台風一過
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午前中、『ヨハネ受難曲』を聴いた。ヘッドホンで集中的に、DISC1を聴き終える。演奏時間約70分。これまで断片的に、しかも散漫に聴いたことがあるだけだったが、じっくりと聴いてみると実に素晴らしい。どんな合唱曲も、それほど多くは聴いていないがオペラも、一気に彼方に遠のき、自分には格段の説得力があった。管弦楽と、声楽のでき得る限りの総合芸術といった感じがした。実際、生きている間にこの曲のすばらしさに出会えたことは幸運だった。 イエスの受難をここまで歌い上げる、これほどまでの曲に創り上げたその高く深い信仰心に敬服した。この受難の一コマ、一コマ、劇的な壮絶な崇高なイエス・キリストの血の通う一曲、一曲にほんとうに癒される思いがした。
思えば『クリスマス・オラトリオ』も全曲を通して聴いたことがない。焦らずゆっくりと聴き通しておこうと思う。
ペーター・シュライアーのこの4大ミサ曲を聴くことになったきっかけは、あさ目覚めたときに、何の脈絡もなく心に通った「ペーター・シュライアー」というひとことだった。時々、自分の思考とはまったく無関係な言葉がポンと胸中に通うことがあるが、そんな場合には、必ず、それを調べてみることにしている。ディスクの有無を確かめると、この4大ミサ曲が封も切られずにあったのだ。息子が送ってきたものであることは間違いないのだが、いつ送ってきたかも忘れてしまっていた。埋もれさせずによかった。
☆ ☆ ☆
1951年の統計開始以来はじめて、台風10号の中心が、きょう18時前に東北太平洋側、大船渡市に上陸した。またしても岩手県沿岸、県南の被災。7時のニュースで見た進路で進んでいると思われる。20時20分のいま不穏な風の音が鳴り始めている。強くなってくる気配だ。ひと昔まえには、嵐のさまに文学的な共感をそそられることもあった。沿岸に住んでいたときには、台風が去った直後の収まりきらない波のうねり、断崖に打ち付けられる潮を見に行ったこともある。しかしもうそんなことは許されない。ちょっとした油断が死に直結するほどに年ごとに気象状況が厳しくなっている。従来の安全基準が通用しない事態が起こりうる。
そのようなことを思うにつけても、一日一日を大切に過ごすべきなのだろう。その点、努力はしているつもりでも、すこし自分に甘いかもしれない。
♪けさの写真3枚
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台風第10号は、30日は東北地方に接近し、上陸するおそれがあります。岩手県では、30日は海上を中心に猛烈な風が吹き、猛烈なしけとなるでしょう。また、局地的に猛烈な雨が降り、大 ...
もし、最初に上陸する場所が東北地方の太平洋岸となった場合、気象庁が1951年に台風の統計を開始して以来、初めてのケースとなります。(TBSニュース)
「猛烈 猛烈 猛烈」、「統計を開始して以来初めて」と、これがもしオリンピックの更新記録なら明るい賑わいとなるところだが。すでに「いまだかつてない」といった警告も台風発生時の常套句となった感さえあるが、こればかりは慣れるというところからは遠い。
台風の進路を軌道修正する手立てはないとしても、予めこれだけの気象情報をもたらされることで、できうる限りの対応を執ることができる。しかし、いつでも難を被ってしまう人々と逃れられる人々が出てしまう。もの寂しく悲しく承服しがたい現実がある。
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環境の悪化、打ちつづく地震、台風の被害に心痛むと同時に、常時、どこかで誰かが、対策、対応、支援、手当てに追われている。手が回りかねる事態も予測されないではない。しかし如何なる状況にあるときでも神の側からの救いの提示は為されており、それが聖書には記されていると教えられております。
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会で取り上げられた聖書の箇所は、
ローマ書1:16、17
16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
ルカ23:34
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
讃美歌に心やすまる、おはなしも為になる、それも確かですが、教会にはいのちに至る道案内があり、いまを生かしてくれるエッセンスがあります。どうぞおでかけください。
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涼しくなった。今朝の室内は21度。22時過ぎた今は22度。
もりおか童話の会があり、先月の続きの原稿を書こうとしたが、疲れが出たかで朝に書くのはやめ、朝食後に、短時間で書ける随筆にする。
大曲、大会提供の『第九』の「歓喜の歌」とともに打ち上げられた花火、なかなかすばらしかった。花火は、横に打てば武器となり、上に打ち上げれば平和をあらわすのだとか。戦争の語り部Mさんが、花火が好きであることを思い出す。
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連日、TVのはなしばかりでもなかろう、でもちょっと、と「クラッシック倶楽部」をスイッチ・オン。それが何と花巻市での録画。2016年6月に花巻市文化会館にチェリスト伊藤裕貴が来ていたのだ。14世紀に発見されたという花巻温泉のこと、わんこそば、そして、ことしが宮澤賢治の生誕120年であることが紹介され、あの広々とした稗貫の田園が映し出されては、もうここで切ってしまうなどできようはずがない。
花巻市には7年間住んだことがある。田植えが終わり、ようよう根付いた頃、晴れた日に散歩すると、鏡のような田圃に真っ青な空が落ち込み、水の面に悠然と白い雲が流れる。それは清々しかった。きのうは愛媛県の収録を届けてくれた番組が、きょうは岩手県花巻市に飛んでくれたのだ。
ブラームス『調べのように』。ポッパー『ハンガリー・ラプソディ』、数年前に渡部宏先生のポッパーを聴いたとき、非常に印象的だったのを思い出した。伊藤さんが、「音によって文学を表現する」「音を使って文学を創れたら」といわれたが、わたしはこの逆をやっているなと苦笑、音楽を言語で表現することの何という難しさ!
