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2017年2月

快晴

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 盛岡、今朝、-9℃。冷えに冷えるも明けた一日は快晴。空の彩色はどこもかしこも正真正銘の青。こんな日は岩手山がくっきりと見えるはずと、近くの天満宮に上ってみるとご覧の通り。

  ※

 きょうの失敗は、文芸誌の掲載をお願いしに某2社をTさんと訪問するはずだった。それが私が待ち合わせ時間を勘違い、結局間に合わず、Tさんお一人にお願いしてしまった。なんとも申し訳ない。

  ※

 トランプ政権は、国防費の増額、財源確保のため、地球温暖化対策などを扱う環境保護局の予算や海外援助予算を削る方向にあるようだ。
 ケネディはレイチェル・カーソンの訴えを政策に反映させた。アイゼンハワーは、政界の自然保護論者を次つぎに解任した。そしてトランプは、環境の危機をいよいよ確かなものにしようとしている。
 レイチェル・カーソン没後53年。『沈黙の春』が思い出される。

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文芸誌のおてつだい

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 午後からは、文芸集の発送のてつだい。ツーワン・ライフへ。主人もクルマを使いたいというので送ってもらい、帰りは迎えに来てもらう。編集長の立川さんの段取りに従って文芸誌の荷造り。こういった作業もけっこう楽しい。梱包は得意中の得意。

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聖書のことば

  先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の礼拝は

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聖書引証 アモス4:12

それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。

説教 『神に会う備えをー2』(説教 國光勝美牧師)

-概略-
 神に会う備えとして、前回、三つのポイントを挙げました。
一つ、十字架の贖いを信じる新生経験
一つ、死と向き合うこと
一つ、再臨の主と会う備え

 新生経験をしただけでは神にお会いするに十分の態勢ではない。救いの経験と共に「潔(きよ)め」を経験すべきである。常に、十字架の血潮によって、どんな小さな罪をも解決され、まっさらになって神の前に出ることが、まことの信仰生活の在り方です。
 このような状態で死に向き合うときに、自分の行き先がどこであるかの確信が与えられます。召された義兄がそうでした。「行くところがはっきりした」と、悔い改め洗礼を受けた義兄は、前とはまったく違っていたと介護する姉が語っていました。
 また再臨の主にお会いするためには、聖霊に満たされた生活をすることです。霊的な備えが必要です。

 ☆

 アモスがどんな預言者であったか。イスラエルはアモスの時代、正統派のユダとイスラエルに分裂していました。アモスは、ユダの国でいちじくぐわを作っている農民でした。祭司の家系からではなく、一市井の人であるアモスに神のことばがくだりました。イザヤより10年昔に、10年の間活躍しています。神からの裁きのメッセージを人々に伝えました。アモスのことばを心に留め、人はいつどのようになるかは分かりませんが、死への備え、再臨の主にお会いする備えをいたしましょう。

以下、アモス1章3、6、9、11、13節~2章にはいり、4章8~11節にと続きます。

1章

  3 主はこう仰せられる。
    「ダマスコの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を  取り消さない。
    彼らが鉄の打穀機で
    ギルアデを踏みにじったからだ。
   6 主はこう仰せられる。
    「ガザの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り  消さない。
    彼らがすべての者を捕囚の民として捕らえ移し、エドムに引き渡したからだ。
  9 主はこう仰せられる。
    「ツロの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り  消さない。
    彼らがすべての者を捕囚の民として、エドムに引き渡し、兄弟の契りを覚えていなかった   からだ。
  11 主はこう仰せられる。
    「エドムの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取  り消さない。
    彼が剣で自分の兄弟を追い、肉親の情をそこない、怒り続けて
    いつまでも激しい怒りを保っていたからだ。
  13 主はこう仰せられる。
    「アモン人の犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を  取り消さない。
    彼らが、自分たちの領土を広げるために、ギルアデの妊婦たちを切り裂いたからだ。
  14 わたしはラバの城壁に火を放とう。
    火はその宮殿を焼き尽くす。
    これは戦いの日のときの声と、つむじ風の日の暴風のうちに起こる。
  15 彼らの王は、その首長たちとともに、捕囚として連れて行かれる」と主は仰せられる。
   
