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『沈黙』&『夜と霧』

  一時期、とにかく身軽になりたいのと、もうすべては最早ここまで、取っておいても仕方がないという思いから、文学関係やら何やら、これは無くても生きていかれるという書籍や物を大掛かりに処分したことがある。音楽関係、ディスクやプログラム、資料などは辛うじてその難を逃れている。それが今ごろになって、『沈黙』はどうしたっけ? 『夜と霧』は? と折に触れて探す羽目になっている。
 今、『夜と霧』を再び読むべきと思われたのは、差別、排除の日常化、これがエスカレートすると抹殺となる。虐げられる者の痛ましい想いを知っておく、知って思い返しておくことが必要かと思われた。また人はいかようにも残酷になり得る生き物であること、一旦国家という権力に抹殺という使命を託された場合には、立身出世のためにそれを完璧にこなすことも厭わない者となり得ることなどを思い起こし、このフランクルの著書を探すと、やはり、これは捨てられずに残っていた。

  ☆  ☆  ☆

沈黙 日本版ポスター


 遠藤周作の『沈黙』は、今の社会背景とはまったく無関係ではない、というより、このような時代だからこその信仰(個々のご都合主義に合わせた信仰という意味ではない)のありようを問うているようにも思われた。遠藤周作が神の沈黙をとことん突き詰めたどり着き見出したところ、たどり着いた真理と己が信じるところを述べている。書架に探したが、どうも処分してしまっていたらしい。マーテイン・スコセッシ監督による映画『沈黙』を観たことで、また読もうという気になった。誰の記憶にも残るキチジロー。何度も転び、懺悔し、良心の呵責と神の赦しのうちに再びイエスを裏切る。しかし映画の中では、最後には捨てきれない信仰のしるし、証拠を隠し持っていたことから、ついに役人に引っ立てられる。このような信仰もアリと作者はいう。
 司祭ロドリゴは自らが受ける拷問は厭わなかった。しかし、十字架を踏んで尚解放されず逆さ吊りにされた信徒らの言語に絶する地獄の苦しみを直にする中で、彼らを救うには司祭であるお前が十字架を踏む以外にはないと迫られ、ついに踏み絵を踏む。そのときに神の声を聞く。「おまえの痛み苦しみはわたしがみな知っている」と。

 映画製作的な面からは、監督の日本文化、当時の政情の理解が
井上筑後守役のイッセー尾形の演技を通して巧みに演じられていた。音響なども併せて、奥深い仕上がりになっていたと思う。ただ、弾圧する側、される側の双方が屹立と仕上がっているという点に釈然としない思いも残った。まだまだ言い足りない感じであるけれども、このぐらいで。
 

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