28年度が終わる
ブログはやすもうとのつもりだったけれども、1行ぐらいならと。
プロ野球、菊池雄星VS大谷の場面だけを見る。
何が言いたいと問われれば、「生きています」。
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眼の手術をしました。左眼、そして一日おいて右眼を。PCをあまり長くやらない方がいいのではと思い、一応備忘録として記すのみにします。
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きょうから半月ほど、眼に休暇を取ってもらいますので、ブログをお休みします。思えば、目ざめたときから眠るまで、日々休まずによく働いてくれました。両眼には感謝しています。この機会に有給休暇でじっくりと休んでもらうことにしました。
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先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の聖書引証のみとなりますが、おつたえ致します。説教題は『目を醒まして備える』(國光勝美牧師)でした。
マタイ伝25:1~13
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半ば仕事としてやらなければならない取材のために新里村に出かける。へたりこんでいたのが、やっと起き上がれたかなとの感触を自らのうちに得た。一緒に行ってくださる心強い味方、彼女がわがやの玄関のチャイムを鳴らしてくれたのが8時5分前。現地到着9時半。3か所を取材。昼食は15時。帰りに途中で15分休憩。帰着18時。不思議なほどにタイムリーに運んだ無駄のない一日となった。
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重いうつの方が公開しているページには、3・11の記念日ごろから今時期がとても辛いと書かれていた。こんなときに受け付けられるのは音楽と絵画だけであるとも。
ここのところは、必要に迫られての読書が多い。読みながら音楽を聴く器用さはないので、音楽からすこし遠ざかっていた。それが、ふとTVを点けたところが、「悲しみの聖母」が流れた。ドヴォルザークが作曲したチェコ初のオラトリオだという。長女の突然死、そしてこの死を悼み作曲に取り掛かり、完成を見ぬうちに、また二人の子どもたちが亡くなってしまう。その冥福を祈って完成されている。『スターバト・マーテル』、全10曲から成る演奏時間75分の第1曲「悲しみに沈める聖母は」に心惹かれた。これがヨハネ受難曲演奏会当日の朝の事。午後からのこのコンサートの序章のように聴いたことがふと思い出された。
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先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の説教をおつたえいたします。
3:8しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 3:9主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 3:10しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。 3:11このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほどきよい生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。 3:12そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。 3:13しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
説教『率先避難者たれ』(國光勝美牧師)
6年前の東日本大震災を、私たちは改めて思うことです。
きょうお読みいただきました第二ペテロの手紙ですが、これはペテロの手紙が書かれてから凡そ3年後に書かれております。そしてこれを書いて間もなく、ペテロは殉教しました。第二ペテロ1:14、15、
1:14それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。 1:15また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。
ちょうど、パウロにとっての第二テモテがそうであったように、ペテロは、これを記して間もなく、ネロの手によって殉教いたします。彼が使徒としての使命を帯びた大切な遺言的なメッセージです。私たちが去ったあとに、いろいろな試みがあなた方にやってくるけれども、どうかこの手紙を読んで、この時代の事を心得ておいて欲しい、それが3:3~10です。
