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2015年11月

彼女は「負けまい」

 朝一番が自分には最も都合のよい時間だと確信。4時半に起きる。聖書をすこし読んでから、今朝はハイドンの交響曲99番を聴いた。というのも、うにさんのブログを見ると、山響が定演で演奏したとある。99番って?となる。すこし原稿を書いて、すこしというのも、書くこと自体よりも、関連音楽を聴いている時間の方がはるかに長いのだ。そしてこれが楽しい。その後6時5分ほど前にTVを点けると、何とハイドンの『時計交響曲』とロンドンの街並みが流れ、ハイドンのロンドン滞在が解説されている。滞在中に12曲の交響曲を創っている。そして、ここにいる間は、聖ジェームズ教会に通っていたという。いまの時代、宗教は、戦争の火種か化石扱いにされてもいるが、音楽を考えていると神に対する敬虔さが生きていた時代の方がよい作品を生み出していると思われる。今朝も、ハイドンの99番に、神様が、ハイドンのロンドン時代を映像で付け足し、楽しませてくださったという気がしてならない。
 それと福田こうへいの『南部牛追い唄』をちょっと聴いたが、彼の言葉のなまりはこれでいいのだろう。ネイティブでいい。民謡の本質に近くあるといえるのではないか。music

 午前中は、昨夕に近所の方が分けてくださったユリの球根やら買い置いたパンジー、ビオラの苗、チューリップ、白い水仙、水色のクロッカスを植えこんだ。もうどこに何を植えたやら、掘ったところから別な花の球根が転がり出はしないかと危ぶみながら土を起しては埋め込んだ。チューリップは植える先から芽が出ている。温暖化の影響か、ヒマヤラユキノシタがいま咲いている。雪に耐えて春いちばんに咲く花がもう咲いているのだ。これからは暑さに強い花を植えなければ、強烈な5月の日差しや夏の暑さには持ちこたえなくなるだろう。木が密集しているので、小さな庭木を1本伐り倒し、立ち枯れを片づけたxmas

 

 午後は、主人がふれあいランド岩手に行くというので同行。主人は水泳だが、私は第23回岩手県障がい文化芸術祭を観に。友人である詩人高田久美子さんの書が、そう詩ではなく書の応募。高田さんの詩はすでに全国的な評価を得ている。それで今回は書道部問への応募なのだ。彼女が書の部門で努力賞に入り展示されている。文字は『至大』、たしかにこの文字の通りの方だ。負けまいという彼女の強い意思を感じた。
 他の方々の一点、一点を鑑賞しながら、作者の創作の喜び、努力、忍耐、集中力、緻密さが伝わってくる。そして、この1点1点に寄せるご家族、ご友人方の熱く温かい想い、喜びが察せられる。
 写真部門で農家の方々が駆け抜けていく列車に手を振っている写真を私はとてもいいと思ったのだが、選外、すこし残念だった。pencil

 

 種々の発送もその後で済ませる。eye

 

 家に戻るなり、立て続く電話。民生関係の地域行事の申込み締切がきょう。だいたい参加される方からは返事が届いているのでひと区切りと思っていたのだが。留守の間にかけて下さった方、電話がつながらないからと夕方玄関先に来てくださった方と、二度手間をおかけしてしまった。telephone

 

 こうして書きだしてみると、一日が無駄ではなかったと思える。大層なことはしていないが、無為に過ごしてはいなかったようだ。
 11月もきょうで終わる。忙しいけれども落ち着いて過ごすことができたひと月だった。不履行になった事もありました。ほんとうに申し訳なく思っています。また至らなかった事も。お赦しください。 

 

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きょうのことば『わたしの民がたくさん』

 きょうはいよいよ第一アドベント、クリスマスまでイエスさまの御降誕を待ち望む週のはじまりです。

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                  街のクリスマスツリー

  先週は、DVDによる世界宣教局報告とメッセージでした。きょうは聖書のおことばだけをご紹介します。

聖書引証 使徒の働き18:1~11

1その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。
2ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、
3自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。
4パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。
5そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。
6しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く。」と言った。
7そして、そこを去って、神を敬うテテオ・ユストという人の家に行った。その家は会堂の隣であった。
8会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。
9ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
10わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。
11そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。

 
 午後からはひろ子牧師が準備してくださった昼食をみなさんといただき、その後、教会の大掃除。教会はこれまたふしぎなところで、みなが大変なところをご自分でやろうとしている。ある姉妹がわたしに「スリッパの底を拭いてくださいますか」と仰る。見たところ、きょうの仕事でいちばん楽なのがスリッパ拭きなのでした。どうやら私もついにいたわられる齢になったのか、それもあるのでしょうが、教会の方々の互いを思い遣るお気持ちには頭が下がりました。

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きょうは大失敗  

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  これは2012年の写真。この方とお付き合いするようになってからはや3年。いまでもたまに散歩をご一緒している。cancer

 今朝は川井村の関連で、you tube 「南部木挽き唄」を聴いていた。北上山地で行われる伐採がどのようなものか。川井村の民俗資料館に展示されている巨大なそま鋸や、丸太を山から下ろす橇などを見ると、その光景が彷彿としてくる。歌詞には半年は山に籠もるとある。いまは人手不足で間伐もままならず山は荒れているが、炭や薪、材木を多く必要とした時代には、山深くに働く人々の姿が動き、人の気配がしていた。山林もまた手入れが行きとどき光がよくとおり、鳥のさえずりが明るかったろう、このような想像は単純な感傷と一笑されるだろうか。働く人々の動きが感じられる民謡は、木立をとおる光のように心をとおる。ついつい外山節や南部牛追い唄、南部俵積み唄まで、繰り返しくりかえし聴いてしまった。民謡は農林水産業に密接であることから、私の中では確固たる位置を占めている。cat

