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2016年1月

日曜日のお話し『キリストの体なる教会-2』

 先週のお話しは、きょう行われます教会総会への心備えのためのお勧めでした。きょうは、おもに聖句の紹介とさせていただきます。

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聖書引証 エペソ4:1~16

1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。 6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。7 しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。8 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」 9 ――この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。10この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。――11こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。

12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

 國光牧師のお話しは、ご自分が信仰を持ち献身されるまでの信仰の体験談から、教会生活の軸足をどこに置くべきかを示唆してくださいました。また往時のインマヌエル綜合伝道団の丸の内教会に仕えた主牧、信徒の方々のイエス様への真実な奉仕の姿、特に高齢の方が礼拝の椅子を並べているのを手伝おうとしたところ、その方が「わたしは楽しみでやってるんだ」と仰った、イエスさまのために喜んでご奉仕をしていたすがたが印象的でした。この盛岡教会にも、教会学校で子どもたちに教えている方、講壇に花を飾ってくださる方、クリスマスやイースター、敬老の日などに率先してご奉仕にあたってくださる方、祈ってくださる方等などいらっしゃり、こんなすがたに励まされることが多くあります。

 説教のポイントとして、
 現代社会にあって、インターネットなど多様な媒体を通しての礼拝形式がある。
礼拝のライブ中継も行われている。これらは両側面をもたらす。プラスの側面としては、さまざまな事情で教会に行けない方々に恵をもたらす。しかし、ネット上にはさまざまなメッセージがあり、アクセントの置き方が異なっているために、教会の存在認識にずれを生じてしまう危険も孕んでいる。場合 によっては聖書の謂わんとするところと相容れない内容である場合もあるという事です。本来、神様への礼拝は、イエス様のからだである教会に集い、信徒の方々とともに礼拝を捧げることがあるべきすがたであり、イエス様がお喜びになる礼拝であることが語られました。

 1時間近い説教だったかと思いますが、この他にも派によって形態の違いがある事、また黙示録2、3章から、イエス様はさまざまな教会への評価も下しておられること等などが語られました。

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眼の疲れ

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 枝が紅く青空に伸びています。

 すこし目が疲れました。お休みします。

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しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ

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けさ2時に目が醒めてとはいわない、真夜中の2時に目が醒めてなのだ。さすがに起きあがるのはまだはやい。目ざめてすぐに聖句が浮かぶならまともなのだろう。意識して思い浮かべる。「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」(イザヤ32:15) 
 夢をみていたことがある。ずっと続いていた樹林が切れて、わたしはその樹林に沿って歩いていたのだが、視界がひらけた一帯を見ると、真っ赤な林檎が輝いて鈴なりに実っている。その見事さにただただ驚き眺め、そしてふと後ろを振り向いたところ、そこには、これまでに見た事もないすばらしい果実が延々と実っていたのだ。そこでわたしは目を醒ました。そしてそのときにイザヤ32:15のこの聖句が真っ先に浮かんだのだった。久しぶりに、今また思い出した。

 2時に聖句を思い出し、その後に、いくぶん苦い後悔がつづいた。自分には詩の創作が向いていると知りつつ、詩を大切にし創りつづけることを怠ってしまった。取り返しがつくのかつかないのか。それはともかく、何か大切なものを置き忘れてきたような失くしてきたような喪失感がある。その時々に、それほどに大切なものだとも思わないできたが、この喪失感は何だろう。

 そして庭の球根たちを思った。雪の上に落ちる影、その影の動きを球根たちは感じているだろうか。

 球根は眠ってはいない。幾つもの球根たちが、土の中で肩を寄せ合っている。あるときは泣きじゃくり、あるときはくつくつと笑いながら、窮屈そうにすこしずつ手足を伸ばしている。大あくびをしたり、黙りこくったり、はにかんだり、へそをまげたりしながら密かに花芽を膨らませている。いまに咲くね。きっと咲くね。大きく咲くね。きれいに咲くね。慰めたいね、あの人を。喜ばせたい、この人も。きっとみんな元気になるね。

 こんなことどもを考えた朝だったが、日中はゲラに目を通したり郵便局に行くなどしていたが、夕方になって二男から電話がはいった。正月帰省以来の会話だ。何か気落ちすることでもあったのだろうかと心配になる。「何かあった?」と私。「いや、元気でいるかなと思ってさ」と息子。「なんだかんだと忙しいけど元気だから」と私。歩きながら話しているらしい。手紙を書こうと思いつつ忙しさで先延ばしにしており、気になっていた矢先だった。多くは話さないが受話器を置くと気分がすっきりとしている。このところの気象の異変もあり気になっていたが元気さ確認。イザヤ32:15はいつもわたしが息子のことを祈る時に想った聖句だ。

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きままな一日

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  これも数日前の中津川河畔。青空が広がればものみな生彩を帯びた画像と納まってくれる。青空が広がれば心の口も大きく広がる。試薬の一滴で液体の色が瞬時に変わるように、青空は内側の色彩を新たにする。

 午前にはゲラが届く。午後は私関係の来客、つまりはお茶のみ。これも楽しいひと時。日が落ちるまえに1時間ほどあるく。

 雪が積もっている庭を一日中それはゆっくりとした速度で動く生き物がいる。さっきはあそこにいたはずだがと見るとそこにはもういない。とにかくじっとしていることができないらしい。呼びかけても知らんふり。猫に踏まれてさえも黙りこくったままだ。長くなったり短くなったり、太って見せたりやせ細って見せたり、この生き物というのは、実は木の影、塀の影、家の影。……影は生きている。

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題なし

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県庁前の写真。数日前のもの。きょうはこの通りを歩いてはいない。
きょう通ったのはバイパス。午前にお祈り会に行くためだ。帰りの昼の気温は4℃。ついでにガソリンの値段に気をつけてみると、3ヶ所のガソリンスタンドが表示していた数字は、レギュラー101円、102円、103円。この安値を不可解とは思うも、一応セルフの某スタンドで満タンにしておく。給油も自分でできるようにしておかないと、スタンドの方が対応しかねる場合も今後あり得ないではないという気がする。
 帰宅すると来客があったもよう、届けもの。不在で失礼しました。
 不可解はもう一つ、この暖かさ。
 午後は久方ぶりに主人が温泉に行くというので同行する。

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ドラゴネッティのコントラバス

 1825年イギリスのスマート卿がウィーンに行って、ヴァイオリニストのマイゼーダーに会って「第九」の発表のときの話を聞いたとき、「フィナーレの叙唱部で全部のバスが弾きましたが、本当はこれはドラゴネッティだけのために書かれたものだそうです」という話を聞いた。