3:3まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、 3:4次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」 3:5こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、 3:6当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。 3:7しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
3:8しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 3:9主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 3:10しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
終末の世の終わりのことについて記されています。
今日の引証では省いておりますが、3:14を見ると
3:14そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。
このようにペテロは、この遺言的な書を遺しております。まるで今の時代をぺテロが予測して書いているかに感じます。小さな隣国が、もし悪意に満ちて核のボタンを一つ押したとき、易々と日本海を越えて核兵器が飛んでくる時代に私たちはおります。また、更にいうのならば、天文学も進んでおりますが、そのスケールから今の地球を見たときに、天の万象が焼け崩れ落ちるという表現をペテロが使っていますが、今の私たちに許されている科学的な表現を使うなら、地球に向かう小惑星の衝突が現実的に考えられている。すべてを支配しておられるお方の存在を思うときに、この3章に書かれている事は、決して絵空事ではなく、十分にこれらのことがあり得る、そのことをみ前に覚え、第二ペテロを開きますと、確かに、あの3・11のまさか、想定をはるかに超える津波が襲ってきた事どもを踏まえ、そのときにどのように対処したのかを心に留めながら、きょうのメッセージを持たせていただきたいと思っております。
あれから6年。あまりにその日の事は印象的です。記録を見ました。私たちはこの週の月曜日、3月11日が金曜日ですからその前の月曜日に、その年の東北聖会をどこで開こうか、秋田教会の神谷先生と田沢湖畔で落ち合い、候補地の施設を一つ、二つ、相応しいかどうかの打ち合わせをしておりました。これが、この週の月曜日でした。3月10日に八幡平の家庭集会を持っております。
3月末にS兄の結婚式を持つということで、糸魚川の方からご兄弟、ご両親がいらっしゃいます。掃除をしていました。午前は脚立に乗って高いところを、午後は低いところをやっていたときに、地震がきました。2日前の水曜日、祈祷会のときにも地震がありました。しかし、11日のこんどは揺れが収まりません。食器が落ち始めました。地震の恐怖はいつ収まるか分からないところにあります。尋常ではありません。書棚が倒れ、上にあったスピーカーがどんと落ちてきました。漸く収まったのが10分後。書斎が滅茶滅茶です。信者さん方が心配になり、安否確認に各戸を訪れました。ストーブが無い方に、屋根裏からストーブを探し出し届けました。
O兄のところで、岩手日報に載った山田の写真を見せられました。ガソリンスタンドは長蛇の列、そして交通渋滞です。M・K姉の方に回って近づくと、そのあたりで自家発電をやっており煌々と明るい。周囲が真っ暗なので、ものすごく明るかった。これで連絡がつかない方々のところへは全部行ったわけです。あと心配だったのは、東北教区がどうなっているか、電話はどこも通じない。とにかく腹ごしらえをしたのが土曜日の夜。その後、私は猛烈に頭が痛くなった。手探りで鎮痛剤を探し出し服用しました。仙台の様子がわからない、仙台のNさんに連絡を取ると、「これから礼拝を守るといってます」。あと、秋田も連絡がつきましたが、山形がどうしても連絡がつかない。ほどなくだいじょうぶであることがわかった。あれから6年ということです。いちばん気にかかったのは、かつて教会にいらしていた山田の兄弟姉妹方がどうなったかでした。やっとお会いできたとき、この方々が仰ったことばが残っています「壊滅という言葉は知ってはいた。しかし、これがホントの壊滅であることを初めて知った」と。何とも言えない気持ちになりました。避難所に名前が出ているということで行ったところが、なかなか分かりませんでした。助かっていることが分かったときは本当に嬉しかったです。一週間後のことでした。お会いした時に財布がないというので、持っている財布をそのままお渡ししました。もっとはやく行きたかったのですが、ガソリンが手に入らなかったのです。山田に実家があるS兄の家は被災しませんでした。
これらの事を思い起こしながら、もういちどみことばに心を向けましょう。
第二ペテロ「3:1記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。」
「奮い立たせる」、ペテロは、これが必要だと言っています。末の世に生きている私たち、どうか記憶をしっかりと呼び覚まし、信仰を奮い立たせるように。神のことばは、必ず成就します。