 午前は、地域がらみの印刷の手伝いついでに主人の散歩に付き合う。風は冷たいが日差しは明るく、久方ぶりの青い空に、ナナカマドの真っ赤な実が映えていた。taurus

 午後1時半、「きょう童話会ですよ」。もりおか童話の会の代表である浅沼誠子さんからの電話だった。ジャーン、大変だ!もう30分過ぎている。「行きます、いま行きます」。身づくろいもそこそこに中央公民館に急行。原稿を印刷しているとまた遅くなってしまうので、きょうは原稿なし。ほんとうはいま70枚(400字詰)ほど書いてある1部分を持参するつもりでいたのだ。金曜まで何とかこぎつけ、すっかり肩の力を抜いてしまっていた。まずい、これはまずい。とにかく駆けつけ、皆さまの書いた原稿の読み上げを聞かせていただいた。帰りしな、浅沼さんが羽生結弦を話題になさった。是非見なければ。それが感動だった。322.40という快挙、なかなか興奮がおさまらない。すばらしい演技。そして宮原知子の清々しい勝利。浅田真央には心から応援していた。3位。本人は不本意かもしれないが、私はよく頑張ったと称賛する。aries

  夕方には息子たちに「小さな包み」(たしか千昌夫の「北国の春」の歌詞にあったが)を発送。急いで買い物をし、急いでカードを書き、急いで送り状を書き、何とか今日の最終便に間に合わせる。aquarius

 

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声のふしぎ

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去年の11月10日の写真。いちど載せたかもしれない。

 4時半、オートバイが走っては停まり、またすこし走っては停まり、次第に遠ざかる。各戸への新聞配達がいつから始まったものか。あるブログを見ると、明治の中ごろに新聞社直営の販売店ができ、徐々に今のようなシステムになったようだ。毎朝、たとえ1部でも各戸に配達してくれる、それが今日に至るまで営々と続けられている。2009年の数字であったか、全国で約40万人がこの業務に携わっている。朝4時~6か7時までの間、世間の多くがまだ眠りこけている間に、全国の津々浦々で一斉に40万人(現在はこれより多いのか少ないのか)の人たちが動いているわけだ。club

 起きだして熱い紅茶にする。何か手つかずで、TVオン。バルバラ・フリットリのソプラノだった。フリットリがいうに、わたしは悲しみと相性がいい、わたしは多くの悲しみや苦しみを通ってきた、それが歌に生かされている。たしかにそういうものが昇華された表現の美しさがある。人生辛いことがあっても無駄にはならないのだな、そのように受け取った。
 さまざまな声質がある。あれやこれやと聴いているうちに、いつの間にかドン・ジョバンニのあの終盤の石像の大迫力を聴いていた。あの声でぜんぶを納得してしまう。人の声、特に神から授かった特別な声はふしぎだ。spade

 午後も雨。午前中、家事以外は座ってばかりいたところ、血液の循環が悪くなっている気がしてならない。雨の中を無目的に歩くのもはばかられる。そこで思い出したのが岩手県高等学校文化祭の美術工芸展。散歩にはちょうどいい距離だ。そして、これがすばらしかった。お孫さんが出品なさっているという方が話しかけてくださったが、「スマホばかり見ていると思ってたら、こんな立派なのを描いてたのね」としきりに感心してらした。まったく同感だった。「特賞」と添付された作品のうち5、6点は印象深いものだった。高校生の力はすごい。やたらに絵を描きたがっている自分だが、展示されてあるどれにも届きそうにはない。diamond

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無題

 北海道、積雪に嵌るクルマに、いよいよ、と。きょうはここにも降るだろうと思っていたが、ぱらつく雨はまだ雪に変わってはいない。
 午前には、介護施設を経営している方の講演があった。どこまで書くことが許されるのか分からないが。そこでは利用者の心の内側をより理解した対応が為され、また介護施設というものの社会的な位置づけを向上させようと様々な試みが為されている。感銘を受けた。
 考える人は考えるものだ。従来に追随しているばかりではない。これまでにない新たな発想がある。この発想は、命あるものの個性に則ろうとする冷静な洞察から出ていると思わせられた。自分のしている事のあれやこれやにも応用が利くだろう。

 午後は、居間にコタツを設置。これで冬と戦うのか、冬から逃避するのか。共存共栄、冬にも元気にしてもらい、こちらも生きながらえる。

 自分が読んでわかるというだけの記録になってしまった。spade 

 ブログを開けたときには、「主は葡萄の樹」、「偉大なマエストロにすら御し難いグレン・グールド」、「息子よ、寒くなるね」等々のタイトルが浮かんだけれども、もう22時過ぎ、これまでに。


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こんな日そんな日

 ふと亡くなった実家の母を思い出していた。目の前のコルクボードには、母の写真をいまだにピンで留めてある。丸太を彫りあげた大きな狐を背後に座っている。小岩井で撮ったものだ。いまは無い実家の電話番号。押してみようか、もし通じたら、そこからは怪奇小説かSFの世界になる。おもしろいと思うものの、そこから先が出て来ない。あの世との溝は思いのほか大きいようだ。

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 朝5時起床。近頃は6時起きになっていたが。午前はすこし遅れて祈り会。クリスマスが近い。自分をすこしでもまともに立たせてくれるのは、やはりこの目には見えないが存在し、自分の機微にその力を及ぼし得る神という存在であると得心している。でなければ先ほどのTVの環境問題も戦争ニュースもとても怖くて見られたものではない。
 午後は専ら電話の応対と雑務。こんな日もありそんな日もある。

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やっと書類1枚作成

 朝のコーヒー、ほっとするひと時。買ってきてくれた息子に感謝!heart 

 連休前から、書類1枚を作成しなければならなかった。なぜかこれに手につかない。10分でできる事を、連休明けまで延ばしてしまい、もう今日が限界だとなってから、この午後にやっと作成。連休中でも出来たはずなのだ。現に他の事はそれもこれもやっている。時としてこんなことがある。一旦とりかかってさえしまえば、あとは配布まで苦もなく終えてしまうのだが。分かっていて動作に移れないという事がある。配布して歩くときに、眩しい日が差してきた事が理屈抜きに嬉しかった。club