ドラゴネッティはヴェニス生まれのコントラバス弾き。この楽器の歴史に残る最大の演奏家。ある朝、彼がベートーヴェンを訪ねると、ベートーヴェンはコントラバスソナタを聞きたいと言った。彼はコントラバスでベートーヴェンのチェロ・ソナタ作品5の2を弾く。ベートーヴェンはピアノを弾きながら、目はドラゴネッティの弓を見て離れなかった。そしてフィナーレでアルペッジョが始まると非常に喜び、曲が終わると興奮して、ピアノから飛び上がってコントラバスとドラゴネティとを一緒に抱きしめたという。それから数年というものは、コントラバスの力と可能性がドラゴネッティの演奏でわかったために、オーケストラのコントラバス弾きは、ベートーヴェンの指揮のときひどく痛めつけられたという。

 you tube に ベートーヴェン チェロ・ソナタ 作品5の2 がある。ピアノをベートーヴェンが、チェロはドラゴネッティが弾いていると思いこんで、というのもあまりに無理のあるはなしだが、そう夢想して聴いてみるとおもしろい。
 ベートーヴェンがドラゴネッティというコントラバス奏者にいかに狂喜し、低弦の作曲意欲を掻きたてられたことか。
 わたしがコントラバスという楽器の可能性の大きさを知ったのは、ナビル・シェハタの演奏を聴いたときだった。そのときの驚きと興奮は忘れられない。ベートーヴェンを知ろうとするうえでそれが役に立つとは、そのときは知る由もなかったが。

 ということで、今朝も楽しいひと時を持つことができた。いまちょうど7時だ。

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万事相働きて益

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  午前中はフラワーショップに。いつも素敵に花をとり合わせてくださる方がいらっしゃる。ヒヤシンスの大きな球根3個入りをいただく。午後は1~4時まで福祉関係セミナー。夕食後、7~9時、地域の会議。
確定申告などもあり、年度末を控え、そちこち忙しそう。

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アイスバーン

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 ただただ夜明けに起きて、夜が明けなくとも起きてウォーキングしていた時期があった。とにかく夜明けに向かって歩いていた。暁暗を歩きまばゆい曙光を浴びながらぎりぎりと昇りくる日をあおぐ。
 翌年あたりは寒中に強いて起きあがることが不自然にも思われ冬は無理をしてまでは外には出なかった。
 昨年暮れから、落ち着いてひと仕事ができる時間は早朝にあると、4時に起きるようになった。遅くとも5時。朝の2、3時間のあいだ、ただ歩いているのは勿体ないと思われ、今はこの時間帯を自分の好きな事に注ぎこんでいる。
 こんどは運動不足となった。今になって水泳やフィットネスクラブに通う決断はつかない。日中に、できるだけ歩くように心がけてはいる。

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昼間-2℃

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 真っ青な空。街は-2℃。

 死期間近いベートーヴェンの前でクラモリニ夫人の息子ルードヴィッヒが歌った『アデライーデ』、そしてその妻ナネッテが歌った『フィデリオ』にあるレオノーレのアリアを聴く。たとえベートーヴェンの耳が聴こえないことを知っていようとも、このふたりの声楽家はいい加減には歌わなかった。全身全霊をかけて発声し、表現をしつくしている。ベートーヴェンが述べた感想は感動的だ。

 弦楽四重奏曲作品130を聴く。第5楽章の訴えるものは、「あの得がたいもの、親しい人間関係、すなわちベートーヴェンがついに求めても得られなかった愛と暖かい思いやりへの願いである」という。自分が得られなかったものを作品世界に創りあげる、そんな創作があるのだ。

 そろそろ夕食の支度。ベートーヴェンの夕食は7時半、同じくしたいけれども、我が家の実情には合わないようだ。

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日曜日のお話し『キリストの体なる教会』

 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-622-6304)のメッセージをおつたえします。

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聖書引証 エペソ書1~16

1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。 6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。7 しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。8 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」 9 ――この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。10この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。――11こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。

12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

 

≪國光勝美牧師のおはなし≫

きょうと次の礼拝を教会総会の準備講壇として備えさせていただきます。きょうは与えられておりますエペソ人への手紙4章からおことばを取りつがせていただきます。

1節に「さて」とあります。実はこのエペソ人への手紙にこの3章の最後のア-メンというところから、この後の4章のこの間にはっきりとした区切りがあります。この手紙を書いたパウロが自分の教会に対する理解を、「主の囚人である私」といっているところは面白い。このときパウロはローマ帝国の権力によって囚われの身にあります。激しい伝道を繰り広げていたところ、神様は不思議な摂理によって、パウロにしばしの休止を与えている。この時に、パウロは立ち止まって、これまで自分が伝えてきた福音が何なのか、これから何を中心に伝えていったらよいのかを神の前に吟味する時が与えられます。この時に書かれたのがエペソ人への手紙で獄中書簡といわれています。コロサイ書もそうで、類似した内容で、パウロは「キリストのからだである教会」を特に意識しています。エペソの1章から3章までに、パウロの教会に対する考え方を書いています。その後321節で「教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」とひと区切りし、さてこれから具体的な教会に対する勧めをいたしますと、エぺソに対する勧めが具体的になってきます。

「主の囚人である私」、これはローマの囚人ではあるけれども、それ以上に、イエス・キリストの囚人である。もう私は自分勝手な生き方をしているものではない。主への愛に囚われた主の囚人であり、これがパウロの喜びでもある。この私が言う事です、とパウロはこのエペソ書を書いています。

16節に「一つ」という言葉が多用されています。教会は一つであることを強調しています。色々な人たちがいるし、色々な集まりがあるけれども、しかし、私たちは主にあって一つである。また7節以降には、「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」。そして11節には「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」とある。前半では、神にあって一つであることを、そして11節では、その一つを構成している各々にはそれぞれに違った神の使命があることを教えている。この二つのことを踏まえて、パウロは、4章に「さて」と続けているわけです。

私たちは「キリストのからだである教会」に属していますが、それでは、「教会」とは何でしょう。「教会」はギリシャ語でエクレシア(κκλησία)といい、「呼び出された者の集まり」という意味です。いまセンター試験が行われています。世の中には就職試験もあります。試験で人材を選ぶ。私たちは、神様の必要から、神様によって召された者たちです。私たちは世の中から選ばれた者であるという自覚を先ず持たせていただきましょう。1節に「召されたあなた方」とあるのはこの事です。だから「召しにふさわしく歩みなさい。」と勧めています。

