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2016年12月

途轍もない矛盾



 自分の外に向かっての思いやりというものがどの程度であるのかには甚だ自信がないけれども、年越しというこのときに、はて何を書こうかしらんと思いめぐらすうちに、このような難民の方々のすがたが浮かんだ。いつの時代にも対極を生きる人々が存在する。納得できる答えがない。報道されているのはほんの断片にすぎない。事実はもっと目を覆うほどに過酷なのだ。そして世界は、徐々にこのような人々を排除する流れにある。冷静な解説を聞きながら、ニュースの内容の深刻さ酷さに、はじめのうちは涙し、何かせねばと思う。しかし災害、テロ、戦禍をあまりにしばしば画面に紙面に見るうちに、どこかが麻痺していくのにははっとさせられる。甚だしくは、一瞬、わが身にもこの国にも及ぶとなれば、何とか防がねばと無意識のうちに思ってしまったが、これがまさしく人の罪というものだろう。なぜこのような両極が存在するのか、この人たちが窮状に耐えかねて、平穏無事に暮らす人々にとって問題と判断される行動を起こせば、こんどは警察、軍隊が鎮圧と称して銃口を向けるのだろう。これもまた昔からあったパターンなのだ。途轍もなく矛盾に満ちている。せめてクリスマスや復活祭、正月だけでも、このような方々に心身の休むときがあるようにとの思いになった。

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第九

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  TV。サイモン・ラトルのベートーヴェン「第九」、2015年版を聴く。あと一日でことしも終わる。終わるとはいうものの、きょうというこの日も長大な記録フィルムのひとコマとして、まだ認識されていない次元にそっくりそのまま保存されているような気がしてならない。
 よく飽きもせずに「第九」、一時期はもういいかなとも思った。しかし、聴覚障害のベートーヴェンがこの作曲に没頭しているさまを思い描くようになってから、聴くほどに、不思議で仕方がなくなる。また新たに聴くような心境となる。飽きもせずに。

 ☆

 きょうは終日料理作り。義妹たちとの、主人のお祝いを兼ねた食事会。お互い多忙で今日まで延びのびになっていた。久方ぶりに賑やかなひと時となった。義妹が作ってきてくれたパエリヤ、彩も美しく、香りもよかった。敵わない。舅、姑がもし生きていたなら、どんなに喜んでくれたであろうか。

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降雪

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12月のはじめ、雪のふるなかで咲いていたベルケア。

 ☆

 雪らしい雪を見ぬまま新年を迎えることになるかと思いきや、29日のきょう、また雪が。二男のお土産のチーズケーキをいただいてから買い物に出る。いまのところ文学にはまったく関心のない息子たち。遠い将来、時間ができたなら、何か書いて欲しいと願いはするけれども、息子は息子、それぞれでもかまわない。

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健やかで

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 ちょうど20時45分ごろに、家の上空に白鳥の鳴きごえがしていた。暗闇にも移動しているらしい。ことしは鳥インフルエンザ騒ぎもあり、写真撮りに出かけてはいない。これは今年の3月の写真。白鳥の寿命はどれぐらいだろう。いまリンクした先で見てみると、
■平均寿命 : 野生10年/飼育下20年■ 最高寿命 : 野生15年/飼育下30年とあった。短絡はできないけれども、この写真の白鳥たちは、10年間、この地を訪れてくれているのかもしれない。渡りはふつうは昼間。コースは千島列島経由とサハリン経由があるようだ。この地といっても、盛岡もこの地なら伊豆沼もこの地。シベリアから平均時速50キロで。ほんとうにごくろうさま。インフルエンザに罹らずに過ごしてほしい。さっきのように夜に移動するのはどういう理由からだろうか。いずれにしろこの地にいるあいだも健やかであって欲しい。


 

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充電

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  災害、政情不安、難民の群れ、先行きの不安を拭えないままに、のこる師走が忙しく消化されてゆく。今年のうちにあれもこれもそれもと想いは急くが、無意識の底に鉛が重しを効かしているかで、なかなか能動的に動き出しかねている。
 you tube にあるヴェートーヴェンのピアノソナタ「月光」を掬うように聴いてみる。you tube には良し悪しさまざまにひしめき合っているけれども、奏者を確かめずに聴いたところが、ああ、ここはこうではない、なぜそんな無機的な音を羅列するのか、耐えられなくなって飛んだ先が、そう、こうでなくちゃ、こうでなくちゃ、音の隅々に神経がゆきわたり、一音一音が生まれくるごとに包容力を感じさせる、奏者を見ると小菅優。なかなかと聴きながら、楽器を教える先生方の御忍耐をいまさらながらに知る。
 続いてキリスト教の説教の動画を見る。ヤクザから生還し牧師になった方々、まるごと説得力ある事実そのままの説教に頷かせられる。「罪人の教会」牧師。筆者の教会も素晴らしい教会で、もっとたくさんの方々が聴きに来て当然なのだがと思っているが、こちらもまた有無を言わさぬ説得力だ。
 行きついてみるとベルリンフィル・デジタルコンサートホールに。息子からのクーポンプレゼントで。しばらくはここで心の充電をはかる。

 

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友達が送ってくれたカード & クリスマス、ア・ラ・カ・ル・ト

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 横浜にいるわたしの友だちが送ってくれたカードです。彼女のためには何があっても駆けつけなければと思っていますが、堅実、清廉で向日性の彼女からは、むしろ教えられることの方が多々。

