梅
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午前はお祈り会。午後はお客様。夕刻以降は音楽関連ブログを見るうちに時間は21時。花粉のシーズンはすっきりとしない。というのはいい訳か、次の行動に速やかに移れないこの頃、無為に時間が過ぎてゆく感覚に抗おうとしてはいるのだが。
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イースターおめでとうございます!
きょうはイエス様の復活をお祝いする聖日です。

聖書引証 ヨハネ伝19:28~30
28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く 。」と言われた。29 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した 。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
≪國光牧師のおはなし≫
エペソ2:8に「あなたがたは、恵のゆえに、信仰によっhて救われた のです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」とありますように、救いは人間の側から願ったのでもなく神様からの私たちへの愛の賜物です。それがわかればわかるほどに、私たちが救いに与るのは信仰による以外にはない事がわかってきます。
ある先生は「信仰を働かせる事ができるのは、この地上にあるときだけです。天国に入れば、もう信仰を働かせる必要がありません。そこにあるのは愛だけです。信仰と希望と愛、その中でいちばん大切なものは愛であるといわれますが、これは意味のある事です。この地上にいる間は、t見えないお方を見えるものとして信じる、これは今しかできない。この信仰をもって思い切りこの地上生涯を歩ませていただきたい」と言っておられました。信仰は地上にある者の特権です。
聖書は始めから終りまで血によって貫かれている書物です。罪を犯したアダムとエバをおおうために、神様は、皮の衣を作って着せてくださいました。この皮の衣を作るために初めて血が流されました。神様はすべての者にこのほふられたものの衣を着せてくださいます。これが即ち十字架の贖いであり、神様は御子イエスをほふり贖いの血を流して私たちの罪をおおってくださったのです。この受難週、特にこの事に心を留めましょう。
レビ記にも書かれていますが、私たちが神の前に立つためには、血が流されなければなりません。
ブラジルのある教会で、教会学校の先生が、子どもたちと遊ばせた子羊を子どもたちの前でほふって見せたそうです。子どもたちに、イエス様がほふられたその凄惨さをわからせたかったそうです。ややもすれば、私たちは頭だけで十字架を理解しえたと思っている。十字架をロマンチックにとらえアクセサリーに用いたりしている。しかし、イエス・キリストがなぜ十字架に架けられるという受難にあわなければならなかったのかを改めて銘記すべきです。血を注ぎ出すことがなければ罪の赦しはないのです。
そしてイエス様の十字架の力は、2000年の昔のあの時点だけのものではありません。この罪の贖いに時間の制約はありません。十字架以前にも、そして現代に及ぶまでも罪の贖いの効力は完全です。
ヨハネ19:30に「完了した」とございます。これは、すべての目的が達せられたという意味です。イエス様のご目的は、私たちの罪の贖いです。この後、イエス様がまた十字架に架からなければならないという事はありません。すでに2000年前に贖いは完璧に成し遂げられました。足りないところは一つもありません。完了しています。
詩篇22:11~15 をご覧ください。
11 どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。12 数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。13 彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。14 私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。15 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上 に置かれます。16 犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。17 私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。
