« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »

2017年1月

あすは2月

Dscf7020

 新年となって、とうとう一月が過ぎた。けさは2℃ほどだったろうか。無為に過ごしてはいないけれども、感覚的にはそんな感じがしないでもない。
 主人は、自分の書き物を着々と行っている。淡々とした勢いに気圧され気味。書くことが何につながるかはわからないけれども、これが家の中の風景となっている。

Dscf7005

 

 明日こそ、明日からは、というのは、自分の中ではあまり迫力がなく、当分は目の前のやるべき役割をこなしていくのみ。あすからは、地域関連の仕事も多く入ってきそうだ。

P1130403

 みんなが頑張っている。教会も、地域の役目に携わっている人たちも、近くにいる友だちも遠くにいる友だちも。自分が所属している文学をやっている人たちも、音楽をやっている人たちも、働いている人たちも、みんなが頑張っている。

 Dscf6452


| | コメント (0) | トラックバック (0)

岩手銀行赤レンガ館-国の重要文化財ー

 日常的に傍を通り抜けながら、一度も中に入ったことはなかった。「開館中」が目に入り、見学してみようかという気になった。

 1911(明治44)年に落成。設計者は辰野金吾とその教え子の葛西萬司。1994(平成6)年、国の重要文化財に指定。

Dscf7030_2

Dscf7024

Dscf7023

 金庫室の外側の鉄扉の内側についている日本橋馬喰町の竹内金庫の製造を示すエンブレム付きの銘板。

Dscf7026
金庫室

Dscf7027_2

 さて、多目的ホールを上から撮るにはここが最適と、二階ギャラリーに立ったところで、カメラの電池切れ。決めの一枚が抜けての報告となり残念です。それにしても、東京駅を設計した辰野金吾らによる設計、西洋に勝るとも劣らぬものをとの心意気がずっしりと感じられました。100年を経て尚、堂々たる風格を備え留めている建築物がこの街にもあったことを、やっと今頃になって知った次第です。

 

 この建物の前の交差点で、作家の井上ひさしがタクシーから降りたときのことも思い出しました。ちょうど信号待ちで偶然隣になり、「今から先生の講演を聴きにいくところです」と申し上げると、「そのボタンは自分で選んだの?」と服をご覧に。「はい」と答えたところで、信号が変わってしまったのでした。岩手銀行中の橋店時代とともに思い出されます。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

聖書のことば

 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の聖書のおはなしをおつたえいたします。

012

聖書引証 使徒の働き6:1~7

6:1そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。 6:2そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。 6:3そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。 6:4そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」 6:5この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、 6:6この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。
6:7こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。


先週の説教題『初代教会に学ぶ』(國光勝美牧師)

ー今日は、説教の概要ですー

 

 初代の教会、といってもまだ立派な会堂はありませんでした。クリスチャンたちが集まり礼拝を捧げているならば、そこが教会なのです。その中で、同じユダヤ人にも、ギリシャ語だけを使うユダヤ人とヘブル語だけを使うユダヤ人がおり、意思の疎通がうまくなかったために、日々の配給のことでトラブルが起きました。もともとはヘブルの人たちの教会であって、互いに持ち寄り、助け合うという価値観が代々受け継がれておりました。勢いヘブル語を話せる人たちに有利になった。そこで、解決策として、世話係に、ステパノのようなギリシャ語を話せる人たちを多く選んで、配給の任に当たらせました。

 

 この教会を、エルサレム教会と呼びましょう。この教会には、大きな課題、迫害があった。まだイエス様を信じていないユダヤ人からの迫害です。イエス・キリストの御名によって語るところには、いつでもサタンの妨害である迫害があります。使徒たちは、それでも迫害に耐え抜き、いよいよ強められて伝道に出ていきました。使徒の働き5:41~42にある通りです。

5:41そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。 5:42そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。

 出ていく使徒たちへの迫害に失敗したサタンは、こんどは教会の内側を混乱させ内紛を起こそうとします。その次は身内から「あなたは間違っている」などと問題視するなどして混乱を生じさせます。初代の教会に起きたトラブルもそうでした。これを単なる配給の問題と見るのではなく、弟子たちは、これもサタンの攻撃、一つの迫害のあらわれと捉えて、さっそく対策を取ったわけです。どのような人たちがこの任を命じられたか、それが4,5,6節にあります。信仰と聖霊に満ちた人、御霊と知恵とに満ちた人、人格的にバランスがとれ円満な人達でした。このような人々が教会を形作ります。

