随行
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きょうの礼拝で、先週のメッセージの復習部分として語られた國光勝美牧師のおはなしをおつたえします。引証聖句は前頁をご覧ください。
インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)におでかけください。
世の中の知恵と神の知恵があります。世の中の知恵というものは、自分が手段を講じて得ることができます。しかし神の知恵は、私たちがそれを受けるようにと神が設けられた手段をとらなければ、神に教えていただかなければ手にする事はできません。その方法は聖書に記されてございます。聖書は、イエス・キリストの十字架を私たちに受け取らせるために記されたものです。
前回は、十字架の二重性ということも語らせていただきました。つまり十字架は、神の愛が私たちに現れたという表現ができるとともに、同じこの十字架は、私たち人間の罪が神によって裁かれねばならない時に受ける人間の罪が現れたものである。この表現が、十字架というものが持っている同じものを、異なった表現でいっている。このことは決して矛盾するものではなく、むしろ、この二つが一つとなってこの十字架というものの意味が私たちによくわかるのであります。「神は実にそのひとりごをお与えになったほどに世を愛された、それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ3:16)。これはもう私たちの土台のようにしっかりと私たちのうちに打ちこまれております。「神は罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(第二コリント5:21)。 キリストの十字架は、わたしの罪そのものである。この罪の解決が、キリストの十字架というものであったということをしっかりと、ほんとうに深く深く深く私たちの信仰の土台に打ちこませていただきたいと願うことであります。「キリストは私たちにとって神の知恵となりまた義ときよめと贖いとになられました。」(第一コリント1:30)を基にしまして、私たちの正しさはこのキリストの十字架によって当てはめられているのだということを、そして、私たちの「きよき」、これはキリストご自身が私たちのきよめとなってくださったのであること。これを敢えて、イエスさまのきよめは私たちのきよめであるということを主張いたしますが、この一つのたとえとして、きょうも雪がどっさりと降りましたが、これをよく一つの例話としている場合がございます。それは、雪に覆われるまえは、どんなに汚れたきたないものであっても、それを真っ白なイエスさまという雪が覆ってしまうと、外から見ると私たちが白く輝いている。ほんとうはきたないものでいっぱいなんだけれども、キリストの義というそういう雪のように覆ってくださる、これが私たちのきよめであるという説明をする、そのような本や主張を私たちは知らないわけではありません。
しかし、それこそ私たちは気をつけねばならないのですが、このことがあまりに極端に強調されますと、私たちは当然汚れている、それを覆ってくださるキリストの、先ほどは義といいました。そして今はきよきということ、イエスさまに私たちは覆われているから、私たちはキリストにあってきよいんだ、わたしたちのきよきはこういうものなんだという、これを過度に強調致しますと、すると、じゃあ私たちのきよきというのはそういうものなのか、この汚れた罪の状態というものは、そのままなのかというと、聖書全体のバランスからいうと、そうではない。
キリストは私たちの罪の為に救いの為に十字架に架かってくださったということを思うと、私たちはただ、外から見たきよきというのではなく、キリストと似た者となるために、恵のゆえに内的なきよきがある、ここにしっかりと心を向ける必要があるということです。このことをしっかりと弁えた上で、キリストにあってきよいという表現に私たちは頷く事ができるものでございます。そして、キリストは私の贖いとなってくださる。ですので贖いとなってくださったという中に、この形式的なきよめ、救いというのではなくして、内的な、もっと実質的な、私たちを変貌せしめるそういう贖いになられた事、これを心に留めたいと思います。前回はこのような事を中心に語らせていただきました。
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けさは4時まえに除雪車がうごいていました。見たところ積雪20㌢ほどか。
きょうは、先週の日曜礼拝に引証されたおことばだけを書かせていただきます。
第一コリント1:26~31
26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
29 これは、神の御前で だれをも誇らせないためです。