 きのうは盛岡に初雪。きょうは灯油の配達を頼んだ。タンクとポリ缶にひと冬利用の半分量を備蓄。八幡平から教会に来ている方が、毎年気温を記録しているそうだが、ことしの今時期は、去年よりも3℃高いと仰っていた。確かにあたたかい。午前中は外回りを片づける。明日は最低0℃と出ている。ベルケアが凛として薄紫の花を4輪咲かせている。新たについた蕾は咲くだろうか。spade

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活字は明日から

  はや21時過ぎ。こんな時間にコーヒーが飲みたくなったけれども、ここはがまん。
息子は昨日友だちの結婚式があり、夕べも遅くに帰宅。今朝10時ごろには自分の生活圏に戻っていった。買ってきてくれたコーヒーの開封は明日にしよう。

 結婚式と聞けば、おかしなことだけれども、離婚しなければいいが、と心のどこかで呟いている。ずいぶん「ひとり親」の家庭が増えている。『アメリカの高校生』は、高校教員(日本人)の立場から書かれているが、離婚がどんなに子どもに悲しみ苦しみ戸惑いをもたらすか、そして人間関係を複雑にしてしまうかを教えている。親の離婚に絞って書かれているわけではなく、高校生のすがたをありのままに綴っているのだけれども。夫婦間には、それぞれに多様な状況があり、それに関しては私などコメントできる立場でも資格者でもないけれども、何れ離婚が子どもに及ぼす影響は、多くの場合、好ましいものではないと著者は語っている。
 ただ、ひとり親の方が、責任ある子育てに全力を尽くしておられる尊敬できる例も私は存じ上げているわけで、ここでは個人攻撃などは念頭にはない。今月目にした著書から、ああそうだったかと思い出し、それを書き留めている。

 先週一週間、自分がどのように過ごしたかを書き留め、それをきょう振り返ってみると、ゆっくりと自分の趣味を楽しめるのは7日のうち1日であることがわかった。6日は日々気ぜわしく過ぎている。もしかすれば、この6日の方がまともな生き方であるのかもしれない。自分にとって都合のよい事、楽しい事が、良い生き方であるとは限らないからだ。そして楽な日々が、意義のある生き方であるかどうかも疑問だ。休日も返上で仕事に当たっておられる方々の方が、よほど意味のある生き方である場合があるだろう。

 きょうは比較的ゆったり。『小沢征爾さんと、おんがくについて話をする』小澤征爾×村上春樹、こんな本が出ていた。2011年刊。主人が図書館から借りてきたもの。目次をみると、やたらにベートーヴェンのピアノ協奏曲3番が目に入る。ああ、あれか、しかししっかり聴いた記憶がない。それで3番を聴いたのが4番もとなり、いつもの連鎖で終わってしまった。明日から活字を追う事に。

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きょうのことば『聖書は神のことば』

 先週は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)に訪問客がありました。日本国際ギデオン協会盛岡支部の方です。聖書普及のためにアッピールがありました。
 教会の皆さまにとっても喜ばしい出来事は、國光牧師夫妻に、待望のお孫さまが生まれました。未来に向かって順調に育っておられます。

開いている聖書

聖書引証 第二テモテ3:14~17
14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、15 また、幼いころ から聖書に親しんで来た ことを知っているからです。聖書は あなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。16 
聖書はすべて、神の霊感 によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。17 それは、神の人が 、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

≪國光勝美牧師の説教の概要≫

 聖書はイエス・キリストへの信仰を教えています。聖書は心の糧です。

第二テモテ4章1節からをご覧ください。
1 神の御前で 、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても 悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
3 というのは、人々が健全な教え に耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

 これが今の世の中の特色です。価値観が相対化し、絶対的権威というものを否定する価値観です。勿論ある時代には、教会が絶対的な権威を持った暗黒の時代もありました。さまざまな過程を経て今に至っているのですが、しかし、明らかに今の時代は、ひとそれぞれに絶対的な価値観を否定する。

 第二テモテ4:1は厳粛です。「おごそかに命じます」とあります。これは絶対的な権威をもって「みことばを宣べつたえなさい」とある。3節に「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になる」
。まさに今の時代がそれです。

パウロは4章に「おごそかに命じます」「みことばを宣べつたえなさい」と言っています。絶対的な権威をもち、これこそ絶対的な基盤であるところの聖書を、この時代が相対的な価値観が支配している中に、これだけ、これこそ、聖書の言っていることだけがほんとうの確かなものであるという事を私たちは恐れずに主張して行く責任を負わしめられている。その意味において、それを失ったのならば、もはや地の塩ではあり得ない。もはや世の光とはなり得ない。それほどに、私たちはこの時代に、絶対的な権威を持っている聖書を掲げる責任、使命を神様から与えられている輩であると、自らを捉えなければならないと思います。

 聖書が絶対的な権威を持っている蔦田二雄先生の論証があります。

「一番目に、もし聖書の権威が否定されたとするなら、その瞬間に、教会は語るべきメッセージを失ってしまう。二番目に、世界と宇宙に関して語るメッセージを失ってしまう。人間とその起源について、その目的と義務について、メッセージを失って
しまう。我々が永遠性のある魂を持っているか否かについても、メッセージを失ってしまう。罪についてもそうである。裁きについても、呪いについてもそうである。イエス・キリストによる謝罪と、罪の赦しと、我等の救いについてメッセージを失ってしまう。イエス・キリストについて、聖霊について、死について、裁きについて、永遠について、人間の歴史とその終末について、もし聖書が神のことばでないとすれば、教会はその瞬間、語るべきメッセージを失ってしまう事になる」

 岩の上に家を建てるということです。このところ、岩盤に杭がしっかりと打たれているかどうかという建築上の問題が出ております。

 「聖書新改訳2017」が、2017年の秋に刊行となります。第二テモテ3:17の「聖書はすべて、神の霊感 によるもの」、これが土台となっております。聖書の奇跡もユダヤ民族の宗教的な文化遺産や神話としてではなく、聖書は誤りのない神のことばとする立場で翻訳されております。

※聖書刊行の歴史が詳しく説明されましたが、割愛させていただきました。

 

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七宝ジュエリー展

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祝 第28回世界七宝ジュエリーコンテスト優秀賞
この案内状にある作品が受賞作品です。