 クリスチャンになる前や、クリスチャンになったばかりの時は、往々にして教会が自分のために何をしてくれるだろうかと考えるものです。しかし、成長するにつれて、こんどは、自分が教会員として、教会のために何ができるかを考えるようになります。誰でも、教会に迎えられる側から教会に迎える側に変わったときがあるはずです。私も、救いに与り、雪谷伝道所で、いらした方々の下足番に回ったとき、自分の変化を感じました。小さなことでも、教会員として何ができるのかを考えられた時、自分の変化を見るでしょう。

 礼拝のみならず、祈祷会、伝道会への出席日数にも向き合いましょう。また教会の伝道の必要が満たされるように祈り戦っていただきたい、教会員として何ができるのか、教会総会を前にして大きな信仰の戦いをいたしましょう。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

青いばら

032
 この頃のニュースを聞いていて、「アメリカ合衆国株式会社」という言葉が浮かんだ。
 もし我が家に飼い猫がいて、知らないでいるうちに隣に行っていたずらをしていた。突然隣から電話がかかってきて「お宅の猫が侵入して迷惑です。塀を作りますので、建設費を全額支払ってもらいます」となったなら。幸い両隣とも良識のある方々なので、こんなことはあり得ないけれども。とにかく日々びっくり仰天。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

白鳥

P1130479

 走らずにゆっくり歩こう。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

排除

 昨日の昼過ぎに、映画のタイトルをみないまま、番組に遅れて観ると、内容からして「オッデッサ・ファイル」ではないかと思った。読んだのはもう随分昔のことで、ほとんど内容を忘れている。出かける用事があったのでほどなくTVを消したけれども。

 ナチの逃走に加担した組織は多々あったようで、バチカンはよく知られているが、アメリカのCIAなども関わっている。世界各地に抜け道は設けられてあった。ロシュマンはアルゼンチンで暮らし、アルゼンチン警察に逮捕されるも、国外退去を条件に釈放、最後はパラグァイで心臓発作で死亡。アイヒマンはアルゼンチンでモサドに捕まり絞首刑。どうやってここまで逃げのびる? やはり組織力と財源(ユダヤ人からはく奪)? と専らこの二人の成り行きを追ってみて幾つか得心するところがあった。
 ユダヤ人の排除、今アメリカで起きている事態の根っこ部分がこれに酷似していると思われた。単純にここで語れることではないかもしれない。ただ、数十年前に読んだ「夜と霧」をもう一度読み返すべきかと思った。
 ロシュマンは「リガの屠殺人」ともいわれているが、そちこち検索するうちに、まさしく「屠殺」の動画にまで行きついてしまい、工場での屠殺の動物たちの苦しみもがく過程を見てしまい、それが今人と重なって何ともやりきれない心境になっている。何れ、排除とは、これに通じることではないだろうか。これは短絡だろうか。


※思い違いの部分があり、後で訂正しました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

星は輝く

  星を見たのはいつだったろう。スーパームーンの夕暮れに、ひときわ輝く月の近くに現れていたのは金星だったろうか。
 ブログの更新はお休みにとも思ったが、「星」ということばが浮かび気になりだし、冬の星座などをネットで見ていたけれども、シリウスが明暗を帯びて心に留まる。恒星だ。他者に照らし出されるのではなく、自らが光を放ち、他者を照らし出す。「明暗を帯びて」というのは自分の心象であって、恒星たりえない、力不足の自らを想うゆえである。
 今夜は見えているだろうか、カーテンをすこしだけ開けてのぞくと、ぜんたい雲に覆われているようだ。それでも確かなことは、この雲の上には、冬の星座が今も輝いている。雲に閉ざされていようとも、輝いている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

エニシダ

Dscf6453
  常緑のエニシダに凍りついた雪。春には黄色い花がいっぱいに咲く。サヤエンドウの小型のような実が熟すると真っ黒になる。よく分枝して単葉が細くつんつんときれいで、豆の花のような花がジョークのようにひしめき咲き、気に入ってはいるけれども、実が黒くなっていくのを見たときには、この清楚な低木には唯一不似合いと思われた。真っ黒な小さなサヤから取り出した種子が、いまは親の木をしのいで立派に繁っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

100年生きられるかな?

