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対訳があっても

 『マタイ受難曲』、これは聴き通そうと思うと努力を要する。宗教土壌の違いと言語の壁だ。曲が平板に思わてくるときがままある。DISC2のいま第19番。ここで有名なあの旋律を耳にし、ほっとして聴きつないでいる。平板で退屈だと思われてくる原因は、これは即座に歌詞を理解していないからであり、対訳で確かめるという具合。ほんとうに曲を理解して聴くには、そのまえにきちんと歌詞を聴き分けられることが必要なのだ。 それでも、もう数十年ものあいだ四福音書を読み、説教を聞いてきているので、どうにかこうして聴いていられるのだと思う。聖書にまったく親しんでいない場合には、コンサート会場でいきなり対訳を手にして臨んだとしても、手元は決して明るくはなく、曲の理解に厳しいものがあるだろう。ただ、近年は盛岡でもNHKホールにあるような掲示板が設置され、ステージを見ると同時に歌詞を楽に読むことができることもあるので改善はされている。
 24番のソプラノのアリアで今宵は終わるとしよう。イエスがユダに売られたときの、捕縛されたときの、大祭司の庭にあるときの、辱められたときの、ペテロの裏切りにあったときの、十字架刑が決められたときの曲想がどのようであるかの感想は、聴くことにもっと多くの時間をつぎこんで後に述べられることかと思う。

 何れ音楽は心の間隙を埋め満たしてくれる最も身近でありがたいものであることだけは間違いない。
 

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