3章3~5節にあります。
「3:3まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、 3:4次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」 3:5こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、」
ノアのことを思い出してください。ノアが箱舟を作っていた時、人々は、見ろよ、ノアは頭がおかしくなっちゃったんだぜ、雨が降る雨が降ると言ってさ、大きな舟を作ってるんだよ。どこに?山の上に作ってるんだよ。人々は馬鹿にして、そんなこと起こるはずがないじゃないか。ノアは言います。さあ皆さん、雨が降りますから、どうかこの箱舟に入ってください。ところが誰も入りません。世の中の人々には想定外のことです。そんなばかなことがあるか。この世の終わりの事を言っているにも関わらず、本気で信じる人たちは、頭がおかしいのだと言われてしまう。世の終わりだって? 滅びのためにとっておかれるんだって? 火で焼かれるんだって? ばかばかしい。5節「こう言い張る」。聖書の第二ペテロ3章5節の欄外のところに「彼らは次のことを故意に忘れようとしているのです」とあります。神の裁きというものを全く知らないわけじゃないけど、そんなこと関係ないよ。しかしペテロは言っています、どうかしっかりと思い起こすようにと。終わりの日には不敬虔がはびこり、神なしとする世界が行き着くところまで行きついてしまっている。神様は裁きのために、それを保っておられる。しかし、8節以降をご覧ください。
「3:9主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
神様は憐みのときとして今このときを、私たちに与えていてくださるのです。私たちは、釜石の子供たちのあの避難の見事さ、たぶん数日前の特集などでご覧になっているでしょう。特に対照的だったのは、仙台の大川小学校。大きな悲しい出来事を経験しています。釜石の子供たち、彼らの学校はハザードマップから見ると、その範囲から外れていたそうです。常識から考えて、津波警報があったとしても、ここには来ないと思っていた。しかし釜石の彼らは地震が起きてすぐに10分後にはもう第一番目の集合場所にちゃんと並んでいた。それが第一次の避難場所だったわけです。しかし、その中で、もうすこし安全なところがあるからそっちに行こうと二番目の避難場所よりもさらに上に逃げていって、そしてさらにはそれぞれが山に登る。その状況下で最善を尽くしている。今でも心打たれるのですが、上級生が幼い子の手を引きながら逃げていく。ほかの人たちもその姿を見てやはり逃げる。これは勇気の要る行動だと思うのです。だいたい津波警報が出たって、せいぜい10センチの津波だというようなことが繰り返されていたわけです。ですから、そんな大げさな、なに警報がでたってと油断するのが普通です。
逃げる、これを皆さんどう思いますか。私たちクリスチャンが世の中の人たちにありがちなふつうの意識でいいのでしょうか。主の再臨と言うまさにこの今第二ペテロで見たこのことを心にとめて、どれだけ行動をとることができるでしょうか。知っていることと、実際にその行動を取ることとは別問題です。
数年前、別府の先生が、仲間たちと視察に見えました。どうして別府の方が視察に見えるほどに真剣に考えるのだろう。そして直ぐにわかりました。南海トラフの予測です。3・11を超えるかもしれない、これに備えるべく釜石に視察に来られたわけです。
有名な碑はそちこちにあるのですが、釜石のちょっと南の方の唐丹地区に津波の碑が新しくできていました。そこに中学生が一人ひとり標語のようなものを書いています。印象的だったのは「百回逃げて、百一回でも逃げて」。実際この第二ペテロが主の再臨、世の終わりについて教えているときに、私たちは、これはどこか現実的でない。知識としてあっても体の中に行動を取ることができない何かがあるとすれば、また同じ失敗をしてしまう可能性がある。逃げるという事、実際にこういう行動を取るということ、どうか私たちは勇気をもって、そして、イエス・キリストの十字架とその救いと主の再臨のときに私たちはみ前に出ることができるように、心を一新すべきです。
第二ペテロ3:12~14「3:12そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
3:14そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」
いまここで、本気になって信仰生活を歩んでもらいたい。
教団の年会で上京しますが、南海トラフにいつ遭うかはわかりません。極端に走って、この日時を宗教的に特定しようとしてしまうようなことは悪魔の仕業です。悪魔は真理をゆがめて人を惑わそうとします。注意深くあらねばなりません。
当たり前のように毎年のように行くけれども、しかし、お祈りをして、それぞれ変わりなくいつも通りに行きましょう。祈りの時をもっていきます。これを心にとめていくべきであろうとおもいます。