30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
31 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。
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地域関係のことで動くなどしたが、思うような成果は得られなかった。一方、地域の方の温かさでほっと息をつく。助けられながら何とか凌いできている。
きょう講演会があった。久しぶりに主人も行くというので同行。帰りは雪。朝までには積りそう。
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きょうは読みさしの本を開くや、本など読んでいる場合ではないと残っている家事を済ませ、外出のしたく。ツーワン・ライフに“出社”。キャップの指示で文芸誌の発送手伝い。4時ごろに中央公民館に回り、もりおか童話の会に合流。5時過ぎに帰宅。ともかくも文芸誌の発送準備にこぎつける。やはり出版物刊行は一朝一夕にはいかない。
きのうは、と。きのうは午後2時過ぎまで、『アウシュビッツの音楽隊』シモン・ラックス、ルネ・クーティー共著。大久保喬樹訳。本の題名を書く気はなかったが、今朝の新聞に、やはり同様の本の出版広告が出ており、音楽が果たした役割に一つ触れていた。
私がこの本を読もうと思った動機は、こういった極限下での音楽の位置を知りたかった、音楽家たちの位置ではなく音楽の位置を。ある一つの例、4000人の人々を前に演奏する。演奏する側も、聴く側も、この音楽が終われば、この4000人がみな焼却炉であることを知っているのだ。演奏家たちへの感謝に自分の持てるものを差しだす人々がいる。自分たちにはもう必要がないというのだ。行進する時には、楽隊が必要とされた。音楽は行進になくてはならないもの。先にいかなる事態が待っていようとも。
読み終えて、音楽の位置がどうであるか、頭が回りかねた。未来永劫許されることはない史実がただただ重い。
夕刻は息子に送りたいものがあり、動く。これも昨日の事。発送して翌日には届く。真夜中の高速道が浮かんだ。
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きょういらした方が、「クロッカスの芽かな」と仰る。遠目に見て「たぶん」とこたえていたところ、外に出てからよく見ると、スノードロップだった。秋に、どこに埋め込んだらよいか困り果てて、選んだというよりは、植える時期をこれ以上のばせない理由だけで、最適とはいえない位置に植えてしまったのだ。氷点下の底に、涙のような白い蕾が一つぶ。
午前中はお祈り会。
午後は来客。また地区の仕事で来てくださった方がいらっしゃった。
岩手山が鉱物質の重みを備えてくっきりと見えた一日だった。
※写真はイメージ画像です
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19~21日に上京。今回は二男が忙しく、一緒に過ごす事ができず唯一残念だった。心配していたのだろう、2日目の夕刻に連絡が入り、私が長男といる事がわかり安心したようだ。
シュターツカペレ・ベルリン&ダニエル・バレンボイムが来日。1/31の仙台を皮切りに 2/20 の東京まで実に13公演をこなした。そのうち9公演にはバレンボイムのピアノ、弾き振りでモーツァルトのピアノ協奏曲を入れたブルックナーの交響曲ツィクルスだ。この全曲を携えて日本入りした事に恐れ入るが、日本でブルックナーツィクルスを試みた自体驚きだった。
尤も、私は全曲ではなく、19、20日に聴く機会を得た。今回でブルックナーの9番をより理解できた。強烈な印象として刻まれた。最終日でもあり、スタンディングオーベーション、拍手、ブラボーの嵐、バレンボイムにか、シュターツカペレにか、ブルックナーにか、恐らくはどれもに。惜しみない称賛が湧きに湧き日本公演はおわった。1日目は、赤澤長五郎氏の孫であるという方に東京駅近くでお会いした。女性でありながら既成観念に囚われない(でたらめという意味ではない)パワフルな生き方をしておられる。シナリオライターTさん、日本放送の中にお名前があった。DJやロック系の雑誌の編集長。東京というところでの多様な生き方を、また多様に生き得るというパターンをお聞きした。初めてなので、取りあえず2時間のお時間を頂戴する。駅に戻る途中イヤリングを落としたのだが、Tさんが見つけてくださった。視力1,5が羨ましい。
ひとりで歩けるといったものの、時間の空費を恐れ息子に連絡、神保町の古書店に同行してもらい、おもしろそうな本5冊を入手。タワーレコードを回って、その後、サントリーホールへ。終了後、姉のところに直行、宿泊。