 きょうは火葬、葬儀があった。103歳の方。ごく普通に暮らす中で一瞬のうちに亡くなっている。病院、施設に入っていてのことではない。体内の臓器が1世紀以上も休みなく働き続け、頭脳も心も動き続けたことに驚く。特別に運動をして鍛えていたとは聞いていない。食生活での節制も聞いていない。100歳の方々が全国で6万人を超えたと聞いたのは、たしか一昨年だったろうか。病や短命の方々もある中で、思えば不思議でならない。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

聖書のことば

Dscf7004

 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会のメッセージの引証は、第二コリント12:1~10、
12:1無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。 12:2私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。 12:3私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。―― 12:4パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。 12:5このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。 12:6たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。 12:7また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。 12:8このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。 12:9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 12:10ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

國光勝美牧師による説教、「弱さを誇るとは」

きょうは、もう一度、弱さを誇るとはどういうことであるかをテーマにしてみます。

「12:7また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。 12:8このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。 12:9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 12:10ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

 パウロのような人にして、もしこのように肉体のとげが与えられていなかったならば、自分はペテロやヤコブたち12弟子たちとは比較にならないほど素晴らしい霊的な経験をしていると自慢し、高ぶりの気持ちを持ってしまう。あのパウロにしてです。ということは、ふつうの人間ならなおさらでしょう。

 罪というものの核、煎じ詰めて、いちばん奥底にのこるものは、なにかといえはば、それは傲慢です。神なしでやっていける、やっていきたい、罪のあらわれはいろいろあります。しかし、神なしでやっていきたい、それこそ悪魔の本質なのです。神のいうとおりにしなくとも、自分は自分の力で自分を輝かすことができる、神なしでやれるとする、それが罪なのです。

 アダムとエバを思い出し、悪魔のやりようを思い出してください。悪魔は「あなたはあなたの思うとおりにやればいいのだ」という、このあり方が傲慢です。この正反対のあり方をしたのがイエス様です。イエスさまは、無実でありながら私たちの罪を背負い、自分を空しくし、十字架にまで架かって、贖いを成し遂げてくださいました。ああ、そうか、わたしの罪のために。サタンの起源は今言った通り、まさしくそこにある。罪びとの表現に現れる内側のことを考えると、これは傲慢。一方、それと対極にあるのが、卑屈です。うまくいったときは傲慢になり、失敗すれば卑屈になる。人に褒められると傲慢になり、失敗すれば卑屈になる。そこに陥らないように注意深くありましょう。

 パウロはとげを取り除いてくださいと「三度も」主に願いましたといっていますが、この「三度」の意味を探りますと、

☆過ぎ越し、ペンテコステ、仮庵の祭りとユダヤの重要な祭りは三つあげられます。
☆同僚がダニエルを陥れようとしたとき、ダニエルは神の前にひざまづき、日に三度祈りました。
☆ペテロの失敗ですが、鶏がなくまえに、ペテロが、イエス様を三度否むという失敗、そしてイエス様は三度「私をあいするか」とペテロにきかれました。

 三度、それは真実さの度合いを表しています。それだけ真正面にとげという課題に取り組んでいるパウロのすがた。中途半端ではなく、真剣に問題に向き合い、そこにおいて神に扱われ、与えられた神のこたえが、たとえとげがあろうとも「わたしの恵みはあなたに十分である」と神はお答えになっている。

詩篇62はダビデの祈りです。パウロも苦しみにあるとき、次のように祈っています。

5 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。
私の望みは神から来るからだ

また、神様のつぎのような私たちへの取り扱いもあります。

詩篇6211 神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。12 主よ。恵みも、あなたのものです。
あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。

 聖書には、弱いことが決していいことだと書かれているわけではありません。ヨシュア記には「強くあれ、雄々しくあれ」とも書かれています。ところが悪魔は時としてこのことばを引き合いに出します。「あなたはどうなんだ、雄々しくあれといっているけれども、あなたは強くも雄々しくもないし、そうなれもしないだろう、そうできっこないんだよ」、こういって不信仰に陥れてしまいます。

 しかしここで、十字架をみあげてごらん。これは聖霊様がおっしゃる。自己ひげしているときに「イエスさまがあなたのために、すべてをなしとげてくださった。このお方をみあげようではないか。わたしの恵みはあなたに十分と聖書には書かれてある。どうか聖書にあるこのポイントをしっかりと見ましょう」。自分の弱さに着目させるのは悪魔の手段です。

