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日曜日のおはなし 『いのちの器なるからだ』

 おはようございます。大型連休をいかがお過ごしでしょうか。
インマヌエル盛岡キリスト教会では、被災された熊本、大分のために日々祈りが積まれております。

 先週のメッセージの概略をおつたえします。
 

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聖書引証 第一テサロニケ5:23,24

23平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
24
あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

國光勝美牧師のおはなし≫

このところ、第一テサロニケ52324、特に23節を中心に取次いでおります。なぜ「ご自身が」の前に「平和の神」ということばが付されているのでしょう。それぞれの位格をもちながら一体である三位一体の神様は、平和の神であられます。人間はその神様に似たものとして創られました。救いの中心を神との平和と据えることは、福音の中心であります。この事の為に、神様は、御子を地上に降し、私たちの受けるべき罪を代わってご自身が受けてくださるという、自らが贖いの生贄となって、贖罪を成し遂げて下さいました。人間と神様との平和をつくりだす為です。

 罪の本質は、神様との不調和です。しかし、罪の解決は、神様によって成し遂げられております。心の中に罪の性質を持っていることは、平和の神ご自身の御心に適うことではありません。そこにこそ、神様の贖いの目的があります。きよくあるという事、これは平和の神と私たちとの関係の本質的なものです。ですので、24節に、ダメ押しのように「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます」とあります。成してくださる主体は神ご自身です。それを私たちは信仰をもって受ける。これが罪からの救い、罪の赦しにおいても、私たちが為すべき事です。神との平和を拒んでいる性質のある事に気付いたときに「主よ、どうぞこの者を憐れみ、きよめてください」と祈る事です。そのときに、「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」とはなしが進められてきます。何回もたしかめることです。神との間の平和に何のわだかまりも相違もない、まさに三位一体の神様。この神様に似せられたものとして私たちの霊と心と体がある。神を中心としたところに、健全な人間の状態があります。神を追いだし調和を欠いた状態からの救いが十字架の救いなのです。

 

  Tご夫妻が、弘前に転居しました。Tさんは、重度の障害にあって、その不自由さを経験していても、卑屈であったことがない。Tさんは、私がこんな体になったのは「この人の罪でもない、親の罪でもない、神の栄光があらわれるためです」という聖書のおことばに立って、生きておられます。Tさんは「天国に入ったら、神様、どうしてこんな体にしたんですかと訊いてみたいよ」と仰っています。

ここで、ルカ伝に出て来る金持ちとラザロのイエス様のたとえばなしを思い出します。生まれながらの金持、そして片や、全身に皮膚病を患い、貧しく物乞いをしなければならないラザロ。何という不公平でしょう。確かに、この世に不公平はあります。しかし、厳粛な事実は、金持ちはハデス(陰府)に落とされ、ラザロは、アブラハムの懐といわれる喜びと平和に満ちた世界、天国に迎えられました。 では、貧乏人なら、みな天国に入る事ができるのか。どんな場合でも天国に入る必要条件は、悔い改めと信仰です。環境、資質、財産は一切関係ありません。悔い改めと信仰が天国に入る資格です。体は生まれたときに受けた神様からの預かり物です。肝心なのは、その中に宿っている霊的な命です。

 私の実家は長野県の松本市にあります。長男として生まれ、家を継ぐものと思われていました。しかし、牧師になりましたので、私の姉が家を継ぎました。姉と一緒に家を守ってきてくれた義兄がいます。これまでは、東京で教団の年会があった後に立ち寄るぐらいしかなく、じっくりと話をすることがありませんでした。それが癌の末期である事がわかり、入院したのが2週間前です。わたしのところに、「危ない」という電話が入りました。電話では焦点が定まらず、意思が通じないということでした。急遽、信州大学病院に駆けつけました。

ある本の中に、「人は召される前に、神から仲良し時間が与えられる」とあります。この仲良し時間が与えられたのです。私が駆けつけた時には、不思議に意識がはっきりとし、意思疎通ができました。私は「じゃ、お兄さん、主の御名を呼ぶものは皆救われると書いてあるから、もうだいじょうぶ、怖ろしくないないよ。永遠の命をもつと書いてあるんだから信じましょう」。彼が納得したので、「洗礼を授けるよ」、「お願いします」。ひろ子牧師が準備していったもので、私は兄に洗礼を授けました。

大切なのは永遠の命です。死に直面している者の恐怖を取り除き、キリストの死と復活を伝える事で、希望を与える事ができます。

私はかつて、死に直面しているおじの前で、どこまで踏み込んでよいかを躊躇い、福音をつたえないでしまった事があります。慙愧にたえません。おじの目には死の恐怖が現れ「かっちゃん、牧師だろう、どうにかしてくれよ」といっているようでした。私は伝えるべきメッセージを持っていたのに伝えることができなかった。私の失敗談です。

どうか、死を覚悟している方に、永遠の命を受ける手段を欲している方々に、私たちはそのメッセージを持っているのですから、正しい対処をさせていただきたいと願う事であります。

※メッセージの起しですが、筆者の聞き違いや誤認がある場合もございますので、疑問は筆者にか教会にお問い合わせください。
 写真はもりおか歴史文化館の庭です。

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