2日目、家周りに咲く桜、梅、アネモネ、パンジ-などを写真に。まだ寒い岩手との温度差だ。午前は図書館に行く予定だったが、流石に、午前ばかりも姉たちと共にと思い直し、新居を構えた甥に会うなどする。甥はインフルエンザの熱が下がったばかりとか。
開演2時に間に合ってホールへ。全奏のすごい迫力。いまも耳の奥で鳴っている。アントン・ブルックナーは敬虔なプロテスタント。その彼の神への訴え、不条理を懊悩し、神に詰め寄るかの嘆きとも聴こえた。心和む旋律、清浄さ、平穏、カタルシス。音に託された作曲家の心の内を、あらえびすは、吉田秀和は何と言っていたろうか。
野菜系の夕食最中に二男からの連絡。とにかく渋谷で降りてそこで井の頭線に乗り換えるようにと息子は帰っていった。7時ごろには姉宅着。三日目は、友だちと待ちあわせ。姉は東京駅まで送ってくれるつもりが、友人Kさんが、「お姉さんもどうぞご一緒に」と受け入れてくださったので、国立新美術館へは3人で。大原美術館が来ている。このコレクションにもの申すことなどあろうはずもない。ただ、なぜコレクションに加えたのか気になった絵画が2点あった。たぶん私の眼力がないせいだろう。個人的には『受胎告知』が写真などと比べ物にならないすばらしさだったこと。当たり前といえば当たり前なのだが。それと、前田寛治、これも写真からは到底推しはかることのできない絵画性を備えていたことに驚く。
3人で昼食。看護師として清廉に生きてきた中学校以来の友だちを姉に紹介できたことが嬉しかった。彼女はいつも前向きだった。今も淡々と前向きに生きている。これからも同じく歩んでいくだろう彼女の姿が浮かぶ。自分を質し、正すために神はこのような友だちを私に巡り合わせてくれたと私は思っている。東京駅まで送ってくれた。ほんとうにありがとう!!
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先週14日のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-622-6304)のメッセージをおつたえします。
聖書引証 第一ペテロ3:15、16
15むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。16 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。
≪國光牧師のおはなしの概要≫
この教会で毎年出している信仰の証し集『葡萄の樹』の原稿を皆さまにお願いしております。今回は「救いの証し」というテーマを設けております。
さて、「私は救われています」と証しすることは傲慢なことだと思ってはいないでしょうか。クリスチャンになったときの新生と聖潔(きよめの経験を記憶に留めておくことはとても大切です。新生、聖潔を告白する今の自分の在り方を今いちど点検してみましょう。
私たちは自分の頑張りや努力で救われたのでしょうか? もし、そのお陰で救われたと思っているなら、それは傲慢というものです。救いが神のわざであるからこそ、私たちは救われているのです。こう告白するなら、それは、あるべき謙遜なすがたといえるでしょう。
パウロは、神はこんな私をも救ってくださった、これは人のわざではなく、神のわざだといっています。エペソ2:8に、「あなたがたは、恵のゆえに信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」とあるとおりです。ですから「まだ救われていません」という方々は、「私は神の恵みを拒んでいます」といっているのと同じことです。神様が「さあ受け取りなさい」といっているのに、拒むことこそ傲慢です。
信仰に立ったということは、イエス・キリストの十字架はわたしの罪のためであるとわかりました。それを自分に当てはめますという決断であり、救われていますという納得です。救われているかどうかわからないとか、救われていると思いますといったものではなく、もう救われていますといえるものです。時には自分の不甲斐なさ、未熟さばかりが意識され、私はほんとうに救われているのかしらと思い悩むときもあるでしょう。しかし、聖書的にいえば、“こんな私”でも救われています。それは救いは自分から出たことではなく、神様からの賜物だからです。パウロは「神の恵みによって今の私になりました」といっています。第一コリント15:10に「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」とあります。『葡萄の樹』の原稿を書くとき、かつては私はこういう者でしたが、しかし、今は神の恵みによってこういう者になりましたと書く事ができるなら幸いです。
