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2016年5月

待望の雨

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教会のある方が家を新築している。定礎式があるというので参加させていただいた。生コンを流しこんだ箱に聖書を納め、賛美歌を歌い、祈りとともに牧師が『2016年5月31日 定礎』と記し、これを土台に埋めこむ。神聖な儀式である。

 ついでにアカシアといってもニセアカシア(針槐)のことだが、写真に撮ろうとしたところ、ここのところの暑さで、花はもう過ぎていた。むしろその前に広がる水田に心惹かれ、比較的近場にこんな景色がまだ残っていたことにほっとする。

 午後は、青の会の展覧会へ。きょうまでの展示。みな画風という域に達した作品ばかり。喫茶ママでコーヒーをのみながら、ご一緒した近所の方とのんびりとくつろぐ。

 夕刻になって、急にドヴォルザークの『新世界』第4楽章が聴きたくなり、you tubeから小澤征爾を聴く。一時期は飽きるほど、飽きても尚クレンペラーを朝晩聴いていたのだ。今になってなぜ突然に渇望を覚えるほどに聴きたくなったのかはわからないが、空洞に何ものかを充填されたように、一通り聴き終えたのちには充足感が得られた。クラッシックといってもあまりに有名で一般的ですらあるこの曲、いいものは誰にとってもいつであっても十分な滋養となってくれることを実感。

 なかなか降らないと待ちに待った雨は、雷鳴を連れて一気に地上にあふれだし、ひっそりと闇をのこしてきれいに姿を消した。この列島のどこからかは火星が見えているだろうか。むこうは、今頃はサソリ座に遊びながら、アンタレスに並んで、今ぞとばかりに輝きを放っているにちがいない。「アンタレスさん、あの小さな島国では、またあの人が続投するらしい。否決されましたよ、否決」「それは困りました。怖いですね。打つ手はもうないんでしょうか」……さまざまさまざま盛りだくさんにあったこの五月、そしてこの五月三十一日もあと一時間で、深遠な過去のひとこまとなり、絶対者の記憶ボックスに一つもこぼたれることなく格納されるのだろう。明日は雨に潤された緑が待っている。

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休息

 

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日曜日のおことば 『主イエスの御名』

 

おはようございます。
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の引証聖句です。

使徒の働き3:1~8

1  ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。

2 すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。

3 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。

4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。

5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。

6 すると、ペテロは、「金銀 は私にはない 。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、

7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、

8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

                

 先週の説教ではありませんが、國光勝美牧師説教につなぎます。一般の方々向けですのでお聞きください。

 

     ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 

 コンサートのご案内です。

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もりおか童話の会

 盛岡市中央公民館で、もりおか童話の会の勉強会があった。代表浅沼誠子さんの司会で、6人がそれぞれの原稿を読み上げ合評しあった。時代小説2編、野鳥の随筆1編、童話1編、小説1編と記しながら、わたしのは何だろうとはたと躓く。
 自分が何歳か、名前は、親は、兄弟は、出生地は、このどれもが不明な状況のもとに生まれ、比較のない環境に育ったなら、とそんな例を6枚ほど書き連ねてみたのだが、はたして書きおおせるのか頓挫するのか先の見通しは曖昧だ。やはり小説ということになるのだろう。
 会員の方の読書量に敬服。

 5月の暑い一日は終わった。

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 庭に植えたもので、絶えてしまったものもある。ヒマヤラの青い芥子、翁草、芍薬等々。めっきり減ったのはアゲハの幼虫。すでに現れなくなって久しいセスジスズメの幼虫。モンシロチョウはもうめったに見ることがない。カエルにはもうお目にかかれなくなってしまった。ミツバチならずとも、ハチも激減。蟻とカタツムリはまだまだ健在ぶりを示している。いずれこの庭だけでも生き物の環境が確実に悪化してきている。

