キャサリン・ポーター ハープ演奏会
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早朝に、これまでの来し方を振り返り、自分の力不足、いたるところでの配慮の足りなさをあれこれと考えていたときに、「わが恵み汝に足れり」という聖書のことばが浮かび、わけもなく自責の念と理屈が引っ込み安らかになった。これも神の赦しからもたらされる心境かともおもった。
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会で開かれた聖書の箇所です。
民数記9:15~23
15 幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。
16 いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。
17 雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。
18 主の命令によって、イスラエル人は旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。
19 長い間、雲が幕屋の上にとどまるときには、イスラエル人は主の戒めを守って、旅立たなかった。
20 また雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。
21 雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立った。
22 二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った。
23 彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命令によって、主の戒めを守った。
このチラシは、教会の姉妹が作成したものです。
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このような午後の時間帯にブログを書くのはめずらしい。大方は就寝前に、どれどれとココログを開ける。
火曜日の午後は、役目上の某会に出席の後に図書館へ。懸案事項の資料としてあげられている著書を次つぎに蔵書検索したが、この日は一冊も出てはこなかった。一旦は肩を落としもしたが、気を取り直して、まあ役に立たなくはないだろう書籍を2冊借りて帰宅。
水曜日には朝9時出発で新里村へ取材。友人二人が同行、地元の方がガイドしてくださった。関連とはすこし離れるが、北上山地の奥深くに生き抜いてきた方々に畏敬の念を覚えたことであった。刈屋北山にある、平家の落人の最初の居住地“鳥取城”との謂われのある地点、標高500mほどか、実際にはもっと高く感じられたが。周囲はみな標高1000の稜線が波打っている。対向車が来たなら一巻の終わりかと思われる急な砂利に草の繁る狭路を、腹を括ってひたすらにアクセルを踏む。一族が見張りを立てて暮らしたという地点から30mほど下の車の切り返しが利きそうな場所で停車。上にのぼってみたかったが、危険だということ、また連れもあることであり、断念。刈屋北山、現在4戸の集落を眼下に遠く見下ろす。みな一族であるという。この中の一戸が鳥取春陽の生家だ。
春陽の生家から北山を出るまでの途中に春陽の墓とされている墓所がある。これもまた林の中の傾斜地に人がひとり通れるほどの狭い道を15分ばかりのぼった林の中にあった。6基並んだ向かって右端に春陽の墓であることが刻まれている。
ぜんぶは書きかねるけれども、さまざまに想いを深くした取材となった。
きのうは拙宅に庭師の方々が入ってくださった。芸術的な枝ぶりの松などは無いものの、人の背丈を超えた樹木を自分で刈るのはやはり危険なのでお願いしている。落下した枝葉の片づけを同時進行で行う必要があり、終日、かかりきった。
そして今朝も、後片付けを。そして10時からは地域関連の会議。なぜか疲れて気力が萎え、ぼうっとし、怠けものになったような気分に陥ってしまった午後。はたと気づいてみれば、疲れたは当たり前。これが自然。休みなく動けば疲れる、これは当たり前じゃないの。一旦休憩し、気分転換に、めずらしく、いま15時半ごろだけれども、ブログを書いている。
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先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の礼拝説教をお伝えします。さまざまに忙しく、毎週はできかねますが、不定期ではありますが、できるときだけでも書かせていただきます。
聖書引証個所はヨハネ伝14:1~3
14:1「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
説教 『再臨の主を待つ』(國光勝美 牧師)
再臨とは、イエス様の救いがどんなに素晴らしいものであるのか、その完成として場所を備え、そしてあなたを私のもとに迎える、一緒にいるんだ、これが神様の救いの完成のときです。しかし世の中では、終末とは最終的な破滅を指し、聖書の中にもハルマゲドンということばがありますが、このことばだけがひとり歩きをしていることがあります。究極的な破滅と理解されています。いま2017年ですが、2000年になったときのことが思い出されます。世の中にヒステリックな出来事がありました。2000年問題、データがぜんぶ狂ってしまい大混乱が起きるとか、ノストラダムスの予言で世界の終わりは予言されているのだなどと、騒然としました。
ここで私たちは、聖書のいう終末をきちんと理解しておきましょう。
イエスさまがお誕生くださった、そして、十字架に架かり復活をされた。復活をされたイエス様が天に帰っていかれた。私たちは、これを過去の出来事として知っております。オリーブ山の上から、弟子たちが見ている間に天に引き上げられていく。何のために? それは私たちの罪の解決をしてくださるため。そのために、神の子羊なるお方が、十字架に架かり、贖いをなし遂げ、完成して父なる神様のもとに、無事にあなたの使命を果たして帰ってきましたとイエス様が天に帰って行かれた。そしてその人の罪の贖いという大きな出来事をなし遂げられた報告を聞かれたあと、父なる神様は、こんど聖霊をこの世にお与えくださった。三位一体の第二位各であるイエス様が大活躍をされた時代の後に、聖霊が降臨してくださいました。それが使徒の働きの2章に記されているできごとです。そして、この時から、教会の働きがはじまりました。
聖霊が降ったとき、ペテロたち、そのほかの使徒たちは、あなた方が十字架につけたあのお方こそ救い主であるといって、悔い改めを迫りました。このメッセージがエルサレムから始まって、ユダヤ全土、サマリヤ及び地の果てにまで、このメッセージが広がっていくのであります。ですので、私たちが受けたこのメッセージは、辿っていくなら、十字架にたどり着く。ここからメッセージが始まっているのです。そして今は、聖霊の時代。しかし、やがてこの時代が終わります。教会が天に瞬く間にあげられる時がきます。第一テサロニケ4章
