チューリップ
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村井正一先生は、岩手で弦楽四重奏団を絶やすまいと尽力され、岩手県民オーケストラの創立に惜しみなく労され、多くの音楽団体に賛助を務めました。
アイオン台風の甚大な被害のさ中、僻村を徒歩で訪れ電気の修理をしてまわりました。また僻地の文化の乏しさを悲しまれ、チェロを背負っては奥地を訪れて演奏、カザリン、アイオン両台風の後には、被災地の音楽慰問の魁ともいうべき音楽の慰問を果たしました。盛岡少年刑務所でも、「彼らは同じ音楽仲間だ」と、20年以上に亘ってチェロ演奏をしています。
わたしが村井正一先生を書かせていただこうと思い立ったとき、ちょうど生誕100年である事に気付き、何かの御縁だと思ったのでした。そして4月24日は村井正一先生の命日です。いま自然界は春のただ中。シベリア抑留のとき、どんなにか春を待ち望まれた事でしょうか。苦しいほどに待ち焦がれた春に、村井正一先生は亡くなられています。
いわての文芸誌『天気図』14号に、「市井のチェリスト村井正一 後編」が載っております。県下の主な書店にございます。天気図のほかの同人の方々の作品とともにお読みいただければ幸いです。
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おはようございます。
桜が今が盛りと街を明るく塗り替えて、愛でる人々をあたたかく覆ってくれています。
けさは、聖書のみことばのみをお伝えいたします。教会では、日曜日には必ず説教があります。これを私が取捨選択しているのではなく、その時々の私の状況によって、時間的に起すのが厳しいときがあり、自分のできるときに無理のないところで行っていますので、説教を載せることができるときには説教を、時間的に、或いは健康的に厳しいときにはみことばのみをと書かせていただいております。
聖書引証 第一テサロニケ5:23,24
23 平和の神 ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。:24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。
☆ ☆ ☆
先週の説教内容とは違いますが、ネットに國光牧師 の説教がありますので、クリックしてお聴きください。
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わたしが音楽に身を入れて、自分の糧ともなすべく聴くようになったのは、まったくもって息子の影響だった。子どものころに父のコレクションのSPレコード、レハールの「金と銀」や父が弾くマンドリン、そして、義母のはなしによると、私が5歳の頃に、義母の叔父の家の2階を箏の稽古場に借りていた三浦先生(芥川賞作家三浦哲郎の姉)が、よくそこに遊びに行っていた私を呼んでは箏を弾かせたという。これらが音楽との最初の出会いではあったけれども、より深く管弦楽を聴くようになったのは、息子の交響曲の聴き比べで、最近になって知ったことには、小学校の時の担任が指揮者による演奏の違いを聴かせてくれたのだという。聴き比べといってもどちらが優れているかなどということではなく、指揮者による曲の理解の違いを聴き分けるのだけれども。
交響曲、ヴァイオリン協奏曲、ヴァイオリンソナタ、カンタータ、オペラと聴き継ぎ、その合間にポピュラー的なものが入った。ロックや演歌も嫌いではない。
マニアとはいえないまでも、音楽から心の癒し、インスピレーション、爽やかな気分や力を受けている。音楽があれば、人間世界もわるくはない。
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いまは亡きシダレザクラ。といっても切り株だけはまだ死なずに残っている。2014年の春までは、ゆたかに咲いてくれたものだ。これ以上高くなると先々の取り扱いが困難になる事と隣家に陰を落としている事がはばかられ、消えることに寂しさを覚えつつも伐採を決意、2015年1月に業者さんにお願いして他の4本とともに切り倒した。
樹に対して申し訳がないという想いと、事実切り刻まれていくときには痛みを覚えもした。しかし、そのすがたを保存し、今こうして取り出してブログにアップすることもできる。
こうして見ていると、もしかすれば、生きとし生けるもののすがたはみな、一点一角すたり朽ち消えることはなく、永遠という中における巨大なデーターファイルのどこかにしまわれているのではないか、そんな気がしてくる。
エクアドルの地震、立て続く窮状、お見舞い申し上げますと簡単にはいえない、何といったらよいかもわからないような惨状に、鬱のような気分が増幅しそうなところを、何とか無為に過ごすまいとしているのだが、神様の慮りは如何に。