この詩篇は、十字架の預言であるといわれています。イエス様の十字架の苦しみ、これは本来私たちが受けるべき苦しみなのです。神様からの私たちへの罪の裁きを、私たちに代わってぜんぶイエス様が背負ってくださり、罰を受けてくださった、それが十字架の意味です。
ヨハネ19章に戻りますが、この28節、「われ渇く」とイエス様は言われます。そしてイエス様は酸いぶどう酒を受けられました。これには様々な解釈があります。この酸いぶどう酒には、痛みを和らげる効果がある。イエス様はこれをほんのすこしだけ受けられた。和らげるまでには効かない程度です。罪に対する裁きの痛みを軽減しようとはなさらず、ぜんぶの苦しみ痛みを身に引き受けて贖いをしてくださった、イエス様は父が備えられた苦い盃をことごとく飲み干された。このような解釈があります。酸いぶどう酒を受けられ、「完了した」と言われます。他の福音書には「父よ、わが霊を御手に委ぬと言われ頭を垂れた」とあります。
「頭を垂れる」という意味のことばは、聖書中にもう一か所つかわれています。「鳥にはねぐらがある。しかし人の子(イエス)には枕するところがない」のこの「枕する」ということばがそうです。このことから、人の子がやっと枕することができたのは十字架の上であったとする解釈があります。目に見えるところは、尽き果ててがっくりと頭を垂れるすがたでしょう。しかし、それは主がすべてを成し遂げてやっと枕するすがたであるという。頷かれます。
私たちの罪の贖いは、このようにして、神様の側からすべてが完了されました。罪の赦しも罪のきよめもすべてが完了されたのです。とすれば、あと残るのは何でしょう。それは私たちの十字架に対する態度です。まだ見た事のないイエス様に思いっきり信仰を働かせて、この十字架を「有難うございます」と感謝して受け入れることです。十字架は完了しているのです。この地上に在る限り、あなたの罪の性質は解決することはできないなどということがあるでしょうか。イエス様は罪の贖いに関する一切を成し遂げてくださったのです。これだけのことを神様が為してくださったのですから、私たちはきよめの事をも含めて、主よ有難うございますと信じ受け入れるだけでいい。常に、私たちがどう応答するかに掛っている。私たちが為し得る最大のわざは、このお方を有難うございますと十字架の前にひれ伏し、信じ悔い改め、神の賜物として救いときよめを受け入れましょう。そしてこのような心で受難週を歩ませていただきましょう。
※説教は概略です。
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きのう午前はお祈り会。あとは地域関連の事が連日続いている。 ここのところ、十字架に架けられたイエス様が、なぜかその十字架上からすぐそこにいる母マリアに抱かれた赤児のイエス様ご自身を見おろしている場面が浮かんでいる。これを描いてみようとスケッチブックと水彩を準備したが、構図の段階から描きかねた。イエス様のご生涯 は33年。33年前のご自分が同じ時点に存在し、同じご自身が、母マリアの腕の中にも十字架の上にも同時に存在しているという図だ。
自分の単なる創造の所産を勝手にこねまわしても仕方のない事ではあるけれども、自分などの思いこみを差しはさむ余地などないほどの出来事でもあるのだけれども、なぜかこの構図が脳裡から離れない。
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「市井のチェリスト村井正一物語 後編」の中に書かせていただきました梅村家音楽活動の5代目をご紹介します。梅村音衣(ねい)ちゃんです。昨年の恒例の「音楽の夕べ」のときに、お母様の腕に抱かれて登場。握手させていただきました。4代目梅村隆一氏のご長女です。ご両親の笑顔にまもられて、今はドイツですくすくと育っているはず。
また、梅村真美さん、小松智佳子さんは、ヴァイオリンをもって被災地の皆さまに心を寄せ励ます活動を続けておられます。昨年9月には陸前高田市を訪れ、バッハの調べを演奏、犠牲者を悼みました。
今年の3・11の5周年の日には、小松智佳子さんは、田野畑村の追悼式で、グラツィアのメンバーとして、フルートの野崎千賀子さんとともにヴァイオリンを演奏、
その足ですぐに宮古市に移動、こんどはあの陸中ビル、3・11のあった夏、絶望と涙の中に「音楽の夕べ」を絶やすまいと立ちあがり、被災した宮古市民会館の代わりに会場としたこの陸中ビルに駆けつけ、宮古ジュニア弦楽合奏団や多くの賛同者を得て追悼演奏を果たしました。
生き続ける音楽の種、大正の昔より100年の時を超えて絶えない楽の音を応援します!!
