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2017年4月

きょうのことば

  昨夕、入院している友達が電話をくれた。「庭がどうなってるか」。留守宅の庭をとても気にしている。きょう、教会に行く途中に立ち寄って、どうなっているか、わたしとしては、どんな花が咲いているかを報告しようと、「どうなっているか見てくるから」というと、「中に入ってもいいからね」と許可が出た。そんな会話からなぜか、「戦争が起きるのかな」といった話になり、私は「ミサイルが飛んでくるかもしれなくても、自分としてはいつも通りに暮らすまでかな」とこたえていた。口には出さなかったけれども、すべてを支配する存在を意識しながら。

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 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の礼拝説教『復活の主と出会う』で開かれたおことばを掲げます。

ヨハネ伝21:1~14

21:1この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。 21:2シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。 21:3シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 21:4夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。 21:5イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」 21:6イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。 21:7そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。 21:8しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。 21:9こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。 21:10イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」 21:11シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。 21:12イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。 21:13イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。 21:14イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。

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さまざまな葬儀

  きょうは葬儀に参列。最後列で、故人の最晩年に失礼をしてしまった事を詫びながらお別れをする。故人は人の命の尊さと平和を語り続けて来られた。北朝鮮への対応をめぐって、緊迫した時間が流れているさ中のいわば天の声とも受けとめた。亡くなられたという実感がいまだ湧かない。理解のあるご家族、多くの友人知人に恵まれるという環境にあった。

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 さまざまな葬儀に出席したことがある。これは地域の役目とは無関係のはなしだけれども。さまざまに事情のある或る方のお父さんが亡くなられた。出席すると、彼女と彼女のお母さんだけだった。ああ、来てよかった! このお葬儀では、私はなぜかそう思った。この方とは今もってお付き合いが続いている。


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高松の池周辺

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 ホーマックに行く途中、高松の池に立ち寄ると、にぎやかに屋台が立ち並び、たくさんの人たちが桜を愛でながら、ゆったりと寛いでいました。明るい光に恵まれたこんなひと時は、写真を撮るのがとても楽しい。このカモは片えくぼかなとは見間違い、やはり目でしょう。器用に毛づくろい。羽の彩もきれいに。
 あすからは息子たちが次つぎに帰省。忙しくもよき一週間となりそう。

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ことしは、学校の校庭にある桜がいちばん見事なようです。これは咲き始めの写真、きょうは満開でした。

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雨の一日

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彫刻もちょっと角度を変えると別な表情が見えてくる。

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横浜の友だちからの写真

 

むこうは葉桜。いまは、こんな藤が咲いているようだ。

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  ☆

 もりおか童話の会の集まりがあった。筆者は900字程度。エッセイ、児童文学、時代小説、出版予定の推敲途上原稿の読み上げなど発表は多彩。

 中央公民館の庭の芝生に群生するすみれを見て、子どもの頃からよく夢に出てくるすみれの群生が浮かんだ。後年になって咲いていた辺りを見に行ったことがあるが、植生が変わったのか消えてしまっていた。 

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桜満開

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イエスさまというお方

 先週は、イースター礼拝、聖餐式、午後にはイ―スタ―墓参がありました。

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聖書引証 ヨハネ伝201929
20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」 20:20こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。 20:21イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」 20:22そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 20:23あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

20:24十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。 20:25それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

20:26八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。 20:27それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 20:28トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」 20:29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

《先週416日のイ―スタ―説教》(インマヌエル盛岡キリスト教会 國光勝美牧師)

世の中では、イ―スタ―は、もうクリスマスと同じように、商戦に用いられております。一般の方々は、イースターをどのように捉えているのでしょう。ある方に訊いてみますと、思い浮かぶのは「うさぎ」と「たまご」という二つの言葉でした。私が「イ―スタ―というのは、イエス様が死んで三日目によみがえられた事を意味するんですよ」とお話しますと、「どういう事ですか?」と訊かれます。そこで、イエス様の十字架と復活のことをお話しました。