あの小さな子供たちの手を引いて逃げた姿、それを見て第二の避難の地点からさらに山に逃げた人たち、彼らには危機意識が養われていた。私たちもどうぞ終末の意識を正しい意味において持ち、主の前に出ることができるように、私たちのクリスチャン信仰が、皆様方の近しい方々に、ああ、あの人が逃げたんだから、私たちがイエス様の十字架のもとに逃げたように、あの人に倣おう、率先的な避難者として証しを立てることができるように、勇気をもって、みんな神を否定しているときに、一人がクリスチャンになるということは、ノアが人々からあざけられたように、あざけられます。しかし、どうぞ、勇気をもって、このお言葉をしっかりもって、率先避難者として、イエス様の十字架のもとに逃げるものとして、証しをさせていただきたいと存じます。
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先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の説教です。
聖書引証 ハガイ書2:1~9
1 ダリヨス王の第二年の第七の月の二十一日に、預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。
2 「シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者とに次のように言え。
3 あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。
4 しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。――主の御告げ――エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ――仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ――
5 あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。
6 まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。
7 わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。
8 銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ――
9 この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。――万軍の主の御告げ――」
説教題『主と共に仕事に取りかかろう』(國光勝美牧師)
3月1日は私の誕生日、70歳になりました。
どうぞこの年おことばで導いてください、これは切なる祈りでした。そしてハガイ書1,2章が示されました。特に1:5に「あなたがたの現状をよく考えよ」とあります。1:7にも「あなたがたの現状をよく考えよ」と。この教会に遣わされて44年経ちますが、このことを今深く示されております。1:8には「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう」。山に登り、木を運んで来て、宮を建てる、このような労力を払って、しっかりと教会を建てるようにと神様は命じておられる。そして1:13「「わたしは、あなたがたとともにいる。――主の御告げ」。神様がともにいてくださるというのです。ことしの教会の働きを進めようとするときに大きな励ましとなりました。2:4「4
しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。――主の御告げ――エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ――仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ――」
神様はこの年、このおことばを羅針盤とし励ましとして、さあ、私が一緒にいるから強くあれ、仕事に取り掛かれ、このおことばに導かれて歩むんだよと仰る。私たちは、確かな指差しを得て、この方向に向かって共に歩ませていただきたい。
また「あなたのみことばはわたしの足の灯、道の光」とのみことばがありますが、ハガイ1,2章の意味をより正しくとらえるためには、これを全体的に捉える必要があると導かれております。
ここでエズラ記をお開きください。先の「仕事に取り掛かれ」を健全に理解するためです。
イスラエルの民は、バビロンという異教の帝国に滅ぼされてしまいました。しかしイスラエルは、70年の後に異教の王でありましたが、クロス王によって、あなた方の祖国に帰りなさい。帰ってあなた方の民族的な誇りである神殿を立て直しなさい。費用はこちらで持ちますとの解放があり、エルサレムに帰ることができたという歴史があります。
エズラ記1:1「 ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。」
とある通りですが、この喜びを受けて、エズラ記2章
1 バビロンの王ネブカデネザルがバビロンに引いて行った捕囚の民で、その捕囚の身から解かれて上り、エルサレムとユダに戻り、めいめい自分の町に戻ったこの州の人々は次のとおりである。