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昨日午後は、休んでいた方がいいと判断し、家事以外は全休。今朝は体調も回復し、日曜日を迎えています。
今週は受難週、そして27日にはイースターを迎えることになります。

今回は、先週の礼拝説教で引証された聖句だけをお伝えいたします。
第一コリント2:6~16
6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵 であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの 。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
10 神はこれを、御霊によって 私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深み にまで及ばれるからです。
11 いったい、人の心のこと は、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。
13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
14 生まれながらの人間 は、神の御霊に属することを受け入れ ません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によって わきまえるものだからです。
15 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
16 いったい、「だれが主のみこころを知り 、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。
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午前はお墓参り。新庄墓園の周りの残雪。

一週間はかかるかと思われた庭仕事を、今日の一日で終えることができた。不鮮明だけれども、まん中がスノードロップ。チューリップ、ヒヤシンス、ニゲラの芽が出ている。裏の畑は草取りをし石灰を散布。これでひと月もすれば、野菜を植えられるだろう。ただしトマトなどは、あまり急がない方がいいらしい。5月下旬、植物がぐんぐん伸び始めるあたりでいいのだとか。
裏に植えた石竹が年ごとに消えてしまっている。この花にとっては条件がよくないのだろう。もっと日当たりの良いところに早くに植えかえ、もっと肥料をほどこしてやるべきだったろう。活き活きと増え広がるための条件を満たしていなかったのだ。いまになって、植物からさまざまに教えられることがある。
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毎年この時期になると花粉症とのつきあいとなる。頭が重く眠く動作が緩慢となる。いちにちを締めくくるときになって、きょうは何をしたか思い出せない、何もしなかったという結果におわりたくないと意識して、為すべき事を見つけては動くようにしたが、さしたる重要項目をこなしたという実感がない。
秋じまいをおざなりにした結果、裏の畑には立ち枯れや一面にはびこった草が勢いを増している。きれいにするには一週間がかりの仕事になるだろう。ただこれは始めさえすれば、飽きる事のない私にとっては娯楽ともいうべき仕事だ。
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朝起きを書くのは、書く事でこの事を意識し、習慣化を強めようとのおもいだけれども、そろそろこれが当たり前として定着しそうだ。
午前はお祈り会。午後は用足し。地域のことといい、人様のご協力、ご理解で様々が成り立ってきていることを思い感謝する。
まだ一つ為さんとせども力尽くこんな日もあるそんな日もある ぶんな
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今朝、TVを点けると、滅多に見る事はないけれども、気まぐれで点けると、トルコのピアニストであり作曲家であるファジル・サイが演奏していた。ちょっと見たことで、その後の2時間は彼の演奏の数々を聴いてしまう事になった。何の抵抗もなくジャズ世界にワープできる。モーツァルトもパガニーニも彼の感性のろ過装置をくぐりぬければジャズとなりすまし躍動感に溢れ、自在に駆け弾けることになる。民族的な音色を独特なピアノ奏法で具現した「ブラック・アース」、そして交響曲第1番「イスタンブール・シンフォニー」は興味深かった。
音楽家になった人たちの成育環境には、何らかの音楽的要素があるのが普通だが、ファジル・サイの父は小説化。まったく音楽環境には育っていない。しかし、絶賛されながら世界中に迎えられている。
2時間、音楽動画を渡り歩き、さて、7時のニュースをオンしたところが、ちょうどトルコのこの半年間で3回目のテロのニュースが流れている。何という事だろう。
午前は、宮澤賢治の時代の音楽家たちの存在をつらつらと考えながら、新たな視点から「セロ弾きのゴーシュ」を読んだところ、はたとこの楽長はあの人物に似ていはしないかと思い当るところがあったが、その名はまだ伏せておくことに。
ついでにひと通り、鳥取春陽の作曲した流行歌なるものを音源で拾ってみた。
