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おん父の右におすわりになる主よ

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 けさのクラッシック倶楽部はメゾ・ソプラノの竹本節子さんだった。連日TVの宣伝になるのもどうかと思うが、これが実にすばらしかった。ミサ曲ロ短調から「おん父の右におすわりになる主よ」、マタイ受難曲から「ざんげと悔悟は罪人の心を引き裂く」、「神よ、あわれみたまえ」など。再放送ではある。
 それにしても、ピアノの名器なら、スタインウェイ&サンズ、ベーゼンドルファー、べヒシュタイン、ヴァイオリンならストラディバリウス、ガルネリデルジェスとなるのでしょうが、人の声というこの楽器が、いったいどのようにして体内に“製造”されるものか、生まれて気付いてみれば、どこから運び込まれたわけでもなく、自分の内に霊妙なとてつもない名器が備わっていたというわけなのだ。となればやはりその創造主に向かって第一声を発することは、理に適っているのかもしれない。もともと西洋音楽は神への讃美、グレオリゴ聖歌から始まっている。
 わたしがカンタータの生演奏を聴き始めたのは2008年からのことだ。近くの呉服店のMさんからチケットをいただいたのがきっかけ。翌年からは、自分で購入、毎年行くように。行くたびに必ず予習。ある程度耳に慣れさせておくのだ。そうすると興味が深まり、最後まで集中して聴くことになる。そしてそれが功を奏し、いまは竹本さんばかりではなく、多くの歌曲、合唱を楽しめるようになっている。2008年にチケットと出会わなければ、讃美歌は別として、宗教音楽を聴く事はあまりなかったかもしれない。8年間のあいだに大曲をコンサートホールで10回は聴いたことに。幸運でした。

「おん父の右におすわりになる主よ」
 さまざまな宗教には教祖という人がいる。ならばイエス・キリストも教祖だったのか、ところが、イエス・キリストは教祖ではなく神ご自身であるというのが聖書の教えです。
 宗教曲の壮大さ、深遠さ、慈悲、嘆き、怒り、あわれみ、よろこび、愛が曲の中で溢れかえり、繰り返され、よもに、魂に浸み入っていくのはやはりこんな聖書観、世界観によると思わせられます


 いつこの息の根を留められるか、或いは悲嘆という人生のどんでん返しがくるかもわからないこのときに、神に通じる音楽を心に溜めこんでおくのがよいと思わせられる。どんでん返しが来ても、感謝を捧げることができるように、そういった意味でもけさの音楽は有難いひと時でした。 

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