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インマヌエル盛岡キリスト教会主任牧師の新年の説教を公開します

《インマヌエル盛岡キリスト教会主任牧師の新年の説教》

 きょうの本題に入る前に、先週(元旦)の礼拝説教の復習をいたします。

 今年の年頭に与えられております第二コリント129節を何通りかの聖書の訳で味わってみました。

新改訳12:9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

口語訳12:9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

新共同訳12:09すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

文語訳129言ひたまふ『わが恩惠なんぢに足れり、わが能力は弱きうちに全うせらるればなり』さればキリストの能力の我を庇はんために、寧ろ大に喜びて我が微弱を誇らん。

リビングバイブル:12:9そのつど返ってくる答えは、こうでした。 「いや、治すまい。 しかし、わたしはあなたと共にいる。 それで十分ではないか。 わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現われるのだから。」 今では、私は、自分の弱さを喜んで誇ります。 力や才能を見せびらかすのではなく、喜んでキリスト様の力の生き証人になりたいのです。

 コリント書は、パウロが、開拓伝道をして生み出したコリントという町の人々に宛てて認めた手紙です。コリントはギリシャ半島のアテネの近くにあります。

 コリントの教会には不道徳と混乱がありパウロを大変悩ませました。第一コリント人への手紙は、これに対して叱責と戒めが書かれています。第二コリント人への手紙には、第一の手紙が受け入れられたかどうかを知り、且つ、今一度申し置きたい事柄が書かれています。

 パウロに不信感を持つユダヤ主義的な教師たちがコリントにやってきては、パウロを誹謗中傷し、パウロの伝道を攪乱したのです。パウロは、それに対し、何を言うのか、私が伝えることと違った教えをするような者があれば、たとえみ使いであっても容赦はしないと屈することなく証しをしたのが第二コリントの12章なのです。パウロは、ふつうの人が経験することはない著しい幻に出会っています。第三の天を見たのもそうでした。そのことで、パウロを神のように崇めるのは間違いで、飽くまでも、信仰、礼拝するべきお方は主イエス・キリストさまなのですが、パウロの幾多の特別な経験は、パウロの位置づけとして、とても重要です。

 今年の御聖言(みことば)として、この第二コリント129を取り上げました。

パウロは、風土病であるマラリヤに悩まされ、またガラテヤ伝道の頃からは、目がかなり見えにくくなっていました。それは外観からも晒すに耐え難いほどでした。パウロは癒しを祈り願った、しかし、神様はこれを癒してはくださらなかった。癒されなかったが、神は、これを通してパウロを一層強め、高みにへと引き上げてくださったのです。病、貧しさなどの試練を取り去って下さるようにとの祈りに、神は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」とお答えになる。これを通った者のみが導かれ知ることのできる神様のこの者たちへの高いあつかいがあります。

 詩篇62篇を見ましょう。

11 神は、一度告げられた。
二度、私はそれを聞いた。
力は、神のものであることを。
12
主よ。恵みも、あなたのものです。
あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。

 また第二コリント12:9に注目しましょう。

手元にある資料から、すばらしいことばを紹介いたします。

スコットランドの聖書学者アレクサンダー・マクラレーン、日本で謂えば明治時代の人ですが、言っています。

「心に聖霊を、手に聖書を持っている人は、必要なすべてを持っている」

『わが恩惠なんぢに足れり、わが能力は弱きうちに全うせらるればなり』

今年、皆さんも必要なおことば、握りしめている聖書のことば、これがあれば、すべてを持っている、足りるのです。アーメンと頷きながら、話を進めていきます。

 さて、パウロには、眼病のような肉体の棘(とげ)といわれるような難題がありました。この棘、即ち、自分がいま直面している問題、課題の解決法は二つあります。一つは、重荷を減らせばよい。そしてもう一つは、重荷を担えるように、担う力を増し加えることです。パウロは、重荷を減らしてくれと祈った。しかし、神は、担えるように力を増し加えることで解決してくださいました。聖書を見ると、神は、重荷を減らす方法ではなく、力を与える方法で導いてくださいます。

