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聖書のことば

先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の説教は、

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聖書引証  詩篇119:105~112
105 あなたのみことばは、わたしの足のともしび、わたしの道の光です。
106 わたしは誓い、そして果たしてきました。あなたの義の裁きを守ることを。
107 わたしはひどく悩んでいます。主よ、みことばのとおりに私を生かしてください。
108 どうか、わたしの口の進んでささげるささげ物を受け入れてください。主よ。あなたのさばきを私に教えてください。
109私は、いつも命がけでいなければなりません。しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。
110 悪者は私に対してわなを設けました。しかし私は、あなたの戒めから迷い出ませんでした。
111 私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそわたしの心の喜びです。
112私は、 あなたのおきてを行うことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。

説教『聖書という羅針盤』(國光勝美牧師)
ー前置きは割愛しますー
 

私たちは前の方を見て未来、後ろを見て過去としています。しかし、しかし、あしたはどうなるかはわからないけれども、後ろを向きながら歩いていくのが未来です。松本の義兄の危篤に際し、先のことはわからないけれども、経験を振り返り、幾つかのパターンを考えながら準備する。そして、その時が来て駆けつけ、滞りなく葬儀を済ませ、そこを過ぎ去ってみると、ああ、神様は最も良いように、最善をしてくださったと納得しました。明日を支配してくださるお方を心から信じて、後ろを向きながら委ねて歩んでいけばいい。私たちを最善に導いてくださる神様をほめたたえる過去を歩むことができるに違いありません。

 私たちは、みことばという羅針盤、地図を与えられております。これを然るべきスキルをもって、有効に用いることです。これがあれば、どんなところも歩めます。

 国土地理院で出している25000分の1の地図は、登山家たちの定番となっています。大きな書店のアウトドアコーナーは、様々なニーズに応えています。この辺りでは、岩手山、早池峰山、秋田駒ケ岳などの地図は雨にぬれてもよいように加工が施されています。50000分の1の地図。これは国土地理院の地図よりも目が粗くできています。こんなことを考えながら、きょうの話の準備をいたしました。

 聖書は神様が私たちに最善を与えてくださる神様の約束のことばです。聖書の真実さを信じ、これに100㌫の信頼を置いて歩んでいくことができればと思っております。

 きょうは、やはり、松本、盛岡をクルマで往復したことか意識に大きくのこっております。

これだけ長く盛岡におりますから、3.11で被災した沿岸の各地、一関、平泉、久慈といった代表的な地名はすぐに浮かびます。長野県松本は、私ですが、高校時代まだおりました。当時はクルマ社会はまだ、せいぜい自転車で周辺を走る程度でした。今回の葬儀の件で、盛岡、松本間を糸魚川経由で往復しました。天気が良かったので、高速道を使うまでもなかろう、日本海の夕日を見てみるのもよいと、とにかく沿岸沿いに走ったのですが、途中で方向がつかめなくなりました。カーナビを使いこなすところまででなくいたわけです。どこをどう操作すればよいかをわかっておけば……そして思いました。聖書を知るということは、羅針盤や地図をしっかり使い分けることであるなと。

詩篇119105が好きだからといって、この部分だけを捉えるのではなく、それがどういう背景で詠われているのか、その深い意味をさらに知って、総合的に捉えることが大切です。ユダがイエス様を裏切る場面で「汝も行きてそのごとくにせよ」という一言のみを与えられた言葉と信じたら、いいたいどうなるでしょうか。聖書を羅針盤とするとき、断片的に文脈を捉えず、大きく俯瞰する必要もあります。今自分がどこにいるのか、この道でよかったのかどうか、小さな地図ではわからなくとも、大きな地図でならわかるということがあります。

登山家の田部井淳子さんが、学生時代、仲間を引率して美ヶ原に行ったときに、視界がなくなるほどの霧に閉ざされました。地図とコンパスによれば、間違いなくここに目的の建物があるはずなのですが、霧でまったく見えないのです。皆に不安を与えないように、「ここでおやつにしましょ」と休んで霧が晴れるまで時間を稼いだそうです。目的地まであとどれぐらいなのかもわからない。ところが、すこしして霧が晴れてきたとき、何と、目的地点である大きな建物がすぐ目の前に現れ、牛の鳴き声が聞こえてきたそうです。神の世界がすぐそこにあるのに、もし地図、羅針盤の使い方を知らなければ、素晴らしい世界にたどり着きかねます。的確に適用する技術を持っているでしょうか。

アドベンチャー・レーサーの田中陽希さんは、整備されていない登山道や迷ったときにも、いま自分がどこにいるのか、どこをどのように向かっていけばよいのかをコンパス一つで、この標高をどの方向に保っていけばよいかを判断しています。スキルを的確に用いています。

みことばが与えられる、みことばを当て嵌めるとはどういうことでしょう。ロマ828にあるように「28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」。どうでしょう。ここに「神を愛する人々とあります。神を利用しようとする人々、とはありません。神を愛する人々のために神はすべてのことを相働かせて益としてくださいます。神を愛するとはどういうことか。

地図の見方は本を読んでいてもわかりません。失敗してもわからないのです。是非失敗を教訓にして、みことばの方を人生の羅針盤にしてください。

ハンガリーの方々にはちょっと礼を失するかもしれませんが、ハンガリーの笑い話です。数人の貴族たちが山登りをし道に迷いました。1人だけが地図を持っていました。指で山をさして彼が言いました。この地図によると、われわれは今山の上にいると。

私たちも慣れないと同じことをしてしまう。正しい聖書の読み方が必要です。私たちは変わらないほんとうの地図を持っている。それをどの。ように上手に活用するか、それは私たちの技術にかかっています。初代総理の日誌には、その月のおことばが書かれています。私たちもみことばを活用する技術を身に着ければ、後ろ向きに前進できるはずです。

※末尾に欠けていた部分があり、大変遅れましたが、追加いたしました。


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