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時間ごとのニュースで被災地の現況を知りながら過ごした昨日今日、何ともいわれぬ想いで心の中で祈り時間をやり過ごしたことでした。
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会のおはなしは、「潔め(きよめ)」の大切さについてでした。前置き、連絡、先週の復習は割愛し、当日のメッセージの要点をおつたえします。
聖書引証 第一テサロニケ5:23~24
23 平和の神 ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全 に守られますように。24 あなたがたを召された方は真実です から、きっとそのことをしてくださいます。
≪國光勝美牧師のおはなし≫
聖霊のみたしを受けるまでは祈り求め続けるべきことsは、すでにおはなししましたが、きょうは、第一テサロニケ5:23,24をベースにきよめを学びます。
先ず、神様はいったいどんなお方なのでしょう。三位一体の神様であるのですが、三位一体とは。これは父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神がそれぞれの位格、パーソナリティーを持ちながら唯一の神なのであります。きよめを考えるとき、それぞれの神様の位置づけを明確にすることは大切です。
23節に「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」とありますが、これが人間の三要素です。「たましい」は心と考えていいでしょう。この三要素の真中心を神が存在しそのところを占めているときには、人は人たり得ます。しかしその真中心に一旦罪が居座ってしまうと、霊の機能が狂い、人格はアンバランスな状態となります。
こんどは、イエスさまにはなしを集中させます。イエスさまは、十字架に架かられ、陰府(よみ)に下され、三日目によみがえりました。これが復活です。その後、40日間は弟子達のまえに復活したご自身を現わされました。それから弟子達の見ている前で天にあげられ、神の右の座に着座されました。
イエス様は、罪の贖いを成し遂げるという使命を完全に果たされて、天に帰られたのです。その後、約束の聖霊が降されました。聖霊降臨は、イエス・キリストが、神の右の座に着座された証しでもあります。そして今、イエス様は神様の御前で、私たちのために、執りなしの祈りをしてくださっているのです。真実に求める者に、よいものを与えようとしておられるのです。
23節「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」、これは、第二の転機である「きよめ」があることを示唆しています。第一の転機は初めて信仰に立ったときの新生、義認であります。第二の転機とは信仰生活をしていく途上で求め与えられる聖霊のみたし、聖化のことです。いまここで、この第二の転機である「きよめ」をしっかりと捉えることは、今後信仰生活を続け、この地上を終えるとき栄化の恵みを受けるためには、非常に大切なことです。
イエス様の十字架の恵みには、第二の転機までが含まれているのです。ですから、十字架の恵みによる回復があると知れば、信仰から離れることなどあり得ないのです。
第一の転機で悔い改め、ただ恵みを受け取って救われました。それでも尚、罪に傾く性質、罪性がのこっていることを素直に認めて、心のすべてを差しだし、あなたの前に無条件降伏しますから主よよろしくお願いしますと神の前にすべてをあけ渡すなら、そのときにこそ、聖霊が心の中にみちてくださいます。これがきよめです。クリスチャンとしてここに到達するために、主が成し遂げてくださった十字架の恵みをそのまま自分にあてはめることです。24節のおことばを心に留めましょう。
あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。
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題字もこの数字ひとつで通じるというこの事態。夕べ、ブログをアップした頃に熊本が震度7に遭っていたとは。それから朝の5時まで知らずにいた。
息子からメールが届いた。発信は午前1時15分。これも朝方に気付いた。東京都の地震ガイド<http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2015/08/20p8l300.htm>>が添付され、同様に震災に遭った場合、行政も機能しかねるだろうから、1週間は自力で何とか生き延びなければならないとあり、災害時の連絡方法と連絡先が幾通りか書かれてあった。