「セロ弾きのゴーシュ」の『インドの虎狩り』に見立てての選曲はハーツェルの『エッシーの踊り』、『愉快な馬車屋』に見立てての選曲はチャイコフスキーの『ユーモレスク』。シューマンの『トロイメライ』、ポッパーの『ハンガリー狂詩曲』、ここで、ポッパー自身がプラハ出身の名チェリストであるとの解説があり、なるほどと思った。チェロをよく知る作曲家であるからこその作品なのだ。最後はラフマニノフの『チェロソナタ ト短調』、伊藤さんが、この曲を初めて聴いたときは大変な衝撃を受けたという。「生まれ変わったらこの曲になる」と仰っていた。
きょうの夕方、これもTVのはなしで恐縮ですが、何と、チェリストの渡部宏先生が出演していました。やはり賢治の生誕120年の関係でイーハトーブ館に招かれてのこと。ちょうど花巻市のヴァイオリン教室の主宰者であり、コレルリ弦楽合奏団を創設し、花巻市民文化会館のこけら落としをなさった佐久間宏夫先生の卒寿のお祝いがあったその翌日です。パーティー会場で菊池優子先生が皆様にコンサートのチラシをお配りしていました。用事がある盛岡に一旦帰ってまた出直すのはちょっと厳しい、結局その厳しいまま、残念ながらコンサートを聴くことはできませんでした。それが今夕TVに。ところがそれも、折あしくとはいえません。いつもお世話になっているお客様ですので、そのお客様が来られたことで、また地域関連の会場に関わる電話も掛かってきたことで、大方を聞き逃しましたが、しかし『トロイメライ』を聴くことができ、感謝でした。渡部先生は中学に進学する直前まで村井正一氏にチェロを習っておられました。現在、東京ヴィヴァルディ合奏団の音楽監督でいらっしゃいます。
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きのう、カルテットは食傷ぎみと書いてしまったけれども、これは、メディアやディスクで聴くことにおいてのこと。いきなり絵画のことになるけれども、ある方が「もし自分の部屋に絵を飾るとしたら、プロの方が描いた絵がいかに素晴らしくとも、わたしは、アマチュアでも自分が身近に知っている方の描いた絵を飾っておきたい」と仰った。それと同じ意味で、プロではないとしても、この盛岡で、岩手で、練習を積み重ねて定演をもってくださる方々の演奏は、自分の中ではまた特別な位置を占めている。食傷ということばは、これにはあてはまらない。なかなか忙しく、満遍なく聴くことはできないけれども、こういったコンサートに出かけたときには、この地にも、楽器で或いは声をもって活躍してくださる存在があることにほっとする事がある。
『マタイ受難曲』 DISC3を2回聴きながら思った。じっくりと耳を傾けるなら、4大ミサ曲の中では、これがいちばん聴く価値というよりは、聴きごたえがあるのではないか。聴くたびにもういちど聴いて味わいにれはむ部分がまだ奥に隠されている、そう感じられてきたのです。とにかくペーター・シュライアーの4大ミサ曲を聴き通してみようと思い立ったことは益でした。当初、思い立ったものの、頓挫するに違いないと思っていたのですが、誰も見ていないかもしれなくとも、このようにブログにでも公言しておくと、言ってしまったのだからという意識が働くのです。次は『ヨハネ受難曲』。
けさの「クラッシック倶楽部」、南紫音さんのブラームスのヴァイオリンソナタ第3番、ドボルザークのスラブ舞曲、よかった! それと、コンサート会場である愛媛県の新居浜市民文化センターの様子もあり、はるか遠くのといった距離感が縮まりました。東京、大阪方面のコンサートの紹介が多いのですが、きょうは愛媛、ちょっと違った気分で聴くことができました。
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けさの「クラッシク倶楽部」は、ウェールズ弦楽四重奏団。正直なところ、カルテットは近ごろ食傷ぎみだった。2,3分遅れでスイッチ・オン。ところが、流れくる音が実に新鮮だった。この四人のそれぞれの求めている音、次はこうだぞ、ここはこうなんだ、という求めをすでに互いがほとんどの場合に心得ており、互いに得心する音を出しあう、出しあえる連続で、それが一連のメリハリの効いた心地よい楽曲を為しているという感じがした。特にウェーヴェルンの『5つの楽章/6つのパガテル』とモーツァルトの『弦楽四重奏曲第19番不協和音』、新鮮であり興味深く惹きつけられた。