    2章
  1 主はこう仰せられる。
    「モアブの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取  り消さない。
    彼がエドムの王の骨を焼いて灰にしたからだ。 

  3 わたしはさばきつかさを
    そのうちから断ち滅ぼし、そのすべての首長たちを、彼とともに切り殺す」と主は仰せられ  る。
   
  4 主はこう仰せられる。
    「ユダの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り  消さない。
    彼らが主のおしえを捨て、そのおきてを守らず、彼らの先祖たちが従ったまやかしものが
    彼らを惑わしたからだ。
  6 主はこう仰せられる。
    「イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰  を取り消さない。
    彼らが金と引き換えに正しい者を売り、一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。
    7 彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のとこ  ろに通って、わたしの聖なる名を汚している。
    8 彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った着物の上に横たわり、罰金で取り立てたぶ  どう酒を
    彼らの神の宮で飲んでいる。
   
    9 エモリ人を彼らの前から滅ぼしたのは、このわたしだ。
    彼らの背たけは杉の木のように高く、樫の木のように強かった。
    しかし、わたしは
    その上の実と下の根とを滅ぼした。
    10 あなたがたをエジプトの地から連れ上り、荒野の中で四十年間あなたがたを導き、エモ  リ人の地を所有させたのは、このわたしだ。
    11 わたしは、あなたがたの子たちから
    預言者を起こし、あなたがたの若者から、ナジル人を起こした。
    イスラエルの子らよ。
    そうではなかったのか。――主の御告げ――
    12 それなのに、あなたがたはナジル人に酒を飲ませ、預言者には、命じて、預言するなと  言った。
    13 見よ。束を満載した車が押さえつけるように、わたしはあなたがたを押さえつける。
    14 足の速い者も逃げ場を失い、強い者も力をふるうことができず、勇士もいのちを救うこと  ができない。
    15 弓を取る者も立っていることができず、足の速い者ものがれることができず、馬に乗る   者もいのちを救うことができない。
    16 勇士の中の強い者も、その日には裸で逃げる。
    ――主の御告げ――」
   
    3章
    1 イスラエルの子らよ。主があなたがた、すなわちわたしがエジプトの地から連れ上ったす  べての氏族について言った、このことばを聞け。
    2 わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。
    それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎を
    あなたがたに報いる。
    3 ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。
    4 獅子は、獲物がないのに、森の中でほえるだろうか。
    若い獅子は、何も捕らえないのに、そのほら穴から叫ぶだろうか。
    5 鳥は、わながかけられないのに、地の鳥網にかかるだろうか。
    鳥網は、何も捕らえないのに、地からはね上がるだろうか。
    6 町で角笛が鳴ったら、民は驚かないだろうか。
    町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか。
    7 まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないで   は、何事もなさらない。
    8 獅子がほえる。
    だれが恐れないだろう。
    神である主が語られる。
    だれが預言しないでいられよう。
   
    9 アシュドデの宮殿と、エジプトの地の宮殿に告げて言え。
    「サマリヤの山々の上に集まり、そのうちの大恐慌と、その中のしいたげを見よ。
    10 彼らは正しいことを行うことを知らない。
    ――主の御告げ――
    彼らは自分たちの宮殿で、暴虐と暴行を重ねている。」
    11 それゆえ、神である主はこう仰せられる。
    「敵だ。この国を取り囲んでいる。
    彼はあなたの権威を地に落とし、あなたの宮殿はかすめ奪われる。」
    12 主はこう仰せられる。
    「羊飼いが、雄獅子の口から、二本の足、あるいは耳たぶを取り返すように、サマリヤに住  んでいるイスラエルの子らは、寝台の隅やダマスコの長いすから救い出される。」
    13 「聞け。
    そして、これをヤコブの家に証言せよ。
    ――神である主、万軍の神の御告げ――
    14 まことに、イスラエルがわたしに犯したそむきの罪を、わたしが罰する日に、わたしはベ  テルの祭壇を罰する。
    その祭壇の角は折られて、地に落ちる。
    15 わたしは冬の家と夏の家とを打つ。
    象牙の家々は滅び、多くの家々は消えうせる。
    ――主の御告げ――」
   