2 ゼルバベルといっしょに帰って来た者は、ヨシュア、ネヘミヤ、セラヤ、レエラヤ、モルデカイ、ビルシャン、ミスパル、ビグワイ、レフム、バアナ。イスラエルの民の人数は次のとおりである。」
それからエズラ記7章をご覧ください。
1 これらの出来事の後、ペルシヤの王アルタシャスタの治世に、エズラという人がいた。
6 エズラはバビロンから上って来た者であるが、イスラエルの神、主が賜ったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをみなかなえた。」
ここを見ますと、エズラに率いられてバビロンから帰ってきたイスラエルの人々がいたのです。前半は、ゼルバベルをリーダーとしてヨシュアらに率いられて帰った人々であった。この人々が勇んで帰ったものの、先住民にとっては、このイスラエルの人々は自分たちの居住地に強引に入り込んだ迷惑な存在でしかなく、イスラエルの人たちに敵対し、神殿建設を妨害し、頓挫させてしまいます。
ここでエズラ記からハガイ書にとびます。同じ聖書の中にあっても、エズラ記は歴史書として編纂され、ハガイ書は預言書として編纂されているために、このように頁が離れております。
ハガイ書の1章には、ハガイが神様から遣わされた預言者としての民へのことばが記されています。
2 「万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。」
3 ついで預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。
4 「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。
5 今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。
6 あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。
7 万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。
8 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう。主は仰せられる。
9 あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。――万軍の主の御告げ――それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。」
神殿の建築を始めたものの、先住民の妨害にあっては、容易にはいかない。イスラエルの人たちは、今はまだ宮を建てるときではない、その時期はまだ来ていないと言い出します。こうして、人々は、神殿を建てるという崇高な目的よりも自分の家を建てることを優先してしまったとき、ハガイが神のメッセンジャーとして次のように言います。
「よく考えろ! いまあなた方のとっている生活、あり方は、これでいいのか、よく考えろ! 神の目的を第一にすればいいものを、神の事を後回しにしてしまう、よく考えてみろ!!!」
ハガイは歯がゆくてならなかったでしょう。目的を神第一にすればいいものを、わかっていながら神を後回しにするイスラエルの人々。ですから「よく考えてみろ!」と言ったのです。
2 「シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者とに次のように言え。」
4 しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。――主の御告げ――エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ――仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ――」。ここでハガイは、頓挫しかけている宗教指導者であるヨシュアを励ましています。
7 わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。
8 銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ――」。ハガイはこのようにイスラエルに檄を飛ばしました。
ゼルバベル、ヨシュア、イスラエルの人たちの神殿建設、今で言いますと教会建設に想いをいたします。私はこの地で70歳を迎え、もう一度みなさまと一緒に、あの開拓のときのような初めのスピリットをもって、教会建設をさせていただきたい。
2章3節に、自己卑下に陥っているすがたが書かれています。「3 あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。」
私自身、ここは地方都市で東京のような大都会とは違うのだ、などといった思いに駆られることがあります。いつの間にか自己卑下に陥っている。また敵対勢力もあります。土着の宗教やその土地の因習もあります。教会に対する偏見もあります。教会建設には困難がつきものです。それも内外からあります。