  ☆  ☆  ☆

 きょうは息子が帰ってくるということで、掃除や障子はり等など。家事をしながらカラヤンのブランデンブルグ1~6番、繰り返し聴いていたが、きれいだけれどもちょっと甘いところもあるという感じがした。長い間マルティン・シュタットフェルトを聴いていて、久方ぶりに聴いてみるとそんな感じだった。書きながら聴くということはできないけれども、ガラス拭きや障子はりとなら相性は悪くない。

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ゴルゴダ

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10/26早朝

 あの雲を撮りたい、しかしあの電線が入ってしまう。位置を変えてもどうしても入ってしまう。仕方がない、どう出るかとにかくシャッターを切ってみよう。そんな一枚。ああだこうだと騒ぐまでもないこんな一枚。

  ☆  ☆  ☆

 午前は書類作成上の訪問の方おふたりが見える。
 その後、家の中が散らかっているのを見かねて整理整頓。
 近くの某所まで11月20日までに届ける書類あり。散歩をかねて。
きょうは、この足で買い物を済ませ、ゆっくりしたほうがいいと歩いていたところに、路上で高校時代の恩師と出会う。女生徒憧れの女教師だった。しばらく立ち話をする。五行歌を創作しているという。その傍ら終活をしておられるとか。思えば過ぎ去ってしまったかの年月だが、ふと、過ぎ去った一瞬一瞬の画像はそのままどこかに格納されているのでは、無くなってはいない、そんな気がした。何一つ無くなってはいない。終活とやらで、処分しようとも、焼き捨てようとも、何一つ無くなるものはない。常識には矛盾しているけれども。
 恩師が仰るに、100万だった帯や着物も売れば1万か2万。ひと財産傾けた書籍も数100円だったり引きとって貰えなかったり。
 何れ身軽がいいのだろう。

 コーヒーやら食材を買ってから家に帰ると手紙が来ていた。18日であったか、電話で詩人佐伯郁郎のことで、人首文庫のことやら自分の恩師であったことやらを聞かせてくださった方からだ。彼女もまた詩や随筆を書かれる。
 夕方までゆっくりと過ごし、夜に息子に電話をしてみる。明日夜に所用の為に帰省予定。

 ここのところずっと、ゴルゴダ、舟越保武のゴルゴダが浮かんでいる。



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やぶれ障子

 いつもケーブルで写真を取り込んでいたが不具合に。電気店の診断は「出力の低下」。買い替えた方がいい。見ると一眼レフが個別に展示されている。こんなカメラを手にしたら、家にじっとしてはいられなくなるだろう。しかしここまでは必要ないと、身の丈にあったグループへ。一通り見て、まあ2万かな。もしかすればネットのほうがいいかもと見合わせて店を出る。

 そんなわけで、だいぶ前に撮った写真をアップ。


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 これは近くにある詩人村上昭夫が住んでいた家の前にある辛夷。いまはだいぶ伐られてしまっている。動物哀歌を創作した村上昭夫の心情が以前よりはわかるようになった。戦争、満州での敗戦時の過酷な体験と病がなければ、あのような詩は生まれなかったのではないか。一口に戦争体験といってもその内容は数々ある。詳しくは石桜同窓会HPへ。

  ☆  ☆  ☆

 きょうは午前中障子を張り替えるために紙をはがしきれいに拭く。夏のうちにやっておくのだった。玄関にいらした近所の方も同じことを仰った。今ごろに見かねて半ば発作的に始めてしまった。
 午後はこの地域のいきいきサロン。協力くださる方々のお力で成り立っている。終了後、次回の相談をしながら、有難いことだと皆さまの協力に感謝の気持ちがわいた。


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何と題をつけたものか

 

朝5時には郵便受けに新聞が入る。しかし今朝はまだだった。遅いというのではなく、いったいどうしたのかしら、配達の方が風邪でもひいたのかしらと思うだけの事。それほど寒くもなく、爽やかな風もあり散策には最適だったが、午後に歩く機会はあるとウォーキングは無しに。
 午前は祈り会。その前に用事のいくつかを片づける。午後は近くのセンターで、誰でもが気軽に参加できる合唱があった。ことしこそ行ってみようと思っていたが、やはり忙しく行きかねた。18時からは、同じセンターで、臨床心理士の講義があった。早めに出て歩いて行くつもりだった。それが18時少し前に気がかりな事が地域にあり、そちらが無事であることを確かめてから駆けつけることに。遅れたために自転車で急行。講義はゲートキーパーとして対面する時に、話を聞いたり引き出したりするコツについて。岩手県がついに全国で自殺者最多。平成25年の統計だが、女性の自殺者97人、男性の自殺者243人。合わせて340人が自殺。高齢の方々の場合には、女性は悩みがあった場合、誘いあって外に出るなりお茶のみなどで憂さを晴らすこともあるようだ。しかし、男性の一人暮らしの方は、一日家に籠もっている方が少なくないように見受けられる。ほんとうは男性の方々が積極的に民生委員などを引き受けられ、籠もっている方々のために活動してくださればと思いもするのだが。
 講義中にいつの間にか居眠り、失礼をしてしまった。
 話し方、聴き方を習っただけでは、役に立つこともあるかもしれないが、しかし、実際に向き合ったときには、病気、経済問題が絡んでいる事が多く、そう簡単に解決とはならない。周囲の人たちも、無関心であることや、関わらない方がいい、関わりたくないというあり方が多いようだ。相談窓口は設けられているけれども。