熊本でまたもや亡くなられた方々が出、困難な状況に立たされている方々がある。それがもはや息子たちにも何時でも起こり得る。身に迫る想いがした。数か月以内に引越そうと決めていた息子、この際、多少不便でもできるだけ難を逃れられる地域に移転してくれよと願いながら、これまでとは違って、自身に起こり得る事についても、腹を括っている自分がいた。
一日もはやく回復されますよう、朝に夕に、お祈り申し上げます。
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けさのクラッシック倶楽部はメゾ・ソプラノの竹本節子さんだった。連日TVの宣伝になるのもどうかと思うが、これが実にすばらしかった。ミサ曲ロ短調から「おん父の右におすわりになる主よ」、マタイ受難曲から「ざんげと悔悟は罪人の心を引き裂く」、「神よ、あわれみたまえ」など。再放送ではある。
それにしても、ピアノの名器なら、スタインウェイ&サンズ、ベーゼンドルファー、べヒシュタイン、ヴァイオリンならストラディバリウス、ガルネリデルジェスとなるのでしょうが、人の声というこの楽器が、いったいどのようにして体内に“製造”されるものか、生まれて気付いてみれば、どこから運び込まれたわけでもなく、自分の内に霊妙なとてつもない名器が備わっていたというわけなのだ。となればやはりその創造主に向かって第一声を発することは、理に適っているのかもしれない。もともと西洋音楽は神への讃美、グレオリゴ聖歌から始まっている。
わたしがカンタータの生演奏を聴き始めたのは2008年からのことだ。近くの呉服店のMさんからチケットをいただいたのがきっかけ。翌年からは、自分で購入、毎年行くように。行くたびに必ず予習。ある程度耳に慣れさせておくのだ。そうすると興味が深まり、最後まで集中して聴くことになる。そしてそれが功を奏し、いまは竹本さんばかりではなく、多くの歌曲、合唱を楽しめるようになっている。2008年にチケットと出会わなければ、讃美歌は別として、宗教音楽を聴く事はあまりなかったかもしれない。8年間のあいだに大曲をコンサートホールで10回は聴いたことに。幸運でした。
「おん父の右におすわりになる主よ」
さまざまな宗教には教祖という人がいる。ならばイエス・キリストも教祖だったのか、ところが、イエス・キリストは教祖ではなく神ご自身であるというのが聖書の教えです。
宗教曲の壮大さ、深遠さ、慈悲、嘆き、怒り、あわれみ、よろこび、愛が曲の中で溢れかえり、繰り返され、よもに、魂に浸み入っていくのはやはりこんな聖書観、世界観によると思わせられます。
いつこの息の根を留められるか、或いは悲嘆という人生のどんでん返しがくるかもわからないこのときに、神に通じる音楽を心に溜めこんでおくのがよいと思わせられる。どんでん返しが来ても、感謝を捧げることができるように、そういった意味でもけさの音楽は有難いひと時でした。
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今朝のBSプレミアムでビットリオ・グリゴーロのテノールを聴くことができたのはラッキーだった。ヴィンセンツォ・ダンニバールの『太陽の土地』、すばらしかった。ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場、メトロポリタン歌劇場などに出演。パヴァロッティの再来と世界で絶賛されている。去年の4月、ちょうど桜の真っ最中に来日。そのときの再放送だったろうか。
NHK名曲アルバムはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調。久しぶりに早朝に聴いたせいか、とても新鮮に感じられた。演奏は誰かと見れば、篠崎史紀。
留学中、ヴィオッティ国際音楽コンクール室内楽部門で第3位、第20回ボルドー国際音楽祭で銀賞を受賞した。1988年、ウィーン市立音楽院を修了して帰国し、群馬交響楽団のコンサートマスターとなる。1991年、読売日本交響楽団のコンサートマスターに、1997年4月に、NHK交響楽団のコンサートマスターに就任した。(以上、wikipediaより転載)
コンサートマスターに必要な資質は何だろうかと引いてみますと、「ゆるぎない確信と冷静さと極めて強いリーダーシップ」と出てきました。こうして書きだしてみますと、コンマス席が一層権威を帯びて見えてきます。
真夜中に目を覚ますと心の奥に讃美歌が流れている事が多いですが、神が居られ、音楽があり、夜露をしのげる屋根と、凍えない程度の衣服と、すこしの、いいえたまにはスイーツでもあれば、何とか生きてゆくことができそうです。きょうも何とかお祈り会にも行ってきました。図書館にも行ってきました。庭も手を入れました。日陰で弱っているものはみな日向に植えかえました。日々忙しく気疲れも多いのですが、しかし感謝です。感謝できることが感謝です。
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おはようございます!