使徒の働き22章でパウロは、同胞の人々から弁明を求められたときも、ときの権力者の前に引き出されたときも、怖じることなく、「今の私になりました」と述べています。パウロはいつでも弁明する準備ができていました。第一ペテロ3章にも「心の中でキリストを主として崇めなさい。そしていつでも弁明できる用意をしていなさい」とあります。これを、この教会に関わっている皆さんへの働きかけであると捉えていただきたいのです。
かつては私はこういう者でしたが、しかし、今は神の恵みによってこういう者になりました、と証しするときに、そこにキリストの十字架との出会いが含まれていなければ、証しの大切な要素を失っていることになります。
信仰に導かれるきっかけは様々です。牧師の家庭に育ち、悔い改めを説かれてもよくわからなかったり、また酒やばくちに明け暮れてから劇的な回心をした方もあります。あるおはなしの中では、大人のチョーカ靴を磨くお手伝いをしていた子どもが、もしこの靴をイエス様がお履きになるとしたらと考えて、また靴をしっかりと磨き直した、そしてその時に信仰を持ったという人物もいます。暮らしている中で、これはいけないと気付く、そのような転機が必ずあったはずです。
私は、あの時に救われたのだ。これは年月を経るとともに深まりゆくものです。真実な歩みを続けるうちに、納得と確信が与えられるのです。しかし、悪魔は必ずやってきます。この世にある限り、福音の真理を証ししようとする時に、私たちを福音の真理から逸らそうとする悪魔の存在があります。ここでエペソ6:10をご覧ください。
10終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい
11悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
13 ですから邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
17救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
18すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
神様の恵みによって救われていますと証しをすることこそ謙遜な姿であり、私たちのあるべき姿ではないでしょうか。救いの恵みを公にするごとに、いよいよ救いの確信が深められ、サタンの火矢から守られ、力強い証しをすることができるようになる、このように思っております。
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雪がふってからも咲いていたパンジー。-8,8を潜ってからさすがに勢いは落ちたけれども生きている。ここのところ無彩色の写真が続いていたのでアップしてみた。
午前中は、すこし遅れたけれども教会のお祈り会。創造のわざは天恵による側面が大きいと思われる。最後の校正をしている。とにかく明日までにやらねばならない。明日までにやらねばならない事がまだもう一件あるのだけれども。
この校正も、これは天の助けだと思ったことが2回ある。一回は、無意識のうちに賢治の亡くなった年が昭和8年である事を知りながら、キーを一つ押し間違えたかで、昭和9年と書いていたのだ。たまたま夕方のTVで賢治関連の放送があった。「賢治」と聞こえたので画面に目がいったついでに、あら、生まれたのは明治何年だったけ? 弾くと、出生、死亡年が即座に出てきた。出生を見て、ちゃんと8と書いたかしら、なにか気になる。原稿を開けてみると何と9となっている。助かった! ではない、助けられた!と思った、虫の知らせではないけれど、何者かがもういちど見直した方がいいよと言ってくれた気がした。もしあの番組が無かったら気付かないでいたかもしれない。
疲労もあるが健康も手にしている今のうちに、もうすこし何かに取り組んでみたい。
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このところ忙しく、どちらにもどちらにも失礼していた。必ず一週間に一度は電話する姉にも、どうしているか気になりつつ連絡をしないでいたが、今夕向こうから電話が入り、元気でいることにほっとする。
一定期間一つのことに没頭してしまっていた場合、ああ、あれをやらなければ、もう日にちが迫っていると別な懸案事項が気になりだしても、なかなか次の行動に移ることができず、重い気分になり、それがいよいよ鬱的な気分になっていることがある。仕方がない、先ず日程の設定から、と前年度の例を引っ張り出してみると、それが至極簡単なことであって、要するにやる気になれなかっただけのこと。取りかかってみると、もうさっさと書類を作成してしまっていた。簡単なことでもなかなか手に就かない、これは年齢のせいか、性格のせいか判然としない。たぶんどちらもだろう。とにかくここ1週間ばかり棚上げにしてきた事項にやっときょう取りかかることができた。