思い返せば、この番組は、なかなか視聴する機会がない作品を改めて提供してくれている。いまだに有り難かったのは、日本人作曲家名作選。山田耕作では、当時の貴重な映像を交えての解説があり、当時作曲しても日本では演奏できなかた、演奏できるほどのオーケストラが日本には存在していなかった1912年作曲の『序曲ニ長調』、西欧の作曲家の作品かとも聞こえるこのオーケストラ作品には、山田耕作の偉大さを再認識させられた。交響詩『曼荼羅の花』、『交響曲ヘ長調 勝鬨と平和』と、あのような時代にこれだけの作品を遺したことに改めて崇敬の念が湧いたのだった。
その前であったか後であったか、伊福部昭の作品紹介もあった。アイヌに題材をとった『シンフォニア・タプカーラ』が1926年当時のアイヌの踊りの芸術世界の映像とともに聴くことができた。
武満徹も勿論組まれていた他、まだ何人かあったと思うが見逃してしまった。いまだに惜しかったという思いがある。
男声合唱シリーズあり、管アンサンブルシリーズあり、ピアノソナタあり、西本智実以来、日本女性指揮者の活躍はどうなっているのかと思いきや、小林恵子の登場があるなど、自分の盲点、死角となっている局面を壁の向こうから引き出し、映し出し聴かせてくれるという点で、大変ありがたい番組となっている。
真昼、30度の暑さ、非生産的な思考にどうどうめぐりしているよりはと、唯一の玩具であるパソコンに音楽の徒然を打ち込んでみた。
もうすこししたら、それこそ『マタイ受難曲』のDISC3を鳴らしてみよう。
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平成28年8月20日(土)花巻温泉ホテル紅葉館で佐久間ヴァイオリン教室主宰、佐久間宏夫先生の卒寿を祝う会がありました。発起人は佐藤結歌、及川順、神山恵寿の各氏。
宮古市から転居するときに、宮古ジュニアオーケストラの故梅村功二先生がおっしゃいました。「花巻に行くなら是非佐久間宏夫先生のところに行きなさい。きちんと教えてくれます」。それがご縁となりました。
上は花束を贈られた佐久間宏夫先生。下は祥子夫人とともに。
お祝いを述べられる菊池優子先生。県民オケでは草創期からチェロを弾いておられます。
ヴァイオリンを弾いてらした祥子夫人が、いつのまにかチェロを習得されていました。
発起人のお三人、左から佐藤さん、及川さん、神山さん。
司会を務められる佐藤さん。
最後の演奏は、佐久間ヴァイオリン教室の発表会では必ず全員で演奏された『若い翼』。佐久間先生が突然の要請に応えての指揮。
弟子たちによるモーツァルトのヴァイオリンソナタ、ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲などが豊かに演奏され、終始明るく和やかな祝会でした。ふたりの息子たちもご指導いただき、また私もご夫妻のアンサンブル・ビーズに入れていただき、これもまた佐久間先生率いるコレルリ合奏団の賛助で『アイネクライネ・ナハトムジーク』の演奏に参加したときのことが懐かしく思い出されます。ほんとうにお世話になりました。
夕方5時近くにホテルの駐車場に着くと、かつての仲間アンサンブル・ビーズの皆さんがちょうど車から降り立ったばかり。Mさんが声をかけてくださいましたが、最初どなたなのか分かりませんでした。すこし話しているうちにMさんだとわかり、時の流れを感じたことです。Kさん、Sさん、有難うございました。祝会は和やかなうちに8時には終了。一路4号線に向かう左手の空には更待月というにはすこし大きめの月が幾分の錆を帯びた黄金色に大きく掛かり、右手の漆黒の空には華やかで力強い花火が間断なく打ち上げられ美しく広がっておりました。思いがけない神様からのプレゼントを胸に刻みながら4号線に入って左折、9時には無事に帰宅できました。