    4章
  8 二、三の町は水を飲むために
    一つの町によろめいて行ったが、満ち足りることはなかった。
    それでも、あなたがたは
    わたしのもとに帰って来なかった。
    ――主の御告げ――
    9 わたしは立ち枯れと黒穂病で、あなたがたを打った。
    あなたがたの果樹園とぶどう畑、いちじくの木とオリーブの木がふえても、かみつくいなご  が食い荒らした。
    それでも、あなたがたは
    わたしのもとに帰って来なかった。
    ――主の御告げ――
    10 わたしは、エジプトにしたように、疫病をあなたがたに送り、剣であなたがたの若者たち  を殺し、あなたがたの馬を奪い去り、あなたがたの陣営に悪臭を上らせ、あなたがたの鼻  をつかせた。
    それでも、あなたがたは
    わたしのもとに帰って来なかった。
    ――主の御告げ――
    11 わたしは、あなたがたをくつがえした。
    神がソドムとゴモラをくつがえしたように。
    あなたがたは炎の中から取り出された
    燃えさしのようであった。
    それでも、あなたがたは
    わたしのもとに帰って来なかった。
    ――主の御告げ――
      

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きょうの白鳥

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  自分勝手な空き時間に、さてきれいな写真を撮ってきましょ、と出かけたところで、そうそう巧くはいかない。被写体がもっとも輝いているときはいつなのか、時間は、方角は、角度は、天気は、位置は、それと或いは湿度や気温、気圧が関係する場合もあるかもしれないが、被写体の都合に合わせた方がいいようだ。きょうは日差しと時間、9時ごろだったと思うけれども、今ならと高松の池を一周。岩山はどうかとのぼってみる。展望台辺りの駐車場のアスファルトは雪に隠れていたけれども、除雪されていたのは意外、一応観光名所ということなのか。岩山からのきょうの盛岡市街はどうだったか。写真はどれも今一。出直してらっしゃい、と言われた気が。何れ2か所を1時間弱でシャッターを押して回り10時頃には帰宅。

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笛を吹く少年

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 盛岡市役所の裏、川沿いの駐車場にある舟越保武の『笛を吹く少年』。目立たないところにひっそりと立っています。いつかの雪の朝の一枚です。

   ☆

 写真のストックも尽きて、また撮りだめに出かけたかったのですが。午後は街場を歩いただけで終わり。ご一緒くださった方が、帰着して仰るに「今日は5800歩」。運動量としては、すこし足りないかも。 

 

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午後は図書館

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ほんとうはロックもシャンソンも好きなのだけれども、家にあるディスクのほとんどがクラシックであることから、経済性からいってもあるものを聴こうというわけで、クラシックになってしまっている。
 クラシック倶楽部、番組をみて、エマニュエル・パユの武満ぐらいはまた聴いておこうとおもっていたのが、ここのところ5時起きがキビシイ。体内のどこかのネジが緩んだかボルトが外れたかで、脳への時間の伝達がうまくいっていないようだ。朝のウォーキングが滞っている。もっとも、TVで見たのだが、運動は食事の後がいいのだとか。

 しかし、そちこちのページを覗くと、東京あたりは日々さまざまなコンサートをやっているようだ。音楽大学の各種演奏会は何も高価なチケットを買わなくとも、質の高い演奏を提供してくれている。地方と中央の文化的落差だ。

午前、地域の仕事。午後は図書館。

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ランチ

 午前中はいつもの水曜通り。その流れの3人で、県立美術館のレストランでランチ。雪景色がなかなかよかった。雪上に犬を散歩させる姿が小さく見える。点在する木々のシルエット。静かな風景のこちら側には楽しそうな友だちの笑い声。

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もりおか童話の会

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 きのうのうちに一旦はクルマの雪下ろしをしたところが、けさになってまたこれだけの嵩に。

  ☆

 午後から、もりおか童話の会。代表は浅沼誠子さん。全員がそろったのと新しく参加くださった方がお一人。
 きのうまでは書くことがとんと浮かばなかった。しかし、じりじりとして10時になると、ある女性が浮かんだ。そうだ、今回はこれに、と12時までに5枚程度書きあげる。書いている間はけっこう楽しかった。1時に間にあって中央公民館へ。どの方もほんとうによく書いておられると感心するのだが、きょうは、作品の良し悪しも大事だけれども、皆様がお元気で全員で集まることこそが大事であると思わせられた。