午後は取材。これは、音楽とは関係なし。敢えていうならキリスト教の関係者ということで。
いま聴いているのは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番、演奏はファジル・サイできょうの一日にピリオド。たったいま演奏終了、盛んな拍手と口笛、とび交うブラボー。
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先週のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924 )のおはなしをお伝えします。
≪國光勝美牧師のおはなしの概要≫
受難週を迎えようとしております。十字架の血潮を貴いものとしてここで捉えなおしましょう。
創世記3:14~17には、人間が罪を犯した結果を刈り取るという辛く悲しい出来事が記されています。罪を犯したアダムとエバへの神の宣告です。
創世記3:14~17
14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばい で歩き、ちりを食べなければならない。15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫 との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」16 女にはこう仰せられた 。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」17 また人に仰せられた 。「あなたが、妻の声 に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれ てしまった。あなたは、一生、苦しんで 食を得なければならない。
その時、神様が、 アダムとイブのために、神様が、皮の衣を作られ、神様が、彼らに着せてくださいました。
創世記3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣 を作り、彼らに着せてくださった。
ある方は、このときはじめてエデンの園に血が流された、 アダムトエバに神様がそれをおおう皮衣をお作りになったときに、そこに罪のない動物の血が流されたといいます。罪のゆえにエデンから追放されますが、神はすでに罪のないものの血を流すことを用意しておられた。このように、聖書は、そのはじめから私たちの罪のために血が流されていることを教えています。ヨハネの黙示録をご覧ください。
黙示録5:2~12
2 また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解く のにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。3 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。4 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解く ことができます。6 さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる。――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。7 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。8 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの 祈りである。9 彼らは、新しい歌 を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解く のにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倊、千の幾千倊であった。12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
ここにある封印というのは、この後、どのような事が起きるのか、この世の終末に関わる出来事が記されています。
6節からは、ユダ族の血すじから出たユダの士師、ダビデの子孫、イエス・キリストご自身のことが書かれており、その血によって、あらゆる部族、民族、国民の中から、そしてあらゆる時代を貫いて、このほふられた主が、神の右の座に巻物をとくに相応しい者として登場してまいります。聖書は始めから終りまで、十字架の贖いというもののに貫かれております。
聖書が、このイエス・キリストの十字架に貫かれた書物であると知った時に初めて、私たちは目が開かれ、十字架の意味、十字架の救いの意味がわかるのであります。ヘブル書9:12、22をご覧ください。
12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって 、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
22 それで、律法によれば、すべてのものは血によって きよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦し はないのです。