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土曜日、花巻市にある佐久間ヴァイオリン教室の先生の卒寿を祝う会があり、参加させていただいた。写真の取り込みがうまくいかず、後日にまたアップしたいと願っている。
きょうはバッハの『マタイ受難曲』DISC3を聴かねばと思っていたが、けさコーヒーを飲みながら庭を眺めまわしたのがいけなかった。どこもかしこも草ぼうぼう。花は大方咲き終えたとはいえ、何の花がどの位置にあったのか無かったのか、消えてしまったのか、死んだのか生きているのか皆目わからない。沈んでいる。草の底の底に。やおら立ち上がり庭に出るなり草取り、草刈り、枝の剪定を開始。こちらをやれば、あちらの草が山と見え、あちらが終われば裏庭が気にかかる。と、際限もなく、まる一日、草に沈んだ庭を取り戻すべく、草取りに没頭してしまった。こういう事は残った時間で片づける、一日の最後の余力で始末すると、一応の不文律を設けたはずがどこへやら。気がつけばデジタル時計はにんまりと21時を宣告。
いまどきの4時は暗い。しかし歩かねば。緊張感の失せた四肢。それもそのはずで、いわゆるこのお盆のあいだ、早朝墓参りなどがあり、まともに歩いてはいない。起き上がったものの、曇天の下に、気の抜けた夜と見紛う闇が満ちている。五輪の閉会式はやっているだろう。しかし、TVは点けずに部屋をとり片づけてお湯を沸かす。95度、沸騰直前のお湯を茶葉に注ぎよい香りにほっと一息。5時半の新聞を受け取って、先ずはコラムに目を注ぐ。さてそれから1時間。ようよう鈍いながらも明度を増していく路地に足をつける。最低1時間は歩かねば。先ず1歩。人生訓なら数歩前進、数歩後退か。しかしここは前進あるのみ。阻もうとするのは台風か烏の襲撃か、もしや転倒による骨折もあり得ないではないが、ここは前進。とにかく前進あるのみ。いつもの公園でのラジオ体操は省略、花壇や最近もりおか歴史文化館まえに登場したペットボトル製のお城、ああ南部藩はペットボトルでしかお城を作れない財政事情かと嘆くは愚、この創意工夫の見事さはどうだろう。と、界隈を一巡し6時半帰宅。
キーを打てば眠くなるだろうと思いきや、おしゃべりが尽きなくなっている。先ごろ甥の家庭に男の子が生まれ、紅茶はそれで送られてきたもの。さてさて礼状は何と? と葉書を前に考えた午後。手書きにしたが、とても自分が書いたとは信じられない悪筆。PCにばかり頼っているうちに、ほんとうにペンで文字が書けなくなってしまった。書きなおそうかと思ったがそのままに、末尾に赤子の写真を見ながら、川柳か俳句か判然としない5,7,5。「その未来 たしかに握る こぶしかな」。投函してから、握るでこぶしはわかるわけで、もうひとひねりだったと悔やまれたが、まあ気持ちを伝えられればと良しとする、というよりも、ポストに投げ込んでからではもう良しとする他はないのだ。
台風はどうなっているのか。9号が通過せぬうちに10号発生。締め切った窓に風の音はしない。離れた路に、ぬかるみを駆け抜けるタイヤの音、そして、何と、虫の音が聞こえている。DISC3もいいけれど、この自然からの恵みの音にもまた心は休まる。
22時18分、いま風が出てきたようだ。雨の音も。誰も何も損なわれないようにと祈る。
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いまTVでは五輪、サッカー、ドイツVSブラジルが始まるところですが、日曜日ですので先ずは主のことを覚え、キーを押しています。
先週の日曜日は来客があるために教会を欠席、しかし、木曜日には神様のためのご奉仕にまる一日を充てました。とにかく忙しく暑い一週間でした。
今回は、國光勝美牧師の動画がありますので、こちらをご覧ください。
インマヌエル盛岡キリスト教会では、日曜日には必ず説教が公開されています。どうぞおでかけください。