 

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この冬はじめて除雪車出動

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 おとといの青い空。きのう薄ぐもり。一転、きょうは一日中雪、雪、雪。この冬、この辺りは、もう除雪車の出動はないかもしれないと思っていたのだが。
 昼過ぎから、止んだら雪かきをしようと眺めていたが止まないので、運動も兼ねて外に出てクルマの雪落としやら玄関までの道をつける。主人は外回りを除雪したようだ。

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夕方4時近くになって除雪車の音。まだ降っている。

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 きのうは、裏庭に福寿草が出ていないかを確かめたばかり。まだだった。またそちこちに黄色い福寿草がさいているのを連想する。いくら積もっても、陽さえ出てくれれば一挙に融かしてくれる。そう思うせいか雪の重たさを感じずに済んでいる。

 
きのうは親戚筋に法事があった。降ったのが昨日ではなく今日でよかった。ただ、ある方にとっては、昨日のうちに降り、きょう晴れてくれた方が有難かったかもしれないのだ。考えればきりのない事ではある。全部の方々にとって都合良くとはなかなかいかないもののようだ。

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聖書のことば

 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の礼拝は

 

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 聖書引証個所 アモス書4:12
それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。
わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。

説教 『神に会う備えを』(國光勝美牧師)

 松本市の國光勝美牧師の義兄が天に召されました。國光牧師の導きにより病床洗礼を受け、永遠への備えが整えられての凱旋と伺っております。天父の祝福をお祈り申し上げます。
 この日、礼拝説教を終えてから、國光ご夫妻は松本市へ駆けつけられました。

《説教の抜粋》

 神に会う備えをするということは、新生経験、十字架の主に会った経験を一人ひとりが持つこと、それから神に会ういちばん大切な備えは、死に向き合う経験をしっかりもつこと、そして、神に会う備えは、私たちにとって再臨の主と会う備えをすることです。

 新生経験、十字架の主に出会う経験をはっきりと持ってもらいたい。確認してもらいたい。ルカ23:39,40をご覧ください。
23:39十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。 23:40ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 23:41われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 23:42そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
 これがイエスさまと一緒に十字架につけられた強盗のことばです。イエス様は自分を十字架につける者たちのために「父よ彼らをおゆるしください」
と祈りました。イエス様の隣でこれを見た強盗はこのときイエス様にお会いしたのです。どうぞ明確に自分の罪を認め、真実な悔い改めをしましょう。

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主の祈り

       
       

 マタイの福音書 6章6~13節
       
6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いて下さいます。
       
        7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
       
        8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなた方の父なる神は、あなた方がお願いする先に、あなた方に必要なものを知っておられるからです。
       
        9 だから、こう祈りなさい。
       
          「 
天にいます私たちの父よ
       

            
御名(みな)があがめられますように
       
        10  
御国(みくに)が来ますように
       

            
みこころが天でおこなわれるように 地でも行われますように
       
        11  
私たちの日ごとの糧を 今日もお与え下さい
       
        12  
私たちの負い目をお赦し下さい
       

            
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました
       
        13  
私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい
       
            
国と力と栄は、とこしえにあなたのものだからです
       
            
アーメン 」

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2月の雨

 今朝からの雨で雪がだいぶ嵩を減らした。道端の雪に隠れていたポイ捨てのおでんの串や煙草のフィルムが露わになり、濡れた路上にテイッシュがタイヤで摺り込まれている。可燃ごみの日なので、拾ってはゴミ袋にねじ込んで集積所に出す。雨が昨日ではなくてよかった。茶話会に雨では申訳がない。
 気温は明け方で9℃、9時には10℃を超え、夕方で5℃、夜8時で1℃。午後3時までは南南西、南南東、南といった風、春一番だ。

 結局きょうは歩かずじまい。出席か欠席かの葉書を最寄りのコンビニのポストに投函しに行ったきり。お三度と、掃除。そして読書、体操。TVはニュースとプレミアムシネマ『ドリーム・ガールズ』、ミュージカル。ドリーメッツのサクセス・ストーリー。パフォーマンスが圧巻。ソウル、ラップもホンモノ、成功と共に輝きを増す女性たち、美しい変身のさまも楽しかった。