自分の意思でいつも自分の行きたいところに行けるとは限らない。これは聖書にも書いてあるけれども、特に、一般的には、高齢になるほどにその制約は大きくなっていくだろう。ある日突然、救急車でどこぞの病院に運ばれベッドに収容されるかもしれない。また免許書の返上もある。当人にとってはあまり愉快とはいえない、しかし、考えようでは実に愉快なテストがあるらしい。許可になったとしても自主的に運転を止める方もいらっしゃる。一旦健康が損なわれ自分で動くことができなくなれば、家人に頼らざるを得なくなる。またそれなりのサービスの方々にお願いすることになるかもしれない。まったく動くことができなくとも、ホーキング博士や星野富弘さんのような方々がいらっしゃることは心を明るくしてくれる。
マイナス思考には楔を打って、差し当たって、健康寿命を延ばす努力をした方がよさそうだ。実際、2日も家の中に坐ったきりじっとしていると、全体軟弱、脆弱になっているのを覚える。健康維持のために意識して運動の時間を取る必要がありそうだ。
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雨がふっています。ドラマティックな気象の変化が続いています。この冬は、ここでは積雪がなく除雪を免れ楽でした。しかしこの雨は、どこもかしこも痛んでしまった自然の滂沱の涙とも思われる今朝です。
取りこみがあり、メッセージを起すことができかねました。きょうは聖書のおことばだけを書かせていただきます。
きょうの午後は、教会では、テヌウェク病院に送る包帯づくりがあります。すこしでも世の中のためにお役に立てる数少ないチャンス、特にも大して社会のお役に立つ事のなかったわたしです。感謝して参加させていただきます。
教会の祈りがある限り、いつもどこかで誰かが生かされ守られていると信じます。
聖書引証 使徒の働き18:9~11
9 ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。10
わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。11
そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。
國光牧師の動画です。今日の聖書箇所ではありませんが、どうぞお聴きください。そしてインマヌエル盛岡キリスト教会におでかけください。
〒020-0147 盛岡市大館町12-26 ℡019-646-2924
http://igm-morioka.sakura.ne.jp
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たぶん11日は聴きにいけないだろうと思っていたが、思わずも機会が与えられた。文芸誌の原稿を書くときに、今回は『第九』がとても身近だった。ディスクでさまざまな『第九』を聴いたが、とにかくこの岩手の楽団に成る『第九』が聴きたくなったのだ。いわてフィルがやることに気付いたのが遅すぎたくらいだ。
これまでとは違った感動を覚えた。というのは、ベートーヴェンが聴力を失ったことは誰でも知っているけれども、今回、ベートーヴェンがほんとうに聴こえないかどうかを試すために彼の部屋のピアノを初めは小さく音を出し、次には大きくしていったが、ほんとうに彼には聴こえていなかったなどというような耳に関するエピソードの幾つかを想いながら、第一楽章から聴いているうちに、ほんとうにこの音がほんとうにこの音も彼には聴こえていなかったのだと思うと、第三楽章が始まったときには、もう涙が出て仕方がなかった。第四楽章では、これは体調のせいもあったかもしれないが、動悸がしてちょっと苦しかった。それが3時40分ちょうどに演奏が終わったときに動悸も止まった。家でも何かしているときに、気付くと息を止めていることがある。無意識のうちにそうしていたかもしれない。何れ、ベートーヴェンに絶対音感があったとしても、音程、音色、音の強弱、音域の記憶が克明に頭脳に刻まれていたとしても、まったく耳が聴こえない状態で作曲できたことが私には不思議でならない。一つや二つの楽器に曲をつけるのならまだしも、オケで使われる全楽器に音符をつけ、その付けられた幾つもの音と音のハーモニーが成っているかどうかがどうしてわかるのか不思議でならない。天才にだけはわかるのだろう。作曲している時のベートーヴェンのようすを想像しながら聴いた今回だった。
それにしても、渾身の演奏に感謝! 合唱をやりたかったという思いがあったが、きょうステージに並んでおられる130人からの方々を拝見しながら、自分にはもう遠いなと距離感を覚えたことでもあった。
指揮、オーケストラ、合唱がそれぞれ精根傾けて演奏してくださった。すばらしい2時間を有難うございました。
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またまた雪。それが路上は午前中に解けてしまった。読みさしの本を開く、掃除をする、洗濯をする、炊事をするといった一日。午後はこの地域の方々に合流。