私たちは、ほんとうに神第一としているでしょうか。神よりも自分たちを優先してはいないでしょうか。山に登り、木を運ぶといった労力、奉仕を惜しんではいないでしょうか。ハガイは、「強くあれ、仕事に取り掛かれ、わたしがともにいる」と、このように私たちに励ましを与えてくれています。
いかなる困難があろうとも、ゼルバベルと共に、ヨシュアとともに、皆様方と共に、この地に教会を建てあげさせていただきたいと願っております。
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このところ毎夕のように家の上空に白鳥の鳴き声がしている。シベリアに帰るウォーミングアップなのか、出立なのか、甲高く、申し合わせるように、互いに励ましあうような鳴声。これからの長旅の決意も聞こえる気がするのは、わたしの感傷だろうか。
☆
きょうのプレミアムシネマは『ガンジー』。身分証明書を焼き捨てる、指紋の採取への拒否等々。数々の人種差別との戦いだ。ただし敵が鉄拳、こん棒、銃を向けようとも無抵抗の抵抗を続ける。断食と祈り。行進する人々約1600人だったろうか、ちょっと数字が違っているかもしれないが、次つぎに射殺されてゆくが尚も無抵抗。思えば、人々が武器をもって蜂起したとしても、結局はこれ以上の人々が武力鎮圧され命を落とすだろうな、ならば……などと、根本を違えた考え方をしてしまっていたが。武器と武器の戦いは酷いが、武器と無抵抗との戦いというのは、良心を抉られような悲痛さを呼び覚まされる。メディアがガンジーに、ドイツナチスの侵攻に対してはどうするのかといった質問を投げかける場面もあった。
トランプの軍事拡張、中国の海域進出、北朝鮮のミサイル発射等々、もし今の世にガンジーが生きていたなら、それでもやはり非暴力の抵抗を貫いたろうと思うと同時に、最近このような人材を見ることがとんと無くなっているけれども、私が知らないでいるだけなのだろうか。
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先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の説教は、
聖書引証 詩篇119:105~112
105 あなたのみことばは、わたしの足のともしび、わたしの道の光です。
106 わたしは誓い、そして果たしてきました。あなたの義の裁きを守ることを。
107 わたしはひどく悩んでいます。主よ、みことばのとおりに私を生かしてください。
108 どうか、わたしの口の進んでささげるささげ物を受け入れてください。主よ。あなたのさばきを私に教えてください。
109私は、いつも命がけでいなければなりません。しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。
110 悪者は私に対してわなを設けました。しかし私は、あなたの戒めから迷い出ませんでした。
111 私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそわたしの心の喜びです。
112私は、 あなたのおきてを行うことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。
説教『聖書という羅針盤』(國光勝美牧師)
ー前置きは割愛しますー
私たちは前の方を見て未来、後ろを見て過去としています。しかし、しかし、あしたはどうなるかはわからないけれども、後ろを向きながら歩いていくのが未来です。松本の義兄の危篤に際し、先のことはわからないけれども、経験を振り返り、幾つかのパターンを考えながら準備する。そして、その時が来て駆けつけ、滞りなく葬儀を済ませ、そこを過ぎ去ってみると、ああ、神様は最も良いように、最善をしてくださったと納得しました。明日を支配してくださるお方を心から信じて、後ろを向きながら委ねて歩んでいけばいい。私たちを最善に導いてくださる神様をほめたたえる過去を歩むことができるに違いありません。
私たちは、みことばという羅針盤、地図を与えられております。これを然るべきスキルをもって、有効に用いることです。これがあれば、どんなところも歩めます。
国土地理院で出している25000分の1の地図は、登山家たちの定番となっています。大きな書店のアウトドアコーナーは、様々なニーズに応えています。この辺りでは、岩手山、早池峰山、秋田駒ケ岳などの地図は雨にぬれてもよいように加工が施されています。50000分の1の地図。これは国土地理院の地図よりも目が粗くできています。こんなことを考えながら、きょうの話の準備をいたしました。
聖書は神様が私たちに最善を与えてくださる神様の約束のことばです。聖書の真実さを信じ、これに100㌫の信頼を置いて歩んでいくことができればと思っております。
きょうは、やはり、松本、盛岡をクルマで往復したことか意識に大きくのこっております。