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一つ終えて、ほっと

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 きょうの予定だった地域の茶話会が終わった。役員の方々の準備、みなさまの参加協力のお陰で。お一人おひとりのお顔、気遣い、思い遣り、話題提供を思い出し感謝を新たに。

 夕食を作りながらバレンボイムのブルックナー第4シンフォニー。交響曲は久しぶり。あの細く繊細に響かせるところは、ちょうど雪原の静かな輝きのようだ。ほっとする。
 

 

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築山

けさのクラシック倶楽部、同じ番組を前にも聴いているのですが、庄司紗矢香のヴァイオリン、新鮮でした。メナヘム・プレスラーのノクターン嬰ハ短調、好きな曲でもあり心に染みました。聴くたびに注意を喚起される部分が違っている。もし3度目を聴くことがあれば、また別な箇所が印象にのこることもあるかと。

 続く番組、ドボルザークの「母が教えてくれた歌」、そして彼の故郷ネラホゼヴェスの映像。観終え、漸う明けゆく空を見あげると、月がまだのこっていました。

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 盛岡市立城南小学校の校庭の隅にあるスキー練習用の築山。
                               
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ブログというもの

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いまは多くの方々がブログ、フェイスブック、ツィッターを利用している。このブログもいつまで続けられるだろう。何らかの事情で更新できなくなりそうなとき、ウェブ上にのこしたくなければ全文を削除できるようだ。削除できないでしまった場合はどうなのか。まるで宇宙ゴミのようにウェブ上に転がっていることになるのか。
 自分の子孫が開けてみてくれることがあるか、或いは、何らかに役立つ情報が詰め込まれていれば、時折、息を吹き返すこともあるだろう。つまり、ありきたりの日常を書くだけでは、ブログは、私の存在消滅とともに死に絶えることになるだろう。
 ただ、小難しく考えずに、日常暮らしていく上での必需品の一つと考えれば、気持ちはぐんと楽になる。

 ☆  ☆

 7時ごろ、二男から宅急便が届いたと電話があった。元気なようす。頑張れというからには、自分も頑張らねばならない。すこしでも前進できるよう意識しよう。

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幻想

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氷上の白鳥。今時期の景色の写真は青か白か黒か。青空が無ければ無彩色。しかし光があれば、この無彩色がみな息を吹きかえす。息をふきかえしても尚、この白銀の世界のそちこちに、広い雪原のそちこちから、あり得ないことだけれども、ある日深紅の花が咲き出でていたらどうだろう、いやそちこちにというよりも、むしろどう考えても咲き出でるはずのない一地点に深紅の花が咲き出でたなら面白かろうと他愛もないことを考えてみた。

 

春に雪をのこした庭先に真っ先に咲く福寿草は黄色。スノードロップは白。雪が消えてからやっと庭の土のうえに色とりどりの花が咲きはじめる。


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聖書のことば

先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の礼拝の箇所をおつたえします。

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聖書引証 詩篇100:1~5
  1 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
    2 喜びをもって主に仕えよ。
    喜び歌いつつ御前に来たれ。
    3 知れ。主こそ神。
    主が、私たちを造られた。
    私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
    4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。
    主に感謝し、御名をほめたたえよ。
    5 主はいつくしみ深く
    その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。

説教題『礼拝への招き』(國光勝美牧師)

<要点をお伝えします>

 礼拝は説教を聞き、聖書を学ぶということのみではなく、肝心なのは、「喜び」をもって「感謝」しつつ「神を賛美する」ことです。主とお会いする喜び、救われた喜び、その主とのまじわりが礼拝です。これが礼拝の生命的な部分です。メッセージを聞くだけで終わるとしたら、それは礼拝というものの本質とはずれているのです。私たちに聖なる渇き、神による満たし、これがあれば詩篇100篇にある民と私たちとはもっと近しくなるでしょう。

 神学生時代、丸の内教会の日曜礼拝で、マタイ伝の連続講開が行われていました。ゲッセマネの主イエス様のお祈りのところでした。ご奉仕で心落ち着かないままに礼拝に出席しました。私は椅子に腰かけ片脚を組んでメッセージを聞いておりました。すこしして、「脚を組んでメッセージを聞いている神学生がいる!」と講壇から指摘がありました。はっとしました。決して不敬虔な想いでいたわけではなかった。しかし結果的にはまさしくそうだったのですが。私自身とすれば、奉仕の流れをこなし、ほっとして椅子にかけていた。しかしそれは油断だったのです。忘れられません。