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『マタイ受難曲』、これは聴き通そうと思うと努力を要する。宗教土壌の違いと言語の壁だ。曲が平板に思わてくるときがままある。DISC2のいま第19番。ここで有名なあの旋律を耳にし、ほっとして聴きつないでいる。平板で退屈だと思われてくる原因は、これは即座に歌詞を理解していないからであり、対訳で確かめるという具合。ほんとうに曲を理解して聴くには、そのまえにきちんと歌詞を聴き分けられることが必要なのだ。 それでも、もう数十年ものあいだ四福音書を読み、説教を聞いてきているので、どうにかこうして聴いていられるのだと思う。聖書にまったく親しんでいない場合には、コンサート会場でいきなり対訳を手にして臨んだとしても、手元は決して明るくはなく、曲の理解に厳しいものがあるだろう。ただ、近年は盛岡でもNHKホールにあるような掲示板が設置され、ステージを見ると同時に歌詞を楽に読むことができることもあるので改善はされている。
24番のソプラノのアリアで今宵は終わるとしよう。イエスがユダに売られたときの、捕縛されたときの、大祭司の庭にあるときの、辱められたときの、ペテロの裏切りにあったときの、十字架刑が決められたときの曲想がどのようであるかの感想は、聴くことにもっと多くの時間をつぎこんで後に述べられることかと思う。
何れ音楽は心の間隙を埋め満たしてくれる最も身近でありがたいものであることだけは間違いない。
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『ミサ曲ロ短調』は、きょうもまた聴いても聴きあきないだろう。けれども一通り、シュレイアーの四大ミサ曲を聴き通そうと思う。
ロ短調にしても、カール・リヒターのは、リリングのはどうだったかしら、2009年ごろにはあれほど聴いたはずが、シュレイアーとの違いはとなると答えることができない。辻井伸行さんは、どうも生後八か月になる前には、スタニスラフ・ブーニンの弾く『英雄ポロネーズ』とほかのピアニストの弾くそれの違いがわかっていたようだけれども、わたしは答えることができない。ふと聴きくらべようかとも考えたが、これはこれ、それはそれでいいではないか、その違いを確かめてどうなると思いなおす。
けさのクラッシク倶楽部で、ピアニストのアンティ・シーララが「時間をかけて作品との関係を深めていく」と言っていたが、わたしは演奏者ではなく単なるリスナーのひとりに過ぎないのだが、演奏に相対してはまさしくそうだろうと思われた。殊にもミサ曲に関しては。
今夜はDISC1 第1部 第1-25 約58分 を聴いて終えよう。
根底に一貫して認罪 罪の悲しみ、嘆きが流れている。この救いがたい人間。歌われるイエス・キリストの愛、贖罪の重みと尊さ、厳粛さが聖書の記事に則って綿々と続く。『マタイ受難曲』、全曲で約3時間の大作だ。
ここでもペーター・シュライアー自らが福音史家をテノールで務めている。
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盛岡では盛んに花火が打ち上げられている。瞬時ドビッシーの『花火』が思い出されたが、今聞いているのは、実はバッハの『ミサ曲ロ短調』。月が掛かる藍色の空に響く花火の音。八時前には止むだろう。
カール・リヒターの指揮のもとでは、福音史家としてテノールを響かせているぺーター・シュライアーが自ら指揮しているのがこのディスクだ。比類のない美しさ、その美のはざまに憩い揺蕩う。2枚のディスクに収められているが、DISC2はもう3回目。思えば、この曲を盛岡で、しかも生演奏で聴く機会があったことがいまだ信じられない。盛岡バッハ・カンタータ・フェラインによる演奏だった。
なぜかペーター・シュライアーの名が心に響いてきて、とにかく聴いているうちにはその謎も解けるような気がして、まずこの曲から聴いている。何しろこの長大さ。昼間であれば、聴いている間に幾人かの来客があり、幾つかの用件が入るという有様。しかしそれでも聴き続けたくなる。
最後のドナ・ノビス・パチェム(われらに平安を与えたまえ)がいま終わった。
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黙祷。
特攻隊、帰ることの許されない戦闘、明らかに負けると予測される地域への派遣、これは罪のないものに対する死刑執行に等しいと思われた。何という時代だったのだろう!