旧約聖書の申命記7章6,7,8節をお読みください。

6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。7 主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。8 しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」

神によって呼び出されたイスラエルの人たちを、モーセが遺言のようにこれまでの歴史を振り返り、最後の教訓を与えたのが申命記ですこの7章6~8節に教会の原型があります。

私たちが他の人々よりも優れていからではない。神様があなたを恋い慕ってあなたを選ばれたのは、どの民よりも数が多かったからではない、最も少なかった。しかし主があなたを愛されたから、ここに神の召しの基準があります。神が私たちを愛してくださったからです。

こんどは新約聖書の第一コリント2126節を見ましょう。

26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。29 これは、神の御前で誰をも誇らせないためです。30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

 神の選び、神の召しということが、旧約においても新約においても確認されたことと存じます。

エペソ4章に戻ります。

私たちは、神様によって召された者である、このことを確認させていただきました。どうか、私たちは、正しい自己評価をさせていただきましょう。誰が私たちを卑屈にさせるでしょうか。神様が選んでくださった。私たちは選ばれた者なのです。そして、これは決して私たちが誇るべきものでもない。私たちは、感謝をこそ覚えて、決して鼻高々に自分を、こんなに優れているから選ばれたのだなどというような事は決してない。しかし、どうか、私たちは、時々悪魔の誘惑に負けてしまって自分のようなtまらない者は自分のような弱い者はというように、自分で自分をおとしめてしまうような自己評価をするとしたら、それは決して神様がお喜びにはならない。いやそれは違う。それは神様が選ばれた貴いものを自らけがしている、それは神様に対する非常に悪い心の営みであるといえるでしょう。

 第一テモテへの手紙第112節にはパウロが神に選ばれたことについての思いが書かれています。私たちもこのような思いを持たせていただきたいものです。

12 私は、私を強くしてくださる私たちの主イエス・キリストに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。13 私は以前は、神を汚す者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪びとのかしらです。

 このようにパウロは、自分が神に選ばれたことを心から神に感謝し、自分のような者が、こんなものが神様に選ばれ、貴いお仕事に任命を受けているということは、これから後、それに従う者たちの良きサンプルになるためなのだ、あの人殺しの、あの手を血で汚したあのパウロさえも神様は召してくださったとするならば、というように捉えることができたなら幸いです。

 こんど、「キリストのからだ」ということで、エペソの4章のところに帰ります。

「キリストのからだ」である教会を見るとき、私たちはインマヌエル盛岡キリスト教会というところでともに礼拝を守らせていただいているこの具体的な教会のからだに属している者であります。教会というのは、まさにキリストのおからだです。でした。自分自身の証しをさせていただきます。

 私が信仰を告白し命に与ったのは196811月、お茶の水学生キリスト教会館でした。その時に導いてくださった先生が、「君達、ここは教会じゃないんだ。イエス様のお救いをお伝えしたけれども、私たちが願っていることは、君たちが教会に属する事なんだ」と仰いました。大切なことでした。私の場合は雪谷伝道所に導かれました。こんどはそこの先生から、ここは伝道所であり教会ではありません。ここは丸の内教会の伝道所です。日曜は丸の内教会の礼拝に出席していますという事で、私も19692月に丸の内教会に出席、5月のペンテコステの時に洗礼を受けました。丸の内教会の会員となりました。行ったばかりの頃、蔦田二雄先生が、マタイ伝の連続講開を行っていました。

 お茶の水では午後に集会を持っていました。丸の内に知り合いがいなかったので居心地はお茶の水の方がよかった。日曜の午前は丸の内で礼拝を守り、午後はお茶の水の集会に出ていました。ところがお茶の水に来ていた先生に、自分の教会の青年会などに出なさいと言われました。

 しだいに雪谷のチラシ配布に自然に参加していました。立ち位置が変わっていた事に気付きました。恵も与えられました。そしてその賜物をもってキリストのからだなる教会の建て上げていく、

12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

 いつの間にか、私は、自然な形で、キリストのからだなる教会の中に組み込まれ、その働きを何とさせていただくというような恵に与っていった。

7節「キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」。あたえられる、ではなく与えられたのです。

 思い起す一人の人物がいます。恰幅のいいにこやかな方でした。「ようこそおいでくださいました」と靴を下駄箱に入れてくださった。丸の内教会の方でした。下駄屋さんの小僧さんでした。印象深い方です。一人一人キリストの賜物の量りに従って恵を与えてくださる。わたしのような者にキリストのからだを形作る賜物なんかあるんだろうか。いえ、そんなこと思うのは、もう悪魔の網に引っ掛かっているようなものです。神様が召してくださったのです。不要なものを召されるはずがありません。神様は、一人一人を大切な御用のために憐れみと、愛するが故に、そして何かがあったから召したんじゃない、何もない者を神様は愛しておられて選んで、さあ、わたしのからだを形作ってご覧、こういってわたしたちを導いてくださるのです。

 

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置き物みたい

 こたつの一角に三度の炊事をするほかには、終日座ってじっと前方を見つめている。鑑賞するべき絵画か彫刻でもあるならまだしも、その向こうに活き活きとした花が咲いているわけでもなく、抜けるような青空が広がっているわけでもない。ただただいわばバーチャル世界とのお付き合い。こんな姿は異常としか言いようがないのだが、これがパソコンに向かっている格好なのだ。TVは滅多に見ないけれども、やはり見るとなると30分、1時間は画面の前でじっとしている。デスクワークもそうだろう。ほとんど一角でPCか書類との格闘だ。何だかおかしいと思いつつ、止めるわけにもいかないシステムになっている。世の中にこんな具合に、むしろわたしなどは軽いほうで、ほとんど24時間貼りつかなければならないとしたら、或いは好んで貼りついているとしたら……。なにか尋常ではない。電車でも人の顔を見る事もせず、たとえ周囲が他人ばかりだとしても、手元の画面にばかり見入っている人たちがいる。
 年賀状も読むのは手書きの部分。手書きの方が人間的に思われるこの頃だ。書が新鮮に感じられてきているのは、こんなところにもあるかもしれない。

 パソコンは便利は便利、けれども何かどこかふつうじゃない。

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御点前

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 きのうのお茶会は、maruseiさんが御点前をしてくださいました。左にいらっしゃる方です。わたしは裏方を務めておりましたので、なかなかシャッターチャンスがなく、これで精いっぱい。因みに私は洋服を着用です。有難うございました。

 午前はなかなかエンジンが掛かりませんでしたが、午後からやっと用足しなどを済ませました。路面凍結。運動不足解消のために歩くのも大変でした。

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申し訳ありません!

