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日曜日のおはなし 『あの時、わたしは何を』

  けさは室温7℃、比較的温かい朝となりました。きょうの天気が一気に雪嵩を減らすでしょう。散歩したくなる早朝ですがここは踏みとどまって、先週のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の礼拝メッセージをおつたえします。

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P1130420_2 聖書引証 使徒20:21
ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改め と、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。

≪國光牧師のおはなしの概略≫

 きょうは、「あのとき私は何をしたのか」、それに焦点を置きながら、もういちどこの「救い」というものを捉えなおしてみましょう。大切な福音の真理がエペソ書2:8にございます。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」
 私たちは神の恵みによって救われました。ですから自らが誇るところは何もない。神様の御愛のゆえであって、私たちの誇るところは何も無い。私たちは信仰によって救われており、これは神からの賜物であります。これがわかりますと、たとえば『葡萄の樹』に証しを寄せる時に、何を書いたらよいかというより先に、そのときのことを思い出すでしょう。ああ、これが自分のうちに為されたことなのだと、この時のおことばを自分自身のうちに捉え直すだけでも、それはもうよい証しなのです。
 今から30年前、神学院の同窓会セミナーの講師だった、世界に遣わされている宣教師を指導するような立場であられるアップルビー先生のお話を思い出します。私たちは、いつ救われたかを大切にする教会におりますが、アップルビー先生は、「実は私はいつ救われたのか分からないのです」と証ししておられました。私たちは、何年何月何日何時何分に信じましたと書いておきなさいと指導されていますが、アップルビー先生のように、自分は救われているけれども、いつ救われたか覚えていないという方もいらっしゃる。何年何月何日に救われたか、そのことは救いのよってもって立つ根拠ではありません。いちばん大切なことは、いまあなたがイエス様を信じて救われているという、この信仰に立っているか、今、あなたがこの信仰にアーメンということができるかどうかです。これが言えるなら、もうそれだけで、必要なものは十分に持っているといえる。これがわからない方は、この機会にしっかりと、捉えなおすことが必要でしょう。
 そして、どうか『葡萄の樹』の原稿を書くとき、救われた年月日を思い出せなかったとしても、いま救われている事をアーメンと頷く事ができるなら、それで必要にして十分な証し人であるという事も是非覚えていただきたい。

 「恵みによって救われる」、これを、「先行的恩寵」といいます。AさんとBさんが伝道会に来ました。同じ説教を聞きながら、Aさんは十字架のメッセージを自分に当てはめることができ、Bさんは信じる事をしなかった。別な言い方をすれば、Aさんは救われ、Bさんは救われなかった、この事実をどう位置付けるか。ある方は、Aさんは、はじめから救いに選ばれており、Bさんは救いからは外れていたという派がないわけではない。では、神様が選んで下さらないのなら、Bさんはどんなに頑張っても救われないのか、滅びに決まっているのか、こういう極端な主張をしている立場もあります。しかし、これは私たちのあり方ではない。神様は、すべての人が救われることを願っておられる。すべての人が救われ得る。悔い改めるなら、その人は救われる。同様にBさんも悔い改めるのならば救われるのです。神様の恩寵というのは、AさんにもBさんにも同じようにある。問題は、悔い改めるかどうか。Aさんは悔い改めた。Bさんは、神様が選ばないから救われないのではなく、Bさんは自分の責任において、イエス様の前に、イエス様が自分の罪の身代わりだとは認めたくなかった、そんな簡単なことで救われるはずがないというかもしれない、何れにせよ、Bさんは悔い改めなかった自己責任があります。

 きょうの大切なポイントとして、「そのとき、わたしは何をしたか」というのは、悔い改めをそのときにしたかどうかなのです。悔い改めたときがはっきりしていなくとも、自分の罪の身代わりとしてイエス様が、十字架の上で贖いを遂げてくださった事を知って、その時に、悔い改めをして、つまり、悔い改めるということに現れた信仰によって救われたのです。よく「悔い改めと信仰によって救われる」と申します。すると、悔い改めというわざと、そして信仰という自分のわざによって救われるという間違った位置づけをしかねません。私たちは、エペソ書にもあるように神の恵みによって救われるのです。これは福音的信仰の理解の大前提です。神の恵みによって私たちは救われます。その神の恵みはAさんにもBさんにも等しく届けられています。福音を聞いた時にどう思うかは千差万別です。ただ聞いたそのときに、私はたしかに罪人ですと悔い改め、十字架の贖いを受け入れるか否かにすべては掛かっています。

 使徒20章、このときパウロは自分の伝道者生涯がそう長くはないことを意識しています。17節を見ると、ニネベからエペソに遣いを送っている。そしてエペソ教会の人たちに、自分が生きて皆に会えるのはこれが最後だと思うので、どうかわたしの言う事を聞いてもらいたいと書いたのが18節以下のところです。
18 彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。19 私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕え ました。20 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、21  ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改め と、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」

 「ユダヤ人にもギリシヤ人にも」とは「すべての人々に」という意味です。パウロは、「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰をはっきりと主張した」と言っていますが、まさしくこれなのです。悔い改めと信仰を並立してしまうと悔い改めという人のわざと信仰というひとのわざによって救われるかと思いがちですが、実はそうではない。エペソの人たちに言っているように、恵みにより信仰によって救われたのです。人のわざではない。そこを福音的に理解すると、悔い改めることに現れる信仰、これも神の先行的な恵であります。

 先行的恩寵によって私たちは方向転換をしたわけです。その時々の罪の自覚があります。この理解は齢ごとに深まってくるものです。その時に与えられている恩寵の中で精いっぱい、ああ、ごめんなさい、あのとき私はほんとうにこんなに我がままいっぱいな者でしたというように自覚し、そしてそのあなたのためにイエス様は十字架に架かってくださったというこの神の愛との出会いがあったとのです。これを信仰によってというのですが、ロマ6:11にはこのように、あなたがたも自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」とあります。「思いなさい」に注目してください。これは計算するように、という意味です。このように計算しなさい、これが本来このことばの持っている意味です。ですからキリストとともに十字架に死んだ、そして洗礼を受けるという事は、新しいキリストの命に生きた者と思いなさい、計算しなさい。これはあなたがどう感じる感じないではない、もうそのようになっている公式なのですから、そのように計算していいのです。ですから救われているかいないか分からないと悪魔が火矢を打ちこんできたときには、十字架がわたしの罪の身代わりであると信じて、イエス様の愛を受け入れている今の自分がいるのならば私は救われているのです。どう感じるかではない。聖書に信じる者は救われると書いてある。永遠の命を持つと書いてある。それを自分に当てはめればいいのです。ぜんぶ神様が成し遂げてくださった公式に自分をあてはめさえすればいいのです。罪の本質は誇りであり業です。罪の本質は傲慢です。神はあなたには罪の解はできないという。できないのだから、私がその解を設けているから、それに自分を当てはめなさいと言われる。神は私たちに謙遜であることを要求しています。
 イエス・キリストの十字架は事実であります。私たちが恩寵の手段を守って生きていくなら、キリストを証しし続けることができるのではないでしょうか。

※例話など割愛した部分がございます。
 

 

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