 そしてもう一つ、献身する一年前のことです。日曜日に会社を休日出勤、棚卸がありました。 蔦田師の礼拝説教は長かったので、礼拝の最後部分には何とか間に合うだろうと教会に駆けつけました。頌栄、祝祷に間に合いました。入り口にいたのが、ウェスレアンの宣教師バルカー先生です。私を苦々しい表情でご覧になった。こんなに遅れてくるとは怪しからんということだったでしょう。しかしその時、私はこれでよかったのだと思いました。他の人にどう見えようとも、私は精いっぱい礼拝を守ったのだという納得がありました。たとえ遅れても、私は、神様の前に真実に礼拝を守ったのです。

 皆様方とともに、どうか、心からの感謝の礼拝を捧げさせていただきたい、こう願ってやみません。

 

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冷凍庫の片隅に

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  いつもなら、この位置では電線と電信柱が入ってしまう、とカメラの角度を変えるなり移動するなりするのだが、この日は電線までが雪を留めて幾分かは風景に溶け込んでくれていた。

 ☆  ☆  ☆

 
今朝目覚めて、ああ、きょうはクラシック倶楽部は無かった、と思うも、ぐずぐずしたくもないので起きあがる。TVの習慣がついたらしく、スイッチ・オン。芥川賞作家の村田紗耶香が出ていた。『コンビニ人間』。「賞を獲ろうとしたときわたしは小説を裏切ったのだ」と。創作における姿勢の十全さだ。著書を読んで間もないのでつい終いまで見てしまった。共感するところも、また相容れない点も多くあった。化石化している自分と1979年生まれが同じであろうはずがない一側面ではある。作者と作品の間の真逆。現実にこのようであることは不可能なので小説の中では可能にするのだと。これが所謂おもしろい小説なのだろう。若さを羨む段階ももはや疾うに過ぎて、やたら落ち着きはらい静観。しかし、まだどこか諦めきれていない文学への夢、まだ腐食してはいない夢のひとかけらを冷凍庫の片隅にでも取り置いているかの自分が見えた。

 ☆  ☆  ☆

 午後は共生フォーラムに動員がかかり中央公民館に。増え続ける高齢化社会に、またそれぞれの世代に、どう向き合い、ともに生きるかの実践が紹介される。

 

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無題

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 けさは人に呼ばれて目をさました。女の方の声。聞いたことのある声。ほんとうに呼ばれているような感じだったので、ちょっと不思議だった。

 一日中雪のこの日、引っ越される方がいらっしゃり心配だったけれども、たぶんだいじょうぶだったろう。よく降る。通行止めにならない限り、雪が降ってもクルマは動いている。世の中が、よほど特別な事態以外は、何があってもクルマだけは通さざるを得ない構造になってしまっている。

 

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星たち

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あのきらめきはいったい何なの?
ああ、あれはね
暁が
おお慌てに慌てて
袋にかき集めた星たちが
ずんずん重たくなって
袋の底がとうとう破れちゃって
たまたま地上に眠っていた池の中に
ざらざらと一気に落ちてしまったのさ
もう
リゲルやシリウス
プロキオン、ポルックス
カペラやアルデバランも
ごちゃまぜさ
何が何だかわからないまま
ああして
沈むことも忘れて
白銀となって
ただひたすらに
光を放っているのさ

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白鳥

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盛岡市高松の池。広く氷におおわれていますが、白鳥たちは青く波立つ水の面に。

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オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラークラシック倶楽部ー

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  無彩色の下に、重力を笑うかに、しかし律儀に結晶の凹凸を埋め積もりゆく雪、雪、雪。杜の静けさに微かな幻の衣擦れをたてて木々の鋭さをまるめ、凍てつく川面に無心に無言のままに融け消えゆく雪、雪、雪。