  きょうは大忙し。この地域のいきいきサロンの新春茶会。お茶の先生がボランティアを申し出てくださり実現したもの。12時集合で16時散会。きのうはそのための準備があった。教室の皆さまのご協力も大きかった。皆さまが楽しく過ごされていた。
 17時には、立川さんに原稿添付送信。19時から教会総会の準備の会議があり、教会に駆けつける。前年度の報告、新年度案等など。帰宅は10時。これが年に一度の深夜帰宅だ。
 帰宅すると、主人が「立川さんから電話があったよ」と。さては着信がなかったのでは。心配になり、たぶん今時間も同人の方々の原稿を見てくださっている、起きているだろうと電話をしてしまった。立川さん申し訳ありません!
 教会のひろ子牧師がきょう仰っていたけれども、数件のメールが半日ばかり遅れていっぺんに届いたという。メールならば瞬時に届く、発信さえしておけば、発信したのだからもう届いているはずと思いこんでいたのがいけなかったようだ。新年初の失敗の巻でした。

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         お近くの茶道教室の茶室


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まずまず

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  きょうまで何とか雪が降らないで欲しいと思っていたところ、このような青空がひろがった。日差しがさしてきたときはほんとうに嬉しかった。少なくともきょうは除雪がないと思う一方で、雪の被害が出たところも。青森、山形、北海道では除雪もままならないほどの積雪、また全国的に人的被害が出ているなど、他人ごとではないと思われるいまだ。pencil

 いまは緊張感が解けてただ眠い。pencil

 きょう朝比奈の第九を聴きながら、作曲者の譜面に忠実に演奏することが、作曲者への礼儀かもしれないなどと思った。それにしてもこれほどに演奏される第九、岩手でも近々いわてフィルによって宮古と盛岡で演奏されるけれども、こんど第九の合唱団を募集したら参加したいとも思っていたが、どうもぼんやりしていてチャンスを逃してしまったようだ。尤も、練習日がいつであるかによっても参加出来かねたかと思う。pencil

 書く時に得々として自己満足的であることを否めない。こうしてひと段落させ、冷静になってみると、あまりの詰め込み過ぎで焦点がぼやけてしまった。あれもこれもそれも、ついつい書きこんでしまった。これを直すとなると……。たとえ数行でも言いつくしている作品というものがある。逆にあまりにの羅列に結局何も伝わってはこないという作品も。今回は後者かもしれない。しかし面白い部分も幾つかはある。そこは自分ではまずまずと思う事ができる。
pencil

 いまジャン・コクトーの詩が浮かんだ。
「わたしの耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ」
こんなふうに書けたならと思うpencil

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何とか目処がつく

 編集長立川さんから、20日まで推敲、校正をと指示を受けていたが、きょうで何とか目処がついた。
 とにかく降雪がこの程度で収まってくれた、あすはどうなるかは分からないが、このぐらいで済み助かった。自宅の除雪は主人がするが、その他の役目もあり、雪がどの程度になるかで、大きく過ごし方が違ってくる。何とか明日まで降らないでいてほしいが。

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籠城

 

日曜から三日も経ったような感じがする。天気が良くないので籠城状態。雪がもっと降るかと思ったが今しがた外を見ると5㌢ほどの雪が解けだしている。 

 きのう午後図書館に本を返しにいき、すこしだけマイクロを動かす。印刷はしないが、2、3確認事項があった。その帰り、マリオスのインフォメーションに行くと、「すべて疲れている人重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげよう」という聖書のことばが書かれたチラシがあった。心にじわりと染み涙がにじんだ。これが私が必要としていることばなのだ。いまは自分で自分を忙しくしているのだけれども、そんな今の私が癒された一言だった。

 きょうの1日は8時半で終了。

 
 

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日曜日のおはなし「主を待ち望む者」

 先週のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)のお話しの概略をおつたえします。P1130178

聖書引証 イザヤ書40:27~31

27 ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。 28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。 29疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。 30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。 31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

≪國光勝美牧師のおはなしの概要≫

(20分ほど前回の復習と補足の後に今回のメッセージがありました)

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」とありますが、私たちはどうして力ある主を知りながら、その主を待ち望むことができないのでしょうか。この主に、なぜもっと依り頼むことができないのでしょうか。

 明治時代に木村清松(きむらせいまつ)という牧師がいました。ナイアガラの滝を「自分のお父さんのものだ」と言ったことで有名になりました。

 私たちの主はすべてを創り、すべてを所有しておられます。それを知りつつ、なぜ私たちはその主を待ち望む事ができないのか。
 心の中を探ってみると、生まれながら神を信頼できない性質、神を認めたくない性質、自分と世の中を中心にしたい性質を持っている事を告白せざるを得ません。皆さんは先ず第一に何を求めていますか。マタイ6:31~33には、

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それらがあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。


 
私たちは先ず衣食住のことを心配しますが、天の父はすでに私たちに必要なものをご存じです。ですから先ず神第一に生きるなら、必要なものはすべて備えられます。

詩篇78:13~16に出エジプトのときの奇跡があります。

13 神は海を分けて彼らを通らせ、せきのように水を立てられた。
14 神は、昼は雲をもって彼らを導き、夜は、夜通し炎の光で彼らを導いた。
15 荒野では岩を割り、深い水からのように豊かに飲ませせられた。

 神はこのように民を救い導き水を与えマナをふらせたにもかかわらず、それでもなお神を信じきる事ができない。残念ながら、これが本来人間が持っている傾向性です。

エペソ2:1には、  
1あなたがたは、自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、……4 しかし、あわれみ豊かな神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛のゆえに、 5 罪過の中に死んでいたこのわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのです―

 
私たちの中に巣食っている罪の性質がある限り、主に依り頼み、主を待ち望むことはできません。罪の性質を何とか解決しなければなりません。
 このような私たちの罪を赦し、きよめるためにイエス・キリストの十字架があります。自分では罪を解決することはできません。神がこのわざを為してくださいます。神が解決してくださいます。イエス・キリストの贖いによって力の更新をしていただきましょう。


イザヤ40:31

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。







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もりおか童話の会スタート

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 午後から、もりおか童話の会の新年会があり、久しぶりに全員が揃いました。童話の会として発足しているので現在も団体名は変えていませんが、代表のAさんは歴史小説、Oさんは小説・児童文学、Kさんは小説・児童文学・随筆・詩、文芸誌「天気図」編集長Tさんは評伝・小説・随筆、Yさんは児童文学、Wさんは小説・脚本・随筆、わたしは一応いまは評伝執筆中です。お名前は50音順です。
 代表のAさんから新年度に向けての運営上の説明があり、その後、お一人お一人から、ことしの文学上の抱負が述べられました。超多忙な方々もおられ立場の違いはありますが、書くことへの意欲は失われていません。新年のチャレンジは始まっています。pencil
 

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きょう生かされたことに感謝!