 雨がふっている。あすは天気予報はどうだったか、球根や苗は植えられるだろうか。間もなく23時。
 

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新しい命

 午前、ある方が教えてくださった事には、最近この近所に二人の赤ちゃんが生まれたという。この人類に新しい命が二人も誕生していたとは! こんな言い方は大袈裟だろうか、大袈裟ではないだろう。
 めまいのするような事件が立て続けに起きている。一つの事件が落着しない間に次が起きる。今回は難民問題に同時テロが重なった。多くの命が日常的な危機に曝され、いともあっさり命が奪われてゆく。
 どこで何が起きようともさほど距離感のない今、首都圏から遠く離れた地方にいようとも、常に危機と隣り合わせに生きている。
 そんなときに、新しい命が生まれ守られている。明るいニュースだ。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 きょうは何をしていたろう。
一応机には向かっているけれども、内容がいいのか悪いのか判定し難い。書く時間よりも、紙を捲っている時間が長い。このことに価値があるのかないのかも判然としない。ただ、こうしていることが楽しい。カラヤンが嫌いな方もあるだろうが、カラヤンの美意識、この美というものの持つ矛盾をいつも思うのだけれども。カラヤンの人物像はさておき、演奏は音楽上の価値がないとは思わない。カラヤンを数行書き入れる関係で読んでいるうちに彼が衝撃を受けたオペラ「エレクトラ」が気になり、ついつい聴いてしまった。そして、またまた聴いたバッハの無伴奏組曲。聴くごとにいよいよ底が無いと感じられてくるのだ。朝いちばんに聴いたのはベートーヴェンの弦楽三重奏ニ長調作品8。モーツァルト・トリオの盤を、往時の盛岡のトリオを想像しながら聴いている。
 それでも、地域の為の買い物、食事作り、散歩1時間半。植えなければならない球根や苗も10株。
 そうビートルズも少しは関係があった。ジョンが自分はキリストよりも人気があると洩らした結果がどうなったかはどこぞのブログに事細かに書かれていましたっけ。

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松見ヴァイオリン教室訪問

  これは一昨年の11月下旬に撮ったもの。間もなく雪がふる。朝5時にはだいぶ気温が低くなる。ちょうど日の出前にきゅっと冷え込む瞬間がある。これに巧くつきあうと漸々ほのかに朝がやってくるのだ。こんなひと冬をまた越えなければならない。

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 松見ヴァイオリン教室45周年記念演奏会、これが上京と重なり行きかねたことが残念だった。それでというわけではないけれども、きょうの午前中、松見先生の教室に伺い、さまざま教えていただいた。ご近所でもあり、日頃絶え間なくお子さんたちがレッスンに通うすがたを目にしている。驚いたことには、その昔、1960年代ということになるが、小柳達男先生が仙台からきたときには、松見先生方のところに泊っていたという。松見先生方は双子の姉妹、そしてご両親も健在であった時のこと。楽しいエピソードもお聞き出来た。村井先生、内藤裕一さんも来ていたようだ。様々な室内楽を楽しんでる。松見先生方も一緒に演奏している。
 滅多に音楽関係者を訪問することはない。ほとんど電話での取材なのだが、今回はご近所でもあり、日頃存じ上げてもいるのでお邪魔した次第。大変意義深い2時間となった。

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きょうのことば

 先週の日曜、11月8日は教会を欠席。この日のメッセージをデータ便で送っていただき聴くことができました。

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聖書引証 第一列王19章

1 アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。2 すると、イゼベル は使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。3 彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、4 自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。7 それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。8 4 彼はそこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ごした。そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。9すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と仰せられた。10 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風 が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな 細い声があった。13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」14 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」15 主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。16 また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。17 ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す。18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」19 エリヤはそこを立って行って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎて自分の外套を彼に掛けたので、20 エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」21 エリシャは引き返して来て、一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそれを食べさせた。それから、彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた。

 

≪國光勝美牧師の説教≫

 エリヤもまた旧約聖書を代表する預言者です。イスラエルで、当時、イゼベルに推奨されるバアルという偶像に仕える預言者が増えてしまい、人々はすっかり堕落してしまいました。これに、まことの神に仕えるエリヤが挑戦状を叩きつけます「バアルがほんとうの神だというのか、それとも数は少ないが先祖の神である主がまことの神であるのか」。エリヤはここでまことの神を信じる預言者としての立場を確立したのです。エリヤが充足感に満ち足りていたときに、イゼベルがエリヤを亡きものにしようとします。エリヤは逃げ出しました。追跡から逃れひとり旅をし、極限の空腹、疲労に見舞われたときに神の声を聞いたというのが今日のおはなしです。

  

 第一列王19:4にはエリヤの失望落胆が、19:5、6節には神は食事を準備してくださった事が出ています。そして9節で、神の山ホレブの穴に入って一夜を過ごし時に、彼は「ここで何をしているのか」という声を聞いたのです。大きな事を越えて一区切りした時の危機。大きなことを成し遂げた時などは心に隙ができます。このような時に、彼は「ここで何をしているのか」という声を聞いたのです。彼は「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」と答えている。すると主は「山の上に立ちなさい」。彼はそこで起こった11,12節にあるようなさまざまな現象を目にします。彼がほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか」。またしてもの問いかけに、私は万軍の主に仕えた。しかし私の命は風前のともしびであるとまたも同じ答えをしています。

  

 一週間前、東京の雪ヶ谷にある伝道所が老朽化し解体されることになり、片づけるために行ってきました。ここで國光幾代子先生が長らく伝道してこられました。ひと区切りつけて盛岡に帰ってまいりましたところで、幾代子先生からお電話があり、ご苦労様でしたという感謝のことばとともに、このようなおはなしを伺いました。

 

「あそこは私の生涯の証しの塚でした。色々な思い出が過ります。あるとき、四国で伝道しておられる婦人牧師に招かれてご奉仕に行き、真っ暗な雪ヶ谷伝道所に帰ってきました。お帰りなさいと迎えてくれる者はなく、ひっそりとしたところに、たった一人です。そのとき、心の中に、あなたはここで何をしているのか、そんな想いになりました。神様からの問いかけなのだと真っ先に思いました。しかしそればかりではない、あなたはここでこんなことで一生を終るのか、これがあなたのしてきた一生の結果なのか、こんな否定的な考えがふっとやってきたのです。おかえりなさいと温かくご飯を用意してくれる者もなく、疲れた体を暗い伝道所に置いた時に、ふうっと寒くなるような寂しい想いがしました。あなたはここで生涯を費やして何をしているのかという思いが来たのです。それはほんの一瞬でした。そのとき、誰も居ない真っ暗な伝道所の中に入って行って、その声を留めながら祈りました。主よ、私は人々にイエス・キリストの貌(かたち)を刻む彫刻史の働きをしております。そう神様に申し上げました。あれは私の一つの転機でした」