4:16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
先ほどのヨハネ14章1~3と突き合わせてご覧ください。これはユダヤの人たちの結婚ということが、その習慣が背景となってなるほどと頷くことができます。ユダヤの人たちは、結婚するときに、花婿が花嫁を迎えます。そのとき、花婿のお父さんが、この子供たちの結婚に関わる了解があり、そのすべてのついえというものは、父親方がぜんぶを備える。そして、花婿が父親の了解を得て、花嫁を迎えるわけです。そしていよいよ結婚式が行われる。これはヨハネ伝14:3にある「わたしは場所を備えに行く」というこの場所とは、「婚宴の場所」のことです。そういう背景が、ここには暗示されているわけです。そして「あなたがたをわたしのもとに迎えます」。花嫁は、イエス様の十字架の血潮によって罪きよめられた者として、嬉々として、その待つ慕ってやまないお方のもとに私たちは瞬く間にあげられるのです。それが、この第一テサロニケ4:16、17なのです。すばらしい恵みをあじわうことになります。
イエス様としてみたなら、子羊としてみたのならば、ご自身が命をかけて最後の最後まで私たちを贖ってくださったその花嫁をイエス様は喜んで迎えてくださる。花嫁なる私たちも、このお方を今か今かと待っているうちにあげられる。このような記事を読むごとに、私たちの信仰が生きたものとなりますように。このお方とともにある。心いっぱい感謝を覚えたいと思います。その時の教会というのは、目に見えない、だけれども主イエス様の贖いを一人ひとり信じ罪ゆるされ、イエス様の新しい命が与えられている、生まれ変わった本物のクリスチャンたちが、地上の目に見える教会というのではなく、まことのクリスチャンたちがこのお方の胸に携えあげられるのです。クリスチャンたちが、ある日ある瞬間、突然いなくなってしまう。そして残された者たちは、大艱難時代を通ります。これは神なしと、それを良しとした生き方をした人たちに降りかかります。神を否定したひとたちが、どれほど暴力と争いと破滅に向かうのか、これは地上における大艱難時代です。
しかし、それとともに、尚、この時に聖霊の働きはまだ残っている。そうじゃないと悔い改めはできませんから。この地上に残されてしまっている人たち、民族的にいうのなら、それは、イエス・キリストを拒絶したユダヤの人たち、イスラエルの人たちのことです。その人たちは、あんなナザレのあんな者が、メシヤであるはずがないと拒絶して十字架につけたあのお方が、しまった! と気づかされる。この時代でも人が救われるのは、悔い改めと信仰です。別な特権があるわけではありません。同じことです。私たちが救われたのも悔い改めと信仰です。ただ聖霊によって、イエス様の2000年前のあの十字架はあなたの罪のためだったと言われたときに、不思議なように、ああ、そうだ、わたしはそうだと自覚する恵みに与る。悔い改めてイエス様を信じて、同じことが残されている。これは7年間というように聖書でいわれております。特に前半の3年半と後半の3年半というのは、また趣が違っていますけれども、しかし二つ合わせて地上における艱難時代というのがございます。そして、もうだめだ、もう地球は終わってしまう、神無しとして築いたバベルの塔はもうこれまでだと、その時、神様が、始めに神が、と仰った神様が、歴史を締めくくられる聖書のいう終末、それは、キリストを拒絶し続けた者にとっては、それは、裁きです。しかし、それと共に、この時代に尚、聖霊の憐みのゆえに、悔い改めて信仰を持った人たちは、お救いに与ることができる。これは、神様の大きな憐みです。そして、私たちはその時、千年王国という聖書の記している恵みの時代を過ごすことになります。そうでないと、ただ私たちは、おとぎ話のように、ノアのできごとを見るというような、そのような誤ったことをしてしまいがちですが、この地上、天地を創られた神様は、もし人が罪を犯さなかったならば、人間はこのように大きな祝福、神と共に歩む、そのとき、100歳で亡くなった人があるとしても、それは、短命だったといわれるような、この1000年王国というのは、神様の恵みのデモンストレーションがされると聖書はしている。そして、私たちは、今日ほど、核の時代の脅威を感じているときはない。今からたかだか100年前、聖書を、黙示録を読んだ人は、人類の3分の1が火で焼き殺されてしまうとか、読んだときに、なんだって大げさなことを言うものだ、そんなバカなことがあるものかと思われたかもしれない。しかし私たちは、今ほんとうに黙示録が示しているような状況を知っています。人の命を売買するというようなことも書かれています。今生命科学が、人が踏み込んではいけないところにまで、罪ある者が入っていってしまって、人の命を売り買いするというようなことがある。けもの、つまりサタンの配下にある者たち、そうでない者たち。それが番号によって管理されるというようなことはコンピューターが無い時代には何のことかわからなかった。しかし今は事実そうなっている。神無き世界が、いよいよイエス様の再臨が近くなっていることを思います。
蔦田二雄先生が「君たち、この再臨というのを、どれだけ自分のものとしてわかってるかな」といって青年たちを凝視したのですが「私たちはね、これに命をかけたんだよ。命をかけて再臨信仰というものを守ってきたんだ」と仰いました。この再臨を、単なる知識としてだけではなく、ほんとうにわかったのならば、神の前にきよくありたいと願うはずです。イエス様とともにあるところ、神の恩寵の中にあることを選び取っていくことです。
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超多忙なうちにはや一週間。ずいぶんと長い時間を過ごしたかに思われる一週間でした。きょうも聖書のおことばの紹介のみになります。先週、インマヌエル盛岡キリスト教会で開かれたヨハネ伝21:15~23で一息つきたいと思います。
21:15彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
21:16イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:18まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
21:19これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
21:20ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。
21:21ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
21:22イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
21:23そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。」と言われたのである。
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