  けさは「わが恵汝に足れり」ということばが浮かんだ。4時に起き出し、なにもそんなにはやく起きなくともと思われる方は、たぶんご自分のありようで有益な時間をつくることのできる方だろうと思う。わたしの場合は、目を覚ましてそのままでいると、ややもするとマイナス思考に傾いていくときがある。それに気付かずに余計な事で苦しんだり悩んだり考え過ぎたりしていた時期がある。今思うとまったく無駄な事だった。とにかく迷わずに起きあがって先ずお茶を淹れる。するとその後も心持がすっきりとなる。暗い時間を挟まないようにする。
 ただし今時間、9時ともなると頭には靄がかかっている。靄がかかっている時間に書くブログがこれだという事になる。きょうは何をしたっけ、思いだすのに若干時間がかかる。早朝はいつものパターン。午前中は、あした息子に着くように送るものを買いに行く。さほど時間はかからなかった。午後はティーレマンのベートーヴェンの続きをすこし聴く。以前とはまた違って聴こえるようになった。作曲者のすがたが演奏上に浮かんでいるような感じがする。それから説教の聴き取り20分ほど。それから雑事。
 午前はクルマを使い、結局きょうは歩かないでしまった。健康寿命を延ばしたいのか延ばしたくないのかまだよくわからない。しかし、健康寿命の平均年齢が近付けば、もうすこし生きてみようかと思うのかもしれない。
 きょう生かされたことに感謝する。
 

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健康寿命

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  常緑のエニシダに雪。

 午後からちょっとしたセミナーを受けた。平均寿命、健康寿命のはなしも出た。意外だったのは平均寿命は長くなっているが、健康寿命は年々短くなっているという。その理由までは説明がなかった。しかし推測はできる。女性の健康寿命は74歳(24年)、きょうのおはなしでは72歳(これが最近のものか)。好きな花づくり、また文筆が趣味だ。花づくりは80歳まで、文筆は70歳まで続けられたならと願っている。

 

 午前は日赤にSさんのお見舞いに伺う。バイパスは雪が解けているだろうと思ったが、圧雪。クルマは渋滞。お会いしてみると退院を待つばかりでお元気そうだった。

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除雪車

 

さきほど、といっても今朝の5時過ぎだが、除雪車の音がするので、見ると、10㌢ばかり。

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 降雪が昨日ではなくきょうでよかった。というのも主人が昨日出かけた先は釜石方面。早朝の出発だった。もしきのう降っていたなら運転が大変だったろう。一日ずれてくれた事に感謝する。
 除雪会社によってやり方はあるけれども、この会社は非常にきちんと除雪してくださる。
 早朝の仕事には新聞配達、そして冬は除雪かと思いながら、コンビニも24時間、スーパーも24時間のところがある。交通機関、トラック運送なども24時間体制になっていたかどうか。何れも天候には大きく左右されるのだろう。
 早朝のブログ書きははじめてのこと。

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休息

  寒いけれども、よい空模様でした。
 午前は休息。休んだ方がよいときにはゆったりと。
 主人の関係の葬儀があった。主人だけが参列。

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概ね平和

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盛岡地方気象台からの展望。土曜日の散歩での写真。

 月、火と、家にこもっていた。こもっていても食事をとらなければならない。冬眠できる動物たちの“メカニズム”が不思議だ。

 原稿推敲、校正は早朝のうちのみ。午前中は来客。残り時間は本。午後は茶道。これも地域がらみの付き合い。まもなく22時、思考停止時刻。
 きょう一日がよい一日であったかどうか、自分では判断しかねる。苦しみや酷いことがない。争いがない。涙を流すこともなければ、怒ることも憎むことも人をそしることもなかった。概ね平和な穏やかな一日であったことはたしかだが、実に非生産的である感じも否めない。

 

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散乱している紙類

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  晴天に恵まれる。

 やっと見出したベートーヴェンと自分との共通点は、床に紙類を散乱させていること。ただし、向こうの紙類には大天才の譜面が混じり、こちらの紙類は、もう何が何だか、なくなっても惜しむ者すらないだろう。

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日曜日のおはなし「主を待ち望む者」

 インマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)の先週、新年初の日曜礼拝のメッセージをおつたえします。

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聖書箇所 イザヤ402730

27 ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。 28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。 29疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。 30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。 31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

≪國光勝美牧師のおはなし≫

わたしたちは神の家である教会に、切なる求めを持っているでしょうか。「その路はきよき路と唱えられん」というこのシオンへの大路が心にあるでしょうか。「我は道なり真理なり命なり」と仰るイエス・キリスト様を心の真中心にお迎えし、シオンへの大路を辿らせていただきたいものです。神様との交わりで信頼を強くし、このお方にすべてを委ねて進みゆくことができますように。これが詩篇84篇からのおすすめであり、ことしのベースとなっております。

詩篇8411まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。

このおことばから、恵 Grace栄光 Glory良いもの Good thing の三つのGをあげました。これも心に留めましょう。

イザヤ402731に、三つのポイントを確認できます。

①27節 疲労困憊している神の民 

②28・ 29節 神はいったいどのようなお方であるのか

 31節 力の賦与

どんな時に私たちは疲れるでしょう。いくら祈りを捧げても、こたえが無いと感じられるとき、答えが目に見えて出て来ないときです。しかしルカ伝18章のやもめの訴えを思い出しましょう。やもめの女性が、不正な裁判官に訴えをとりあげてもらおうと嘆願するのですが、裁判官は煩わしさから聞き届けません。しかしこの女性は諦めなかった。繰り返しくりかえし訴えます。裁判官はうるさくてならず、ついに女性の訴えを聞き入れました。どうかこの婦人の切なる祈りを思い起こしてください。イエス様は仰います「あなたがたに言いますが、神はすみやかに彼らのために正しい裁きをしてくださいます」と。