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会(←クリックで教会につながります)のメッセージは、主に期待し、信頼し、求め、捜し、たたき続けましょう。御心に適う願いはすでに聞かれているとのメッセージがありました。きょうは聖書の引証箇所のみをおつたえ致します。
イザヤ40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
ルカ18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
マタイ7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(欄外註:求め続けなさい。捜し続けなさい。たたき続けなさい)
第一ヨハネ5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。15 私たちの願う事を神が聞いてくださるとすれば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
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きょうは、だいぶ咳も引き、花粉症状も軽くなり、よくなる事を確信。無意識のうちになぜかバレンボイムのパワーと『ピクニック』の歌を思い出していた。
丘を越え 行こうよ 口笛 吹きつつ
空は澄み 青空 牧場を 指して
歌おう 朗らに 共に手をとり
ランラララ ララララ
ララララ あひるさん (ガアガア)
ララララ 山羊さんも (メェー)
ララ 歌声合わせよ 足並み揃えよ
今日は愉快だ
「みんなの歌」に流れていたのだが、作詞作曲は誰? と見ると、作詞は萩原英一、イギリス民謡とされるが大元はアメリカ。
ひと冬、絶対に風邪はひかない! と決意、手洗い、うがいを徹底し、たしかに風邪をひかずに済んだ。それが今になって、冬場に頑張った疲れ、自分では疲れたとそれほど自覚してはいなかったが、疲れていたのだろう、それらが一挙に出たのと、開花していく春の花々に気持が緩んだせいかとも思う。
気力回復!
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スポットを浴びる立川さん、菊池さん、渡邊さん。感謝です。最後の段に「このほか、時代小説、児童文学、本県の近代音楽史をたどる評伝、エッセーや詩なども収録」とございます。こちらも是非ご覧ください。読んでいただく事が励みとなり、また登場人物に光を当てていただくことになります。
~~~~~~~
マイ・ブログですので、評伝「村井正一物語 ー後編ー」、岩手の近代音楽史をご紹介します。『天気図』の208~264頁に掲載されています。
村井正一先生は、岩手の弦楽四重奏団の草分けである太田カルテットの主宰者梅村保の愛弟子です。
ラジオ、レコードがまだ一般的ではなかった時代、交通事情が便利ではなかった時代に、チェロを背負っては僻地に出かけ、娯楽の少ない多くの方々にチェロ演奏を届け、また小学校などで演奏、地方の文化に貢献した功績により、東北で初の日本青年会議所ゴールドメダル賞を受けられました。
太田カルテットの流れである盛岡弦楽四重奏団(村井カルテット)を、弦楽の灯を絶やすまいと幾多の危機を乗り越え、継続に尽力されました。岩手大学オーケストラ、安藤ヴァイオリン教室、宮古ジュニア弦楽合奏団、草創期の仙台オーケストラ他数々の音楽団体に賛助出演しました。
また20年以上に亘って盛岡少年刑務所を慰問し、安藤澄子先生と共に少年たちのために演奏、法務大臣、仙台矯正管区長から感謝状を受けています。
多くの人々の念願であった岩手県民オーケストラの創立に当たっては、設立準備委員長として奔走、尽力されました。
また、村井正一先生の周辺に活躍された主にアマチュアの方々も書いてございます。勉強不足、資料不足のために書きかねた方々、書き落とした事項もあるとは思いますが、興味深くお読みいただけるものと存じます。皆さまご存じのお名前に必ずや出会うはずです。
また頁数の限り(私的事情で)もあり、県民会館の杮落としの合唱など、書きかねた事項も多くございます。登場する方々はみな私の教師とも言うべき方々ですが、筆記上の事情から不遜ながら敬称は略させていただきました。
率直なご意見、ご感想、ご批判等いただけると助かります。また資料などご提供いただけますなら感謝です。宜しくお願い申し上げます。
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ニュースで東京の桜情報が流れていたけれども、友だちが、2日、3日発信してくれたメールがいちどに到着。彼の地の桜と、友だちの温かさがわが家に空を駆けてきてくれた感じがして感激!
2月に上京したときに一緒に新美術館で大原コレクションを観て回った。地下鉄などの煩雑さを避けるために、待ち合わせ場所まで姉を同行した。「ごめんなさい、連れてきちゃった」というと「何言ってるの、あなたのお姉さんじゃないの」と受け入れ、姉も一緒に絵画を観る事になった。この一言も忘れられない。
季節ごとに写メールを送ってくれる。これがいつも自分に励ましが必要であるときに届くから不思議だ。そして彼女から届く前日かに、あ、近々メールが届くと心に兆すものがある。そうすると翌日か翌々日に決まってメールがある。これも不思議に思っている。
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おはようございます!