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五月の花・華・はな

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緑風の中に

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ネットの不具合でずっと更新できなかった。使いこなすのはなかなか難しい。とりあえずは勿忘草に登場してもらう。
 桜もとっくになりを潜め、いまは異次元のどこかで咲いているだろうか、それはもしかすれば葉桜と平行して見えない隣にでも咲いているかもしれないが。それは見えないだけで、あのたわわな桜が消えてどこにもないなどとはどうしても信じがたいのだ。
 見えるところは、春の球根類はすべて開花リレーを終了、スズランの眩しい白さもくすんでしまった。つつじ、白と赤の芝桜、白いアヤメ、ロンドン塔のあの紅とそしてピンクのポピー、いつか息子が買ってくれた赤いカルミヤが咲き、ピンク、白、黄色のバラが咲き始めている。次男がことしプレゼントしてくれたミニバラのジジも健在。エニシダもまだ明るく咲いている。シャガもずいぶんと意識を留めなくなっていたけれども、消えずにそちこちに強靭な生命力とは対照的に淡くも白く咲いている。主人の好きな矢車草は二輪咲いたばかり。あれは何といったろう、長い間つゆ草だと思い込んでいたけれど、この庭につゆ草はないと知ったあの花は、5月の草花の検索にも出てはこない。勿忘草も白と青。探しあぐねた花も白と青。白はそれぞれを美しく際立たせてくれる。
 じりじりと炒りつける夏が、もの悲しい風景となる秋が、身を震わせる寒さの冬が来る前に、この五月を、五月に入ってからもう二月も経ってしまったような気がするけれども、長いながい五月を幾月にものばし記憶に留め緑風の中に過ごしたい。


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日曜日のおはなし 『五殉節の祝福』

 先週はペンテコステ礼拝でした。イエスさまが復活し、天に帰られてから五十日目に聖霊が降されたことを記念する日です。

「聖霊降臨 無料画像」の画像検索結果

引証聖句 使徒の働き2:1~4

1五殉節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。4 すると、みなが聖霊に満たされ 、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことば で話しだした。

《國光牧師のおはなし》
 神様は三位一体です。父なる神、子なるキリスト、聖霊は、それぞれが異なったご人格を持ちながら一体であります。

 父なる神様の私たち罪びとへの腸のよじれるような深い憐みを享けて、御子イエス様は罪の贖いを為すために地上にお生まれになり十字架に架かられました。では、ご聖霊さまのお働きは何なのでしょう。ご聖霊様の出番はいつでしょうか。
 ご聖霊様の出番が、この五殉節であります。罪から救いたいと願う神様のご愛を全うすべくイエス様が十字架に架かられたことを、一人ひとりの信じる者に得心させるのがご聖霊様のお役目です。イエス様が十字架についたのは、あなたを愛する神のみわざであることを、ご聖霊様が私たちに分からせてくださいます。十字架を受けとめられるのは、ご聖霊さまの働きによります。第一コリント12:3に
聖霊による のでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。
とある通りです。
 会ったこともないイエス様、父なる神様を、アーメンと納得させてくださるのが聖霊なる神様なのです。

 復活してから50日後に聖霊が降りました。聖書には、その日3000人がイエス様を信じたとあります。これは求める者に臨む祝福です。使徒2章にあるように、みなが一つ所に集まって祈り求めていたところに、聖霊が降されました。聖霊降臨は、真実に悔い改める者に臨む祝福です。
使徒2:38  そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい 。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊 を受けるでしょう。

使徒5:32 私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者 たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。

※この日はパンと葡萄液をいただく聖餐式もありました。 
  説教は聖霊に関してのみ書かせていただきました。

       ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

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まずまずの一日

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  朝から忙しく過ごす。怠けてはいなかった、遊んではいなかったと書くことができれば、まずまずの一日といったところか。
 みなに感謝しながら、きょうという一日を締めくくる。

 

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ハラハラしながら

 ここのところ、ずっと音楽を聴いていない。ひどく乾いている気がして、午前中はイムジチを聴きながらゆったりと過ごした。忙しくなる。手帳に書き込んだ予定を眺めているうちに来客。この方のお陰で、きょうの午後も予定があることを知らされる。記入もれ、すんでのところで欠席を免れる。次に現れたのは、アゲハチョウと特別に親しい間柄にあるさるご婦人。ことし庭にやはりアゲハチョウがやってきたという。アゲハチョウと心の交流を果たしている。毎年このはなしをお聞きしているが、この方とアゲハチョウの間にはたしかに以心伝心といった何かが通っている。自然界にはたまに理屈では割り切れないことがあるようだ。信じ切って耳を傾けてみるとおもしろい。

 まもなく深緑に塗り替えられていく。いまのうちに緑の明るさに浸かっていようと思う。
 windows10 に切り替えたばかり。アクシデントが起きはしないかとハラハラしながらの更新である。