祈りが聞かれない、何をやっても結果が得られないで沈むとき、このやもめの女性のように、それでも耐え、主は見ておられる、必ず聞いてくださると信じ祈り続けたいものです。

28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。

そうです。すべてを主が知っておられます。マタイ14章で、弟子たちがガリラヤ湖で大嵐に遭ってしまいます。弟子たちが「われらは滅んでしまう」と思ったそのとき、イエス様はその様子を丘の上からご覧になっていました。イエス様は知っておられる。イエス様は見ておられます。そして近付いてこられるお方です。知恵を働かせ、創造されるお方は、嵐をも支配できるお方なのです。

わたしたちの神様がどういうお方であるのか、詩篇84篇の57節を読んでみましょう。

5 なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。6 彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。

 イザヤ4031から、力の更新についてのべます。

人となられたイエス様は、私たちの弱さをよくご存じです。しかし、主を待ち望む者には約束されていることがあります。

31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 これを今年のおことばとして、皆さまの励ましにしていただきたいと思います。

 このおことばがインマヌエル讃美歌の613番で歌われております。讃美歌で覚えて口ずさんでいただければ幸いです。1930年中田羽後作詞作曲です。インマヌエル讃美歌集が刊行されたとき、中田羽後先生が、献本式でこの讃美歌指導をされたということです。

31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 鷲のような著しい働きもいいでしょう。大きな集会などで大きく恵まれることは有益です。しかし、日常の一回、一回の礼拝、祈祷会に淡々と、黙々と励み続ける、これもまた意味のあることです。

 ここで、詩篇62篇にも心に留めましょう。

11 神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。12 主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。

 わたしたちが信じている神、イエス様は、私たちの弱さをよく知っておられる。ですから霊的な恵をもって疲れている私たちをあしらってくださいます。詩篇8411節にあります「まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」。ここから今一度「三つのG」を心に留めましょう。

 イザヤ書にある「新しい力」とは、この世的な力ではなく、霊的な力であることはおわかりいただけるでしょう。その力とは、罪に勝つ力であり、最終的な闇である死に勝つ力であります。そして、キリストの復活の力、キリストのような人格を持つに至らせる力です。

聖霊汝らのうえに臨まれるとき、汝ら力を受けん」という約束の力です。キリストの証し人となる力を与えていただきたいと心から願っております。

 讃美歌「ひむなる」106番を讃美しましょう。

 

 

 

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プルシェンコ in 盛岡

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  明るい日差し、明るい空。
 午前は説教の起し。これもいつまで続けられるだろうか。けっこうな労力ではある。誰かひとりが読んでいてくれたならそれでいい。何れあまり無理をせずに、書けない時には書けないままで、書けるときには書くといった気楽さでやらせていただこう。club

 主人が散歩に行くというので、同行。きのうきょうとほとんど坐ったきり。昨夜の祝賀会で、これはいっぺんに数値があがると見えた料理を脆くも口に入れてしまった。あすは徹底的に歩かなければと思ったはずが、夕方まで座りっぱなし。主人が行くというので、無目的にひとりで歩きまわる不可解な行動となるよりはと一緒に出かける。絵を描いておられる大信田時子さんにお会いする。7日は過ぎたが、新年のご挨拶をする。spade

 夕食準備まで読みさしの本をひらく。

 そして今は、NHKフィギュア スペシャルエキシビションを見ながらブログを書いている。さっきプルシェンコが終わったばかり。
 去年、ロシア関連でそちこちに当たっているうちにプルシェンコの動画を見つけ、以来たまに見ていた。ただ、これはちょっとファンにサービス過剰ではないかと思った動画が出て来て以来、しばらく見ないでいた。あの広大なロシアの大地に思いっきり車を飛ばしスカッとしては、演技、後進指導でもしているのだろうと思っていたが、まさか盛岡に現れるとは! やはりすばらしかった。プルシェンコの盛岡での演技を見るチャンスがあるとは思わなかった。tv
 

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おだいじに!

 あたまに靄がかかっているかのこの時間、もうすこしで思考がストップしてしまいそうな21時すぎというこの時間、力を抜いてみると、きょう何もしていないではないかという想いになる。それから一日を思い巡らす。午前はPC.昼近くに掃除など。落ち着かない半日。きょう文芸誌編集長立川さんからお電話をいただき、しゃきっとなる。読みさしの本をあける。新しいディスクを聴きたいと思いつつ一旦始めると長くなるので、ここは措いておく。こんどはブルックナー、少なくとも7番、8番を聴いておかなければならない。4時頃に提出原稿にコメントが付されて戻ってくる。
 夕刻から。表彰された方の祝賀会も兼ねての定例会。5時からの会議1時間。祝賀会2時間。みなさまの温かさ明るさ親切に感謝しながら8時頃帰宅。
 目が疲れてしまっている。まだ書くべき事項はあるが、ここまでに。
 しかしあと1行だけは。手術間近い友だちよ、お大事に。このブログを見ていない友だちよ、たとえあなたが見ていなくとも言います。おだいじに! これはわたしの祈りです。

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「ベートーヴェンの思い出」G.ブロイニング著 小柳達男・小柳篤子 訳

 

この本があることは、アマゾンをあたったときに知った。ただ値段が古書で4,499円。ベートーヴェンを専門的にやっているなら買いもするけれども、たった2、3行程度を書くために散財するのはどんなものだろうと購入しなかった。岩大図書館ならと行ったところ、出てきたのは栄養学関係の著書だけだった。それで県立、市立図書館にもないものと思いこんでいた。
 それが昨日、図書館から督促が来て、きょう、地区行事が終わってから返却に行き、さてせっかく来たのだからと、ブロイニング家が気になり、ベートーヴェン関連を2冊あけて見た。G・ブロイニングは出ていない。恐らくベートーヴェンと親しかったブロイニング家の子どもたちのそのまた次世代あたりだろう。念のために蔵書検索をかけると、何と、書庫入りとなっていたのだ。嬉しかった。晴れて本を手にする事ができた。そしてさまざまな事がわかった。
 ゲルハルト・ブロイニングは、ベートーヴェンの親友の子息。ベートーヴェンを書き留めておかなければならないと思っていたが、何度もやりかけてはいつも中断していたらしい。ベートーヴェンの生誕100年に及んで、今度こそと実行しようとしていたところが、最愛の息子が19歳の若さで死んでしまい中断。1874年になって出版されている。原題は「シュバルツシュパーニエルハウスより」で「少年時代の思い出」という副題がついている。原著は129頁の小冊子であるという。訳者はそれに正しいと思われる記録に基づいて解説をつけ、474頁の一冊として刊行。この本の資料価値がおぼろげながら分かるのだ。ベートーヴェン研究には必要な、この昭和48年に1,200円で出版された本の価値が4,499円以下に下がることはないと信じられる。
 今回、曖昧だったのが、G・ブロイニングに関する一連で、これでやっとすっきりとした。これもまた、校正の期限にも間に合いそうで、滑り込みセーフといったところ。pencil