以前は寒い時には極力窓を開けずに暖房に頼り切っていた。しかし、どんなに寒い日でも窓を開け放って空気を入れ替えると清々しく新たな気分になれることに今ごろ気付いている。ただ花粉のシーズンだけはそうはいかない。年間を通じていちばん苦手な季節だ。桜が終わるまでの我慢。ことしの夏予報はどうなっていたろう。猛暑もなかなかきつい。幸いこの冬に励行した4時、5時起きが習慣化したので、早朝を自分のゴールデンタイムとしよう。
毎年、春には何かおもしろい作物を植えてみたいと思いつつ、結局はトマト、キュウリ、サヤインゲンとなっている。年々5月の日差しも強烈になっている。この時期に、苗などを枯らさないようにするために、日々の水やりが欠かせない。花々も咲き急ぎ、散り急ぐといった具合。交替がめまぐるしい。今年はどうなるだろう。
冷房を効かせてさえいれば猛暑は凌げるといった段階はもう過ぎているように思う。野菜が花が樹木が魚が鳥が虫が動物が活き活きできない環境にあって、ヒトだけが冷房で活き活きできたとしても先のないはなしだ。
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先週は聖餐式に与り、またインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の第42回の教会総会が開かれました。國光勝美、ひろ子牧師夫妻が盛岡に赴任されて42年経っているわけです。毎日曜にここで礼拝のおはなし、或いは、時には礼拝で開かれた聖書箇所などをおつたえしていますが、牧師さんはどんな方かと思っておられる方は、世界のための福音の通路CGNTVをご覧ください。動画が出ております。
聖書引証 イザヤ書40:27~31
27 ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。 28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。 29疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。 30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。 31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
≪國光牧師のメッセージ≫
ことし、わたしたちはイザヤ書40:31を神様から与えられた御聖言として捉えさせていただきました。
27節には疲労困憊している民のすがたがあります。しかし主がどういうお方なのかをお示しくださる28節からのおことばがあります。そしてその主は、弱りやすい疲れやすいわたしたちに力を与えるとございます。
第42回の教会総会を開きますが、わたしたちがこの盛岡の地に遣わされてからこれだけの年数が経過し今日に至っております。そしてこれは、牧師として遣わされております私自身に、もう一度神様が語りかけてくださったように思います。わたしたちは目に見える何かがあると励まされたり元気になったりします。けれども、目に見える成果というものがなかなか見えない時、わたしたちは疲れ、また祈りがなかなか答えられないと思う時に、落胆してしまいます。しかし、ルカ18章のやもめの執拗な訴えを思い出してください。やもめが不正な裁判官に裁きを求め続けたように、わたしたちが主に求め続けたときには、イエス様は、さあ、もう一度、信仰をもって、主を待ち望んでご覧というふうに語りかけてくださると思うのでございます。
主を待ち望む者への約束、それは「鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」、鷲のような飛翔、天高く鮮やかにそのような働きをすることもできますし、また地道に走る、歩くというような淡々とした教会生活、特別集会のようなときもあるでしょうし、しかしまた、いつものことを淡々とやり続けることもそうです。主を待ち望む者は新しく力を得ると神様は仰いました。特別集会、みんなで一緒に大きなイベントをするとき、また、いつもの変わりない教会生活を淡々と疲れることなく弛むことなく、新しい力をいただいて歩むということはとても意味のあることでございます。
そして詩篇62編のことばを心に留めましょう。
神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。
この神様をわたしたち真実に待ち望ませていただきたい。