今日は「見ずして信じるものは幸いである」というご聖言を通して恵みをいただきたいと願っております。

さて、ここで、イエスさまが十字架に架かるためにおいでくださった第一降臨、そして、イエス様が、王としていらっしゃる再臨がある、このような大きな流れの中で、イ―スタ―という時を迎えていることを、どうか覚えていただきたいと思います。イエス様の来臨と十字架、復活、そして帰天。そして、天に帰っていかれたイエス様が再びこの世においでくださる、この壮大な一連の中にあるイ―スタ―の出来事であることを心に留めていただきたい。
 私たちが、イエス様というお方を理解するとき、受難のメシア、メシアというのは、油注がれたものキリスト、救い主と言っていいでしょう。私たちは、受難のメシアというイエス様の十字架の理解をしております。しかし、ユダヤの人たちは、王たるメシアは、われらをロ―マのくびきから解放してくださるはずと、このような地上的なメシア像を抱き期待していたわけであります。しかし、イエス様の来臨というものを見るとき、その二つの事が、一つとなっている。十字架のイエス様、それはまた、王の王、主の主としておいでくださるお方である。そのプロセスの中でのイ―スタ―、このように位置づけて、理解をしていただければ感謝でございます。

それでは、きょうのところを皆さんと一緒に心に留めましょう。

19節のその日というのは、イエス様がよみがえられた日なのですが、その夕刻、弟子たちは、イエス様を十字架につけたユダヤ人たちが自分たちを襲いにやってくるのを恐れて、戸を閉じていました。その不安と恐怖の真っただ中にイエス様はこられました。そして、真ん中に立って、「平安があなた方にあるように」と仰って、その手とわき腹を彼らに示された。イエス様の思いやり深さです。このことは聖書を通して知っているのですけれども、もし自分がその場所に居合わせたなら、どう受けとめたでしょうか。失望、落胆していたお弟子さんたちの前に、戸を閉じてあったその所に、何と、あのイエス様が、十字架でわき腹を刺されたお体をもって、「ほら、見てご覧」と現れた。その驚き、喜びは、いかばかりであったでしょう。21節、イエスは、彼らに言われました。「平安があなたがたにあるように」。シャロ―ムという言葉が使われております。訳し方によっては「こんにちは」或いは「こんばんは」という挨拶です。大げさに「平安があなたにあるように」と訳すところではないという立場の方もいるようです。イエス様は、まるで親しく挨拶をするように、ほら、こんばんは、わたしだよ、こういって、ご自身を示されました。そして、大切なことを仰いました。22節、「聖霊を受けなさい」。これは後のペンテコステに成就することでありますが、しかし、その前味わい、予告編とでもいうように「さあ、聖霊を受けるんですよ」と、ユダヤ人を恐れて、震えあがっていた、恐怖のまさに暗黒の中にいたお弟子さんたちのところに、主イエス様が、よみがえりのお姿をもってきてくださったのです。24節、「12弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスはこの時に一緒にはいなかった」。どういう理由であったかわかりません。理由を面白おかしく考えてお話をすることもできるでしょう。しかし言えることは、この大きな恵みの場所にトマスが、身を置いていなかったのは確かなことであります。私たちも、いろいろな理由はあります。よくわかります。しかし、どうか、あるべきときに、あるべきところに在ることをお勧めします。いなかったトマスは、他のお弟子さんたちが目にした驚くべき恵みを経験し損ねました。25節をご覧ください。他の弟子たちが彼に、「私たちは主を見た」といった。しかし、トマスは「その手に釘痕を見て、その指を、私の指をその釘痕に差し入れて、私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない」といったのです。どうでしょうか。トマスは、ただわからないというだけではなく「信じない」ということばを発しています。危惧されることです。このトマスのつまずき、これを覚えておきましょう。