ピリピ413私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 これは捉えようによっては、傲慢なのではないかと思われるでしょうか。いいえ、弱さを知っているからこそ、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。サタンは、こんなこと、あんなことといって不出来をついては失望させるでしょう。そのようなときこそ、イエス様をみあげ、神様の恵み、神様の十分な恵みとお力にこそ着目し、信仰をもって教会生活を全うさせていただこうではありませんか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

映画 モーセの十戒

十戒 [DVD]

 映画でも見て、すこしゆっくりしようかとTVでモーセの「十戒」前編を観ている。ヘブライ人であることが発覚しても、王子として留まろう思えば留まる道もあったが、彼は奴隷として家畜のように扱われている同胞を見ぬふりはできなかった。砂漠に追放され辛酸をなめたのちにミデヤンに辿りつき生き延びる。
 イスラエルの人々をエジプトから脱出させ、二つに分かれた紅海をわたり、十戒を授けられ、カナンに入る直前まで民を導き続けた偉大な指導者だ。
 誰でも一度は観たことがあるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

わが青春はすでに過ぎ去り

 きょうは、もりおか童話の会の新年会がホテル東日本の介寿荘であった。会長浅沼誠子さんの司会、やえがしこうぞうさんの乾杯。各会員の年頭の抱負近況が述べられる。

  ☆  ☆  ☆  

 バッハ以前の音楽をあまり考えたことがなかったけれども、今朝の名曲アルバムで取り上げてくれていたのが、スウェーリンク。バッハよりも凡そ100年前の作曲家だ。オランダ、アムステルダム。彼が生きた時代は、ちょうどスペインからの独立の過渡期。
 スウェーリンクは、ネーデルラント鍵盤楽派の発展の頂点を占めており、実際に対位法の複雑さや洗練においてバッハ以前の鍵盤音楽を代表するひとりである。またフランドル楽派の末裔とも見なされ、声楽曲にも熟練した作曲家であり、250曲以上の声楽曲(シャンソン、マドリガーレモテット詩篇唱)を残した。(wikiより)即興演奏の大家でもあったようだ。

♪わが青春はすでに過ぎ去り♪←クリックすると、スウェーリンクの曲に。リコーダーの多重演奏。このほかにもあらゆるジャンルのリコーダーの多重演奏が。特異な音楽世界が展開されています。お聴きください。 

 クラシック倶楽部、三原剛さんと佐々木典子さん。シュ-ベルトの歌曲は久しぶりに聴いたかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

青空と樹木

Dscf7017suginoki

  腹に一物もなく、仰ぐものをみな受け容れるこの空の青さ。深く打ち込まれた杭のように突っ立ち、重機のような重みでのして、中空に対峙する樹木。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

もりおか歴史文化館の樹木と高松の池

Dscf7003

Dscf6443

 この白鳥が鳥インフルエンザに感染しているかいないかは見ただけではわからない。感染していないかもしれない。感染しているかもしれない。はたから見ただけでは、それはわからない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

バッハはいつも新しい

 日ざしのあるうちにと思いつつ、ややもすると翳りそうな昼過ぎになってからの外出。もりおか歴史文化館の樹木。空の青さを心ゆくまで眺め、清々しい冷気をいっぱいに吸いこんできました。

Dscf7002_2

 きのうはブランデンブルグ、きょうもブランデンブルグ。日々怒涛のごとくに曲が産み出され、ハイテクで次つぎに曲が誕生するなかで、なぜにおよそ260歳を超える曲たちを聴いているのか。聴く者たちの感性があまりに古いからなのか、そんな事はあるはずもなく、とどのつまり、バッハの曲は驚くなかれ齢をとらない。いつも新鮮で若々しく新しい。光を宿している分だけ、闇に隠れることがなく、葬り去られることもないのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

雪・雪・雪

  午前中はくもり。午後からは雪、雪、雪。すかっとした青ぞらが見たくなり、昨日のこんな写真をひっぱり出してみました。

Dscf6454_2

 今朝は久方ぶりに5時起き、クラシック倶楽部をスイッチ・オン。大萩康司(ギター)さんと林美智子(メゾ・ソプラノ)さん。武満徹の曲がメイン、「すべては薄明の中で」「エキノクス」、ともに絵画から想を得ているらしい。ギター、メゾソプラノともに楽しかった。