罪は個人の不確かな思念にあるものではありません。血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。自分の罪の為には、この貴いお方の血が必要なのである思いを一層深くするものです。先ごろ、或る情報に接したとき、数秒という一瞬のときではありましたが、ふっとよからぬ思いが過りました。この心の奥底を見た時に、私は、ああ、このことのためにイエス様は十字架にお架かりになったのだ、この十字架がなければ、誰一人神様の前に立つことはできないのだ、そして、ああ、主よ、どうか憐れんでくださいと、瞬時でもこのような感情に捕われた事を悔い改めました。世の中に照らすならどうという事ではないかもしれない、しかし、神の前には、これが神の御子を十字架につけなければならない人間の罪なのです。いつでも、イエス様、こんな私をお赦しください、受け入れてくださって感謝しますと、十字架の血潮を仰ぎましょう。きよめの証しとはこれです。
きよめが何かといえば、よからぬ思いが過ったときに、これはイエス様のきよさ、正しさには相応しくないと、瞬時に、主よといって、そのお方に目をあげる、その心の修正をする事、これをクリスチャンの完全、きよめというのです。
悪魔はすぐにやってきて、十字架を見上げようとするものを、そら、駄目だろうtいって打ちのめす。へこんでしまう。こんなときにこそ、だからこそ、十字架の愛があなたのためにあるのです。弱さを神の前に告白し、そして、いつでも十字架を見上げる、このことをさせていただきましょう。これこそ、信仰生活のあるべき姿です。イザヤ45:22を読みましょう。
22 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。
お一人お一人、それぞれに、いつでもこの十字架に目をあげて、信仰の大道を歩ませていただきましょう。
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よく晴れあがり、肌寒いながら、すっきりと岩手山が見えた。
つい7時まで寝過ごしてしまったが、明け方に二男の夢で目を覚ました。子離れしていないということでもない。
午前中は役目がらで某中学校に。
午後は明日の教会の愛さん会のための食材の買い物。お誘いした近所の方に、運転が随分慎重になったとおほめをいただいたが、これはいつも車中でかけているバッハのお陰ではないかと思っている。集中力が出るように思う。
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東日本大震災から5年。実は今朝は、3・11であるという自覚がなく、きょうやるべき事は何々だったろうか、あれをしてこれをして、こんな事で頭がいっぱいだった。午前は印刷用紙をひと箱で買い込み、日用雑貨を見、春の苗などを見るうちに、薔薇、「ブレーメンの音楽隊」という意味の名の薔薇が目に留り手に入れる。
近日中に配り、或いはお送りしなければと思っていた文芸誌、ご協力いただいたお礼方々数件の玄関先にお邪魔する道すがら、銀行、庁舎に弔旗が掲げられているのを見たときに、うっと痛むような心境になった。3・11! 忘れてはならない事ではある。しかし、あの痛み、この痛みが薄れかけている(被災された方々にとっては忘れられるということはないのだが)ときに、また3・11が巡り来ることによってまざまざと痛みを伴って思い出させられ、悲しみや苦しみを新たに刻印せざるを得ないという側面を覚えた。
身内を失い、きょう沿岸に出かけられた隣人に、ささやかな花をお届けした。再び5年前を克明に思い出され、やり場のない手に余る悲しみのうちにおられる事がわかる。そのような前にはことばの無力さ、為す術がない非力さを自覚するのみであった。
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今号では、創刊15周年特別企画として、岩手日報新聞に連載されたすでに皆さまご存じの3作家の小説をメインに掲載しています。
当ブログ筆者は、以下の通り、村井正一先生の後編を書かせていただきました。村井正一先生は、盛岡の弦楽四重奏団を存続させることに尽力されたのみならず、岩手県民オーケストラ設立準備委員会の実行委員長として岩手の音楽界に寄与されました。村井先生が参加された楽団、或いは関係者の方々、主にアマチュアの方々に焦点を当て、往時に弦楽に取り組まれた方々が登場します。
資料不足、学びの不足、認識不足から、書きかねた方々、事項が多くあることをお赦しください。また、ご意見、ご指摘、異議があられる場合には、メール番号を添えて当ブログのコメントにお入れください。この稿に関するコメントは公開せずに対応させていただきます。また資料等お寄せいただければ感謝でございます。宜しくお願い申し上げます。
※この頁、ゲラの段階のものです。題字の字上げ、語句の入れ替えの指示2つ。勿論、これらが訂正されて刊行となっていますが。何れ印刷に至るまでの校正、編集の労は楽しくもあり、大変なものです。これを同人の皆さまが分け持って行っております。
今回は、最後まで見たつもりが、「ニュールンベルグ」と「ニュルンベルク」の混在もございました。同人と読んでくださる方々にお詫びいたします。
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ただいま午前3時半。きのうはコーヒーを飲みすぎたかな、ということで、先ずは緑茶に。