11日から帰省していた二男は終戦記念日の今日帰って行った。夕方に無事に着いたことを確認する。台風の影響だろう、いま雨が降っている。乾いた土には待ちに待った慈雨、植物たちがいっせいに渇きを癒しているだろう。
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起き掛けに、頭のなかでさまざまな音楽が鳴っていることがある。けさは『第九』だった。それからまたさまざまなことが思い出された。きのう早朝の墓参りのことも。新庄墓園の埋葬は宗教を問わない。ある物理学者は無宗教、墓石には物理の記号が記されている。山間に開かれた広大なこの墓園の緑地を歩きながら、かくも脈々と代々生きながらえ葬られてきた人の血脈を想った。無縁塔にしばし心を寄せる。「どうですか、あの世に差別はないですか?」、向こうにだけは、ほんとうの平等と安息があってほしい。どの宗教がどのように教えているか、わたしはプロテスタントの流れにあるキリスト教しか知らないのだけれども。
イエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受けていますが、先週は、インマヌエル盛岡キリスト教会でも、ふたりの姉妹が國光勝美牧師によって洗礼を授けられました。ご両親の熱心もさることながら、主任牧師、教会学校に携わるご夫妻と、教会のみなさまの熱い祈りがありました。
けさもおふたりの姉妹のすがた、講壇前の水を張られた洗礼槽に立つ洗われたばかりのような楚々とした清らかさが眼前に浮かんでおり、神様が格別な祝福をもって導き続けてくださらんことを心からお祈りしました。
先週の説教は『栄に満ちた喜びに』と題して、次の聖書のおことばが開かれました。
第一ペテロ1 8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども 信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。9 これは、信仰の結果である、たましいの救い を得ているからです。
インマヌエル讃美歌393 を歌い、聖餐式も持たれました。
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ぼーっとしているときに、時として心にことばが聞こえるように意識されることがある。窓からの涼風、内臓が液状化しそうな真昼の暑さを堪えやり過ごし、いまこうして涼んでいるときに心に通ったいくつかのことばのうち「マインド」と「ペーター・シュライアー」が天からふってきて樹間に霧が満ちるかに留まっている。
「マインド」、これはわたしの心、精神のことだろうか。自分を訪ね、自分に訊いてみる。そんな静かな心の営みをわたしは必要としているのかもしれない。
「ぺーター・シュライアー」、ドイツのテノール歌手。指揮者、バッハの理解に定評がある。80歳は過ぎているはず。一枚ぐらいはストックがあるだろうとデータのクラッシック動画を当たってみたが意外にも出てこない。棚のCDを探すと、「4大宗教曲集」があった。『ミサ曲ロ短調』『マタイ受難曲』『ヨハネ受難曲』『クリスマス・オラトリオ』の4曲が入っている。というよりも封が切られておらず眠ったままになっている。何ということだろう。ライプツィヒ放送合唱団、ドレスデン・シュターツカペルレ、指揮ペーター・シュライアー。1991、1984、1988、1986にドレスデンで収録。この封を切って是非とも聴いて欲しい、そう言われているような気がした。いったい誰に言われているというの? と訊かれたとしても、まさかペーター・シュライヤーがとはとても言えません。それは神様でしょうなどと勝手に神を持ち出すような不遜なことはいたしません。けれども何者かがこのCDの封を切って聴いてみるようにと言っている気がしてならないのです。しかしもう22時過ぎ、この大曲に取り掛かるには時間が遅すぎますが、けれどもそう先に延ばしてはならないという気がしています。
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あまり考えすぎるとキーを打つ手が止まってしまう。書けなくなるのだ。しかし可笑しなもので、更新を休んでばかりもいられないとまたぼちぼちとキーを押している。