ところが、8日ののち、26節、弟子たちが、また室内にいました。まだ恐れて、つまり、イ―スタ―の日から1週間後、まだお弟子さんたちはみな籠っていたわけです。このときは、トマスもいました。戸が前回のときのように閉じられていましたが、この前と同じように、イエス様が彼らの中にいたのです。そして、「平安があなたがたの上にあるように」、こう語られました。そして、どうでしょうか。27節、それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、あなたの手をみなさい。わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じるものになりなさい」。何と忍耐深い憐み深いイエス様のお取り扱いでしょうか。私は見て触れなければ信じないと言い張ったトマスを、優しく忍耐深く扱ってくださっている。これには慰めを受けます。私たちもしばしばわからなくなって、或いは信仰がわからなくなって、もうこんな神様なんか私に目をかけていないんだ、と思わず口走ってしまう。本気になってそのように思っているようなとき、実は、その言葉をいちばん近くで聞いておられる方がおられる。私たちのつぶやき、悲しさ、苦しさ、それをいちばん近くで聞いておられるお方は、何と優しく扱ってくださる事でしょう。27節「あなたの指をここにつけて、あなたの手をみなさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」。愛のすべてを注ぎだしたそのしるし、まさに、傷ついてくださったそのお姿をもって、このような不信仰な、このようなトマスに、「ほら、わたしだよ」、このように現れてくださるイエス様が、私たちのきょうの主であってくださることを、心から感謝したいと思います。その時トマスは何と言ったでしょうか。「私の主、私の神」。どんな気持ちだったでしょう。つい1週間前には、私は信じない、復活なんて、そんなばかばかしいこと、と言っていたトマスが、私の主、私の神とイエス様の事を受けとめました。

この世には、イエス様が神であることを否定する方々がいます。しかし、聖書には、復活のイエスさまが、トマスにご自身を現わされて、トマスが、私の主、わたしの神といったとき、イエス様は100パ―セントそれを受け止められました。もし、イエス様が神でなかったとするなら、これほど大きな冒とくはないはずです。どうか、聖書をしかりと読んで、イエス・キリストが神ご自身であること、三位一体の神様であることを確信していただくとともに、もう一つ、今度は、私たち自身、自分に問いかけてもらいたい。ほんとうにイエス様が、私の主になっていますか、ほんとうにあなたにとって、イエス様がわたしの神となっていますか。このことは、遜って、私自身も問いかけていることです。あなたにとって、わたしにとって、ほんとうにイエス様は、私の神、私の主と、その生活、あり方において証しされているでしょうか。そして29節、イエス様は「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じるものは幸いである」、このように仰いました。

第一ペテロ189を皆様でお読みしましょう。

1:8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 1:9これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。 

ペテロは、誰よりもイエス様を手で、目で知っていたイエス様の弟子の筆頭格でした。このペテロが、福音を人々に伝えるとき、イエス様を、私は手で触り、目で見たお方だけれども、あなた方は、イエス様をまだ見てはいない、だけれども、信じているね、そして言葉にはつくせない栄に満ちた喜びに踊っている。そう、これは信仰の結果である魂の救いを得ているからなんだと言っていますが、これは、今の私たちにそのまま当てはまります。私たちは、残念ながらイエス様を見ていません。しかし、私たちは、私たちを愛して十字架で血を流してくださったイエス様の事を、そしてよみがえってくださったイエス様の事を信じて、心から喜びに踊っていることを経験します。感謝です。私たち、やがて信仰で神様を認めて歩むということをしなくていいときがきます。その時には、私たちには、目と目を合わせて、そのお方と見えることができるのです。それは、天において、私たちはイエス様と手と手を合わせて、目と目を合わせてこのお方と、救い喜びに踊ることができる、それが天国の歓びなのです。

これから墓地に行きますけれども、すでに天に召された方々は信仰を持たなくていいのです。もう神と共に、神さまの見えるところで歩んでいるからです。しかし、いま限られているこの地上生涯、あとどれだけ許されているか分かりませんけれども、ほんの短期間、この地上にある間、私たちは見ずして信じる信仰をもって歩みます。イエス様の愛と恵みを喜んでいますが、これは信仰の結果なのです。

 以前にもお話しましたが、蔦田二雄先生は「あなたたちが信仰を持って神様を信じて救いに与るのは、この地上にいるときだけの特権なんだ、見ないで信じるという、その信仰を働かせることができるのは、地上における最大の特権なんだ」と語られました。

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11:1信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 11:2昔の人々はこの信仰によって称賛されました。 11:3信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。 11:4信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。 11:5信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。 11:6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。 

 私たちが、この地上において神様を満足させられるのは、全き信仰を働かせることであります。見えない望んでいる事柄を保証し、見えないものを確信させるその信仰、これを神様は、何よりも喜んでおられる。だから、信仰を働かせる機会のあるこの地上において、おもいっきり神様を喜ばせる働きをしようじゃありませんか。