 イエスさまは、十字架に架からなければならなかったとき、願わくはこの盃を取り除いてくださいと祈りました。さらに、しかし御心のままにと祈ったのです。天の父なる神様は、その苦しみを担える力を増し加える方法で十字架の贖いを見事に成し遂げてくださいました。

 これを見るとき、私たちが今直面している難題を取り除いてくださいと神に祈っていいことではあるのですが、しかし神はもう一つの解決方法をよみしてくださる。重荷を負っているあなた自身が強められればいいのだよと神様は仰る。どうしたらいいのでしょう。そうです。恵みに、神様の恵みに着目しましょう。「わたしの恵みは、あなたに十分である」。今あなたが持っている恵みで十分であると神様は仰っています。何か不足ですか? わたしはあなたとともにいる、それで十分じゃないか? すこしくだけた言い方をすれば、それで何か文句があるの? と神様は言われるのではないでしょうか。あなた方が今持っているもので十分。

 ここでヨハネ6章をご覧ください。少年が持っていたわずかなお弁当を増やして5000人から1万おなった。t人の人々に分け与えた奇跡が記録されています。少年が持っていた僅かなお弁当をイエス様に持っていったときに、多くの群衆に十分に分け与えられた。このお弁当を少年が持っていただけでは、増えることはない。ところが、持っていくという行動を取ったところで、それはどんどん増えていった。こういうことなのです。少年が自分のものだけにしておいたなら、それはそれだけで終わってしまった。しかし、それをイエス様に託して行動を起こすならば、起こすたびごとに、果たしてこんどのこのグループには足りるのかな、おっとまた増えた、この成り行きをお弟子さんたちは体験していったのです。トハネ61213には、みなが十分に食事をし、残りを集めてみると、なお12のかごにいっぱいになったとあります。

 また第二コリント129に戻ります。

「わたしの恵みは、あなたに十分である」

 イエス様のもとに、イエス様とともにあるとき、十分なのです。12のかごに余るほどの恵みがそこにあるのです。

 私たちは、自分が何かに頼ろうとするときに、杖とすがるには、折れた葦よりも、鉄の支柱を渡された方が心強いと思うでしょう。しかし、神様は、それとは逆なようです。

 それと、自分が何らを成しうる一門のものである、鉄のような実行力、能力があると思っている者だとしたら、神様は、そのような者は用いられません。イエス様が私たちを用いようとするとき、それによって神の栄光を表そうとされるときには決まって、折れた葦のような人に見向きもされない弱いもの、自分の弱さをほんとうに知っている者をこそ神は用いられる。そして用いられた者が、決まってキリストの力が自分をおおって下さることを知るのです。これは聖書にしばしば出てくるパラドックスです。神様が2017年に、第二コリント129を指さしてくださっている理由は、このようなところにあると思っています。これにアーメンと頷きながら、ご奉仕に当たらせていただきたい。弱さのうちにあらわされる働き、9節に「キリストの力が私をおおう」とございます。この「おおう」という言語の意味は、「幕屋を建てる」「テントを張る」という意味です。イエス様の力が、私のすべてをおおってくださって、詩篇1197のように「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」と告白することになります。

 神様はいたずらに私たちを、苦しみ、困難に直面させるお方ではありません。そこを通ることによって、私たちには学ぶべきものがある。そこを通たからこそ見えるものがある。そこにおいても、やはり神様の恵みは十分だったのだと知ることができる。

 深い井戸に落ちたときに、普段は見えていなかった星が見えることがあるそうです。教育TVが実験に乗り出したこともあるようです。謂わんとすることは、暗闇の底からしかわからない、そこにいなければわからない星がある。その事実を知っている人は、困難が何もないところを通ってきた人よりも、はるかに大きな恵みを実感し、生きていけるのではないでしょうか。それはキリストに似た者となることでもあります。

 第二コリント129を読んで締めくくりましょう

新改訳12:9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

 

※説教の掲載は諸般の事情から定期的には掲載しかねますのでご了解ください。これが何らかの一助となれば幸いです。

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