先週は、イースター講壇、そして聖餐式がありました。
ここでは、インマヌエル盛岡キリスト教会のイースターメッセージをおつたえします。
聖書引証 マルコ16:1~8
1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。2 そして、週の初めの日 の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。3 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。5 それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。6 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」8 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
≪國光牧師のおはなし≫
旧約聖書におけるユダヤ教徒たちの安息日は土曜日です。安息日には何もしてはいけない、仕事も禁じられていました。そして、「日」は夕方で区切ります。「土曜日」というのは深夜を一日の始まりとする現代の時法 でいえば金曜日の日没から土曜日の日没までの間を言います。
安息日が終わったので、イエス様の十字架の酷い死に心を痛める人々が、せめてイエス様の亡きがらに香油を塗って差し上げたいと墓の入り口にやってきました。アリマタヤのヨセフがイエス様を引き取り、自分のために準備してあった墓にイエス様を葬ったのでした。
金曜日には十字架につけられ、土曜日は墓の中に。安息日が終わったので、女たちは悲嘆のあまりにローマ兵がいる事も墓が封印されていることも忘れて駆けつける。ところが石は除けられていた。イエス様がよみがえるという意識はこのときの女たちにはまったくない。
右側には真っ白な衣を着た青年が坐っていました。なぜ御使いと書かずに青年と書いてあるのでしょう。おそらくマルコは、この女たちの気持をストレートに書いたのでしょう。女たちには、天使は青年にしか見えていないという事です。マルコ9:2,3をご覧ください。
2 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブ とヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった 。3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった
天使の白さ、輝きは、このようなこの世のものとは思われない真っ白な輝きなのです。しかし、彼女たちは、まだこの世的な見方しかできていません。
女たちは、お弟子達とペテロへの伝言を預かりながらも、すっかり震えあがり、気も転倒したままです。
ペテロとヨハネが聞いて、墓に走っていきます。ヨハネはペテロを引き離して墓に着くのですが、入り口で躊躇っている。ペテロは先に墓いに飛び込んでいきます。そこに包帯がのこされています。6節を心に留めましょう。人間的な理解の限界を越えられないでいる女たちへの天使のことばであり、きょうの私たちへのメッセージです。
「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」
「よみがえられました」は、原語では「よみがえらせられた」という意味です。神様があの方をよみがえらせられた、だからここにはおられないのです。
墓は滅びの象徴です。すべてを成し遂げてくださったお方は、いつまでも墓の中に身を横たえたままではいらっしゃいません。墓を打ち破り、よみがえられたのです。この事を私たちが受肉していったなら、いまが如何に迷路のようであり、出口が無く解決が見当たらないとしても、それは絶望的ではないのです。御使いは言うのです。恐れるな、神様はあの方をよみがえらせられたのだから。私たちがあの課題、この迷路から抜けだせないとしても、神様が成し遂げてくださる。これを信じ、自らに適用できるかどうかです。これをアーメンと受け取る事ができるなら、その人の信仰生涯は勝ち得て余りあるものとなります。
イエス様の復活の事実をしっかりと受け留めましょう。t
※写真のイースターエッグは、ひろ子牧師が作ってくださいました。
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耳鼻科の混みようは! とにかく鼻水が、薬が必要、で待ちに待つ。お母さんやお父さんに連れられた子どもたち。泣きやまない幼児を看護師さんがあやしている。その言葉がけにむしろ心が和んだ。遠い幼児期に、自分もこんなふうにあやされた時があったろうとなぜかこの齢で思ったり、6カ月ぐらいだった子どもが泣きやまず、ずっとあやしていた時の事を思い出したり。
午後はグレン・グールド。ベートーヴェンの協奏曲演奏を追ううちに、バッハ、ブラームスも聴く事に。ヴァイオリニストのハイフェッツを彷彿とさせるところもある。しかし穏やかで単調な打鍵にも、その指の、心の内にはほとりがある。
きょうの羽生、これをまた意思力に技術力に変えるはず。きょうはきょう、次もまた楽しみ。
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