先週のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-622-6304)のメッセージをおつたえします。
聖書引証 エペソ書1~16
1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。 6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。7 しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。8 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」 9 ――この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。10この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。――11こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
≪國光勝美牧師のおはなし≫
きょうと次の礼拝を教会総会の準備講壇として備えさせていただきます。きょうは与えられておりますエペソ人への手紙4章からおことばを取りつがせていただきます。
1節に「さて」とあります。実はこのエペソ人への手紙にこの3章の最後のア-メンというところから、この後の4章のこの間にはっきりとした区切りがあります。この手紙を書いたパウロが自分の教会に対する理解を、「主の囚人である私」といっているところは面白い。このときパウロはローマ帝国の権力によって囚われの身にあります。激しい伝道を繰り広げていたところ、神様は不思議な摂理によって、パウロにしばしの休止を与えている。この時に、パウロは立ち止まって、これまで自分が伝えてきた福音が何なのか、これから何を中心に伝えていったらよいのかを神の前に吟味する時が与えられます。この時に書かれたのがエペソ人への手紙で獄中書簡といわれています。コロサイ書もそうで、類似した内容で、パウロは「キリストのからだである教会」を特に意識しています。エペソの1章から3章までに、パウロの教会に対する考え方を書いています。その後3章21節で「教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」とひと区切りし、さてこれから具体的な教会に対する勧めをいたしますと、エぺソに対する勧めが具体的になってきます。
「主の囚人である私」、これはローマの囚人ではあるけれども、それ以上に、イエス・キリストの囚人である。もう私は自分勝手な生き方をしているものではない。主への愛に囚われた主の囚人であり、これがパウロの喜びでもある。この私が言う事です、とパウロはこのエペソ書を書いています。
1~6節に「一つ」という言葉が多用されています。教会は一つであることを強調しています。色々な人たちがいるし、色々な集まりがあるけれども、しかし、私たちは主にあって一つである。また7節以降には、「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」。そして11節には「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」とある。前半では、神にあって一つであることを、そして11節では、その一つを構成している各々にはそれぞれに違った神の使命があることを教えている。この二つのことを踏まえて、パウロは、4章に「さて」と続けているわけです。
私たちは「キリストのからだである教会」に属していますが、それでは、「教会」とは何でしょう。「教会」はギリシャ語でエクレシア(ἐκκλησία)といい、「呼び出された者の集まり」という意味です。いまセンター試験が行われています。世の中には就職試験もあります。試験で人材を選ぶ。私たちは、神様の必要から、神様によって召された者たちです。私たちは世の中から選ばれた者であるという自覚を先ず持たせていただきましょう。1節に「召されたあなた方」とあるのはこの事です。だから「召しにふさわしく歩みなさい。」と勧めています。
旧約聖書の申命記7章6,7,8節をお読みください。
「6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。7 主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。8 しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」
神によって呼び出されたイスラエルの人たちを、モーセが遺言のようにこれまでの歴史を振り返り、最後の教訓を与えたのが申命記ですこの7章6~8節に教会の原型があります。
私たちが他の人々よりも優れていからではない。神様があなたを恋い慕ってあなたを選ばれたのは、どの民よりも数が多かったからではない、最も少なかった。しかし主があなたを愛されたから、ここに神の召しの基準があります。神が私たちを愛してくださったからです。
こんどは新約聖書の第一コリント21章26節を見ましょう。
「26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。29 これは、神の御前で誰をも誇らせないためです。30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」
神の選び、神の召しということが、旧約においても新約においても確認されたことと存じます。
エペソ4章に戻ります。
私たちは、神様によって召された者である、このことを確認させていただきました。どうか、私たちは、正しい自己評価をさせていただきましょう。誰が私たちを卑屈にさせるでしょうか。神様が選んでくださった。私たちは選ばれた者なのです。そして、これは決して私たちが誇るべきものでもない。私たちは、感謝をこそ覚えて、決して鼻高々に自分を、こんなに優れているから選ばれたのだなどというような事は決してない。しかし、どうか、私たちは、時々悪魔の誘惑に負けてしまって自分のようなtまらない者は自分のような弱い者はというように、自分で自分をおとしめてしまうような自己評価をするとしたら、それは決して神様がお喜びにはならない。いやそれは違う。それは神様が選ばれた貴いものを自らけがしている、それは神様に対する非常に悪い心の営みであるといえるでしょう。
第一テモテへの手紙第1章12節にはパウロが神に選ばれたことについての思いが書かれています。私たちもこのような思いを持たせていただきたいものです。
「12 私は、私を強くしてくださる私たちの主イエス・キリストに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。13 私は以前は、神を汚す者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪びとのかしらです。」
このようにパウロは、自分が神に選ばれたことを心から神に感謝し、自分のような者が、こんなものが神様に選ばれ、貴いお仕事に任命を受けているということは、これから後、それに従う者たちの良きサンプルになるためなのだ、あの人殺しの、あの手を血で汚したあのパウロさえも神様は召してくださったとするならば、というように捉えることができたなら幸いです。
こんど、「キリストのからだ」ということで、エペソの4章のところに帰ります。
「キリストのからだ」である教会を見るとき、私たちはインマヌエル盛岡キリスト教会というところでともに礼拝を守らせていただいているこの具体的な教会のからだに属している者であります。教会というのは、まさにキリストのおからだです。でした。自分自身の証しをさせていただきます。
私が信仰を告白し命に与ったのは1968年11月、お茶の水学生キリスト教会館でした。その時に導いてくださった先生が、「君達、ここは教会じゃないんだ。イエス様のお救いをお伝えしたけれども、私たちが願っていることは、君たちが教会に属する事なんだ」と仰いました。大切なことでした。私の場合は雪谷伝道所に導かれました。こんどはそこの先生から、ここは伝道所であり教会ではありません。ここは丸の内教会の伝道所です。日曜は丸の内教会の礼拝に出席していますという事で、私も1969年2月に丸の内教会に出席、5月のペンテコステの時に洗礼を受けました。丸の内教会の会員となりました。行ったばかりの頃、蔦田二雄先生が、マタイ伝の連続講開を行っていました。
お茶の水では午後に集会を持っていました。丸の内に知り合いがいなかったので居心地はお茶の水の方がよかった。日曜の午前は丸の内で礼拝を守り、午後はお茶の水の集会に出ていました。ところがお茶の水に来ていた先生に、自分の教会の青年会などに出なさいと言われました。
しだいに雪谷のチラシ配布に自然に参加していました。立ち位置が変わっていた事に気付きました。恵も与えられました。そしてその賜物をもってキリストのからだなる教会の建て上げていく、
「12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」
いつの間にか、私は、自然な形で、キリストのからだなる教会の中に組み込まれ、その働きを何とさせていただくというような恵に与っていった。
7節「キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」。あたえられる、ではなく与えられたのです。
思い起す一人の人物がいます。恰幅のいいにこやかな方でした。「ようこそおいでくださいました」と靴を下駄箱に入れてくださった。丸の内教会の方でした。下駄屋さんの小僧さんでした。印象深い方です。一人一人キリストの賜物の量りに従って恵を与えてくださる。わたしのような者にキリストのからだを形作る賜物なんかあるんだろうか。いえ、そんなこと思うのは、もう悪魔の網に引っ掛かっているようなものです。神様が召してくださったのです。不要なものを召されるはずがありません。神様は、一人一人を大切な御用のために憐れみと、愛するが故に、そして何かがあったから召したんじゃない、何もない者を神様は愛しておられて選んで、さあ、わたしのからだを形作ってご覧、こういってわたしたちを導いてくださるのです。
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