 きょうの餅つき大会は、
4つの臼でもちがつかれた。参加300人を想定し、もち35K分と餅まき用の紅白の餅も準備された。おしるこの係だった。小学1、2年かと思われる男の子が、おわんを持って前に立ち、大きな声で、「おかわりをお願いします! ぼくはおしるこが大好きです!」と笑顔で発表するときのような口調で言う。いっぺんに疲れが吹き飛んだ。pencil

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準備会

いくつかの町内会合同のイベントの準備会があった。もちつき大会だ。本番はあす。雑煮、きなこ、納豆、あんと4通りでもちをついて皆さんでいただく。中学生が応援に来ている。300人分の仕込みだった。雑煮のために大鍋8個が準備されている。卓球台4台にシートを敷き、まな板を一台に6~8枚並べて、にんじん、ジャガイモ、ごぼう、大根、セリ、鶏肉を皮をむいたり、切ったり。わたしはほとんど洗い場で使用済み調理器具を2,3人で洗う役目だった。こういった場面では自分には食器洗いが合っているようだ。いつもながら片隅でほんのすこしの手伝いをしながら、みんなの力を結集することの凄さを見せていただいている。役員は決して若い方々ではない。それでも一生懸命になさっている。ここに手抜きができない理由がある。わたしなどは甘い方で、役員の皆さまはほんとうに頑張っておられる。役員でこのブログを見ている方はおられない。それでも書いておきたい。pencil

 午後は充実したときとは言いかねる。休息が長すぎた。やっとPCをあけ、原稿を見る。これは当分は続くわけでいちいち記すまでもないのだが。身が入らずプレミアムシネマを点けると、いきなり銃で撃たれる場面。すぐに消した。流血は見たくない。ニュースでは、いつも地球のどこかで喧嘩をしている。ついに核実験(?)までが足並みをそろえた。
 夕方主人の用事に同行しついでに野菜を一通り買い込んで帰宅。それこそ雑煮を食べたくなったが、冷蔵庫の掃除のために肉系となった。ふだんはできるだけ青魚を摂るように心がけている。庭仕事がしたい。はやく春になるといい。pencil

 

 

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あれこれ

 さてきょうはどのような1日だったかと思い出そうとするが、もう目が、頭が半分眠っている。8時まえだから、昔なら子どもたちをベッドに行かせようとしていた時間だ。子どもの眠る時間に自分が眠くなっている。

 きょうは音楽とはまったく関係のない読書で過ごした。冷蔵庫に残された食材で3食を賄う。肉系となる。サラダをたくさん作った。

 きょう午前に来てくださった方からお伺いしたのは、花の健康維持についてだった。この方がペットに関して話すときには、この方のペットは幸せだと思い、この方が花のはなしをなさるときには、この方に世話を受ける花は幸せと思うほどに、生き物、植物の世話を細やかにしておられる。わたしが世話をしてきた花たちがどうかは、花たちにまだ直接訊いてはいない。

 午後に来て下さった方と話しながら、これまで自分のあれこれをけっこう長々と話していたことに気付き、果たしてわたしのあれこれがこの方にとって興味があり楽しいことだろうかと自問。これからは、自分のことは引っ込めて、むしろこの方の話して下さることを中心にしようと決めた。それならば、ここにあるひと時をすこしでも楽しんでいただくことができるのではないかと思いいたる。

 

  

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しごと始め

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 地域関連の役目がことしの仕事始めとなった。午前中で収まったことでひと息。守秘義務があることから詳しく記すことは許されないが、この役目でさまざまなケースに直面し、世の中というものを教えられている。根本的な変革のためにお役に立てる力が自分にはなく、専ら使い走り程度が関の山である。最後まで残るのは、生きるという大仕事を全うすることであるようだ。
 昼頃には雨。正月に雨? それが午後3時ごろには見ているあいだに雨が雪に変わっていった。
 息子たちもそれぞれの勤務地へともどっていった。

 

 

 

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日曜日のおはなし「幸いな生涯」

 先週の教会のメッセージをおつたえします。この日は、1年間の報告と、聖餐式がもたれました。2015年の締めくくりの礼拝でした。

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聖書引証 詩篇84:1~12

1万軍の主 。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。

2 私のたましいは、主の大庭を恋い慕って 絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。

3 雀 さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣 、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。

4 なんと幸いなこと でしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。セラ

5 なんと幸いなこと でしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路 のある人は。

6 彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所 とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。

7 彼らは、力から力 へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。

8 万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神 よ。耳を傾けてください。セラ

9 神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者 の顔に目を注いでください。

10 まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕 に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。

11 まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。

12 万軍の主よ。なんと幸いなこと でしょう。あなたに信頼するその人は。

 

≪國光勝美牧師のおはなし≫

三つのポイントがあげられました。

①「4 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。」

「あなたの家に住む」というのは、旅に出るなどしてどこかの家に泊るのとは違います。私たちはそのような在り方、この1年間を「あなたの家」、つまり主の家、主のところに住むような恋い慕う想いをもって、それが心から嬉しいという在り様で、教会をそのような場所であらせていただきたいと心から願っています。これほどまでに神の家が慕われる、そのような教会でありたいと願っています。

② 「5 なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。」 

「シオンへの大路」、これはイエス・キリストご自身です。ヨハネ14:6「 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と仰るシオンへの大路であるイエスさまご自身です。主ご自身がわたしたちのすべてであり、キリストの力が私の力である。そういう人は何と幸いなことでしょう。そしてイザヤ書の35章にありますけれども「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。」この大路をしっかりと歩み続ける者であらせていただきましょう。