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緑色の衣

 広がりのある写真を撮りたいと思いつつ出かけかねている。盛岡市街地からクルマ、或いは原付で30分ばかり移動すればよいのだけれども。
 
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 近場、もりおか歴史文化館の庭。しだれ桜がいつしか鮮やかな緑に衣替え。
 連日の写真更新、意味がないかなと思いつつきょうもアップ。 

 

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山吹とアジュガ

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山吹アジュガ

 五月の花々が競うように咲き並び咲き誇り、次の花々にステージを譲り、緑の底に静かに身を沈めていく。そしてまた咲き出でた花々がさまざまな佇まいを披露しては、時間に溶け込むように眠り去っていく。多くの命が目の前から消え失せたとは思われず、また消え失せずして別の次元で生彩を放っているのではないかとそのイメージが浮かんでくる。何も消え失せてはいない、一つひとつが失われることもなくどこかでたしかに息をしている、青さは青いままで、黄色は黄色いままで、光を浴びる明るさは明るさでハイライトを演出し、みんなどこかに咲いている、なぜかそんな気がする。
 

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五月のいのちたち

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ヒアシンソイデス・ヒスパニカ 春の球根のこの系列ではいちばん遅く咲く

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クマガイソウ(手前) 花弁は5枚の細い楕円形で緑色を帯び、唇弁 は10cmに大きく膨らんだ袋状で、白く、紫褐色の模様がある。(wikipediaより)
西洋十二単
(背後) 別名:アジュガ

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エニシダの園芸品種

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エニシダの園芸品種の種を採取し育てたエニシダ。初めて咲いた花には赤い部分がまだない。こぼれ種から発芽したことはないが、種を採取して植えてみるとけっこう発芽し、3、4年で開花する。

それほど多くはないけれども花々や野菜などを植えてみると、自然の中に隠されているいのちのすばらしさに出会うことができる。

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有難う! シンフォニエッタ盛岡

 シンフォニエッタ盛岡のコンサート、何と、畑村代表の挨拶によれば、団には第一期五カ年計画があり、第10回がその終わりで、次には第二期五カ年計画に向かうとのことです。たしかに今回のコンサート、Ⅰ部、Ⅱ部ともに第一期の締めくくりとして入魂の演奏でした。指揮者なしという事でしたが、ベートーヴェンの交響曲第五番『運命』第二楽章からは、目には見えなくともシンフォニエッタ盛岡を何ものかが指揮しているのではないかと思わせられました。いつもながら、弾き進むほどにいよいよ響きがよくなっていくシンフォニエッタ盛岡、「五番」の終わりには拍手にまじりブラボーの声が。渾身の演奏、皆さまのステージにあがるまでの練習の日々、その成果に感動しました。

 

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 演奏者としてプログラムにお名前が見えない方もいらっしゃったようですが、急遽参加できることになったのでしょうか。
 第Ⅱ部では畑村さんが指揮なさいました。『ピーターと狼』、盛岡弁が合うかどうか興味津々でしたが、意外や意外、ロシアの方々にまじって、なぜかよくは分からないロシア語で村の長老から聴いているような心地がしたのは不思議でした。これが大阪弁だったらどうか、熊本弁だったらなどと余計なことも。やはり何と言っても盛岡弁に限りますね。盛岡ことばをいくつ正しく話せるか自信がありませんが。


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 今回の佐藤公治先生のアレンジ、明るく心和む広がりが心にのこりました。
 最近はコンサートからは遠のいている主人も行くことができ感謝でしたが、お誘いした方々からも「来て良かった」、「楽しかった」との感想をいただき、もっと多くの方々に聴いていただけたならと願ったことです。
 団の結成に深く関わり、演奏に参加、ずっと見守ってこられた成田浩先生、今回は奥さまと共に観客席で見守っておられました。

 さてシンフォニエッタ盛岡の第Ⅱ期五カ年計画とは! これが達成される頃には……? 筆者もけっこうな大台に乗ることに。これはうかうかしてはいられない! 