 絵画といえば、きょう私が思い描いていた絵画は、大都会の巨大なスペースを覆うビルの林を、キリストの顔が不鮮明な輪郭を帯びて、そのビルの屋上の凸凹に映っている、そんな絵を描けたなら、いつも描けたならで終わってしまうのだが、そんな絵画を思い浮かべていた。空想だけで終わってしまうのは、いつものこと。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

聖書のことば

 

寒い朝を迎えております。いかがお過ごしでしょうか。いま日々暮らし得ることの感謝とともに、このページがお一人にでも何らかのお役に立てばと願っております。

180
 
 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の聖書の引証個所は、第二コリント12:1~10でした。
國光勝美牧師の説教は1月10日のページでご覧ください。

12:1無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。 12:2私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。 12:3私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。―― 12:4パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。 12:5このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。 12:6たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。 12:7また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。 12:8このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。 12:9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 12:10ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アイスバーン

Dscf6451

 いよいよアイスバーン。よく冷える。こもりきりはよくない。1時間ほどあるく。室内にいると家事か読書かTV。鳥が来ている。枝の雪が落ちる。雪がやむ。雪がふる。そんな窓の向こうを眺めている。
 音楽は、チェンバロのことをすこし読む。バッハは1台のチェンバロのための8つの協奏曲、2台のチェンバロのための3つの協奏曲、3台のチェンバロのための2つの協奏曲、4台のチェンバロのための協奏曲、その他のチェンバロの曲を作曲しているという。3台、4台となったときの演奏がどうであるか、ちょっと驚き。2台も聴いたことはないが、ピアノに置き替えて想像する。3、4台、賑々しくも華やかとなるのだろうか、想像もつかない。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

祈ります

 何をどう祈ったらいいのかわからないときには、こう祈りなさいと聖書が教えている主の祈り。祈るべきことがぜんぶ書かれている主の祈り。きょうはことばが何も出ないので、主の祈りを唱えます。

    主の祈り

 

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

※写真はギリシャ語の天主經。wikipediaから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

あしたがあるさ

Dscf6338

  とにかく寒い。早朝の散歩を休んでいるので、日中に歩いたけれども、寒さが突き刺さる。クラシック倶楽部もおやすみ。あすもチェロ演奏だったろうか。この週間のヴァイオリン、チェロをずいぶんと聞き逃してしまった。
 とはいうものの、地域の仕事など、きょうの分は滞りなく片付けることができた。

 あすから何かに取り組もう。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

雪の朝

Dscf6448

 

マーケットの帰り、路肩の寒暖計が午後4時半で-5℃。きょうからは冷え込みそう。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

インマヌエル盛岡キリスト教会主任牧師の新年の説教を公開します

《インマヌエル盛岡キリスト教会主任牧師の新年の説教》

 きょうの本題に入る前に、先週(元旦)の礼拝説教の復習をいたします。

 今年の年頭に与えられております第二コリント129節を何通りかの聖書の訳で味わってみました。

新改訳12:9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

口語訳12:9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

新共同訳12:09すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

文語訳129言ひたまふ『わが恩惠なんぢに足れり、わが能力は弱きうちに全うせらるればなり』さればキリストの能力の我を庇はんために、寧ろ大に喜びて我が微弱を誇らん。

リビングバイブル:12:9そのつど返ってくる答えは、こうでした。 「いや、治すまい。 しかし、わたしはあなたと共にいる。 それで十分ではないか。 わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現われるのだから。」 今では、私は、自分の弱さを喜んで誇ります。 力や才能を見せびらかすのではなく、喜んでキリスト様の力の生き証人になりたいのです。

 コリント書は、パウロが、開拓伝道をして生み出したコリントという町の人々に宛てて認めた手紙です。コリントはギリシャ半島のアテネの近くにあります。

 コリントの教会には不道徳と混乱がありパウロを大変悩ませました。第一コリント人への手紙は、これに対して叱責と戒めが書かれています。第二コリント人への手紙には、第一の手紙が受け入れられたかどうかを知り、且つ、今一度申し置きたい事柄が書かれています。

