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日曜日のお話し『救われています』

 先週14日のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-622-6304)のメッセージをおつたえします。

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聖書引証 第一ペテロ31516

15むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。16 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。

≪國光牧師のおはなしの概要≫

この教会で毎年出している信仰の証し集『葡萄の樹』の原稿を皆さまにお願いしております。今回は「救いの証し」というテーマを設けております。

さて、「私は救われています」と証しすることは傲慢なことだと思ってはいないでしょうか。クリスチャンになったときの新生と聖潔(きよめの経験を記憶に留めておくことはとても大切です。新生、聖潔を告白する今の自分の在り方を今いちど点検してみましょう。

私たちは自分の頑張りや努力で救われたのでしょうか? もし、そのお陰で救われたと思っているなら、それは傲慢というものです。救いが神のわざであるからこそ、私たちは救われているのです。こう告白するなら、それは、あるべき謙遜なすがたといえるでしょう。

パウロは、神はこんな私をも救ってくださった、これは人のわざではなく、神のわざだといっています。エペソ28に、「あなたがたは、恵のゆえに信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」とあるとおりです。ですから「まだ救われていません」という方々は、「私は神の恵みを拒んでいます」といっているのと同じことです。神様が「さあ受け取りなさい」といっているのに、拒むことこそ傲慢です。

信仰に立ったということは、イエス・キリストの十字架はわたしの罪のためであるとわかりました。それを自分に当てはめますという決断であり、救われていますという納得です。救われているかどうかわからないとか、救われていると思いますといったものではなく、もう救われていますといえるものです。時には自分の不甲斐なさ、未熟さばかりが意識され、私はほんとうに救われているのかしらと思い悩むときもあるでしょう。しかし、聖書的にいえば、“こんな私”でも救われています。それは救いは自分から出たことではなく、神様からの賜物だからです。パウロは「神の恵みによって今の私になりました」といっています。第一コリント1510に「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」とあります。『葡萄の樹』の原稿を書くとき、かつては私はこういう者でしたが、しかし、今は神の恵みによってこういう者になりましたと書く事ができるなら幸いです。

使徒の働き22章でパウロは、同胞の人々から弁明を求められたときも、ときの権力者の前に引き出されたときも、怖じることなく、「今の私になりました」と述べています。パウロはいつでも弁明する準備ができていました。第一ペテロ3章にも「心の中でキリストを主として崇めなさい。そしていつでも弁明できる用意をしていなさい」とあります。これを、この教会に関わっている皆さんへの働きかけであると捉えていただきたいのです。

かつては私はこういう者でしたが、しかし、今は神の恵みによってこういう者になりました、と証しするときに、そこにキリストの十字架との出会いが含まれていなければ、証しの大切な要素を失っていることになります。

信仰に導かれるきっかけは様々です。牧師の家庭に育ち、悔い改めを説かれてもよくわからなかったり、また酒やばくちに明け暮れてから劇的な回心をした方もあります。あるおはなしの中では、大人のチョーカ靴を磨くお手伝いをしていた子どもが、もしこの靴をイエス様がお履きになるとしたらと考えて、また靴をしっかりと磨き直した、そしてその時に信仰を持ったという人物もいます。暮らしている中で、これはいけないと気付く、そのような転機が必ずあったはずです。

私は、あの時に救われたのだ。これは年月を経るとともに深まりゆくものです。真実な歩みを続けるうちに、納得と確信が与えられるのです。しかし、悪魔は必ずやってきます。この世にある限り、福音の真理を証ししようとする時に、私たちを福音の真理から逸らそうとする悪魔の存在があります。ここでエペソ610をご覧ください。

10終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい

11悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
12
 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

13 ですから邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、

15 足には平和の福音の備えをはきなさい。

16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

17救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

18すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

神様の恵みによって救われていますと証しをすることこそ謙遜な姿であり、私たちのあるべき姿ではないでしょうか。救いの恵みを公にするごとに、いよいよ救いの確信が深められ、サタンの火矢から守られ、力強い証しをすることができるようになる、このように思っております。


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