そして、ネヘミヤ記8:10には 「あなた方の力を主が喜ばれる」とあります。この別訳は「主を喜ぶことは、あなたがたの力である」とあります。これはどちらが先、どちらが結果ということではありません。この二つの御聖言は、聖なる永久運動ということができます。この御聖言と、イザヤ書40:31「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」、これも心に留めてこれからの聖餐のテーブルに与らせて頂きたいと思います。
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いまひと通り自分のゲラを見終える。同人の間で原稿を回してチェックし合っている。一つの作品に2人は関わる。わたしが『光炎に響く』を出版するときには、疲れていたこともあり、フリーライターの菅原伊保子さんに校正だけをお願いしたのだった。それが今は仲間内で行っている。思えば有難いことだ。校正も際限がない。これで完璧ということがないように思う。
作曲の世界ではどうだろうか。ベートーヴェンは自分の作品には口を挟ませなかった。尤も溢れ出る彼の激情、奔流に逆らえる者などいるとも思えない。片や、ブルックナーは自分の作品への意見はよくとりいれ、しばしば修正を試みていたらしい。
夕刻、きょうも終わるなという頃に、どういうわけか、大したこともしないで過ごしたという想いになる。それから一日を振り返ると、けっこうこんなにやっていたじゃない、となる。
きのうは盛岡のアマチュアの方々の平成のはじめ頃のCD,DVDをお借りした。聴いてみる。仕事を持ちながら、これだけ弾くにはかなりの練習時間を積まれたはずだ。ほんとうに好きでやっていた方々なのだ。管が強めかと思うが弦は気負わずしかも自然ないい音がしている。室内楽は個々の音がくっきりと聴こえるだけに、合わせるのには大変に神経をつかうものだろう。往時の盛岡の一角に、こんな弦と管が響いていたのだと思うと感慨深かった。 またきのうは駆け足で平山郁夫を観る。当初行く気はなかった。「夢に手足を」という詩があるようだ。その中に、「夢には栄養を」のフレーズがある。実はこの一言に押し出されて行ってみた。心に栄養を与えるために。
食後は説教の起しだった。
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いま5時代。『フランク前奏曲・フーガ・変奏曲』を耳に流しながら。つづくはクルト・マズアのセザール・フランクのシンフォニー、これもなかなか……
いまは文章を書くことはひと段落。すっと押し広げられた心の隙間を音で埋めている。
自分はやはり常に何かに取り組んでいる方がいいようだ。それがないときの自分はほとんどくだらない時間をやり過ごすだけになってしまっている。そしてくだらない自分を確認するだけになるのだ。
次は何をしたらいいかな……
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いつか使おうとストックしておいた写真です。
けさはピアノ曲『フランク前奏曲・フーガ・変奏曲』。儚げかとも思われるその感性の凝縮から滴る詩の響き。鍾乳洞の石旬に落ちている一滴一滴が淡い色彩をおびて鳴りつづけているようだ。まだ暗い朝にふしぎな心地のするひとときとなった。
午前はゲラの到着。コミックの全盛に、文章を書くことが好きな方々の作品を読ませていただく。
一昨晩にTVで見た『三丁目の夕日』、今頃になって遅すぎる疑問、脚本はいったい誰? 何でも答えてくれる“PC博士”に訊いたところ、原作はマンガだった。巧いな~。コミックもすばらしいものがたくさんある。午後は地域内のお茶に参加。
読んだ本は、モーセを史実に忠実に小説化した第一巻。モーセといえば『十戒』
見ないで言えるかな……ひと通り一回ずつ言ってみる。
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ベートーヴェンの交響曲第7番をS.スクロヴァチェフスキー指揮の演奏で聴いていた時分がある。他の何人かの指揮者に比べて、というよりは、比べてというのではなく、S.スクロヴァチェフスキーの演奏がその時の自分の心境に合っていたからなのだが、クラッシック動画のストックを流していたところ、ブルックナーの交響曲第8番、9番が目に留まった。読売交響楽団の演奏。思えば読響を聴いてみようと思った事がなかった。この演奏で、わたしは聴き終えてから、ブルックナーの理解を助けられたなと思った。理解を後押ししてくれる演奏というものがあると思った。
天気図のゲラのやり取りが続いている。大した働きはないなと思ってきたが、すこしだけ手伝わせていただく部分があった事にほっとしている。
午後は民生の定例会があった。事例には先輩方が実に真剣に考えてくださり方向を出してくださる。感謝な事であった。その後、運動のために1時間ばかり歩いてから帰宅。清冽な空気、すこし寒くはあるが気分がすっきりする。
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