これから為すべき事がちらつき、2時半に目ざめる。物事が重く感じられる原因が何なのかつらつらと考える。そして自分の立ち位置を見定めた。自分は単なる一人の音楽を愛好する者に過ぎず、また音楽が関わらない文学となると自分が楽しんでやることはできない。楽しくなければやれないという側面が自分にはある。所謂文学ジャンルにどっぷり入り込むことはできかねるし、それを専門にできる有能な方が他にいくらでもいらっしゃる。私はたしかに音楽関連を文字にすることはあるけれども、文学をやっているという自覚はない。自分はただ単に成りゆき次第で必要ができた時に関連した音楽を聴きながら、その幾ばくかを文字に連ねて楽しんでいる、それだけなのだ。だから気負うこともなければ、よし手がけたことが完成、成果を見なかったとしても、私はプロでもなければ、まして先生でも何でもない、対価を受け取ってはいないし、プロでもない限りはそんなことをしてはならないと思っている。というわけで、手がけたことが、結果において、できませんでした、無理でしたと開き直る場合があったとしても、どこからも責任を問われるものでもない。こんなに気楽で身軽な立場が他にあるだろうか、こう思いいたったところで、得体のしれない重圧感は霧散。すっきりとした気分になることができた。
いま4時。血圧は正常。たぶん毎日こんな時間に起き出して、きままに楽しく7時まで過ごすなら、平凡な人生にも+αしてゆくことはできるのだろう。
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きょうの会合で地域の役目のうちの一つを終える。ほっとして寛ぐうちに、ブログの更新も忘れてしまっていた。23時近いけれども、ことし初めて庭仕事をしたことと、盛んに白鳥が北に帰っていくさまが浮かび、PCに向かっている。


ヒヤシンスとクロッカスの芽が出ている。
今夕、前田寛治の写真集をいただいた或る女性の方からお電話をいただいた。すこしばかりいきさつがあり、これは特筆事項、備忘録として記す。
朝方、これはご高齢や病で若干認知症があられる方なのだが、「いま白鳥が帰っていくところですよ、お知らせしたくて」とお電話をいただいた。わたしは認知症になられても尚美しく生きるすがたに、実はいつも感銘を受けている。今朝のこのお電話も、彼女の心根の美しさの一つとしてこの先も忘れることはないだろう。
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合唱団は、4団体、仙台宗教音楽合唱団、山響アマデウスコア、岡山バッハカンタータ協会、盛岡バッハ・カンタータ・フェラインの230人の渾身の、慰めと力づけの祈りのこもる演奏に接した。岡山フィルハーモニック管弦楽団、距離に損なわれることのない発せられてそのままの声を聴きたく願っていた秦茂子のソプラノ、ドミニク・ヴェルナーのバス。何れもすばらしかった。ハンスイェルク・シェレンベルガーは約20年間、カラヤンのもとでソロ・オーボエ奏者だったという。その後、指揮者、ソリストに転身。カラヤンは1989年に没しているから、カラヤンの最後20年を共にしている。指揮の微細にいたるまで(1階6列目中央よりステージに向かってやや左の位置から見える範囲で)を拝見しながら、カラヤンの求める美しさをも備えた指揮に魅せられた。合唱指導に当たられた佐々木氏のプレトークによると、ドイツ・レクイエムは、神の怒り、裁きの神のことばではなく、いまを生きる方々へのための慰め、希望につながるおことばが引かれているという。今回は字幕も備えられ演奏内容もその意味をより味わうことができた。プレ・トークで第九のフレーズを聴くことができた。この4団体の合唱は前日の初めての合わせまでには出来上がっていたらしい。
隣におられた女性に「聖書のことばをどう思われましたか」と尋くと、「わたしは仏教だから」と。しかし、大変感動しておられ、「立ちましょう、立って拍手しましょう」と仰った。同感であった。ただ、わたしは二つの私的事情から立ちあがりかねた。
この演奏会でただ一つ残念だったことは、このすばらしい合唱を一階6列目で聴くと同時に、2階席中央、3階席中央、そして、左右にせり出した観客席で同時に聴く事ができなかったことだ。私という人間は一人しかおらず、同時に5か所に座を占めることができない。それが何とも残念でならない。
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けさは室温7℃、比較的温かい朝となりました。きょうの天気が一気に雪嵩を減らすでしょう。散歩したくなる早朝ですがここは踏みとどまって、先週のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の礼拝メッセージをおつたえします。
聖書引証 使徒20:21
ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改め と、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。
≪國光牧師のおはなしの概略≫
きょうは、「あのとき私は何をしたのか」、それに焦点を置きながら、もういちどこの「救い」というものを捉えなおしてみましょう。大切な福音の真理がエペソ書2:8にございます。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」