 ☆

 一昨日のキャンドルサービスのときのおはなしは、2010年、チリのコピアポ鉱山の落盤事故を交えたおはなしで、事故から69日後に33人の男性作業員全員が助かったときのことでした。事故に遭い、絶望の中で荒んだ人々もあったが、クリスチャンである方が、神を信じて祈ることを説き、日々祈りが捧げられ、坑内の秩序は保たれ、そして救出されたとき、そこには33人ともう一人のお方イエス・キリストがおられたということでした。

以下は.wikipediaからの転載です。
 鉱山事故に遭遇した労働者が、緑色のつなぎの上に着用していた褐色のTシャツは、ホセ・エリンケスの家族からのCampus Crusade for Christ Chileへの依頼に基づいて作られた。Campus Crusade for Christ Chileは、聖書と「イエス・キリストは墓のような洞穴の奥から、岩を動かして復活する」という聖書をもとに作られた映画を地下へ提供し、作業員を励ましていた。イエスは33歳とされていること、作業員は33人であることなどが、作業員の励みになったとされている。左腕に"JESUS"、正面に“¡Gracias Señor! Thank you Lord”(スペイン語と英語で「主よ感謝します」)”、背中に詩篇95篇4節の"Porque en sus manos están las profundidades de la tierra. Y las alturas de los montes son suyas"(「深い地の底も御手の内にあり 山々の頂も主のもの。」)"と書かれている。

 ☆

 きのうはクリスマス礼拝、そして午後は祝会。トーンチャイム、オカリナ、ギター演奏、弾き語りがありました。またY一家の英語での讃美歌2曲はネイティブ、ブラボーでした。

 プロジェクターで「アルタバン物語」を観ました。
 お生まれになる救い主にぜひお会いしたいと、自分の財産をサファイヤとルビーと真珠に変えて出立、ところが、行く先々で病人や殺されそうな幼子、奴隷に売られてゆこうとする娘たちに遭遇し、助けるために宝石をみな手放してしまう。やっとキリストにお会いできたときにはもう33年の歳月が経っており、しかも、イエスさまはもう十字架に架けられていたのでした。アルタバンは言いました。とうとう主にお会いすることもできず、主のために何一つできなかった、贈り物を届けることもと。しかしその時、アルタバンにはイエス様の声が聞こえたのです。

 
「まことにあなたに言っておく。わたしの兄弟である、これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」。

 
ゲーム、茶菓、プレゼント交換。いつもすばらしいアイデアで皆様を楽しませてくださるT姉と皆様に感謝、ケーキ作りの牧師婦人、Y姉、ごくろうさまでした。おいしかった! わたしがいただいたプレゼントは香りのよい可愛らしい石鹸の入ったバスギフトと素敵な和風柄のハンカチでした。ありがとうございます!

 自宅でのクリスマスは23日、ドイツ風というとさては○○ホテルのフルコースか××料亭の懐石かと思われる方も、しかし、しかし、然にあらず、自宅でまことに質素に静かに、これぞドイツ風。小さな小さな小~さなデコレーションケーキにキャンドルを灯してイエス様のお誕生をお祝いしました。  

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メリー・クリスマス!

                 クリスマス、おめでとうございます!               

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                                         教会のクリスマスカードです

                    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 先週の第三アドベント、インマヌエル盛岡キリスト教会の説教は『キリストの顕現の三様態』、聖書引証個所は、ヘブル書9:23~28でした。

9:23ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。 9:24キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。 9:25それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。 9:26もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。 9:27そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、 9:28キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。 

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聖夜

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

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燭火礼拝に参加、イエスさまのご降誕をお祝いしました。

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冬至をこえて - ときは一路春へ

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冬至

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        城南小学校(12/8撮影)

 

 ☆

 

 きょうは冬至。4時半起き。エゼキエル書。あれやこれやと祈る。ようよう日が明ける頃に、近ごろは日中に偏ってきているウォーキングを励行。午前午後と明るい日差しに恵まれる。 

 

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エンドレス

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ベルリンの名門、ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団選抜メンバーによる室内オーケストラ ▽率いるは若きコンサートマスター日下紗矢子
曲目がパッヘルベル:カノン、ヴィヴァルディ:四季、
これはもう飽きるほど聴いているから聴かなくてもいいかなと思ってもいたのだが、惜しい気がして聴いてみると、やはり聴いてよかった。
 わたしのヴィヴァルディの演奏でベースとなっているのは、ギドン・クレーメル。どれか一つを徹底的に聴きこんでおくと、それがほかの演奏を聴くときの、比較という意味ではなく、その曲の理解の仕方においてよい尺度になってくれるものだ。
 日下さんにとっては弾き振り。コンマスが単にチューニングの基準音を指示をするばかりではなく、演奏のぜんたいにわたって、どこで次の音を出したらよいかなど、メンバーの事細かな質問にまで答えなければならない立場にあるとなると、日下さんがこの楽団にコンサートマスターとして迎えられた力量が推し量られることはいうまでもないだろう。
 ヴィヴァルディはテキストを与えているというけれども、その内容の掘り起こしと日下さんならではの解釈が随所に感じられるクレーメルとはまた一味違った味わい深い演奏だと思った。この曲では、冬をどのように弾いてくれるかがいつも楽しみ。キンキンカンカンと凍てついた氷柱にきらめく光が春の予兆を感じさせてくれるのだ。そして冬が冬で終わるのではなく、春の兆しを宿すこの旋律は、終曲とともにそのまままた春の冒頭につながり胸中で鳴り始める。つまりこのヴィヴァルディの曲はエンドレス、わたしの中では、終わっても尚鳴り続けてゆく曲であることになっている。