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日曜日のおはなし 『霊と心と体』

  おはようございます。
 爽やかな風おどる新緑のもと、いかがお過ごしでしょうか。
 来る7月10日に、ホルン奏者宮田四郎さんのコンサートが、インマヌエル盛岡キリスト教会で開かれます。お覚えください。

Img615  それでは先週のメッセージの概略をおつたえします。

聖書引証 第一テサロニケ5:23,24

23 平和の神 ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。24 あなたがたを召された方は真実です から、きっとそのことをしてくださいます。

國光牧師のおはなし≫
 人間は霊と心と体との三つから成り、この中心に神様が住まわれるときに、神とのコミュニケーションがあり、この三つが調和し、神様の栄光を表わすことができ、これがクリスチャンの本来のすがたであると申しました。体にはご聖霊さまが住まわれる。体は神様の宮であります。
 あるカーテンを取り扱っておられる方が、私どもは天皇陛下のお泊りになる部屋のすべてのカーテンの取り付けを致しましたと誇らかに仰いました。それどころか、私たちの体には神様が住まわれているのです。ですから私たちは、この管理には細心の注意を払う義務があります。しっかりと管理し、神様の栄光をあらわす生き方を致しましょう。

 また神様からの預かり物としては、タラント、仕事の能力や才能があります。神様のために役に立つ力を、各々に応じて与えられています。私が昔行っていた丸の内教会には、ピアノの才能のある方がおられ、インマヌエル教団が関わったビリーグラハム大会、日本福音同盟の集会などで弾いておられました。心に響くすばらしい演奏でした。タラントを聖別して主の御用のために用いたのです。
 タラントを私蔵してはいけません。むしろ神様のために用いて神様のご栄光をあらわしましょう。

 第一テサロニケ5章にもどり、人間本来の求めについて考えてみましょう。
 岩手県
大槌町に「風の電話」があります。これはNHKで番組制作され、大変な反響がありました。これは繋がらない電話です。3・11以前からありました。
 あるクリスチャンの生命科学の研究者の方が仰った事は、細胞のまじわり、やりとりが途絶えると、その細胞は死を迎えるということです。
 私たちは生きているでしょうか? まじわりを持っていますか?
 かつて羽鳥明先生は仰いました。「食卓を囲んでいくら向かい合っていたとしても、会話がなければそれは死んだものです。
 私たちが「生きていますか?」と訊かれたときに、何が死んでいる原因かをよく考え、ひとこと「悪かった。ごめんなさい」と言えるなら、復活は可能です。私のような者が罪ゆるされているのだ。ですから、ゆるせないことがあるでしょうか。自分の思い通りに別な価値観で生きようとするのが罪の始まりです。
  自分のような者が神様に罪を赦された、この経験をしたときに、霊の深い部分が神とまじわりを持つ事ができるようになり、神との関係が回復します。

 十字架は、神の側が人間の側に設置してくださった謂わば風の電話なのです。福音的にいうなら、罪が神とのまじわりを断絶させます。まじわりが途絶えた状態が死です。
 「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のもとに来なさい、わたしがあなた方を休ませてあげます」とマタイ11:28にあります。重荷を覚えている人は十字架のもとに行くことです。神が設置してくれた電話、即ち十字架のもとに行き、信仰をもって受話器を持ちあげありのままを神に告げることです。「神様わたしは今疲れています」「わたしはもうボロボロになっています」と正直に申し上げることです。神様は「わたしはあなた方を愛しているよ」と仰っています。「主をよろこぶことは、あなた方の力である」とあります。本来の人間のすがたは、神様とのやりとりの中に調整されていきます。
 冒頭の第一テサロニケ5:23,24をもういちど読みましょう。
 あなたを召された方は真実です。神は真実であってくださる。だから私たちがこの招きに素直に応じるなら、平和の神自らが、あなた方を霊的に全く健康なあるべきすがたに整えてくださるに違いありません。
 

※チラシは、國光牧師夫妻のご息女A姉のデザインです。

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早朝の岩山

 ウォーキング、岩山への坂道をのぼる。それほど息切れもしない。去年は「熊注意」の立て札に怖れをなし岩山ルートは散策コースから外したのですが、ことしはそれが無くなっていました。

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  足元の花に、樹上に、林の奥に、木々の連なりに、道に、歌碑に、光に、眺望に、自分の陰にとカメラを向けながらゆっくりと歩いて2時間の岩山散歩。展望台まで歩けるとは思っていなかったが案外楽にのぼり、そして、南昌山、岩手山、姫神山の連なりの底に広がる盛岡市街をゆっくりと眺め、「盛岡の中学校の露台(バルコン)の欄干に最一度我を倚らしめ」と「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」の啄木の歌碑を経由。つつじを画像にしながら山をおりてきたのですが、一昨年はとてもひとりでのぼる気力はなかったのです。何かがどこかが強くなったのか強められたのか、何かに衝き動かされているものか、おそらくはそのどれもというところでしょう。五月の翠の美しさ、爽やかさ、みずみずしさ。透明な風の清々しさは一年を通じてこれに勝るものはないと思われます。