私たちは神の恵みによって救われました。ですから自らが誇るところは何もない。神様の御愛のゆえであって、私たちの誇るところは何も無い。私たちは信仰によって救われており、これは神からの賜物であります。これがわかりますと、たとえば『葡萄の樹』に証しを寄せる時に、何を書いたらよいかというより先に、そのときのことを思い出すでしょう。ああ、これが自分のうちに為されたことなのだと、この時のおことばを自分自身のうちに捉え直すだけでも、それはもうよい証しなのです。
今から30年前、神学院の同窓会セミナーの講師だった、世界に遣わされている宣教師を指導するような立場であられるアップルビー先生のお話を思い出します。私たちは、いつ救われたかを大切にする教会におりますが、アップルビー先生は、「実は私はいつ救われたのか分からないのです」と証ししておられました。私たちは、何年何月何日何時何分に信じましたと書いておきなさいと指導されていますが、アップルビー先生のように、自分は救われているけれども、いつ救われたか覚えていないという方もいらっしゃる。何年何月何日に救われたか、そのことは救いのよってもって立つ根拠ではありません。いちばん大切なことは、いまあなたがイエス様を信じて救われているという、この信仰に立っているか、今、あなたがこの信仰にアーメンということができるかどうかです。これが言えるなら、もうそれだけで、必要なものは十分に持っているといえる。これがわからない方は、この機会にしっかりと、捉えなおすことが必要でしょう。
そして、どうか『葡萄の樹』の原稿を書くとき、救われた年月日を思い出せなかったとしても、いま救われている事をアーメンと頷く事ができるなら、それで必要にして十分な証し人であるという事も是非覚えていただきたい。
「恵みによって救われる」、これを、「先行的恩寵」といいます。AさんとBさんが伝道会に来ました。同じ説教を聞きながら、Aさんは十字架のメッセージを自分に当てはめることができ、Bさんは信じる事をしなかった。別な言い方をすれば、Aさんは救われ、Bさんは救われなかった、この事実をどう位置付けるか。ある方は、Aさんは、はじめから救いに選ばれており、Bさんは救いからは外れていたという派がないわけではない。では、神様が選んで下さらないのなら、Bさんはどんなに頑張っても救われないのか、滅びに決まっているのか、こういう極端な主張をしている立場もあります。しかし、これは私たちのあり方ではない。神様は、すべての人が救われることを願っておられる。すべての人が救われ得る。悔い改めるなら、その人は救われる。同様にBさんも悔い改めるのならば救われるのです。神様の恩寵というのは、AさんにもBさんにも同じようにある。問題は、悔い改めるかどうか。Aさんは悔い改めた。Bさんは、神様が選ばないから救われないのではなく、Bさんは自分の責任において、イエス様の前に、イエス様が自分の罪の身代わりだとは認めたくなかった、そんな簡単なことで救われるはずがないというかもしれない、何れにせよ、Bさんは悔い改めなかった自己責任があります。
きょうの大切なポイントとして、「そのとき、わたしは何をしたか」というのは、悔い改めをそのときにしたかどうかなのです。悔い改めたときがはっきりしていなくとも、自分の罪の身代わりとしてイエス様が、十字架の上で贖いを遂げてくださった事を知って、その時に、悔い改めをして、つまり、悔い改めるということに現れた信仰によって救われたのです。よく「悔い改めと信仰によって救われる」と申します。すると、悔い改めというわざと、そして信仰という自分のわざによって救われるという間違った位置づけをしかねません。私たちは、エペソ書にもあるように神の恵みによって救われるのです。これは福音的信仰の理解の大前提です。神の恵みによって私たちは救われます。その神の恵みはAさんにもBさんにも等しく届けられています。福音を聞いた時にどう思うかは千差万別です。ただ聞いたそのときに、私はたしかに罪人ですと悔い改め、十字架の贖いを受け入れるか否かにすべては掛かっています。
使徒20章、このときパウロは自分の伝道者生涯がそう長くはないことを意識しています。17節を見ると、ニネベからエペソに遣いを送っている。そしてエペソ教会の人たちに、自分が生きて皆に会えるのはこれが最後だと思うので、どうかわたしの言う事を聞いてもらいたいと書いたのが18節以下のところです。
「18 彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。19 私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕え ました。20 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、21 ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改め と、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」
「ユダヤ人にもギリシヤ人にも」とは「すべての人々に」という意味です。パウロは、「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰をはっきりと主張した」と言っていますが、まさしくこれなのです。悔い改めと信仰を並立してしまうと悔い改めという人のわざと信仰というひとのわざによって救われるかと思いがちですが、実はそうではない。エペソの人たちに言っているように、恵みにより信仰によって救われたのです。人のわざではない。そこを福音的に理解すると、悔い改めることに現れる信仰、これも神の先行的な恵であります。