 

皆さんはこれをどのように理解しますか。わたしはこれをだんだん理解できるようになりました。「 あなたはここで何をしているのか」という問いかけ、それは心の中に寂しさを与えるいわばサタンからの声であり、また神様からの声でもある。そのように理解した時に、たとえば、皆さんがパウロというあの偉大な人物が獄中において人々をさとし、励ますために多くの手紙を書いていましたが、それを見ますと何の弱さも持っていない、もう、これぞ信仰の偉人というパウロ像を選んでしまうでしょう。しかし、さきほどの幾代子先生の証しを想い起すときに、獄中に捕えられたパウロに去来する様々な想いの一端がわかってきます。私はどんな困難も厭わずにガラテヤに行き、アンテオケ、エルサレム、この地中海世界を福音を携えて回ったのだ。この自分がいまこのように捕えられ獄中にある。そのときに恐らくは「おまえはいったいここで何をしているのか」という問いかけがあったでしょう。その時、毅然として、これを神様からの問いかけとしてしっかり受け留め「はい私はいま、あなた方のうちにいますキリスト、栄光の望みの事を伝えているのです」、コロサイ書1:27にもありますが「この奥義とはあなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです」とお答え申し上げる。獄中のパウロの数々の働きは、「あなたはいったいここで何をしているのか」という悪魔のささやきを神様からの声として受け留めて、信仰に立った応答をするという営みが為されされてきた結果なのではないかと思われます。

 

 そしてさらにそれを敷衍して、蔦田二雄という人物のことも、偉大な現代のパウロのような時代の器として考えますけれども、私は、捕えられ、獄中にあって「神われらとともにいます」という奥義に達するまでには、悪魔の試みを受けた事でしょう。 いったいあなたはこれまで何をしていたんだ。あなたのこれまでの働きはどうなってるんだ。リバイバルリーグは、いまどうなってる?ホーリネス教会はどうだ、分かれて無様な新聞記事にまでなっただろう、いったいあなたは何してるんだ、と熾烈な悪魔の誘惑があったに違いない。それはちょうどイエス様が荒野において、さまざまな誘惑を受けたと同じようにみんな誘惑を受けるのです。私たちの信仰生涯と同じだと思うのです。悪魔は自分は悪魔だよといって声をかけてはきません。一見敬虔そうです。決して悪魔はそれとわかるようには持って来ずし、あなたはいったいここで何してるんだ。何も無いんだろう。悪魔のいうそれもこれもをどう受け留めるのかです。エリヤはどう答えていますか。9節を見ると、私は神様に一生懸命に仕えたんです。だけど、あなたの民イスラエルの人々はあなたの預言者を剣で殺してそして私をも殺そうとしているんです。ただ私だけ残っているんです。神様のさらなる取扱いに対しても同じく答えています。

 「あなたは、どこにいるのか」、これは創世記の3:9、エデンの園で、人が罪を犯し隠れていたときに、神様が問われたおことばです。これに対してどのようにお答えしますか。アダムはどうだったでしょう。責任転嫁、自己弁護の答えです。これが人間の赤裸々なすがたです。

 

 私はこの朝、皆様方にこのことを考えていただきたい。「あなたは、どこにいるのか」「あなたはいったいここで何をしているのか」。この神様の問いかけに、摂理的にこの教会に加わった者としてあなたはどう答えますか? 
 責任転嫁、自己弁護、自己憐憫、自己卑下の発言をするのですか?
今一度自分に問いましょう。そしていまいちど自分の責任と使命を想い起しましょう。この問いかけに、パウロも蔦田も幾代子師も、使命を全うする覚悟をしました。

 

  

  

 

 

 

 


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 カメラの不具合で写真の取り込みができず、溜めこんである中から登場してもらう。わが家の“家族”ではないにしても関係なくはないコーギー犬。

 上京してからもうひと月も経ったような感覚が。時間がまたたく間に後ろへと駆け去っていく。きょうは自分のことではない事で時間を費やした。自分のことではないと思いこんでいても、実は自分のためであるのかもしれないが。

 雨が降っている。

 パリにテロ多発。テロを撲滅するという正義を冠するテロ。大義名分を掲げる戦争というテロ。連綿とつづく殺戮。

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「北の文学」第71号刊行

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 今回自分の作品は載っていませんが、文芸誌「天気図」を率いる立川ゆかりさんが、グラフ文学散歩で三好京三を執筆。その他、中央文壇を目指す作家の方々の寄稿小説、また今号に入選された方々の作品が載っています。

 三好先生は、私が北の文学賞をいただいた時の選考委員のお一人でした。当時の選考委員は、三好先生と吉川英治文学賞の須地徳平先生、そしてSF作家の光瀬龍先生。立川さんは、このうちお二人、光瀬先生と三好先生の評伝を手掛けられました。
 集まりがあると、私には、強面の光瀬先生、紳士的な須地先生、おおらかな三好先生と見えていましたが、立川さんの評伝で、どの先生も人間味豊かであり、後進の為にはいつでも門戸を開いていてくださったことを知りました。当時の合評会などを遠い日のように懐かしく思い出します。

 いまは文学文学とカリカリした気分はなくなりました。いまはちょっとの時間に気ままに文章を書いたり、関係のある音楽を聴いたりしているときが楽しいというそれだけのことに尽きています。それも、締切が迫らないとなかなかやりません。ただ、こういう楽しい趣味を預けてくれた天に感謝しています。

 

  巻末に「自作を世に問う気概を忘れるな」とありました。どうもかなり忘れているようですが、PCに向かうときにまた思い出すことができればと思います。

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あしたがあるさ

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  朝方すこし頭痛がしたが朝食前には回復。午前は日用雑貨を買いに。午後になって疲れが出たのか思うところをなかなか行動に移せずにいた。読みさしの本を開くなどして過ごしたが、早い目に夕食を作ろうかと4時には開始。はやく作り、はやく食事を終わらせ、時間を長く作ろうとしたがそう計算通りにはいかない。こういうときは、「あしたがあるさ」。