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おお、もみの木よ

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もみの木♪(←クリックして是非お聞きください)

ドイツ北部に古来から伝わる民謡にヨハン・アウグスト・ツァルナック1777年 - 1827年de)とエルンスト・アンシュッツ1780年 - 1861年de)が共同で歌詞を付けたものである。また、原曲の旋律は労働歌赤旗の歌」やアメリカ合衆国コーネル大学校歌メリーランド州[1]及びアイオワ州の州歌[2]としても使用されている。
日本語の訳詞は野口耽介の手になるものが古く、他にも複数の訳詞が存在する。

ー以上の解説はwikipediaから転載ー

     もみの木   詩 ぶんな

 ばりばりと凍てつく朝も、
 真っ青に晴れわたるときも、
 深い霧がすっぽりとおおっても、
 雲が重く垂れこめても、
 雹が枝という枝を打ちたたいても、
 降りしきる雨の日も、
 満天の空に星が瞬くときも、
 きりりと空をみあげ、
 しっかりと硬く立つもみの木よ。
 おお、もみの木よ。        
              

 

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12月11日第三アドベントの礼拝説教

引証聖句はマタイ伝2:1~12(前頁をご覧ください)

《國光勝美牧師の説教》

 ことしのクリスマスは、特に東方の博士たちについて学んでおります。前回(124日第二アドベント)は、アルタバンという人物が、救い主を訪ねる物語をたどりました。史実ではありませんが、聖書的な背景で考察が為されています。今回は(1211)、聖書にそった恵みをいただこうと思います。

  ヘロデの時代、ベツレヘムでイエス様がお生まれになったとき、東方の博士たちが、バビロン或いはペルシャの方からエルサレムにやってきてこう言ったのです。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは、東の方でその方の星を見たので拝みにまいりました」

 どうでしょうか。彼らにとって、ユダヤ人の王として生まれたことをあらわすしるし、彼らは、どうしてそれほどにユダヤ人の王として生まれる方を待ち望んでいたのでしょう。彼らは、ほんのわずかの知識しか持ってはいなかったでしょうし、ユダヤの王として生まれる者に、彼らはどうして、自分のすべてを捧げるような大きな冒険をすることができたのでしょう。そのメリットは何だったのでしょう。ローマの属国である片田舎の国に、確かに救い主が生まれるという言い伝えがあるので彼らは行動を取ったのですが、彼らの人生を賭けるほどの意味とは何だったのでしょう。考えると不思議です。その時点で、よほど自分のあり方に納得がいかないところがあったのでしょう。おそらく彼らは、人生の大切な目的はキリストに、神にあることに気づいて導かれていった。つまり、彼らには神に対する聖なる渇きがあった。詩篇421にもあります。

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。42:2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」
 これが東の博士たちの動因であり、大きな行動力につながったでしょう。
 私たちの今の信仰のすがたに照らしながら思うに、果たして私たちは、神に対するこのような渇きを持ちながら歩んでいる者であるかを自問自答します。

 もう一つ、ヘブル111を読みましょう。東の博士たちの想いを理解できるでしょう。

11:1信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。11:6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

 東の博士たちは、彼らなりの精いっぱいの信仰をもって、生ける神に対する渇きを覚え大きな決断をいたしました。当時、博士らと同じ思いを持つ人々はすくなからずあったでしょう。そこで、行動を起こすか起こさないかの違いです。決断し、信仰をもって踏み出す人は少なかった。その意味において、この東方の博士たちのスタートと、自分の信仰のスタートとを重ね合わせてアーメンと頷くことができるのではないでしょうか。多くの人たちは、この踏み出しを選択しなかった。渇きを持っていても、世の中の楽しみや、そのほかの渇きを紛らわせるものを選びとっているのです。

 クリスチャンである私たちはどうでしょう。一度は信仰を持つ決断をし、前に進み出たお互いではないでしょうか。

 ここで博士たちの旅を考えてみましょう。マタイ2:1には「東方の博士たちがエルサレムにやって来て」と簡単に書かれていますが、実際には、エルサレムに着くまでは1年前後かかっていたのです。博士たちのはじめの意気込みは最後まで続いたでしょうか。はじめの意気込み、感情の高まりは、何れは消えていくものです。

 出エジプトを思い出しましょう。エジプトで苦役にあえいでいた民は、過ぎ越しを経験し、モーセによって引き出され導かれ、カナンの地を目指します。しかし道は紅海によって阻まれ、しかもパロの軍勢が追い迫ってきます。その時、神は紅海をわけて海のただ中に道をあらわし、民を救い、エジプト軍を破滅させたのです。それを目の当たりにし、感謝しながらも、ほどなく、彼らは水がない、食べ物がないと神に文句を言いはじめます。これを今の私たちにあてはめますと、イエス様の十字架を信じる決断をしながらも、試練が出てくると、神に文句を言い、エジプトに帰ろうと騒ぎはじめる。

 博士たちを見てください。キャラバンを組んでの長い旅、火の蛇も盗賊、強盗もいるのです。警護を雇うわけでもなく、危険がいっぱいです。旅して一か月、二か月と経つうちには、自分たちの決断は正しかったのだろうか、ほんとうにこれでよかったのだろうかと、間断なくサタンの誘惑に襲われたでしょう。サタンは言うでしょう。「お前たちは間違っている。ユダヤの王に会いに行くだって、笑わせるんじゃないよ。それがお前といったい何の関係があるんだ?」

 このようにサタンは、間断なく博士たちの旅を妨げようとしたに違いありません。絶対にそうであったはずです。

 確信をもって言えるのは、イエス様が十字架に架かるというあの使命のために一歩踏み出されようとしたときに、「お前がもし神の子ならば」といってイエス様を熾烈な誘惑に置いたのと同じ勢力が、博士たちをそのままにしておくわけがないのです。東方の博士たちの旅路、これは容易なものではありませんでした。

 ほんとうにこれで良かったのか?