 パウロに不信感を持つユダヤ主義的な教師たちがコリントにやってきては、パウロを誹謗中傷し、パウロの伝道を攪乱したのです。パウロは、それに対し、何を言うのか、私が伝えることと違った教えをするような者があれば、たとえみ使いであっても容赦はしないと屈することなく証しをしたのが第二コリントの12章なのです。パウロは、ふつうの人が経験することはない著しい幻に出会っています。第三の天を見たのもそうでした。そのことで、パウロを神のように崇めるのは間違いで、飽くまでも、信仰、礼拝するべきお方は主イエス・キリストさまなのですが、パウロの幾多の特別な経験は、パウロの位置づけとして、とても重要です。

 今年の御聖言(みことば)として、この第二コリント129を取り上げました。

パウロは、風土病であるマラリヤに悩まされ、またガラテヤ伝道の頃からは、目がかなり見えにくくなっていました。それは外観からも晒すに耐え難いほどでした。パウロは癒しを祈り願った、しかし、神様はこれを癒してはくださらなかった。癒されなかったが、神は、これを通してパウロを一層強め、高みにへと引き上げてくださったのです。病、貧しさなどの試練を取り去って下さるようにとの祈りに、神は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」とお答えになる。これを通った者のみが導かれ知ることのできる神様のこの者たちへの高いあつかいがあります。

 詩篇62篇を見ましょう。

11 神は、一度告げられた。
二度、私はそれを聞いた。
力は、神のものであることを。
12
主よ。恵みも、あなたのものです。
あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。

 また第二コリント12:9に注目しましょう。

手元にある資料から、すばらしいことばを紹介いたします。

スコットランドの聖書学者アレクサンダー・マクラレーン、日本で謂えば明治時代の人ですが、言っています。

「心に聖霊を、手に聖書を持っている人は、必要なすべてを持っている」

『わが恩惠なんぢに足れり、わが能力は弱きうちに全うせらるればなり』

今年、皆さんも必要なおことば、握りしめている聖書のことば、これがあれば、すべてを持っている、足りるのです。アーメンと頷きながら、話を進めていきます。

 さて、パウロには、眼病のような肉体の棘(とげ)といわれるような難題がありました。この棘、即ち、自分がいま直面している問題、課題の解決法は二つあります。一つは、重荷を減らせばよい。そしてもう一つは、重荷を担えるように、担う力を増し加えることです。パウロは、重荷を減らしてくれと祈った。しかし、神は、担えるように力を増し加えることで解決してくださいました。聖書を見ると、神は、重荷を減らす方法ではなく、力を与える方法で導いてくださいます。

 イエスさまは、十字架に架からなければならなかったとき、願わくはこの盃を取り除いてくださいと祈りました。さらに、しかし御心のままにと祈ったのです。天の父なる神様は、その苦しみを担える力を増し加える方法で十字架の贖いを見事に成し遂げてくださいました。

 これを見るとき、私たちが今直面している難題を取り除いてくださいと神に祈っていいことではあるのですが、しかし神はもう一つの解決方法をよみしてくださる。重荷を負っているあなた自身が強められればいいのだよと神様は仰る。どうしたらいいのでしょう。そうです。恵みに、神様の恵みに着目しましょう。「わたしの恵みは、あなたに十分である」。今あなたが持っている恵みで十分であると神様は仰っています。何か不足ですか? わたしはあなたとともにいる、それで十分じゃないか? すこしくだけた言い方をすれば、それで何か文句があるの? と神様は言われるのではないでしょうか。あなた方が今持っているもので十分。

 ここでヨハネ6章をご覧ください。少年が持っていたわずかなお弁当を増やして5000人から1万おなった。t人の人々に分け与えた奇跡が記録されています。少年が持っていた僅かなお弁当をイエス様に持っていったときに、多くの群衆に十分に分け与えられた。このお弁当を少年が持っていただけでは、増えることはない。ところが、持っていくという行動を取ったところで、それはどんどん増えていった。こういうことなのです。少年が自分のものだけにしておいたなら、それはそれだけで終わってしまった。しかし、それをイエス様に託して行動を起こすならば、起こすたびごとに、果たしてこんどのこのグループには足りるのかな、おっとまた増えた、この成り行きをお弟子さんたちは体験していったのです。トハネ61213には、みなが十分に食事をし、残りを集めてみると、なお12のかごにいっぱいになったとあります。