あまり考えすぎるというのは、これは個人情報に触れるかもしれないとか、自慢話のようで読み手が辟易するのではないか、こんな苦労話はどこにでもあるだろう、明るく楽しく愉快なはなしを書く方がいい、はたまた自分がこのことを書く深層心理は何? とここまでに及ぶともう何も書けなくなってしまう。そして考えれば考えるほど疲れ、疲れるころには眠くなっている。
午後から会議がある日だったのでたしか2日のことだ。盛岡城跡公園の朝のラジオ体操にすこし遅れて合流、わたしのすぐ目の前で入念に四肢を動かしている女性の美しさが鮮やかな輪郭を帯びていま思い出された。私よりも一回りは年下と思われる。注意深く紫外線から保護されている白いうなじや腕、指先が眩しかった。その美しさと対極にあるわたしの体操すがたは、とても見られたものではなかろう。そのとき背中に大勢の人たちがやってきた気配が。上体をねじるときを30人はいるかと思われたが、高校生の一群だった。意気盛んな高校生の目に、わたしの目の前にいる美しい女性ならばともかく、わたしの後すがたが映ってしまうのかと思うと、ちよっと逃げたいような滑稽な気分になりながら最後の深呼吸を終えた。振り向いて「合宿ですか」と訊くと、「演劇部の朝練です。きょう10時から県民会館でやりますから観にきてください」という。「行きます」とわたしは即座に応えた。これまで何に対してもちょっと無理だなとか忙しいという思いが先だっていたのだが、珍しくそう応じていた。けさ起き掛けに、歩いて何になるのかなと、いつになく疑問が浮かんだ。「ともかく一歩踏み出さねば」。くだくだしい理由はなくとも、踏み出すという行動を採ることだと起き上がった。なにかその答えを得たような気がしていた。高校生の演劇、いまどんな事をやっているだろう、にわかに興味がわいた。
10時に間に合って中ホールに。観客席はまばらだった。プログラムで上演時間を見ると、最初の発表が1時間20分間。後を考えると一つしか観られない。
一番目の某高校、ステージが明るくなり、いきなりショッキングな場面が展開された。ひきこもり、自殺願望、それを取り巻く家族、友人、飛び込んでくる問題少年。初っ端でありきたりを排除したことがうかがわれる。一幕もの、畳一間の限られた空間での熱演、名演技に感心した。
帰りしな「アンケートをお願いします」といわれ、一つしか観ておらず言うもはばかられたがその場で書いて差し出すと、女子生徒が受け取りながら「けさ体操に来ていた方ですね」。見ると「来てください」と言ってくれたあの生徒だった。挨拶を交わし、隣にいらした小柄で楚々と、そして芯のありそうな先生に「何しろわたしは『父帰る』の時代のものでして」と笑うと「どうぞ感想を」と仰る。率直に感じたとおりに申し上げたが、それも大変楽しいひと時となり、けさ一歩踏み出したその答えをもらった思いでスクーターのスタンドを外し帰途に着いたのでした。
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すこし頭がぼーっとしているけれども、思いつくままに。
朝はやくに目を覚まし、きょうはウオーキングにしようか、クラッシク倶楽部を聴こうかなどと迷う。興味ある音楽をやっていれば、最低30分はTVに釘付けになってしまう。ほんとうは歩くことがよいのだ。健康寿命をのばすというだけではなく、とにかく第一歩を踏み出してみること。いま石原慎太郎の「天才」が書店に精彩を放っている。田中角栄に関する著書だ。そのことまで書くつもりは、PCのふたを開けたときにはまったくなかったのだけれども。この石原慎太郎が「さあ太陽を呼んでこい」を作詞している。作曲は山本直純。
1.
夜明けだ 夜が明けてゆく
どこかで誰かが 口笛を
気持ち良さそに 吹いている
最後の星が 流れてる
暁(あかつき)の空 明けの空
もうじき若い 日が昇る
(以下、口笛またはラで歌う)
ララララ ララ ララララ ラ
ララララ ララ ララララ ラ
ララララ ララ ララララ ラ
ララララ ラララ ララララ ラ
2.
みんながみんな 歌うんだ
あの口笛に 合わそうよ
流れる雲が 輝くぜ
若いみんなの 歌声で
暁の風 朝の風
すばらしい朝を 作ろうよ
3.