先行的恩寵によって私たちは方向転換をしたわけです。その時々の罪の自覚があります。この理解は齢ごとに深まってくるものです。その時に与えられている恩寵の中で精いっぱい、ああ、ごめんなさい、あのとき私はほんとうにこんなに我がままいっぱいな者でしたというように自覚し、そしてそのあなたのためにイエス様は十字架に架かってくださったというこの神の愛との出会いがあったとのです。これを信仰によってというのですが、ロマ6:11には「このように、あなたがたも自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」とあります。「思いなさい」に注目してください。これは計算するように、という意味です。このように計算しなさい、これが本来このことばの持っている意味です。ですからキリストとともに十字架に死んだ、そして洗礼を受けるという事は、新しいキリストの命に生きた者と思いなさい、計算しなさい。これはあなたがどう感じる感じないではない、もうそのようになっている公式なのですから、そのように計算していいのです。ですから救われているかいないか分からないと悪魔が火矢を打ちこんできたときには、十字架がわたしの罪の身代わりであると信じて、イエス様の愛を受け入れている今の自分がいるのならば私は救われているのです。どう感じるかではない。聖書に信じる者は救われると書いてある。永遠の命を持つと書いてある。それを自分に当てはめればいいのです。ぜんぶ神様が成し遂げてくださった公式に自分をあてはめさえすればいいのです。罪の本質は誇りであり業です。罪の本質は傲慢です。神はあなたには罪の解はできないという。できないのだから、私がその解を設けているから、それに自分を当てはめなさいと言われる。神は私たちに謙遜であることを要求しています。
イエス・キリストの十字架は事実であります。私たちが恩寵の手段を守って生きていくなら、キリストを証しし続けることができるのではないでしょうか。
※例話など割愛した部分がございます。
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ドイツでは、三つのオーケストラ、ベルリン・シュターツカペレ, ダニエル・バレンボイム, ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団, イヴァン・フィッシャー, ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, サー・サイモン・ラトルが、3月1日に難民と彼らを助けるボランティアのために演奏会を開催したが、これがベルリンデジタル・コンサートホールのアーカイブスで無料で視聴できる。
ドイツ、EUの難民問題対策の一助となるべく開かれたもの。演奏会では、サー・サイモン・ラトル、ダニエル・バレンボイム、イヴァン・フィッシャーがモーツァルト、プロコフィエフ、ベートーヴェンの作品を指揮・演奏、「我々の社会のなかへようこそ」との、難民をドイツ社会に受け入れるメッセージが発せられている。
2月に日本でのブルックナーチクルスを成功させたバレンボイム&ベルリン・シュターツカペレはこの後すぐの参加、再び映像で出会うことができた。
過去の記憶がいまだよみがえるときに、押し寄せる難民のための一連の演奏は感無量でした。
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参考に、ワーグナーのジークフリート第3幕を聴きながらこのブログを書いている。改めてワーグナーの楽劇のすごさを実感。
地域がらみの事で午後は過ごす。年度末の締めくくりあれこれ。
午前はモーセを読む。
文芸誌に書き落とした事項をあれこれ思い起しては、あとでブログに書きこんでおこうかと。
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昨夕か昨夜も雪が降ったらしい。
神保町の古書店で見つけた音楽評論の草分け大田黒元雄の「世界の名演奏家」、昭和25年初版、30年3版に取り上げられている演奏家たちをおもしろく読んでいたところが、ちょうど今朝の記事に大田黒が出ていた。プロコフィエフの日記に大田黒のことが書かれていたようだ。ロシア音楽通の大田黒の家で自作やロシア現代音楽の楽譜を見て感激し、ピアノを弾き続けたという。杉並に大田黒記念館がある。いつか行ってみたい。
どうも近代の音楽関連資料が、いまは明治大学の図書館にあるらしい事も最近知った。しかし東京は近いとはいえ、やはり東京は遠いのだ。
午前は掃除や雑用、午後は地域がらみのつきあいだった。お互いの健康が話題になったけれども、ちょっと心配な話題もあり、万事うまくいくとようにと願った。一方、80歳過ぎてご自分で運転し毎日どちらかにおでかけ、大いに人生を楽しんでおられる方も。拝見していて果たして自分がこの方のような80を迎えられるかどうかは自信がない。しかし、こうありたいとは願っている。
帰宅して友だちから電話が入っており、こちらもまた健康に関する事、近々治療が必要との事。
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