 

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ウォーキング再開

 

あさのウォーキングを再開。

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大信田時子さんの近作

 

きょうの一日に感謝! たくさんの方々にお世話になりました。    

      ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 大信田時子さんの近作です。

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ライムグリーンの足元に咲く

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シンフォニエッタ盛岡  春のコンサート 2016/5/14 (土)18:00 マリオス小ホール

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 指揮者のお名前がない、さてはサプライズで当日の発表かと思いきや、ほんとうに指揮者なしでの演奏らしい。ピリオド奏法、この耳で聴き分けられるのか、盛岡弁の『ピーターと狼』、「まんず、は、おもしれがんすべな」と言ってはみたものの、この盛岡弁が正しいかどうかも定かではない。
 シンフォニエッタ盛岡のコンサートはこんどの土曜日です!

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アレルゲン

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  桜が咲いているころの写真。レンテンローズだろうか。ずいぶんと散歩を怠ってしまった。
 いちにち中、鼻水に悩まされている。いずれ5月半ばまでは毎年のこと。

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日曜日のおはなし 『御神の住まわれる所』

 おはようございます!
 きょうは、先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の礼拝説教で引証された御聖言のみをおつたえします。

聖書引証 第一コリント6:19~20
6:19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。 6:20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

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 これは聖書のことばであり、わたしなどは、いいえまだまだ、とてもとても、と思うのですが、十字架の贖いがあるので、それゆえにそうあり得るというのですから、ほんとうに畏れを覚えているというのが実感です。

 月はじめの例会がありました。礼拝の後に30分ほど持たれる茶菓のときです。とても楽しく、教会のみなさまの近況やお考えなどを聞くことができ、教えられ諭され、みなさまが身近に感じられるひと時です。

            

 先週の内容と違いますが 國光牧師(←クリックしてください)の説教を聴くことができます。一般の方々のためのおはなしです。

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ショートケーキ&ミニバラ

「ちょっと待ってて」
クルマで待っていたところ、買い物袋を抱えて戻ってきた二男が手渡してくれたものは、

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 私にとって、これは神様からのプレゼントでもある。
ほんとうに嬉しかった!!

「しかしついには上から霊が注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森と看做されるようになる」イザヤ書






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だいじょうぶ

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息子が帰省している。
家族みなが元気でいる。
きょう衣食住に事欠いてはいない。
有難いことである。
もうすこし頑張ろう。
だいじょうぶ。

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花々を眺めながら

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 GWのあいだは、地域がらみのしごとはない。これがゆっくりとできた理由だ。
 GWだからといって、特別に楽しまねばならないということもない。むしろ混雑が避けられるふだんに動くほうが待ち時間なども短くてすむ。
 というわけで、お茶をしながらゆったりと花壇をながめて過ごしている。有益とは言い難いが、すこし疲れぎみの自分には好ましいといえるかもしれない。 

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奥深いやさしさ

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 小雨の盛岡に、結婚して間もない甥夫婦が。つれあいとなった女性の奥深いやさしさに、祝福と安堵の思いが。

       

      

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ゆっくりします

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  水槽に棲む熱帯魚です。
 なぜか言葉が出てきません。表現しようとする意思までが大型連休に入ったようです。やすみます。ゆっくりと。

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五月の到来

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日曜日のおはなし 『いのちの器なるからだ』

 おはようございます。大型連休をいかがお過ごしでしょうか。
インマヌエル盛岡キリスト教会では、被災された熊本、大分のために日々祈りが積まれております。

 先週のメッセージの概略をおつたえします。
 

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聖書引証 第一テサロニケ5:23,24

23平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
24
あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

國光勝美牧師のおはなし≫

このところ、第一テサロニケ52324、特に23節を中心に取次いでおります。なぜ「ご自身が」の前に「平和の神」ということばが付されているのでしょう。それぞれの位格をもちながら一体である三位一体の神様は、平和の神であられます。人間はその神様に似たものとして創られました。救いの中心を神との平和と据えることは、福音の中心であります。この事の為に、神様は、御子を地上に降し、私たちの受けるべき罪を代わってご自身が受けてくださるという、自らが贖いの生贄となって、贖罪を成し遂げて下さいました。人間と神様との平和をつくりだす為です。

