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聖書のことば

先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の礼拝の箇所をおつたえします。

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聖書引証 詩篇100:1~5
  1 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
    2 喜びをもって主に仕えよ。
    喜び歌いつつ御前に来たれ。
    3 知れ。主こそ神。
    主が、私たちを造られた。
    私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
    4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。
    主に感謝し、御名をほめたたえよ。
    5 主はいつくしみ深く
    その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。

説教題『礼拝への招き』(國光勝美牧師)

<要点をお伝えします>

 礼拝は説教を聞き、聖書を学ぶということのみではなく、肝心なのは、「喜び」をもって「感謝」しつつ「神を賛美する」ことです。主とお会いする喜び、救われた喜び、その主とのまじわりが礼拝です。これが礼拝の生命的な部分です。メッセージを聞くだけで終わるとしたら、それは礼拝というものの本質とはずれているのです。私たちに聖なる渇き、神による満たし、これがあれば詩篇100篇にある民と私たちとはもっと近しくなるでしょう。

 神学生時代、丸の内教会の日曜礼拝で、マタイ伝の連続講開が行われていました。ゲッセマネの主イエス様のお祈りのところでした。ご奉仕で心落ち着かないままに礼拝に出席しました。私は椅子に腰かけ片脚を組んでメッセージを聞いておりました。すこしして、「脚を組んでメッセージを聞いている神学生がいる!」と講壇から指摘がありました。はっとしました。決して不敬虔な想いでいたわけではなかった。しかし結果的にはまさしくそうだったのですが。私自身とすれば、奉仕の流れをこなし、ほっとして椅子にかけていた。しかしそれは油断だったのです。忘れられません。

 そしてもう一つ、献身する一年前のことです。日曜日に会社を休日出勤、棚卸がありました。 蔦田師の礼拝説教は長かったので、礼拝の最後部分には何とか間に合うだろうと教会に駆けつけました。頌栄、祝祷に間に合いました。入り口にいたのが、ウェスレアンの宣教師バルカー先生です。私を苦々しい表情でご覧になった。こんなに遅れてくるとは怪しからんということだったでしょう。しかしその時、私はこれでよかったのだと思いました。他の人にどう見えようとも、私は精いっぱい礼拝を守ったのだという納得がありました。たとえ遅れても、私は、神様の前に真実に礼拝を守ったのです。

 皆様方とともに、どうか、心からの感謝の礼拝を捧げさせていただきたい、こう願ってやみません。

 

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