 私たちはトマスのように、見なければ、触らなければ信じない、そういう価値観の中で生きてきました。しかし、ある時点で、聖霊によって、そうしなくとも信じる恵みが与えられており、見ずとも触らずとも信じることができる、これが最大の特権であり、イ―スタ―の恵みであることを覚えましょう。そして先ほども申しましたが、精いっぱい、神様に喜ばれるような歩みをしてまいりましょう。

※一部割愛した部分がございます。

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主よみもとに近づかん

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讃美歌♪主よみもとに近づかん

主よ御許に近づかん
登る道は十字架に
ありともなど悲しむべき
主よ御許に近づかん
現し世をば離れて
天翔ける日来たらば
いよいよまず御許に行き
主の笑顔を仰ぎ見ん

讃美歌のエピソード(以下は、ウィキペディアから転載)


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盛岡タイムスに連載はじまる

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 3月31日、盛岡タイムスに紹介いただきましたが、きょうから隔週金曜日に当ブログの筆者加藤和子の連載「楽都のユニゾンー鳥取春陽と太田カルテット」が始まります。きょうが第一回です。今後引き続きご覧いただければ励みとなります。どうぞ宜しくお願いいたします。

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事の大きさ

  100歳までは生きなくてもいい、と仰っていた方が99歳で亡くなられた。天寿を全うされたことで、知ったそのときはすこし鬱的にもなったが、むしろ本人が望まれていた通り、100歳の1つまえということで良かったのではと思うことができた。
 音楽関係の情報などをよくフェイスブックにのせておられた方が、更新がなくなり、どうされたのかと思っていたところ、きょう友人だという方がフェイスブック上で、一月前に 亡くなられていたことをお知らせしていた。随分多くの方々に良かれと思うところを為してこられたのを、友人の方々の投稿を見て知った。
 何れもクリスチャンの方だ。存在が天に移されることの事の大きさをまたしても思わせられた。

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忙しく一日

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 出がけには雨がふっていたが昼頃から光がさす。柳の新緑がさらりと清々しい。俳句の一つも詠みたいところだけれど。 
 きょうは仕事と家庭を両立してこられた大先輩の3人の方々と合流。入れていただいたことに感謝。多岐にわたるお話を聞くことができた。

 地域関係の会議が二つあった。


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カメラを買いに

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億劫になっていたのですが、主人に促されて電気店へ。あと7、8年使うには十分かなと思われるまずまずのカメラを購入。実際に使うにはまだすこしかかりそう。花の苗やら、腐葉土、家庭菜園用のジャガイモ等々を手に入れる。去年ジャガイモの不足がいわれていた割には、随分と大きく立派なジャガイモの種が大量に出ておりました。ただ大きいからといって種として優れているかどうかは分かりません。また、たとえ不作であっても、種の数だけは、できるだけ例年並みに確保しておくものなのかどうか、どうなんでしょう。
 ジャガイモはフジ子ヘミングも好きだったはず。

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イースター・エッグ

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きのう教会でいただいたイースターエッグ。ひろ子先生がイエスさまの復活をみなさまと共に祝うために作ってくださいました。

                ☆

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気象台のそめいよしのはまだまだ蕾。

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きょうのイエスさま

イースター、おめでとうございます!

 いま4時半。「まだ見てはいないけれども知っている」イエス・キリストというお方、弱っているときも、強められているときも、強がっているときも、打ちのめされているときも、心のうちを行き過ぎる。人がみな消えたときに、心のうちにあって、自分という一つの総合体に微かな光をしのばせて、それでもいまを過ごさせ歩みゆかせ祝福をもって臨んでくださる、イエス・キリストというお方は。

いつくしみふかき

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 先週、教会で開かれた聖書のおことばは、
ゼカリヤ9:9,10

9 シオンの娘よ。大いに喜べ。
    エルサレムの娘よ。喜び叫べ。
    見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
    この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。
    それも、雌ろばの子の子ろばに。
10 わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。
    戦いの弓も断たれる。
    この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の
  果てに至る。
   

