日曜日のおはなし 『十字架と私』
イースターおめでとうございます!
きょうはイエス様の復活をお祝いする聖日です。
聖書引証 ヨハネ伝19:28~30
28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く 。」と言われた。29 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した 。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
≪國光牧師のおはなし≫
エペソ2:8に「あなたがたは、恵のゆえに、信仰によっhて救われた のです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」とありますように、救いは人間の側から願ったのでもなく神様からの私たちへの愛の賜物です。それがわかればわかるほどに、私たちが救いに与るのは信仰による以外にはない事がわかってきます。
ある先生は「信仰を働かせる事ができるのは、この地上にあるときだけです。天国に入れば、もう信仰を働かせる必要がありません。そこにあるのは愛だけです。信仰と希望と愛、その中でいちばん大切なものは愛であるといわれますが、これは意味のある事です。この地上にいる間は、t見えないお方を見えるものとして信じる、これは今しかできない。この信仰をもって思い切りこの地上生涯を歩ませていただきたい」と言っておられました。信仰は地上にある者の特権です。
聖書は始めから終りまで血によって貫かれている書物です。罪を犯したアダムとエバをおおうために、神様は、皮の衣を作って着せてくださいました。この皮の衣を作るために初めて血が流されました。神様はすべての者にこのほふられたものの衣を着せてくださいます。これが即ち十字架の贖いであり、神様は御子イエスをほふり贖いの血を流して私たちの罪をおおってくださったのです。この受難週、特にこの事に心を留めましょう。
レビ記にも書かれていますが、私たちが神の前に立つためには、血が流されなければなりません。
ブラジルのある教会で、教会学校の先生が、子どもたちと遊ばせた子羊を子どもたちの前でほふって見せたそうです。子どもたちに、イエス様がほふられたその凄惨さをわからせたかったそうです。ややもすれば、私たちは頭だけで十字架を理解しえたと思っている。十字架をロマンチックにとらえアクセサリーに用いたりしている。しかし、イエス・キリストがなぜ十字架に架けられるという受難にあわなければならなかったのかを改めて銘記すべきです。血を注ぎ出すことがなければ罪の赦しはないのです。
そしてイエス様の十字架の力は、2000年の昔のあの時点だけのものではありません。この罪の贖いに時間の制約はありません。十字架以前にも、そして現代に及ぶまでも罪の贖いの効力は完全です。
ヨハネ19:30に「完了した」とございます。これは、すべての目的が達せられたという意味です。イエス様のご目的は、私たちの罪の贖いです。この後、イエス様がまた十字架に架からなければならないという事はありません。すでに2000年前に贖いは完璧に成し遂げられました。足りないところは一つもありません。完了しています。
詩篇22:11~15 をご覧ください。
11 どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。12 数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。13 彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。14 私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。15 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上 に置かれます。16 犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。17 私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。
この詩篇は、十字架の預言であるといわれています。イエス様の十字架の苦しみ、これは本来私たちが受けるべき苦しみなのです。神様からの私たちへの罪の裁きを、私たちに代わってぜんぶイエス様が背負ってくださり、罰を受けてくださった、それが十字架の意味です。
ヨハネ19章に戻りますが、この28節、「われ渇く」とイエス様は言われます。そしてイエス様は酸いぶどう酒を受けられました。これには様々な解釈があります。この酸いぶどう酒には、痛みを和らげる効果がある。イエス様はこれをほんのすこしだけ受けられた。和らげるまでには効かない程度です。罪に対する裁きの痛みを軽減しようとはなさらず、ぜんぶの苦しみ痛みを身に引き受けて贖いをしてくださった、イエス様は父が備えられた苦い盃をことごとく飲み干された。このような解釈があります。酸いぶどう酒を受けられ、「完了した」と言われます。他の福音書には「父よ、わが霊を御手に委ぬと言われ頭を垂れた」とあります。
「頭を垂れる」という意味のことばは、聖書中にもう一か所つかわれています。「鳥にはねぐらがある。しかし人の子(イエス)には枕するところがない」のこの「枕する」ということばがそうです。このことから、人の子がやっと枕することができたのは十字架の上であったとする解釈があります。目に見えるところは、尽き果ててがっくりと頭を垂れるすがたでしょう。しかし、それは主がすべてを成し遂げてやっと枕するすがたであるという。頷かれます。
私たちの罪の贖いは、このようにして、神様の側からすべてが完了されました。罪の赦しも罪のきよめもすべてが完了されたのです。とすれば、あと残るのは何でしょう。それは私たちの十字架に対する態度です。まだ見た事のないイエス様に思いっきり信仰を働かせて、この十字架を「有難うございます」と感謝して受け入れることです。十字架は完了しているのです。この地上に在る限り、あなたの罪の性質は解決することはできないなどということがあるでしょうか。イエス様は罪の贖いに関する一切を成し遂げてくださったのです。これだけのことを神様が為してくださったのですから、私たちはきよめの事をも含めて、主よ有難うございますと信じ受け入れるだけでいい。常に、私たちがどう応答するかに掛っている。私たちが為し得る最大のわざは、このお方を有難うございますと十字架の前にひれ伏し、信じ悔い改め、神の賜物として救いときよめを受け入れましょう。そしてこのような心で受難週を歩ませていただきましょう。
※説教は概略です。
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