 ベルケアがきれいに咲いている。

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ともだちの絵画6点

 きのう家周りを片づけほっとしたところで、友だちの絵画展があと2時間で閉幕と気付き出かける。途中、まるせいさんにご挨拶し、それでも会場には十分に間に合った。

 先ずは大信田時子さんの絵画4点。毎日お忙しい方なのだが、このように落ち着いた女性の雰囲気を描かれる。風景画は若い頃に描かれたのだとか。好きな一点である。

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 次に佐藤由紀子さんの作品2点。この方々が所属している展覧会があるたびに、佐藤さんの作品を拝見してきている。この絵の持つ温かさ優しさに惹かれる。

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 きのうは天気もよく、会場には大勢の方々が見えていた。

      ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 きょうは、ついにたまりかねて家の外回りを整理。道路にはみ出し立ち枯れている草花を始末。午前にお祈り会に顔を出した他は、この作業に没頭。花壇もすこし整理。掃いても掃いても溜まってしまう枯葉。林の中ならば、それが自然で通るのだけれども。

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上京 2

他人がどこでどう過ごそうが、それを知ることにはまったく興味がない、知ってどうなる、関係ないという方々もいらっしゃるかと思う。近頃は書き留めておかなければ忘れてしまいそうで、自分の備忘録として書き置いている。書きつけられるならどこでもいい。自分が取り出しやすいところにためこんでおいている。

 上京2日目は甥の結婚式。個人情報の厳しい昨今、真っ向からの写真も載せられず、誰が出席しているかも判別がつかないという写真を探し出しアップ。小さい頃からの甥を知り、また社会人となってからは息子たちもさまざまな影響を受けた甥の門出、こみあげるものがある。ふたりに喧嘩や意見の食い違いはあるだろうが、乗り越えてきっと幸せになれるはず。

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 なかなか楽しかったのは、新郎の友人であったか、コーヒー旅芸人某氏のサービス。先ずは、新郎新婦の性格、人柄に合わせたコーヒーをブレンド。右手にトランペットを持ち、結婚行進曲やコーヒールンバ等数曲を間断なく奏でながら左手で芳しいコーヒーを淹れ、会場の皆さまにワイングラスで提供するというもの。感心したのは、コーヒーを淹れながらの演奏にも関わらず音程も狂わず不自然な休符がまったく無かったこと。後で聞いたことには玄人はだしのミュージシャンでもいらっしゃるのだとか。

 2日目も姉のところに泊まり、三日目は疲れを考慮しホテルの方に宿泊していたいまひとりの姉と合流、長男の案内で過ごし、この姉と一緒の新幹線で無事帰着。 どこでどんなものを見、どんなものを食べたか、それも楽しいことではあるけれども、それよりも何よりも、一つのことに当たっての皆さまの温かい心遣い、そして自分の血脈そしてその家族たちの傍近くにあって歓談できた楽しさ嬉しさが心を過る。更に気の効いた方々は、周辺に足を延ばすなりするのでしょうが、もうこれで十分。
  今回主人は外せない所用があり上京できなかったけれども、これを読んで貰えると様子の断片は分かるはず。

 


追加写真アップ。姉の書『千金一笑』。

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上京 1

 8日(日)にある甥の結婚式に出席のため、先週の土曜日、昼頃着の新幹線で上京。八重洲口に息子たちが出迎えてくれる。近くで軽く昼食を摂り、東京カテドラル関口教会聖マリア大聖堂を訪れる。これは丹下健三の建築物でもあるということで息子たちの提案。

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 次なる行き先はタワーレコード。これは私の希望。その昔、村井正一が小柳達男、内藤裕一と弦楽三重奏を組んでいたが、その時に時間をかけて取り組んだ曲がベートーヴェンの「弦楽三重奏のためのセレナードニ長調作品8」。よほどのことがない限り楽譜までは買わない。どうも第5樂章まであるらしいが、どこか釈然としない。アマゾンでもこれだと思われる盤はなし。タワーレコードならと。それで正解だった。

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 某資料には、「第4楽章のアレグロ・アッラ・ボラッカ」とあったが、このディスクで、正しくは「第5楽章のアレグロ・アッラ・ボラッカ」であることがわかる。そしてこの曲は第7楽章まであることもわかった。

 タワーレコードのクラッシック階に入り探しているうちに、ディスクにしては重厚な音色だと音のする一群に近付いてみると、チェロの生演奏だった。水野由紀。ブルッフの「コル・ニドライ」と「アヴェマリア」。ブルッフはプロテスタント。思わぬチェロ演奏、これも幸運だった。

 6階に下りてロック、ラップを
試聴。近付いてきた二男に「推薦盤は何?」と訊くと

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 さっそく試聴したところ、なかなかいい。これも手に入れる。

 代々木経由で恵比寿にあるうどん屋へと案内する息子たち。

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 吉祥寺まで送られ、そこから各駅停車で宿泊予定の姉一家のところに。夕食は済ませてから行きますと知らせておいたのだが、着いてみると夕餉の支度は始まったばかりで、1時間後には夕食の第2ステージとなった。

 会いに来てくれた姪の子どもたち。

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きょうのことば『天の故郷を思う』

 先週は召天者記念礼拝が持たれました。天国はあると信じるに値する、私はそう思います。

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聖書引証聖句 ピリピ書3:20

けれども、私たちの国籍 は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

 
先に天に帰られた21人のご遺影を拝見しながら故人を偲びました。

≪國光勝美牧師のおはなし≫

 私たちの故郷はどこでしょうか。私の故郷は、3歳までは諏訪湖でした。物心ついてからは松本です。高校まで居りましたが、20年に満たない年月です。盛岡はもう42年、こちらの方が長くなってしましました。それでも故郷は松本。岩手の人たちが岩手山を懐かしむように、私は常念岳を懐かしく思い出します。故郷は離れてみて慕わしいものです。