 また第二コリント129に戻ります。

「わたしの恵みは、あなたに十分である」

 イエス様のもとに、イエス様とともにあるとき、十分なのです。12のかごに余るほどの恵みがそこにあるのです。

 私たちは、自分が何かに頼ろうとするときに、杖とすがるには、折れた葦よりも、鉄の支柱を渡された方が心強いと思うでしょう。しかし、神様は、それとは逆なようです。

 それと、自分が何らを成しうる一門のものである、鉄のような実行力、能力があると思っている者だとしたら、神様は、そのような者は用いられません。イエス様が私たちを用いようとするとき、それによって神の栄光を表そうとされるときには決まって、折れた葦のような人に見向きもされない弱いもの、自分の弱さをほんとうに知っている者をこそ神は用いられる。そして用いられた者が、決まってキリストの力が自分をおおって下さることを知るのです。これは聖書にしばしば出てくるパラドックスです。神様が2017年に、第二コリント129を指さしてくださっている理由は、このようなところにあると思っています。これにアーメンと頷きながら、ご奉仕に当たらせていただきたい。弱さのうちにあらわされる働き、9節に「キリストの力が私をおおう」とございます。この「おおう」という言語の意味は、「幕屋を建てる」「テントを張る」という意味です。イエス様の力が、私のすべてをおおってくださって、詩篇1197のように「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」と告白することになります。

 神様はいたずらに私たちを、苦しみ、困難に直面させるお方ではありません。そこを通ることによって、私たちには学ぶべきものがある。そこを通たからこそ見えるものがある。そこにおいても、やはり神様の恵みは十分だったのだと知ることができる。

 深い井戸に落ちたときに、普段は見えていなかった星が見えることがあるそうです。教育TVが実験に乗り出したこともあるようです。謂わんとすることは、暗闇の底からしかわからない、そこにいなければわからない星がある。その事実を知っている人は、困難が何もないところを通ってきた人よりも、はるかに大きな恵みを実感し、生きていけるのではないでしょうか。それはキリストに似た者となることでもあります。

 第二コリント129を読んで締めくくりましょう

新改訳12:9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

 

※説教の掲載は諸般の事情から定期的には掲載しかねますのでご了解ください。これが何らかの一助となれば幸いです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

白鳥

Dscf6442118

  きのう、教会に行く途中、高松の池に5分ばかり立ち寄って白鳥を撮ってきました。水を美しく撮るためには、やはり空が青く晴れ渡っていないと。これを逃すとまたいつになるやら。鳥インフルエンザの拡散防止のために池の周囲に石灰が撒かれていました。ちょっと怖いので、遠くから写しました。

 今朝は雪景色。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

聖書のことば

024
 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の國光勝美牧師の元旦礼拝説教『わたしの恵みは、あなたに十分』では、第二コリント12:1~10のおことばが引証されました。
12:1無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。 12:2私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。 12:3私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。―― 12:4パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。 12:5このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。 12:6たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。 12:7また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。 12:8このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。 12:9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 12:10ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

この日は、併せて、聖餐式がありました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

松の内もおわる

20150116_140314aozora

 この辺りの松の内は7日まで。15日のところもあるようだ。数年前、7日を過ぎてもお飾りを外さずにいたところ、わたしが恥をかいては大変と知らせてくださった方がある。10日もあれば15日もあるさとのんびりしていた私は、やはり、その土地なりの習慣はあだや疎かにすべきではないのだなと思った。

 帰省していた息子たちもUターン、家の中が急に静かになった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

伐られた木

001

  左から最初の木が、伐り倒されて今はない枝垂桜。そしてその右隣が、やはり同じ年に切り倒されてない梅の木。つまりは木の遺影ともいうべき写真。スクロールさせているうちに、目に留まり、ああ、あんなにきれいに花を咲かせてくれたものをと、愛おしさがこみ上げた。人の都合で伐られてしまい、もう咲くことも実をつけることもない。人がそれをできなくしてしまったのだ。けれどもデータの中には、見事に咲いていた写真も保存されている。そこにすがたを留めている。そしてわたしが生きているあいだ、このPCの管理者たり得るうちは、そのすがたを思い出すことができるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「徹夜禱」