 皆さんも信仰生活を送っていく中で、他の人々が世の中で成功していくすがたを見たときに、もっと別な人生があったのではないかとか、これで良かったのかなどというサタンからの激しい誘惑が絶えずあり続けたと思います。

 詩篇422には「生ける神を求めて」とあります。しかし、3節には「おまえの神はどこにいるのか」と人に揶揄される現実がある。クリスチャンだって、ごくろうなことだねえ、世の中の楽しみに背を向けていったい何が楽しいんだい?5節ではこの詩篇の作者はほんとうに思い乱れ、うなだれています。しかし敢えて5節で「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を」と自分で自分を励ましている。

 9 私は、わが巌の神に申し上げます。
「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。
なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」
10
私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるのか」と
私に言っています。

11
わがたましいよ。
なぜ、おまえはうなだれているのか。
なぜ、私の前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。
私の顔の救い、私の神を。」

 この詩篇42篇のすばらしいところは、信仰を持ちながらも紆余曲折を通り、もうわからなくなってしまうようなところでも、なお神を待ち望んでいる。

 博士たちは一年余の間、困難な中にも尚励ましあいながらそして導きの星を確認しながら大丈夫だ、大丈夫だと進みゆきます。教会の恵みもそういうところにあると思うのです。お互いに励ましあって病、試練にある方々の痛み苦しみを共に担い受けとめながら、一緒に星をみあげて、みことばをもって、さあ、すぐに主に会いに行こうじゃないか、だいじょうぶ、私たちの生涯の目的は救い主に会って礼拝することなのだからと進んでいく。そのために出てきたのですから。エペソ6:1020を読みましょう。

6:10終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 6:11悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 6:12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 6:13ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。 6:14では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、 6:15足には平和の福音の備えをはきなさい。 6:16これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。 6:17救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。 6:18すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。 6:19また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。 6:20私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

 悪魔が必ず信仰生活にもっともらしく攻撃をかけ、イエス様への礼拝を妨げようとします。妨害しようとします。エペソ書にある通り、神の武具を身に着けて進んでまいりましょう。

締めくくります。マタイ2:1012。ここに博士たちの歓びがございます。

2:10その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。 2:11そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。 2:12それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

 黄金、乳香、没薬、これらがとてつもない宝物であったことは多くの注解書で知ることができます。そしてこのことがあったからエジプトにこれからすぐヘロデの手を逃れてヨセフ、マリアとイエス様は、エジプトに逃れるのですが、それからあとの救い主たちの生活に大きな助けになったであろうと言われております。このときに、博士たちがさげた黄金は金、王にふさわしい贈り物です。乳香は、香を焚く大祭司、民と人との仲立ちをしてくださるその大祭司としての資格を持たれている幼児、これにふさわしい贈り物ということができるでしょう。そして没薬、これは葬りの時に防腐剤として塗ります。葬りの時に用いる大切なものであります。これも王としてのキリスト、大祭司としてのキリスト、そしてこのお方の葬りの備えとして、没薬がある。これは救い主の十字架の贖いのときのためと、博士たちはふさわしく捧げたのであります。そして、ひれ伏して拝んだとあります。礼拝を受けられた。この方は礼拝を受けるに値する神ご自身であるからです。

 

 この2016年のクリスマス、聖なる渇きをもって、このお方に私たちのすべてをもって礼拝をするということは、私たちのすべてをささげるということです。それこそ喜びです。私たちの真心すべてをおささげし礼拝をする。12節、「ヘロデに戻るなという戒めを受けたので、博士たちは別の道から帰っていった」とあります。

 クリスマス、わたしたちの旅路は、救い主にお会いするための旅路です。このクリスマス、お一人おひとり、どうぞ信仰の恵みをもって、このお方を博士たちとともに礼拝をお捧げしたいと思うのでございます。

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安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 出エジプト20:8

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 第三アドベント、インマヌエル盛岡キリスト教会國光勝美牧師の説教題は『信仰の旅路』、聖書引証は、マタイ伝2:1~12でした。

2:1イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。 2:2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」 2:3それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。 2:4そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。 2:5彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。

2:6『ユダの地、ベツレヘム。
あなたはユダを治める者たちの中で、
決して一番小さくはない。
わたしの民イスラエルを治める支配者が、
あなたから出るのだから。』」

2:7そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。 2:8そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」 2:9彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。 2:10その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。 2:11そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。 2:12それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