  ☆  ☆  ☆

 今朝のクラシック倶楽部は、オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ。大阪というと、朝比奈隆率いる大阪交響楽団だけが意識上にある。それが、1923年(大正12年)に誕生した、日本で最も長い歴史を持つ楽団があったのだ。この時代の吹奏楽団といえば、海軍か陸軍軍楽隊を前身としているはずと見れば、大日本帝国第4師団軍楽隊に発していた。51人編成。昔だから大したことはないだろうと思いがちだが、レベルは高かったはず。壮観だったろう。それが1934年から大阪市直営となり楽団員は市職員となる。2014年4月、大阪市直営から民営化。宮川彬良が音楽監督、秋山和慶が芸術顧問に就任。2015年3月には名称を「大阪市音楽団」より「Osaka Shion Wind Orchestra(通称Shion)」と改称。大阪にこのような音楽団体があることを今頃になって知った次第。

http://shion.jp/about/ に掲載してある写真の大正14年の写真は、帝室雅楽部のメンバーにとてもよく似ていると思いましたが、どなたかご存知の方、教えていただければ幸いです。この写真の著作権は切れていると思ってよいのかどうか。ここに載せたいと思ったのですけれど。

 今朝の演奏に戻って、「大阪俗謡による幻想曲」(作曲:大栗裕)を興味深く聴きました。
指揮は渡邊一正。このほかにも大変楽しい演奏の数々、直に聴いたなら手を打ち鳴らして喜んで聴いたはず。

 けさは番組を知っていて観たわけではないので、何か、呼ばれたという感じがしました。しかも、続く名曲アルバムは、琵琶、ちょっと不思議な気がしました。

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『沈黙』&『夜と霧』

  一時期、とにかく身軽になりたいのと、もうすべては最早ここまで、取っておいても仕方がないという思いから、文学関係やら何やら、これは無くても生きていかれるという書籍や物を大掛かりに処分したことがある。音楽関係、ディスクやプログラム、資料などは辛うじてその難を逃れている。それが今ごろになって、『沈黙』はどうしたっけ? 『夜と霧』は? と折に触れて探す羽目になっている。
 今、『夜と霧』を再び読むべきと思われたのは、差別、排除の日常化、これがエスカレートすると抹殺となる。虐げられる者の痛ましい想いを知っておく、知って思い返しておくことが必要かと思われた。また人はいかようにも残酷になり得る生き物であること、一旦国家という権力に抹殺という使命を託された場合には、立身出世のためにそれを完璧にこなすことも厭わない者となり得ることなどを思い起こし、このフランクルの著書を探すと、やはり、これは捨てられずに残っていた。

  ☆  ☆  ☆

沈黙 日本版ポスター


 遠藤周作の『沈黙』は、今の社会背景とはまったく無関係ではない、というより、このような時代だからこその信仰(個々のご都合主義に合わせた信仰という意味ではない)のありようを問うているようにも思われた。遠藤周作が神の沈黙をとことん突き詰めたどり着き見出したところ、たどり着いた真理と己が信じるところを述べている。書架に探したが、どうも処分してしまっていたらしい。マーテイン・スコセッシ監督による映画『沈黙』を観たことで、また読もうという気になった。誰の記憶にも残るキチジロー。何度も転び、懺悔し、良心の呵責と神の赦しのうちに再びイエスを裏切る。しかし映画の中では、最後には捨てきれない信仰のしるし、証拠を隠し持っていたことから、ついに役人に引っ立てられる。このような信仰もアリと作者はいう。
 司祭ロドリゴは自らが受ける拷問は厭わなかった。しかし、十字架を踏んで尚解放されず逆さ吊りにされた信徒らの言語に絶する地獄の苦しみを直にする中で、彼らを救うには司祭であるお前が十字架を踏む以外にはないと迫られ、ついに踏み絵を踏む。そのときに神の声を聞く。「おまえの痛み苦しみはわたしがみな知っている」と。

 映画製作的な面からは、監督の日本文化、当時の政情の理解が
井上筑後守役のイッセー尾形の演技を通して巧みに演じられていた。音響なども併せて、奥深い仕上がりになっていたと思う。ただ、弾圧する側、される側の双方が屹立と仕上がっているという点に釈然としない思いも残った。まだまだ言い足りない感じであるけれども、このぐらいで。
 