この世に夜は いらないぜ
みんながこの手で 暁の
扉を空に 開くんだ
さあ太陽を 呼んでこい
暁の雲 朝の雲
望みの鐘を 鳴らそうよ
よい詞をのこしてくれたなと思う。「暁の扉を空に開く」「さあ太陽を呼んでこい」とまっすぐに前に向う積極性が感じられる。
ただけさは、雨もよいの空に気温も低め、これは草取りの絶好のチャンスと4時から作業開始。7時まで。第二ラウンドは11時まで。それほどきれいになったと言えないまでも、すっきりと風通しのよい空間をいくらかでも押し広げることができた。
毎年八月に開かれる宮古ジュニア弦楽合奏団主幹の「音楽の夕べ」、とても残念でしたが行きかねました。例年通り、弦楽合奏、地元の合唱団との連携、カワンバグスの出演。梅村ご一家、ドイツから一歳になられるお子様を連れて隆一ご夫妻も見えておられたようです。戦後の宮古の地に音楽の種を播き、宮古市民とともによいコンサートを持ち続けてこられたことは感謝なことです。
いま朝日新聞岩手版に三田照子さん98歳の戦争体験談が連載されています。三田照子さんとは、私が花巻在住であったときに岩手県芸術祭で小説部門にともに入選し合評会の会場でお会いしたのがご縁となりました。戦争体験の生の声を、私はこの方から初めてお聞きしたのでした。この方がクリスチャンであることも併せてさまざまな影響を受けております。98歳のお写真を新聞で拝見したときには驚きました。98歳で世の中に向かって語るべきことがある。75歳まで生きられたならと望んでいる私には驚異的ですらあります。これから後も語り部として、また文筆においても成果を見せていただけたならと期待するところです。
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先週、インマヌエル盛岡キリスト教会で國光勝美牧師によって開かれた聖書の箇所は
マタイの福音書28:16~20
16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山 に登った。 17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権限が与えられています。 19 それゆえ、あなたがたは行って 、あらゆる国の人々を弟子としなさい 。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい 。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
また、説教の中で開かれたおことばは、
第一コリント11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための 、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
ローマ6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに 葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光 によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
使徒22:16 さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御吊を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。
第一コリント12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだ となるように、一つの御霊によって バプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
※おはなしを聞きたい方は、ぜひ教会にいらしてください。新興宗教ではありません。あたたかい良い教会です。
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今世界で最も力のある核ミサイルはB83。1945年に広島に落とされたLittle Boyの約200倍の威力。今、世界が持っている核ミサイルの数は10,227個。ーギズモード・ジャパンからー
核をなくする勇気とは?
リオ五輪開幕。素晴らしいけれども、齢のせいか、もうすこしシックで落ち着いたセレモニーが見たい気も。
33度の炎天下、どれぐらい作業ができるのか。庭の雑草をこれ以上放っておくとまた種ができそうなのに気づく。昼下がり、完全武装し決死の覚悟で草取り開始。滝のような汗、1時間ほどで頓挫。
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「サッコラ、チョイワヤッセ(幸よ来い)」
39回目となる今年は県内外から254団体、約3万4500人が参加する。最終日の4日には「世界一の太鼓大パレード」が繰り広げられる。
ー朝日デジタルよりー
☆ ☆ ☆
わが庭にもやっとアゲハがすがたを現した。敏捷に飛翔するためになかなかカメラに収まってはくれない。これも目にしっかり捉えかねながら、やみくもにシャッターを切ったもの。なんとか一枚に存在をのこしてくれた。
食樹のサンショウだけは、どんなに小さなものも抜かないで育てている。庭のいたるところにサンショウが生えている。にも拘わらず、なかなか卵は産みつけられず、やっと見つけた幼虫も蛹になるまえにどうやら鳥の餌食になっている。3頭だけ幼虫を確認したが、羽化にまでたどり着けたのは1頭だけなのではないか。貴重な存在である。
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一日のあさ、盛岡市役所を見あげる。
さんさ踊りは夕方6時から。一日目にご近所の方のお孫さんが、ちびっこ太鼓に出られるというのでお伴した。小さな子どもたちが、リズムよく太鼓を打ち鳴らしながら行進。1時間ばかり楽しんで帰宅。
岩手自衛隊の方々、浴衣と迷彩服での参加。東日本大震災のときにはどれほど大変なところを担ってくれた方々であったか、そして先々には、ひとりも戦闘などでいのちを落としてほしくない、このように祭りに参加できるような平和な世であってほしいと願わせられた。
最近読んだ本だけれども、寓話的なところがが面白そうと読み進んでみると最後は武装し戦い国を守れ!といった結末、とわたしには受け取れた。これが大変な説得力を持っている。怖いと思った。
太平洋戦争で死んだ軍人軍属は230万人、このうち6割は餓死、病死だった。戦史映像の中で戦艦の甲板に手足が吹っ飛び、血の海をかき出していた光景が焼き付いている。使命感、信念で無念さが相殺されるとは思えない。戦死された遺族の悲しみは、やはり戦死された遺族でないとわからないといわれる。戦死された悲しみを知る人が最早いなくなりつつある。
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