※主牧のクリスマスメッセージは今日中に次のページに掲載します。 

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それぞれの個性

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8日に撮りためた写真が尽きそうだ。

 冬至を越えるともう日は長くなっていく。光があれば、寒さが厳しかろうとも乗り越えられる。これらの雪景色もみな内にいのちをまもりながら春を待っているのだ。

 ☆

 きょうは中央公民館でもりおか童話の会の会合があった。きょうは、昔この会が招いていた吉川英治文学賞の作家須知徳平先生が来られていた頃によく使っていた別館控室だった。
 現在の代表は浅沼誠子さん。浅沼さんの司会で、時代小説2編、小説2編、音楽史というよりは資料の羅列が1編、いずれも途上作品の読みあげである。それぞれに異なった個性があり作品に反映されている。

 ☆

 わたしが、もりおか童話の会に出席している時間帯に、主人は、サンセール盛岡で行われた表彰式に出ていた。というのも、既にブログに書いた通り、岩手県芸術祭の児童文学部門に出した『セルフジャッジ』が芸術祭賞となったのだ。帰宅してからもすぐにパソコンに向かい、前に手がけた作品を手直ししている。
 わたしの方は、いま手掛けている資料をどこに焦点を当ててどう絞るかがいまだ手探り状態。帰宅してからまだ手つかずでいる。
 しかし、音楽の旅は楽しい。といっても飛行機で現地に行くわけではなく、これは音楽史、過ぎ去った今は音が聞こえるはずもない、もっといえば、過去に消えてしまい、今は聴くこともできない音源が残っていない昔の音への旅のことだ。資料を見て“聴く”、ある意味幻を聴いていると言えるかもしれない。かつて演奏された曲を、現代のディスクで確認し、それをもとに当時の演奏を想像する。いつも幻を追いかけている。幻をことばに置き替えるときに、それが作品となって手元にのこる。

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ハープの響きに澄んだ女声

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 盛岡市民クリスマスコンサート、福祉関係の役目がら知り合いになったYさんのお誘いで聴く機会を得ました。佐々木まり子先生指揮、ピアノ:千葉浩子さん、オルガン:芳賀あきさん、合唱:月が丘クワイヤ、ベッヒライン・フラウエンコア、月が丘クワイヤジュニア、そしてハープは神様の召命を受け日本に宣教師としてこられたというキャサリン・ポーターさんでした。一貫してイエスさまのお誕生の歓びをともに喜びましょうとの演奏、そして胸に迫るおはなし。殊にも「ダンシング・ディ」のハープと女声合唱の響きは美しく澄み天の香しさを分けていただきました。「もろびとこぞりて」、観客席の方々、もう一つの合唱団が歌っているような、とてもよい響きでした。Yさん、きょうはほんとうに有難うございました。

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新たに雪景色

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こまめに絞りを変えながら撮るといいのでしょうけれども、つい無精している。
 
 ☆

 きょうは地域のクリスマス茶話会。ちょうど始まる頃に雪がふってくる。楽しそうに過ごすのも協力のうちと心得た方々が盛り上げてくださる。プレゼントを準備くださった方々の細やかさ。感謝をする。きよしこの夜を歌いながらイエスさまの十字架をおもった。

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大忙し

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 なかなか手に付かなかったあれこれを一挙に片づけようと動いている。自分では意識していないけれどもバイオリズムがすこし上向き加減になったところで動き出しているのかもしれない。5時起きのTV視聴は時間のやりくり上、控えようと思う。これ以上の無駄口は慎むことに。

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大曲であることは間違いない

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  これも8日の写真。今月中は、ずっとこの日の写真が続きそう。

 ☆

 クラシック倶楽部、
第85回日本音楽コンクール本選会 作曲部門、これは観ようと思っていた。自分の作品を、特に現代音楽で定評のある板倉康明の指揮で東京フィルが演奏してくれる気分はどんなものだろうか。
「「齟齬し続ける君のために」―オーケストラの為の」青島 佳祐:作曲(7分15秒)
「「Cの連鎖」 for orchestra」引地 誠:作曲(11分13秒)
「Fantasia(長文タイトルにつき以下省略)」久保 哲朗:作曲(14分54秒)
「BIRTH 0-0(ZERO)」白岩 優拓:作曲フルートは斎藤和志、斎藤光晴(15分05秒)
              
-緑の字はクラシック倶楽部を参考-

 鑑賞力が乏しいのだろう、わたしには今一つという感じだった。次はどうか、次はどうかと期待しながら最後まで自分の感性に合ったところを見いだせなかった。新しいように聞こえるのだけれども、どれもが地表近くを低く燻っている感じなのだ。よくはわからないけれども、根本的なところに何か齟齬を覚える。あなたが齢とったんでしょ、鈍いんでしょ、と言われれば、はい、いかにもそうでしょうねというしかない自覚もある一方、強烈に迫ってくる個性がどうしても感じられない。創作に天国と地獄をのぞくことが必要かどうかは別として、その那辺が聴こえてこない、これが正直な感想だ。
 世の中には大先生方が控えていて、それ相応の価値基準をもって判断し、結果を下しておられるわけで、一介の音楽を聴きかじった程度のもののいうことではないと自覚しつつ、思ったところを、これはもう書くなのバッシングが来ることも恐れつつ、正直に書き留める。
 ただ若い方々なので、この先いよいよ研鑽を積まれていくだろうし、或いは、よく作曲家の方が「降ってくる」という表現をなさるが、それこそ、大曲が降って、今でも大曲であることには間違いないけれども、さらに磨かれたところで、イマジネーションが滝のごとくに降ってくることもあるかと思う。 

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さかさま

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安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 出エジプト20:8

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 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の引証聖句はマタイ伝2:1~12。國光勝美牧師の説教は『クリスマスの星』でした。
1イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」 3それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。 4そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。 5彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。

6『ユダの地、ベツレヘム。
あなたはユダを治める者たちの中で、
決して一番小さくはない。
わたしの民イスラエルを治める支配者が、
あなたから出るのだから。』」

7そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。8そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」 9彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。 10その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。11そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。 12それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

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※チラシ製作は、國光ご夫妻のご息女A姉のご奉仕です。

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12月8日の平和な朝の景色一枚

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 きょうの午後85回日本音楽コンクール本選の舞台裏、出場前の緊張や結果の悲喜こもごも、プロフィールなどが映しだされていた。作曲部門は、ある方が「不安定な音」、存在の不安定さということだろうか、「どこへ行くかわからない方が人間味がある」といったことを話していたが、やはり今はこういう傾向なのかと思った。クラシック倶楽部で13日火曜日朝5時に放送になる。

 ☆

 どのことばを紡ぐべきか、迷うときは筆をおく。

 

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どこもかしこも真っ白です

 真珠湾攻撃から75年、その成り行きにも新たな見方が取りざたされている12月8日、盛岡市では降雪、真っ白な朝を迎えました。どこも彼処も真っ白、美しい朝でした。こんな朝は樹木たちも、枝枝の先にまでハイライトの雪を積みながら、明け行く空をきっかりと仰ぎ見ているはずと、官庁街の舗道に足跡を印しながら、ユリの木やトチの木のすがたを撮りまわりました。

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 写真をこの画面に保存した直後に、ネットが切断、回復までに時間がかかりました。

    ☆  ☆  ☆

    7日のクラシック倶楽部は、Vn.樫本大進、Pf.小菅優、Vc.クラウディオ・ボルケスで、オールベートーヴェン。忌憚のない意見交換がよい演奏を生み出すとのおはなし。ピアノ三重奏曲作品1第1、ピアノ三重奏曲作品70第1「幽霊」から第2楽章。ベートーベンを聴くとき、いつも、もし彼の耳が聞こえていたなら、果たして、これらの曲はこの通りであったろうかと、作曲するする姿が浮かびます。「幽霊」では、ほんとうにベートーヴェンが音の周りを歩いているような気がしました。今活躍中の岩手の名だたるピアニストを育てられたM先生にお話をうかがったときに、「ひとりでピアノを弾いていたときに、ピアノの横にベートーヴェンが立っているのを感じたことがある」と仰っていたことを思い出しました。

 8日(木)、ミケランジェロ弦楽四重奏団。1Vn.ミハエラ・マルティン、2Vn.ダニエル・アウストリッヒ、Vla.今井信子、Vc.フランス・ヘルメルソンによるベートーベン弦楽四重奏曲全曲演奏があったようですが、このうち、弦楽四重奏曲 作品18第3から第1楽章、弦楽四重奏曲 作品59「ラズモフスキー」第2番でした。2015年2月26日(王子ホール)
 偉大な名前にあやかろうと、ミケランジェロの名を冠したとか。作品18の方は冒頭から7音上に飛ぶことで始めるのは当時としては珍しい。このこと自体が作曲者が只者ではない証拠。主題と展開に卓越した創造性があるとのこと。「ラズモフスキー」、今井さんが、第二楽章、これさえあれば生きていけると仰っていた。それぞれの音楽家には、この曲なら一生を捧げてもよいという一曲があるようだ。色彩、質感、緊密さがどんどん変化する、最後には明るく楽しく終わるところ、わたしは、ベートーヴェンが現実という暗闇を痛ましいまでに己に刻まれ刻みながらも、終盤には神との対話、語らいによって、それを希望に変え、絶望を昇華してしまう彼の作曲のすばらしさかと思った。

 9日はN響メンバーによるベートーヴェンの交響曲第8番、管楽8重奏曲作品103だったようだが、連日に少々疲れ気味で割愛。しかし後々の参考にと書き留める。来週は、第85回日本音楽コンクール本選会だけれども、TVの前に座っているゆとりはなさそうだ。

 それにしても、オケの場合は、個々の音楽家たちが見えにくいけれども、こうして室内楽となると、これほどすばらしい演奏家たちがいたのだと驚くばかり。できるだけ視聴しておこうと思う。

 

 


 

 

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クリスマスのご案内

 さまざまなクリスマスの過ごし方があると思いますが、ほんとうにクリスマスらしいクリスマスを過ごしたい方へのご案内です。
 クリスマスツリーはドイツ生まれ。もみの木は厳しい冬を耐え忍びます。その生命力と堅実さ。質素に穏やかに過ごすのがドイツのクリスマス。
もみの木♪(←クリックで曲が流れます)

 肝心のイエス様はナザレのベツレヘム生まれ。イエス様のお誕生をお祝いするのがほんとうのクリスマス。なぜか世界中のありとあらゆるところで祝われています。♪きよしこの夜♪(←クリックで曲が流れます)

主よみもとに近づかん(←クリックで曲が流れます)

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音の輝き

けさのクラシック倶楽部 

川久保賜紀 バイオリン・リサイタル ▽【出演】川久保賜紀(バイオリン)、江口玲(ピアノ)【曲目】ベートーベン:バイオリン・ソナタ第2番 イ長調 作品12第2から、バイオリン・ソナタ第9番 イ長調 作品47「クロイツェル」【収録】2016年4月23日 フィリアホール(「クラシック倶楽部」から転載)

 2002年、春にNYS CLASSICSより発売されたソロアルバム、「Dear America,」はレコード芸術から特選盤に選ばれ、「極上のエンターテイメント」「ガーシュインの霊が乗り移ったかのよう」と評された。また、二枚目のアルバム、「巨匠たちの伝説」(2003年6月発売)はカーネギーホールオープン時にステージ上にあった1887年製のピアノを使用し、カーネギーホールで録音された。このCDもレコード芸術誌から特選盤の評価を受け、二枚連続選出の快挙となった。
 三枚目のアルバム「Pictures at an Exhibition」(ホロヴィッツ版を演奏)は2006年7月に発売され、レコード芸術からは準特選の好評を得ている
(「江口玲、プロフィール」から転載)

 演奏がすばらしいことは言うまでもないのですが、きょう使用のヴァイオリンの音が、ああ、これはいいなと、弦の倍音、明るく繊細で、耀きを放っている旋律に惹き込まれたのですが、久方ぶりに、この楽器は誰の? と。それで下記に財団、その他から貸与を受けている方々を見たのですが、川久保さんのお名前はありませんでした。TVで名器とふつう(かなりよい音色)のヴァイオリンの聴き比べを見たことがありますが、必ずしも一通りの回答ではなかった。名器ではなくとも、優れた演奏家の手にかかれば、すばらしい音楽を奏でられるという感じも。ただ、やはり名器は名器。ストラディバリ・サミットコンサートを聴きにいったことがありますが、やはりすばらしかった。ましてプロならみなが。川久保さんのが貸与かご自分の名器かはわかりませんが、すばらしくきれいな音色でした。
 江口さんがピアノに立てかけた楽譜、あれはタブレットなんでしょうか、はじめてみましたが。これからはこんな景観になっていくんでしょうか。ふつうの楽譜、ページがはらりと捲られる紙の感触のほうがピアノにも優しいと感じるところ、そう感じる私がもはや骨董品になってしまったのでしょう。ひび割れた骨董品とまでは言われたくないものですが。

 ☆
日本音楽財団から【貸与を受けている日本人のアーティスト】
竹澤 恭子 1710年製作ストラディヴァリウス “カンポセリーチェ”
諏訪内晶子 20世紀ヴァイオリン界の神様ヤッシャ・ハイフェッツが愛用していたストラディバリウス「ドルフィン」。
樫本 大進 1722年製ストラディヴァリウス「ジュピター」
庄司紗矢香 1715年製ストラディヴァリウス「ヨアヒム」
川久保 賜紀 1736年製ストラディヴァリウス「ムンツ」。
安永 徹 1702年製ストラディヴァリウス「ロード・ニューランズ」
東京クヮルテット ストラディヴァリ「パガニーニ・カルテット」
石坂 団十郎 クロンベルク・アカデミーより貸与。W.シュナーベル作1997年製チェロ
日本音楽財団より貸与。ストラディヴァリウス1696年製チェロ「ロード・アイレスフォード」
【日本音楽財団以外から貸与】
五嶋みどり ㈱林原共済会から終身貸与。1734年製グァルネリ・デル・ジェズー “エクス・フーベルマン”.

 五嶋 龍 日本のNPO法人イエローエンジェルから貸与。1715年にストラディバリが製作した伝説の名器「エクス・ピエール・ローデ」。

 戸田 弥生 小野グループからの貸与。1694年製ストラディバリウス「スギチェリ」 
川井郁子 大阪芸術大学所蔵より貸与。1715年製作ストラディヴァリウス

日本音楽財団が保有しているのはストラド(アントニオ・ストラディヴァリウスの作)が18丁(バイオリン14丁・チェロ3丁・ビオラ1丁)、デル・ジェス(グァルネリウス・デル・ジェス作)のバイオリンが2丁で計20丁です。
(以上、「ザ・オーケストラ 」から転載)

 ヴァイオリン製作者は多くいらっしゃるにもかかわらず、名器中の名器は1600,1700年代に製作されたものばかり。いまの技術、科学の力をもってしても作ることができないのが不思議です。ピアノにしても、海の向こうからいったい何台のスタインウェイが持ち込まれているものか、何とか日本でスタインウェイに匹敵する、或いは凌ぐピアノを開発できないものか、と思うのだがと書きつつ、書くまでもなく日夜最大限の試みが為されているはず、それでも叶わぬところを見ると、楽器製作は、神秘中の神秘としか思えない。

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空っぽにして

あすはチェロ、ときょうの早朝の番組をチェック。それが見逃してしまった。「ぶらあぼ」のウェブページには、とてもいい感じで紹介されていて、オールベートーヴェンもトークも楽しみにしていたはずが。おそらくはお持ちであろう一家言も聴き損ねてしまった。

 啄木の歌を思い出し、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ……」、この深層心理かと自分を探る。ではない。そうではない。人を羨むのではない。何かはわからないけれども、いまひとつ力が出ないのだ。「どれもこれも未完」、この思いが一極集中に没頭する力を分散させ自分を無力にしてしまっている。とにかく覇気が呼び覚まされない。バイオリズムが底に来ているのか。単純にすこし疲れているだけかもしれない。とかく月曜日はゆっくりしたい日であることもたしか。こういう日は何も考えずに心も空っぽにしてやすむに限るのだろう。

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安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 出エジプト20:8

              舟越保武「ゴルゴダ」

  先週、第一アドベントの聖日、教会は大掃除や楽器の練習で大忙しでした。Sさんという方が、山で集めたという秋の花々、それは、木立で自然にドライフラワーに進化した枯れて尚面影を留め、その風情を魔法のようにのこしている植物たちでした。カメラ不携帯でしたので撮りかねましたが。

 きのうの午後でしたか、TV、心の時代で、遠藤周作の「沈黙」が取り上げられていました。刊行から50年、今もって海外でも多大な影響を与えているということでした。これもまたイエス様のご愛を思索、模索し追い続けたひとつの作品であり、また自分の実情に関わらず、イエス様を追い慕いもとめる多くの方々がいることのあらわれであると思いました。

 さて、人の作品ではない神の生粋の書物である聖書からのおはなし、先週のインマヌエル盛岡キリスト教会では、マタイ伝2:1~12が開かれ、「クリスマスの星」と題し、國光勝美牧師のおはなしがありました。

マタイ伝2章
2:1イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。 2:2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」 2:3それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。 2:4そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。 2:5彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。

2:6『ユダの地、ベツレヘム。
あなたはユダを治める者たちの中で、
決して一番小さくはない。
わたしの民イスラエルを治める支配者が、
あなたから出るのだから。』」

 

2:7そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。 2:8そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」 2:9彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。 2:10その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。 2:11そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。 2:12それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

 お話の要点
 救い主への導きの星が与えられることは、すでにイエスさまがお生まれになる以前に、民数記24:17、ミカ5:2に預言されておりました。
東方の博士たちが導きの星を見ることができ、救い主におあいし、拝することができたのは、その成就です。
 それでは、なぜ、他の多くの人々はこの星に気づかず、救い主におあいできなかったのか。一つには、無関心。一つは反発。そして一つは、心に解決されていない罪を持っているからです。このような場合、クリスマスの星は隠れてしまっています。エレミヤ29:13にはこう記されています。

もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

 礼拝の膝をかがめるために今私たちがここに存在することは大きな意義のあることであり、もういちど博士たちのように新たに心からの礼拝をささげましょう。

☆ このあと聖餐式に与りました。 ☆

   

 

    

 

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パイプオルガン

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もし楽器がなかったら
いゝかおまえはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光りでできたパイプオルガンを弾くがいゝ

                宮澤賢治「告別」から

チンダル現象

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聴衆を育てること

 クラシック倶楽部を短く。
 昨日は、世界で活躍する菊池洋子のピアノリサイタル。特にショパンの「練習曲作品25全曲」をおもしろく聴く。
 今朝は、アンドラーシュ・シフ
ピアノ・リサイタル。東京オペラシティでの収録、たしかベーゼンドルファーでした。特にインタヴューを注意深く聴く。「才能は努力なくして開花しない」。これは一般的にもいわれるかと。「何かを表現したいという気持ちがあればいつかはつたわる」。さて自分に是非とも表現したいものがあるのかと自問。そして次のことば、「聴衆を育てることは大切」「音楽を理解する力、聴く力を幅広く育んでいくべき」。


 
クラシックのコンサートに行くと、高齢の方々が多いけれども、またクラシック人口の少なさを思うときに、クラシックの世界に携わる方々は、どれだけこの聴衆を育てることに力を注いでいるだろうか。今に合わせると手っ取り早くはコミックのおすすめだろうか。「どれから読む?心が震える音楽漫画10選【クラシック・ジャズ・合唱・三味線】」といったお薦め漫画もあるようだ。その中でも「のだめのカンタービレ」は定番。音楽家の方々も最近では、コンサート本番前にショートメッセージを入れるなり、楽器や曲を楽しく紹介するなど、ずいぶんと分かりやすくしてくださっている。
 
流行歌も嫌いではない。名曲がたくさんある。ロック、シャンソン、パンク、民謡、演歌で気持ちがすっとすることもあります。ただクラシックには、やはり豊饒な世界があり、じゅーっと滋養が体に心にしみわたってくる。ノイローゼっぽさからも引き出してくれるぐらいの効果がある。好みは人それぞれでいいのでしょうけれども、恩恵を受けている身として、もっと愛好家が増えたならと願うところです。讃美歌は? これはいうまでもなく心に安らぎをくれますし、慰めがありますし、神を想わせますし、いつでもどこにでもあまねく満ちているべきものかと。「アメージング・グレイス」は神から人類へのプレゼントの一つだと私は思っています。

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ご案内

 12月といえばクリスマス。日頃の自分の足らざるを赦され今あるのは、やはりイエスさまのご愛のお陰であるとおもいます。何ができなくとも、多くの欠点が目につくとしても、なぜか、このような自分を神さまは存在させてくださっています。
 先だって、イエスさまを絵に描いてみたいと思い、まずはどんな顔をなさっていたかを調べているうちに、調べだけで終わってしまい、描くまでには至りませんでした。
 ごく一般のユダヤの方々のような風貌であることと、また私はこれはずっと思っていたのですが、一般的な聖画にあるようなハンサムな白人の顔ではない、人が慕うような見目麗しさはなかっただろうと。そして十字架上でのそれは、断末魔に苦しみ醜く歪んでいただろうと。舟越保武の「ゴルゴダ」を見たとき、イエスさまの十字架のお顔はこれだ! そう思いました。

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 クリスマスの月にもさまざまなイベントや展覧会などありますが、きょうは七宝ジュエリー展をご案内します。

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                      天沼美津子
                 七宝ジュエリー展  ⅩⅩⅠⅩ
                    2016.12.6(火)~11(日)
                                              盛久ギャラリー




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