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きょうのことば『最高の贈り物』

  夜明け前は暗い。夜明け前は寒い。けれども朝は来ている。まもなく日が昇る。感謝します。
 きょうは第二アドベント、クリスマスを待ち望む二週目です。

 

 

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聖書朗読 第一ヨハネ4:7~11

7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

≪先週の國光牧師のおはなし≫

きょうはご降誕に焦点を合わせてみます。

6  キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じように なられたのです。8  キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし 、死にまで従い、実に十字架の死 にまでも従われたのです。(ピリピ2:6~8)

 これは、イエスさまが天の御位を離れて人の子となってくださった事を私たちに教えてくれる非常に大切なところです。是非覚えていただきたいと思います。

 私は1968年11月16日に信仰に導かれました。ですから正確にはその時からクリスマスを迎えたことになります。その頃、学園紛争の只中で学園が封鎖になっおり、郷里の松本でクリスマスと年末年始の間、待機しておりました。いつ卒業試験があるのかわかりません。卒業試験となれば、全国新聞の広告欄に必ず載せるから、いつも新聞は注意して見るようにとの学務課からの連絡がありました。
 しかしどうしても教会に行きたいので、12、1月いっぱい、いちばん寒い時期だったのですが、松本の教会にお養いをいただきました。私にとっては、そこでご指導いただいた先生のお話しはとても印象深いものになりました。その先生が話してくださった例話をいつも思い出します。神様が人となってくださったということは、神様が汚い地面の中を潜っているあのミミズのような姿になってくださったと同じようなことであり、また実際に神様がそのようになってくださったのだという話がとても心に留まりました。
 またこんな話しもしてくださいました。イエスさまが罪人となってくださったという意味がわかりますか、十字架に架かって身代わりとなってくださったという意味が。皆さんは肥溜めから汲んだ肥やしを飲めと差しだされたら飲めますか。極端と思われる質問でした。しかし先生は仰いました。イエスさまはそれを飲みほしてくださったのです。十字架に架かって下さったという事はこういう事なんです。これを何十年たった今も感動と共に思い出します。キリストは栄光の座から、この世に降りて来て下さった。私たちの罪を贖うために、実に十字架の死にまでも従われた、これが降誕の意味です。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(1テモテ1:15)

 「世に来られた」とあります。ということは、この前にすでにイエスさまの存在があったわけです。ある目的を達成するためにこの世に来られた。罪びとを救うためです。パウロは言っています。「この言葉はまことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」。パウロの時代にはまだ聖書はできておりません。当時は、イエスさまの十字架を信じて救われるということは、このことを頷くかどうかということ、つまり、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」というこの事を信じるか否かにかかっていました。アーメン信じます。これがクリスチャンとしてのスタートです。聖霊に感じなければ誰も言う事の出来ない信仰告白の言葉です。イエス様の十字架の、クリスマスのこの意味をそのまま受け入れるかどうか、これがテストでした。あなたはこの言葉を信じますか。はい。これであなたは今救われているのです。聖書がなかった当時は、それがその人たちの信仰の確信だったのです。私たちは聖書を持ってますから、信仰に立つ時に「聖書のおことばを握って信仰に立つんですよ」と教えられますが、それはこういうことなのです。
 次の御言葉を皆さんで読みましょう。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(1テモテ1:15)

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ伝3:16)

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 (第一ヨハネ4:9)

「世に遣わし」ということばがあります。まさに救い主イエス様は、天から降された贈り物であるということであります。

オー・ヘンリーの物語を思い出してください。
 奥さんは、夫の大切にしている懐中時計に金の鎖を付けてあげたいと、自慢のブロンドの髪を売りました。御主人は懐中時計を質屋に入れ、奥さんのブロンドの髪につけてあげたいと髪飾りを買いました。クリスマスになって、何とすれ違ってしまう。彼女のブロンドの髪はなくなっており、金時計もありません。金鎖も髪飾りも無駄になってしまいました。おもしろいことです。すれ違ってしまった。しかしお互いにいちばんすばらしい贈り物をしたのです。それぞれ相手を想っていちばんいいものをよかれと贈ったのです。

 もう一つの例話をしてから聖餐式に入ります。

 これは1980年12月22日にカリフォルニアであった心臓移植の実話です。ある高校生の青年が心臓疾患を発症しました。もし心臓移植しなければ、余命幾ばくもないと告げられます。彼はいつ心臓提供者が現れてもいいようにその病院の近くに住んでいました。しかし、クリスマスも近付き、彼は一旦両親とともに自宅に帰ります。ああ自分にとってこのクリスマスは最後のクリスマスになるのだな、彼はそう思いました。ところが、玄関に着くなり、おばあちゃんが、直ぐに病院に戻るように、心臓の提供者が現れたと言いました。病院に戻るタイムリミットは午後4時30分。車では心臓保存期間に間に合いません。そのとき既におばあちゃんが飛行機を手配をしており、それで、救急車が待ち構えている飛行場に到着。リミット4時半の数分前に病院に着き、手術を受けることが可能となったその時、エゼキエル36章にある「わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」という御言葉が与えられました。彼は、「お母さん、僕はこの心臓の音を聴いて明らかに異常とわかります。でも僕は手術が終わったらこれと違う音になって帰ってくるから」と言いました。免疫拒否反応が出ない処置をしてもらっていよいよ手術にはいっていったというのです。それが12月22日。そして彼が漸く麻酔から覚めて、痛みは感じるけれども、意識が戻ってきたのが12月25日のクリスマスの日でした。忘れられないクリスマスとなったのです。彼が22日、手術に入る時に、いまから手術が始まりますから皆さん祈ってくださいというテレビキャスターの呼びかけがあり、地域のみんなで祈りました。そして無事に25日を迎えてみると、クリスマスのカードが届いています。よく頑張った、クリスマスおめでとう。幾通ものこんなすばらしいカードの中に、心臓提供者の両親からのカードがありました。「親愛なる○○君、私たちはあなたに心臓を提供した者の両親です」。ただこれは、言ってはいけないこと、だから匿名だったのでしょう。「実は私の最愛の息子の心臓があなたに届けられ、あなたを生かしているということがわかったときに、私たちの苦しみは大いに慰められました」。こう書かれてありました。
 どうでしょか、イエスさまは、私たちをいかすために、地上に降ってきてくださいました。私たちを生かすために、自らの死と引き換えに私たちを生かすためにこの世においでくださった。これがクリスマスであることを覚えたいと思います。

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。        (マルコ10章45節)

※案内のはがきは國光夫妻のご息女A姉のデザインです。

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