それと共に、この時代に尚、聖霊の憐みのゆえに、悔い改めて信仰を持った人たちは、お救いに与ることができる。これは、神様の大きな憐みです。そして、私たちはその時、千年王国という聖書の記している恵みの時代を過ごすことになります。そうでないと、ただ私たちは、おとぎ話のように、ノアのできごとを見るというような、そのような誤ったことをしてしまいがちですが、この地上、天地を創られた神様は、もし人が罪を犯さなかったならば、人間はこのように大きな祝福、神と共に歩む、そのとき、100歳で亡くなった人があるとしても、それは、短命だったといわれるような、この1000年王国というのは、神様の恵みのデモンストレーションがされると聖書はしている。そして、私たちは、今日ほど、核の時代の脅威を感じているときはない。今からたかだか100年前、聖書を、黙示録を読んだ人は、人類の3分の1が火で焼き殺されてしまうとか、読んだときに、なんだって大げさなことを言うものだ、そんなバカなことがあるものかと思われたかもしれない。しかし私たちは、今ほんとうに黙示録が示しているような状況を知っています。人の命を売買するというようなことも書かれています。今生命科学が、人が踏み込んではいけないところにまで、罪ある者が入っていってしまって、人の命を売り買いするというようなことがある。けもの、つまりサタンの配下にある者たち、そうでない者たち。それが番号によって管理されるというようなことはコンピューターが無い時代には何のことかわからなかった。しかし今は事実そうなっている。神無き世界が、いよいよイエス様の再臨が近くなっていることを思います。

 蔦田二雄先生が「君たち、この再臨というのを、どれだけ自分のものとしてわかってるかな」といって青年たちを凝視したのですが「私たちはね、これに命をかけたんだよ。命をかけて再臨信仰というものを守ってきたんだ」と仰いました。この再臨を、単なる知識としてだけではなく、ほんとうにわかったのならば、神の前にきよくありたいと願うはずです。イエス様とともにあるところ、神の恩寵の中にあることを選び取っていくことです。

 

 

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