※イースター礼拝説教は、来週書かせていただきます。

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くもり時々あめ

 ロシアをやっていたときは、「カチューシャの歌」や「異国の丘」をうたっていた。いまは大正期のヒット曲。バッハが遠くなったり近くなったり。

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存在感ある人生

午後、取材。ひたすらに働き続けた女性の人生、その存在感にも惹かれるこの頃。

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横浜の友だちからの桜メール

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 横浜の友だちから桜メールが届きました。
「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」
彼女が好きな啄木の歌です。まもなく城跡の桜も咲くはず。

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見送り

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 4月8日の岩手山。

  ☆

 午前中、ある方の火葬に。火葬場の1号の部屋の前に掲げられた故人のお名前。自分の名が掲げられるのは果たしていつごろになるのだろう、悲観的にではなく、自然の成り行きとして、いつになくそんなことを想った。  

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強いて忙しく

  久方ぶりに雨の音を聞いている。そういえば、眼が見えるようになってから、まだ星を見ていない。スーパームーンに近く明るく清かに輝いていた星が思い出される。

 きょうも忙しかった、というよりも強いて忙しく過ごした一日だった。

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朝食前の草取り

  ここのところ6時起床が続いている。以前は、できるだけ朝に散歩するようにしていたが、実際それは必要だと認識しつつ、同じ時間を今は草取りに充てている。去年は夏以降マメに草取りをしなかったために、クローバーや笹がはびこってしまっている。増えすぎた花の面積も思い切って狭めた。
 去年の秋に、これはもう死んでしまった、もう伐ってしまった方がいいかもしれないと思いつつそのままにしておいたオオデマリが、きょう見ると枝という枝にたくさんのちっちゃな芽をつけている。生きてる! 死んだと思っていた命が、いつの間にか呼吸をしていて、いつの間にか生き返ってくれていた。カサブランカは芽が出るのが遅い。しかしオリエンタル系の赤いユリがもう早々としっかりとした芽をぞっくり覗かせている。成長のありさまや例年、花の咲き方を見ていても、実に強く、はっきりと自己主張をする。ユリの中ではいちばん絶えることなく、年々、同族を増し続けるものと見える。

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聖書のことば

 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の礼拝説教題は『主を待ち望む』(國光牧師)、そして聖書引証は、第一コリント15:50~58でした。
15:50兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。 15:51聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 15:52終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 15:53朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。 15:54しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。 15:55「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 15:56死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 15:57しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。 15:58ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

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 私たちは本気で再臨を待ち望んでいるだろうかと今一度の問いかけがあり、次のおことばが開かれました。

第一テサロニケ1:10
1:10また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

黙示録22:12
22:12「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。 22:13わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」 22:14自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。 22:15犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。

黙示録22:20
22:20これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

第一テサロニケ4:16、17
4:16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 4:17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

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七宝ジュエリー展のご案内 2017・4・17~29 喫茶ママ

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春子谷地

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岩手山と耕作を待つ畑。

 主人に随行し、花壇・畑のために堆肥を買ってきました。

  ☆

 午前中は最寄りの小学校の入学式。いよいよ新年度が始まっているという実感が。

 

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まち

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入院仲間と再会

 検診にいく。遠くから来て同室に入院していた二人と再会。人の縁、出会いは不思議だ。

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地味だが一歩

 黒い土に様々な球根植物が芽吹き蕾を見せている。輝かしい緑・緑・緑。咲き終えようとするも、なおオレンジ色のがく、そう、これまで花びらだと見ていたところが、あるページでこれがフクジュソウのがくだと知ったのだけれども、そのがくが照り映える。ほかの花々もじきに一斉に咲くだろう。庭にあるすべてが鮮明に克明にドラマティックに見える。これまでもやがかって見えた景色もはっきりとしている。  

 

原稿800字、何とか体裁が成る。一歩前に進んだ。

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みあげる空

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 内側をからっぽにして空をみあげる

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聖書のことば

1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

                         ヨハネ伝1章より


※昨夜、「下書き」にしておき、そのままにしてしまい、いま気づいて「いますぐ公開」とする。

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よく見えるほこり

 手術まえは、よく見えていなかった埃が、ほんとうによく見えるようになり、気になることとなり、大掃除を。

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