 けさのクラシック倶楽部は国立モスクワ合唱団の演奏会。芸術監督、指揮はウラディーミル・ミーニン。演奏曲のうち、ラフマニノフの「徹夜祷(てつやとう)」がよかった。

 「徹夜祷」は、ロシア正教の典礼曲で、大きな祝日、主日の前夜に夜を徹して行われる礼拝のために書かれた15曲からなる無伴奏の混声合唱曲。ロシアの作曲家セルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943)が2週間で作曲したといわれている。名だたる楽曲のうち、この「徹夜祷」を多くのロシア人がラフマニノフの最高傑作とする。この作品は1915年に完成したが、1917年のロシア革命後にはソビエト政権に禁止され、70年間封印される。

 原曲はロシア語だろうかラテン語だろうか、まさかドイツ語かと調べてみると、教会スラブ語。教会スラヴ語というのは、古代教会スラヴ語より後、11~17世紀頃に東・南スラヴで用いられていた文章語だという。

 演奏にこれ務めているのが、東京トロイカ合唱団。本家本元のロシアに持ち込んだところが、絶賛されたようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

沿岸に響く楽の音 宮古ジュニア弦楽合奏団

Photo

 宮古ジュニア弦楽合奏団主幹第51回「音楽の夕べ」
この中には、音楽の系譜、梅村保氏から5代目がいます。

下は、宮古市の梅村ヴァイオリン教室で、梅村圭一先生の後を継いで下さっている小松(旧姓梅村)智佳子先生の演奏。

イメージ 2

9月15日に行われた 陸前高田 普門寺での 「バッハ演奏を五百羅漢に捧げる 10年企画コンサート」。(広島の方が企画しています。)
お客様は五百羅漢さんと地域の方々。  430体ほどになった羅漢さんの前で演奏してきました。
天気予報では雲が出そうな感じでしたが、演奏始まる前からお月様が顔を出しました。
今年も月明かりの元演奏することができました。
                ー小松智佳子先生のブログから転載ー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

読書

016

  「羊と鋼の森」、また読み返している。主人公はピアノ調律師。ピアノのすべてがわかる。優れた調律はすぐれた演奏につながる、この連鎖のすばらしさがいよいよわかってくる。登場する双子の姉妹が奏する音の感性の違いが、妹が弾けなくなったときに、まるで妹の感性が姉に移ったかのような響きとなる。姉がプロのピアニストになる決意が、主人公の調律の感性を開花させる。その音を連想させる音楽表現が当を得ている。手元に置いておきたい一冊。

 ☆

 きょうは午後から帰省中の息子と墓参り。その後、混雑に巻き込まれないルートで買い物に。市中に出ていた気温は、4℃、2℃、6℃。

 ☆

 裏庭にはびこっているクローバーが、地面に緑の少ないこの時期に生きいきと鮮やかに見える。

 ☆

 クラシック倶楽部、きのうのジングフォニカーといい、きょうの4大テノール演奏会といい、音楽の楽しさをそのまま受け取っています。清水徹太郎さん、竹内直紀さん、二塚直紀さん、山本康寛さん、クラシックの間口を広げてくれました。日本が、たしかに明るくなったよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

実りある年に

 これほどゆったりとした正月は近年なかった。例年は、文芸誌の原稿の締め切りを終えて、それの改稿、校正に忙しかったからだ。ことしは100枚程度のまとまったものには手がつかず、結局、400字詰めで7、8枚程度の近況を記したのみ。体力的にはとても楽だった。
 元旦には礼拝に出かけたのみ。帰る途中、神社に詣でるクルマが列を成していた。2日間は買い物にも出かけず、冷蔵庫に買いためた食材をひたすら消費している。あと2日は籠城できるだろう。
 平穏な日々を願い、世の中が平和であることを願い、何か一つでも、ことしはこれを成し遂げたと実例を示すことができる年としたい。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年元旦

P1130435

   ことしも宜しくお願い申し上げます。

        ♪わが行く道(讃美歌494番)

   わが行く道 いついかに
   なるべきかは つゆ知らねど
      主はみこころ なしたまわん
   (折り返し)
     そなえたもう 主の道を
       踏みて行かん ひとすじに


   こころたけく たゆまざれ
   ひとは変わり 世はうつれど
      主はみこころ なしたまわん
  ※折り返し

   あらうみをも うちひらき
    すなはらにも マナをふらせ
      主はみこころ なしたまわん
  ※折り返し

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の引証聖句は、第一テモテ1:12~17.國光勝美牧師の説教題は『罪びとを救うために来られた主』でした。

1:12私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。 1:13私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。 1:14私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。 1:15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。 1:16しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。 1:17どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »