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12月11日第三アドベントの礼拝説教

引証聖句はマタイ伝2:1~12(前頁をご覧ください)

《國光勝美牧師の説教》

 ことしのクリスマスは、特に東方の博士たちについて学んでおります。前回(124日第二アドベント)は、アルタバンという人物が、救い主を訪ねる物語をたどりました。史実ではありませんが、聖書的な背景で考察が為されています。今回は(1211)、聖書にそった恵みをいただこうと思います。

  ヘロデの時代、ベツレヘムでイエス様がお生まれになったとき、東方の博士たちが、バビロン或いはペルシャの方からエルサレムにやってきてこう言ったのです。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは、東の方でその方の星を見たので拝みにまいりました」

 どうでしょうか。彼らにとって、ユダヤ人の王として生まれたことをあらわすしるし、彼らは、どうしてそれほどにユダヤ人の王として生まれる方を待ち望んでいたのでしょう。彼らは、ほんのわずかの知識しか持ってはいなかったでしょうし、ユダヤの王として生まれる者に、彼らはどうして、自分のすべてを捧げるような大きな冒険をすることができたのでしょう。そのメリットは何だったのでしょう。ローマの属国である片田舎の国に、確かに救い主が生まれるという言い伝えがあるので彼らは行動を取ったのですが、彼らの人生を賭けるほどの意味とは何だったのでしょう。考えると不思議です。その時点で、よほど自分のあり方に納得がいかないところがあったのでしょう。おそらく彼らは、人生の大切な目的はキリストに、神にあることに気づいて導かれていった。つまり、彼らには神に対する聖なる渇きがあった。詩篇421にもあります。

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。42:2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」
 これが東の博士たちの動因であり、大きな行動力につながったでしょう。
 私たちの今の信仰のすがたに照らしながら思うに、果たして私たちは、神に対するこのような渇きを持ちながら歩んでいる者であるかを自問自答します。

 もう一つ、ヘブル111を読みましょう。東の博士たちの想いを理解できるでしょう。

11:1信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。11:6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

 東の博士たちは、彼らなりの精いっぱいの信仰をもって、生ける神に対する渇きを覚え大きな決断をいたしました。当時、博士らと同じ思いを持つ人々はすくなからずあったでしょう。そこで、行動を起こすか起こさないかの違いです。決断し、信仰をもって踏み出す人は少なかった。その意味において、この東方の博士たちのスタートと、自分の信仰のスタートとを重ね合わせてアーメンと頷くことができるのではないでしょうか。多くの人たちは、この踏み出しを選択しなかった。渇きを持っていても、世の中の楽しみや、そのほかの渇きを紛らわせるものを選びとっているのです。

 クリスチャンである私たちはどうでしょう。一度は信仰を持つ決断をし、前に進み出たお互いではないでしょうか。

 ここで博士たちの旅を考えてみましょう。マタイ2:1には「東方の博士たちがエルサレムにやって来て」と簡単に書かれていますが、実際には、エルサレムに着くまでは1年前後かかっていたのです。博士たちのはじめの意気込みは最後まで続いたでしょうか。はじめの意気込み、感情の高まりは、何れは消えていくものです。

 出エジプトを思い出しましょう。エジプトで苦役にあえいでいた民は、過ぎ越しを経験し、モーセによって引き出され導かれ、カナンの地を目指します。しかし道は紅海によって阻まれ、しかもパロの軍勢が追い迫ってきます。その時、神は紅海をわけて海のただ中に道をあらわし、民を救い、エジプト軍を破滅させたのです。それを目の当たりにし、感謝しながらも、ほどなく、彼らは水がない、食べ物がないと神に文句を言いはじめます。これを今の私たちにあてはめますと、イエス様の十字架を信じる決断をしながらも、試練が出てくると、神に文句を言い、エジプトに帰ろうと騒ぎはじめる。

 博士たちを見てください。キャラバンを組んでの長い旅、火の蛇も盗賊、強盗もいるのです。警護を雇うわけでもなく、危険がいっぱいです。旅して一か月、二か月と経つうちには、自分たちの決断は正しかったのだろうか、ほんとうにこれでよかったのだろうかと、間断なくサタンの誘惑に襲われたでしょう。サタンは言うでしょう。「お前たちは間違っている。ユダヤの王に会いに行くだって、笑わせるんじゃないよ。それがお前といったい何の関係があるんだ?」

 このようにサタンは、間断なく博士たちの旅を妨げようとしたに違いありません。絶対にそうであったはずです。

 確信をもって言えるのは、イエス様が十字架に架かるというあの使命のために一歩踏み出されようとしたときに、「お前がもし神の子ならば」といってイエス様を熾烈な誘惑に置いたのと同じ勢力が、博士たちをそのままにしておくわけがないのです。東方の博士たちの旅路、これは容易なものではありませんでした。

 ほんとうにこれで良かったのか?

 皆さんも信仰生活を送っていく中で、他の人々が世の中で成功していくすがたを見たときに、もっと別な人生があったのではないかとか、これで良かったのかなどというサタンからの激しい誘惑が絶えずあり続けたと思います。

 詩篇422には「生ける神を求めて」とあります。しかし、3節には「おまえの神はどこにいるのか」と人に揶揄される現実がある。クリスチャンだって、ごくろうなことだねえ、世の中の楽しみに背を向けていったい何が楽しいんだい?5節ではこの詩篇の作者はほんとうに思い乱れ、うなだれています。しかし敢えて5節で「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を」と自分で自分を励ましている。

 9 私は、わが巌の神に申し上げます。
「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。
なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」
10
私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるのか」と
私に言っています。

11
わがたましいよ。
なぜ、おまえはうなだれているのか。
なぜ、私の前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。
私の顔の救い、私の神を。」

 この詩篇42篇のすばらしいところは、信仰を持ちながらも紆余曲折を通り、もうわからなくなってしまうようなところでも、なお神を待ち望んでいる。

 博士たちは一年余の間、困難な中にも尚励ましあいながらそして導きの星を確認しながら大丈夫だ、大丈夫だと進みゆきます。教会の恵みもそういうところにあると思うのです。お互いに励ましあって病、試練にある方々の痛み苦しみを共に担い受けとめながら、一緒に星をみあげて、みことばをもって、さあ、すぐに主に会いに行こうじゃないか、だいじょうぶ、私たちの生涯の目的は救い主に会って礼拝することなのだからと進んでいく。そのために出てきたのですから。エペソ6:1020を読みましょう。

6:10終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 6:11悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 6:12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 6:13ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。 6:14では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、 6:15足には平和の福音の備えをはきなさい。 6:16これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。 6:17救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。 6:18すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。 6:19また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。 6:20私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

 悪魔が必ず信仰生活にもっともらしく攻撃をかけ、イエス様への礼拝を妨げようとします。妨害しようとします。エペソ書にある通り、神の武具を身に着けて進んでまいりましょう。

締めくくります。マタイ2:1012。ここに博士たちの歓びがございます。

2:10その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。 2:11そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。 2:12それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

 黄金、乳香、没薬、これらがとてつもない宝物であったことは多くの注解書で知ることができます。そしてこのことがあったからエジプトにこれからすぐヘロデの手を逃れてヨセフ、マリアとイエス様は、エジプトに逃れるのですが、それからあとの救い主たちの生活に大きな助けになったであろうと言われております。このときに、博士たちがさげた黄金は金、王にふさわしい贈り物です。乳香は、香を焚く大祭司、民と人との仲立ちをしてくださるその大祭司としての資格を持たれている幼児、これにふさわしい贈り物ということができるでしょう。そして没薬、これは葬りの時に防腐剤として塗ります。葬りの時に用いる大切なものであります。これも王としてのキリスト、大祭司としてのキリスト、そしてこのお方の葬りの備えとして、没薬がある。これは救い主の十字架の贖いのときのためと、博士たちはふさわしく捧げたのであります。そして、ひれ伏して拝んだとあります。礼拝を受けられた。この方は礼拝を受けるに値する神ご自身であるからです。

 

 この2016年のクリスマス、聖なる渇きをもって、このお方に私たちのすべてをもって礼拝をするということは、私たちのすべてをささげるということです。それこそ喜びです。私たちの真心すべてをおささげし礼拝をする。12節、「ヘロデに戻るなという戒めを受けたので、博士たちは別の道から帰っていった」とあります。

 クリスマス、わたしたちの旅路は、救い主にお会いするための旅路です。このクリスマス、お一人おひとり、どうぞ信仰の恵みをもって、このお方を博士たちとともに礼拝をお捧げしたいと思うのでございます。

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