 罪の本質は、神様との不調和です。しかし、罪の解決は、神様によって成し遂げられております。心の中に罪の性質を持っていることは、平和の神ご自身の御心に適うことではありません。そこにこそ、神様の贖いの目的があります。きよくあるという事、これは平和の神と私たちとの関係の本質的なものです。ですので、24節に、ダメ押しのように「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます」とあります。成してくださる主体は神ご自身です。それを私たちは信仰をもって受ける。これが罪からの救い、罪の赦しにおいても、私たちが為すべき事です。神との平和を拒んでいる性質のある事に気付いたときに「主よ、どうぞこの者を憐れみ、きよめてください」と祈る事です。そのときに、「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」とはなしが進められてきます。何回もたしかめることです。神との間の平和に何のわだかまりも相違もない、まさに三位一体の神様。この神様に似せられたものとして私たちの霊と心と体がある。神を中心としたところに、健全な人間の状態があります。神を追いだし調和を欠いた状態からの救いが十字架の救いなのです。

 

  Tご夫妻が、弘前に転居しました。Tさんは、重度の障害にあって、その不自由さを経験していても、卑屈であったことがない。Tさんは、私がこんな体になったのは「この人の罪でもない、親の罪でもない、神の栄光があらわれるためです」という聖書のおことばに立って、生きておられます。Tさんは「天国に入ったら、神様、どうしてこんな体にしたんですかと訊いてみたいよ」と仰っています。

ここで、ルカ伝に出て来る金持ちとラザロのイエス様のたとえばなしを思い出します。生まれながらの金持、そして片や、全身に皮膚病を患い、貧しく物乞いをしなければならないラザロ。何という不公平でしょう。確かに、この世に不公平はあります。しかし、厳粛な事実は、金持ちはハデス(陰府)に落とされ、ラザロは、アブラハムの懐といわれる喜びと平和に満ちた世界、天国に迎えられました。 では、貧乏人なら、みな天国に入る事ができるのか。どんな場合でも天国に入る必要条件は、悔い改めと信仰です。環境、資質、財産は一切関係ありません。悔い改めと信仰が天国に入る資格です。体は生まれたときに受けた神様からの預かり物です。肝心なのは、その中に宿っている霊的な命です。

 私の実家は長野県の松本市にあります。長男として生まれ、家を継ぐものと思われていました。しかし、牧師になりましたので、私の姉が家を継ぎました。姉と一緒に家を守ってきてくれた義兄がいます。これまでは、東京で教団の年会があった後に立ち寄るぐらいしかなく、じっくりと話をすることがありませんでした。それが癌の末期である事がわかり、入院したのが2週間前です。わたしのところに、「危ない」という電話が入りました。電話では焦点が定まらず、意思が通じないということでした。急遽、信州大学病院に駆けつけました。

ある本の中に、「人は召される前に、神から仲良し時間が与えられる」とあります。この仲良し時間が与えられたのです。私が駆けつけた時には、不思議に意識がはっきりとし、意思疎通ができました。私は「じゃ、お兄さん、主の御名を呼ぶものは皆救われると書いてあるから、もうだいじょうぶ、怖ろしくないないよ。永遠の命をもつと書いてあるんだから信じましょう」。彼が納得したので、「洗礼を授けるよ」、「お願いします」。ひろ子牧師が準備していったもので、私は兄に洗礼を授けました。

大切なのは永遠の命です。死に直面している者の恐怖を取り除き、キリストの死と復活を伝える事で、希望を与える事ができます。

私はかつて、死に直面しているおじの前で、どこまで踏み込んでよいかを躊躇い、福音をつたえないでしまった事があります。慙愧にたえません。おじの目には死の恐怖が現れ「かっちゃん、牧師だろう、どうにかしてくれよ」といっているようでした。私は伝えるべきメッセージを持っていたのに伝えることができなかった。私の失敗談です。

どうか、死を覚悟している方に、永遠の命を受ける手段を欲している方々に、私たちはそのメッセージを持っているのですから、正しい対処をさせていただきたいと願う事であります。

※メッセージの起しですが、筆者の聞き違いや誤認がある場合もございますので、疑問は筆者にか教会にお問い合わせください。
 写真はもりおか歴史文化館の庭です。

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