しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ
けさ2時に目が醒めてとはいわない、真夜中の2時に目が醒めてなのだ。さすがに起きあがるのはまだはやい。目ざめてすぐに聖句が浮かぶならまともなのだろう。意識して思い浮かべる。「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」(イザヤ32:15)
夢をみていたことがある。ずっと続いていた樹林が切れて、わたしはその樹林に沿って歩いていたのだが、視界がひらけた一帯を見ると、真っ赤な林檎が輝いて鈴なりに実っている。その見事さにただただ驚き眺め、そしてふと後ろを振り向いたところ、そこには、これまでに見た事もないすばらしい果実が延々と実っていたのだ。そこでわたしは目を醒ました。そしてそのときにイザヤ32:15のこの聖句が真っ先に浮かんだのだった。久しぶりに、今また思い出した。
2時に聖句を思い出し、その後に、いくぶん苦い後悔がつづいた。自分には詩の創作が向いていると知りつつ、詩を大切にし創りつづけることを怠ってしまった。取り返しがつくのかつかないのか。それはともかく、何か大切なものを置き忘れてきたような失くしてきたような喪失感がある。その時々に、それほどに大切なものだとも思わないできたが、この喪失感は何だろう。
そして庭の球根たちを思った。雪の上に落ちる影、その影の動きを球根たちは感じているだろうか。
球根は眠ってはいない。幾つもの球根たちが、土の中で肩を寄せ合っている。あるときは泣きじゃくり、あるときはくつくつと笑いながら、窮屈そうにすこしずつ手足を伸ばしている。大あくびをしたり、黙りこくったり、はにかんだり、へそをまげたりしながら密かに花芽を膨らませている。いまに咲くね。きっと咲くね。大きく咲くね。きれいに咲くね。慰めたいね、あの人を。喜ばせたい、この人も。きっとみんな元気になるね。
こんなことどもを考えた朝だったが、日中はゲラに目を通したり郵便局に行くなどしていたが、夕方になって二男から電話がはいった。正月帰省以来の会話だ。何か気落ちすることでもあったのだろうかと心配になる。「何かあった?」と私。「いや、元気でいるかなと思ってさ」と息子。「なんだかんだと忙しいけど元気だから」と私。歩きながら話しているらしい。手紙を書こうと思いつつ忙しさで先延ばしにしており、気になっていた矢先だった。多くは話さないが受話器を置くと気分がすっきりとしている。このところの気象の異変もあり気になっていたが元気さ確認。イザヤ32:15はいつもわたしが息子のことを祈る時に想った聖句だ。
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