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聖書のことば

先週日曜日は聖餐式に与りました。また礼拝の後に教会総会が開かれました。

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 聖書引証個所は使徒の働き6:1~7

6:1そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。 6:2そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。 6:3そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。 6:4そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」 6:5この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、 6:6この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。
6:7こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。

説教題は『初代教会に学ぶ2』(國光勝美牧師)
ー要点ー

 
週報に、XLIVとローマ数字で記しました通り、私どもが、この盛岡に開拓伝道を始めてより今年で44年目になります。今のところ異動はないものと思われます。これだけ長くおりますと、マンネリズムが出てきかねません。そこを打破していかねばなりません。どうか牧師のために、祈りの時、奉仕の時に、このマンネリズムに陥らぬように、霊性と健康が守られますように、是非ともお祈りいただきたく思います。信仰に制限を加えることがないように、もっと大胆に、もっと広げることができるようにお祈りください。ひろ子牧師も私も3月、4月で満70歳、健康を覚えてお祈りください。
 6章では、恵まれた信徒の存在によって、教会の危機が乗り越えられています。
神様は、すばらしい信徒の方々を備えていてくださる。そのことに深い感謝を覚えております。6:5に「聖霊と信仰に満ちたひとたち」とございますが、全員が聖霊と信仰に満ちた人でありますように。教会学校、お祈り、花の奉仕など、皆さん方にそれぞれに嵌っていただいております。感謝です。皆さんがこの教会に来ていることも、神様が皆様をこの教会に遣わしてくださっている。自分はこの教会に遣わされているという意識をもっていただけるなら、教会にとっても、本人にとっても、それが祝福となるはずですし、神様はそこに摂理的な意味を与えてくださる。そのような信徒としての在り方を願うものです。教会にとって大切な役割、みことばの拡大を担っていただきたいと思います。

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しみもとがも

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             ♪讃美歌206 しみもとがも

              1.
              しみもとがもけがれもなき
              子羊わが主はほふられしや

              2.
              子はわがため十字の上に
              釘もて裂かれしみからだなり

              3.
              子はわがため呪いうけて
              流させたまいしきみが血なり

              4.
              子はわがためあたえたもう
              命のかてなり飲み物なり

              5.
              なつかしくもみうせし主は
              まもなくふたたび来たりたまわん

              6.
              その時まで十字架を負わん
              救いの恵みを喜びつつ

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球根たちは雪の下

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スノードロップやヒヤシンス
スイセンやユリにチューリップは
みんなまだまだ雪の下
それでも
芽はいまにも吹き出しそう
けっこう伸びてもいるだろう
見えないけれども生きている
真っ暗な土の中で
春がくるのを
疑いもせずに待っている
たまには居眠りや
小さなあくびもするけれど
頭上の雪が融けだして
だんだん土もぬくもって
だいじに花芽をかき抱く
球根たちは待っている
春一番を待っている

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夜明け

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薄墨色のそらに
硬く冷たくたたずむ
凸凹のビル
その向こうから
朝は
街をようよう溶かしだし
街灯の白昼色を消し
後ろ手に闇をかなぐりすてて
きょうという日に在るものをみな
きょうというあやかしの器へと
一つひとつを
ていねいに移し変えていく

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作品数を増やしたい

  今朝のクラシック倶楽部は、チェコの実力派メンバーによる、パヴェル・ハース・クァルテット。バルトークの弦楽四重奏曲第5番、熱と気迫がこもっていた。バルトーク、幾度となく聴いていながら、鬼才であると感じたのは今朝のこと。

 きょうからは少なくとも安閑としてはいられない思いが。人生は短いか長いか、永いか。あす死んでも不思議はない。できれば「あららら、ずいぶん簡単に、あっさりむこうに逝っちゃったのね」と言っていただくなり、ほっとしていただくなり、或いは、祝杯をあげてもらってもかまわない。ただ、そうすんなりといくかどうかが難しいところ。それで久方ぶりにウォーキング。やはり早朝に歩くのは清々しかった。

 午前は読書と教会と役所。午後も読書。必要に迫られての読書ではない。ただ無為に過ごすよりはましかと。

 詩を書きたい。アッキガイ、昨年の春から、時折この貝を眺めながら思っていた。詩の作品の数をもうすこし増やしたい。詩が、作品数を増やす目的で書くべきものかどうかは怪しいけれども。

 

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