③ 「12 万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。」

 信頼というのは、そのまじわりの中にあって初めて生じるものです。信頼というのは、信念とも違う。似たような言葉で信心がありますが、それとも違います。キリストを信仰するという場合の「信仰」をいちばん近い言葉に換えるなら「信頼」です。つまり、人格を信頼してこそ、その方にすべてを委ねることができる。信仰はイエスさまをまったく信頼する、そのところから出て来ているのです。その例話として、田部井淳子さんという登山家の体験談があります。谷川岳のくぼんでいる凹状岸壁登攀のときのことです。ベテランはもう越えて先に行っていある。その後を何とか追おうとしています。今いるところはくぼんでおり、上が見えないが上に行かねばならない。上には信頼するパートナーがいる。彼が「君には見えないが、ちゃんと綱ははってある。跳び上がれば必ずその綱を掴むことができるから思い切って跳び出してごらん。大丈夫だ、俺を信じろ、跳びあがれ!」と言っている。信頼があればそれができるでしょう。大きな大きな決断だったといいます。岸壁から自分の体を離して跳び上がる、イエス様に信頼し信仰するとはこういうことなんです。イエス様がさあ、私を信頼してごらん、このように仰ってくださるわけです。

 締めくくりに三つのGということばを神様から励ましのようにいただきました。

11 まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵み栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。

恵 Grace

栄光 Glory

良いもの Good thing

 この三つのGを掲げてこの年を歩ませていただきたいと思います。

 

 

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きょうは比較的ゆっくり

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  ゆっくりできるのは今日までか。3日は民生関係の役目ができた。6,7はこの地域の行事に参加する。8日は定例会。新年が動き出す。club

 けさ息子がパソコンに入れてくれたC.ティーレマン&ウィーンフィルのベートーヴェンがちょうど7番のところだった。9番にはまだまだ。
 それにしてもオーケストラを観ていると、それぞれの弾くすがたに感動する。ステージに上がるまでには、どれほどの練習を積んでいるものか。曲の解釈をそれこそ水面下の深く深くにまで何があるかを探り、思い巡らし、一旦は納得し、しかしやはりそこで妥協することなく探求する。これはすべてに通じることかもしれないが、このようにして楽曲がつくりあげられていることを思いみながら聴くとき、何ともいわれぬ想いになる。そして指揮者の身のこなし手の振りよう、棒の動きが、恰好を付けているだけではないかと思った時期もあったけれども、それはとんでもないことで、内奥から迸りでるものを観、その音の確かさを聴くとき、いかにもと感動、共感するようになった。ティーレマンの指揮もこの曲の咀嚼が霊感とまでなって溢れ出ている。
 コンサートホールで聴くときには、自分が買い取った席の一点が見る事のできる範囲を決めてしまうが、動画では、すべてのパートを隈なくもれなく、縦横から、上下から、近くに遠くにと指使いまで、息つぎまでを映し出してくれる。
 音楽は、わたしの日常に、非日常の世界をくれる至福のときとなっている。music

 午前は墓参り3箇所。さすがに人影はなかった。気温3℃。昼は外でじゃじゃ麺なるものを食べる。マニアックな味に付き合う。午後は休息と原稿の見直し。残す時間帯で説教を起すが、力不足を実感している。spade

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元旦礼拝

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 元旦礼拝に行ってきました。

イザヤ書40章

27 ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。

28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。

29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気 をつける。

30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。

31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲 のように翼をかって 上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 教会のみなさま、クリスマスカードを作成くださったA姉からのお菓子、ありがとうございました! ことしもよろしくお願いします!

        ☆   ☆   ☆

 よく富士見橋の近くに白鳥が来ている。それがことしはまったくすがたが見えなかった。富士見橋近くの「まるせい」さんにお聞きしたところ「橋の工事の騒音が原因ではないか」と。それが「来ています」とのお電話。年末年始で工事がないらしい。やはり。
 忙しくなかなか行けないでいたが、きょう午後すこし遅いかとは思ったが、まだ光がある。急ごう、光あるうちに。
 14羽の白鳥がゆったりと浮かびながら、それぞれに毛繕いをしていた。
 上の橋にもどり、すこし歩いた方がいいと与の字橋まで。

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 与の字橋から左折、旧県立短大校舎の樹木の先端などを写しながら帰宅する。

 「まるせい」さん、ありがとうございました! 

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あけましておめでとうございます!

あけましておめでとうございます!

  ことしも宜しくお願いいたします!

  西暦、年号、ともに1が加算されたことで、節目のご挨拶をさせていただきました。ただきょうは昨日と同じ、きのうは一昨日と同じ、同じ延長という感じがしています。

 きのうは朝早くから原稿を書き、これは出來、不出来は別としていうのですが、これが食事作り時間を除き3時まで。それからは年越しの+αメニュー作りに没頭。3時間で仕上げ、6時食事開始。主人、どこかの本の広告に主人と呼ぶ自体がおかしいと書いてありましたが、ここは主人で通して、主人の一言があり、わたしが2人が帰ってきてくれ一緒に食事ができることがどんなに嬉しいかをつたえて、1年守られたことを感謝し4人で乾杯。主人とわたしがワインをグラスで半分ほど。息子たちはウーロン茶。なぜか家では飲まない息子たち。二男は食事後には出かけて友だちと飲むらしい。長男はやることがあるとノンアルコール。 

 食事を終えて食器洗いをしていると息子が「きょうはオレがやる」。ためらいつつ、ありがたく任せる。洗いながら「来年はどこかから料理をとろうか、作らないでさ」。よほど大変そうにみえたのだろうか。凝ったものを作るならともかく、年末の煮炊きなど大変なうちではない。

 8時半にはまたパソコンに向かった。すこしして平成元年に梅村家の4代に亘る音楽活動が番組制作されたことを思い出し、それも原稿に入れたくなり、念のためにDVDを持ち出して来てPCに入れる。梅村圭一氏がベートーヴェンの『運命』を振った場面などがはいっている。すぐそこでは息子が第九を聴いている。小澤征爾かサイモン・ラトルだろう。聴きながら仕事でもしているらしい。集中していると気にはならないものだ。何行かを書き入れて、いよいよ11時半頃、真夜中ではあるけれども、締切の12月末までを守ったつもりで添付メールで原稿を送信する。400字詰めで120枚ほど。あとひと月の間に加筆、削除があるかもしれない。

 流石にちょっと疲れた。それでも血圧は正常。寛ぎながら、天の知恵ははかりしれないと思う。「わが恵汝に足れり」ということばが浮かんだ。

 そしていま新年のご挨拶をアップします。ことしも完全にはいかないかもしれない、失敗もあるはず。赦されて日々を歩むのみ。土の中ではもう芽がでている球根たち。花咲く春が待ち遠しい。

 新年のご挨拶をしたばかりですが、ただ今から6時頃まで休ませていただきます。

 

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