これだけ長く盛岡におりますから、3.11で被災した沿岸の各地、一関、平泉、久慈といった代表的な地名はすぐに浮かびます。長野県松本は、私ですが、高校時代まだおりました。当時はクルマ社会はまだ、せいぜい自転車で周辺を走る程度でした。今回の葬儀の件で、盛岡、松本間を糸魚川経由で往復しました。天気が良かったので、高速道を使うまでもなかろう、日本海の夕日を見てみるのもよいと、とにかく沿岸沿いに走ったのですが、途中で方向がつかめなくなりました。カーナビを使いこなすところまででなくいたわけです。どこをどう操作すればよいかをわかっておけば……そして思いました。聖書を知るということは、羅針盤や地図をしっかり使い分けることであるなと。
詩篇119:105が好きだからといって、この部分だけを捉えるのではなく、それがどういう背景で詠われているのか、その深い意味をさらに知って、総合的に捉えることが大切です。ユダがイエス様を裏切る場面で「汝も行きてそのごとくにせよ」という一言のみを与えられた言葉と信じたら、いいたいどうなるでしょうか。聖書を羅針盤とするとき、断片的に文脈を捉えず、大きく俯瞰する必要もあります。今自分がどこにいるのか、この道でよかったのかどうか、小さな地図ではわからなくとも、大きな地図でならわかるということがあります。
登山家の田部井淳子さんが、学生時代、仲間を引率して美ヶ原に行ったときに、視界がなくなるほどの霧に閉ざされました。地図とコンパスによれば、間違いなくここに目的の建物があるはずなのですが、霧でまったく見えないのです。皆に不安を与えないように、「ここでおやつにしましょ」と休んで霧が晴れるまで時間を稼いだそうです。目的地まであとどれぐらいなのかもわからない。ところが、すこしして霧が晴れてきたとき、何と、目的地点である大きな建物がすぐ目の前に現れ、牛の鳴き声が聞こえてきたそうです。神の世界がすぐそこにあるのに、もし地図、羅針盤の使い方を知らなければ、素晴らしい世界にたどり着きかねます。的確に適用する技術を持っているでしょうか。
アドベンチャー・レーサーの田中陽希さんは、整備されていない登山道や迷ったときにも、いま自分がどこにいるのか、どこをどのように向かっていけばよいのかをコンパス一つで、この標高をどの方向に保っていけばよいかを判断しています。スキルを的確に用いています。
みことばが与えられる、みことばを当て嵌めるとはどういうことでしょう。ロマ8:28にあるように「28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」。どうでしょう。ここに「神を愛する人々とあります。神を利用しようとする人々、とはありません。神を愛する人々のために神はすべてのことを相働かせて益としてくださいます。神を愛するとはどういうことか。
地図の見方は本を読んでいてもわかりません。失敗してもわからないのです。是非失敗を教訓にして、みことばの方を人生の羅針盤にしてください。
ハンガリーの方々にはちょっと礼を失するかもしれませんが、ハンガリーの笑い話です。数人の貴族たちが山登りをし道に迷いました。1人だけが地図を持っていました。指で山をさして彼が言いました。この地図によると、われわれは今山の上にいると。
私たちも慣れないと同じことをしてしまう。正しい聖書の読み方が必要です。私たちは変わらないほんとうの地図を持っている。それをどの。ように上手に活用するか、それは私たちの技術にかかっています。初代総理の日誌には、その月のおことばが書かれています。私たちもみことばを活用する技術を身に着ければ、後ろ向きに前進できるはずです。
※末尾に欠けていた部分があり、大変遅れましたが、追加いたしました。
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きょうの9時半の IBCラジオに、盛岡バッハ・カンタータ・フェラインの代表茂木容子さんと佐々木正利先生が出てらっしゃいました。同団の40周年記念演奏会のおすすめでした。これがバッハのヨハネ受難曲。一時期聴きに聴きまくった、という言い方は不遜なのでしょう、じっと耳を傾け続けた曲、2時間の大曲、しかし間には一ときの休憩あり。休憩時間を設けるために1部と2部に分かれているのかと思いきや、作曲、演奏された当時ということなのでしょうけれども、本来はこの一ときに牧師の説教が入ったものらしい。実に美しい曲であり、聞き飽きることはまずないとはいうものの、当時の方々は、1時間おそらくは祈り心を持ちながら聴き通し、そして、どれぐらいの時間かはわからないけれども、牧師の説教に信仰を新たにされ、また1時間曲に静かに耳を澄ますというこの敬虔さは! 最後にペア券をお一人にプレゼント、IBCの受付に置いてありますとのこと。そして15分たったかどうか、チケットはもうなくなりましたと。さて、この幸運を手にした方は、どのあたりに座られるのかしらんと考えるとなんだか楽しい気分に。そして、友達から電話があり、「いまラジオでカンタータのチケット、一名にあげてるみたい、はやく行ってきて!」「もうなくなったみたい」。しかし、しかし、成り行きでこの友達と一緒に聴きにいくこととなり、「自由席だけど私、2枚買っておくね」と友達、「じゃお願い」と私。当日は自由席と相成りました。字幕も出るらしい。あれはまさかNHKホールからの借り物じゃ……まさかね、やはりマリオスにあったのかな。
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