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日曜日のおはなし 『あの時、何があったのか』

 きょうの礼拝で、先週のメッセージの復習部分として語られた國光勝美牧師のおはなしをおつたえします。引証聖句は前頁をご覧ください。

 インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)におでかけください。

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 世の中の知恵と神の知恵があります。世の中の知恵というものは、自分が手段を講じて得ることができます。しかし神の知恵は、私たちがそれを受けるようにと神が設けられた手段をとらなければ、神に教えていただかなければ手にする事はできません。その方法は聖書に記されてございます。聖書は、イエス・キリストの十字架を私たちに受け取らせるために記されたものです。

 前回は、十字架の二重性ということも語らせていただきました。つまり十字架は、神の愛が私たちに現れたという表現ができるとともに、同じこの十字架は、私たち人間の罪が神によって裁かれねばならない時に受ける人間の罪が現れたものである。この表現が、十字架というものが持っている同じものを、異なった表現でいっている。このことは決して矛盾するものではなく、むしろ、この二つが一つとなってこの十字架というものの意味が私たちによくわかるのであります。「神は実にそのひとりごをお与えになったほどに世を愛された、それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ3:16)。これはもう私たちの土台のようにしっかりと私たちのうちに打ちこまれております。「神は罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(第二コリント5:21)。 キリストの十字架は、わたしの罪そのものである。この罪の解決が、キリストの十字架というものであったということをしっかりと、ほんとうに深く深く深く私たちの信仰の土台に打ちこませていただきたいと願うことであります。「キリストは私たちにとって神の知恵となりまた義ときよめと贖いとになられました。」(第一コリント1:30)を基にしまして、私たちの正しさはこのキリストの十字架によって当てはめられているのだということを、そして、私たちの「きよき」、これはキリストご自身が私たちのきよめとなってくださったのであること。これを敢えて、イエスさまのきよめは私たちのきよめであるということを主張いたしますが、この一つのたとえとして、きょうも雪がどっさりと降りましたが、これをよく一つの例話としている場合がございます。それは、雪に覆われるまえは、どんなに汚れたきたないものであっても、それを真っ白なイエスさまという雪が覆ってしまうと、外から見ると私たちが白く輝いている。ほんとうはきたないものでいっぱいなんだけれども、キリストの義というそういう雪のように覆ってくださる、これが私たちのきよめであるという説明をする、そのような本や主張を私たちは知らないわけではありません。
 しかし、それこそ私たちは気をつけねばならないのですが、このことがあまりに極端に強調されますと、私たちは当然汚れている、それを覆ってくださるキリストの、先ほどは義といいました。そして今はきよきということ、イエスさまに私たちは覆われているから、私たちはキリストにあってきよいんだ、わたしたちのきよきはこういうものなんだという、これを過度に強調致しますと、すると、じゃあ私たちのきよきというのはそういうものなのか、この汚れた罪の状態というものは、そのままなのかというと、聖書全体のバランスからいうと、そうではない。

 キリストは私たちの罪の為に救いの為に十字架に架かってくださったということを思うと、私たちはただ、外から見たきよきというのではなく、キリストと似た者となるために、恵のゆえに内的なきよきがある、ここにしっかりと心を向ける必要があるということです。このことをしっかりと弁えた上で、キリストにあってきよいという表現に私たちは頷く事ができるものでございます。そして、キリストは私の贖いとなってくださる。ですので贖いとなってくださったという中に、この形式的なきよめ、救いというのではなくして、内的な、もっと実質的な、私たちを変貌せしめるそういう贖いになられた事、これを心に留めたいと思います。前回はこのような事を中心に語らせていただきました。 

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