 9月に聖宣神学院の同窓会であるアラムナイセミナーがありました。その時の講師は、日本イエス・キリスト教団香登(かがと)教会の主管牧師工藤弘雄先生でした。

 2年前、盛岡教会会員の方々のサプライズで、岡山に行く機会がありました。これは家内のひろ子師の故郷であります。この旅の終わりごろに、私の実家である松本から電話があり、父の容態の急変を知らされ、松本行きの予定はなかったのですが、直ぐに父に会いに行くことができ、最後に話すことができ、この旅もまた摂理であると感謝しました。

 せっかく岡山に行きましたので、バックストンの直系の教会である香登教会を訪ねることにしました。香登駅は小さな無人駅です。現在牧会しておられるのが工藤博夫先でした。先生は長野県の諏訪の出身で、奥さまは私の姉の高校と同じであることがわかりました。

 アラムナイセミナーも散会になるというときに、ここに入って来られた徳竹先生も長野の出身でした。私は「じゃ『信濃の国』を歌えますね」と言いました。工藤先生がにっこり笑って「歌えますとも」と仰いました。この歌は長野県人であれば、学校の卒入学式には必ず歌います。この歌を共有することで、3人で故郷を懐かしく思い出し共有することができました。

 私たちの故郷はどういうところなのか。私たちは讃美歌を歌う時、イエス・キリストの救い、十字架の恵をいただくこの讃美の心、それを想い起す。私たちは讃美歌を歌います。これは救われたもの、クリスチャンになったもの、天国が約束された者たちにわかり、共有できるものであります。すでに天に帰った人たちと、私たちとにわかり共有できるものです。

天国の歌で「まもなく彼方の♪」があります。

1.
まもなく彼方
(かなた)の流れのそばで
楽しく会いましょう また友達と
神さまのそばの
きれいなきれいな川で
みんなで集まる日の
ああ なつかしや

2.
水晶より透き通る流れのそばで
主を賛美しましょう みつかいたちと
神さまのそばの
きれいなきれいな川で
みんなで集まる日の
ああ なつかしや

3.
銀のように光る流れのそばで
お目にかかりましょう 救いの君に
神さまのそばの
きれいなきれいな川で
みんなで集まる日の
ああ なつかしや

4.
よいことを励み流れのそばで
お受けいたしましょう 玉の冠を
神さまのそばの
きれいなきれいな川で
みんなで集まる日の
ああ なつかしや

 一つのはなしをして締めくくります。信仰深い婦人が、いよいよこの世を去るときが来ました。まもなく息を引き取ろうとしていたお母さんが息子に指で文字を書きました。

GOD IS NO WHERE (神はいない)

えっ、信仰深いお母さんが、神様はいらっしゃらないというの?

するとお母さんはにっこり笑ってまた書きました。

GOD IS NOW HERE (神はいまこの場におられる)

 最期のとき、お母さんはこう書いたのです。私たちは、神様がいまここにおられる。そして既に天に帰っておられる方々とともに、喜びの讃美をともに持たせていただきたい。そのアイデンティティーを持たせていただきたい、このように思います。

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朝から大忙し

 

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 盛岡市中央公民館がライトアップされているらしい。夜に出かけるのは億劫だと思っていたところ、昨日、ご近所の方が誘ってくださり午後の紅葉ではあるけれども見に行ってきました。だいぶ翳ってはいましたが、すばらしい紅葉でした。

 きょうは朝から大忙し。朝の方がさまざまな雑事をそれほど大変とも思わずにこなせる。

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ベルケア

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 きょうは近所の方々3人にお世話になる。花の苗をくださった方、採れたお野菜を分けてくださった方、ハーブの苗をくださった方、ジャムの作り方を教えて下さった方。遠くの親戚、友人、知人にも教えられ生かされているけれども、このようにご近所の方々にも日々教えられ生かされていることを実感している。

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雑感

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 庭を気を付けて見ないようにしている。立ち枯れなどが目につくと片づけ始める。その場所が片付くとこんどは次の場所が目についてしまう。結局は半日を、ことによっては一日を費やしてしまうことになる。それでも何か一枚撮らなければと木立を覗くと、ブルーベリーが鮮やかに紅葉していた。
 多くの花が季節の終わりを告げるなかで、ベルケアが伸びあがり蕾を形作っている。咲くだろうか。                        

 

spade

 

 きょうは午後13時半から民生の定例会だった。帰宅して16時。それから買っておかなければならないものがあり、1時間で用は足りるだろうと出かける。途中、宮古時代に同じ宿舎に住んでいた方とすれ違う。すこしのあいだ立ち話。いつか皆で集まろうと言い置き去ってゆかれた。まるせい呉服店さんにちょっとだけ立ち寄らせていただいた。昔からさまざまお世話になってきている。お元気そうだったので安心。いつもながらお店の中は明るく楽しい。その後、某デパートでちょっとしたものを選び、黒のしを付けていただいた。17時には帰宅。

 

spade

 

 音楽関連をぼつぼつと辿り、行きつ戻りつしているのがいちばん楽しい。新しい名が出てくるたびにそれを確かめ、関連の演奏を聴いてみる。これは神様からのプレゼントだと私は思っている。いま聴きたいのはカラヤンのブルックナー7番。さまざまな指揮者の7番を聴いたけれども、勿論、カラヤン指揮も聴いてはいる。しかし、リチャード・オズボーンの「虚飾や『尊大さ』はかけらもない率直な演奏で、感動させようとしていないだけに、なおのこと感動的である」という解説に、いまいちど耳を澄ませてみたい。演奏家たちから実力以上の音を引き出してきたカラヤンとは対極にあるカラヤンが、そのときの指揮台に立っていたように思う。

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手いっぱい

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 午後1時~4時まで、盛岡市社会福祉大会に、当初は動員をかけられてしまったという意識だったが、参加してみるとこれもまたさまざまな想いにさせられた。民生児童委員15年以上の方の表彰。いまはその15年間対応された内容が想像できるだけに、ご苦労様でしたと心から拍手することができた。講演も現実に即したお話しで参考にはなった。きょうのクローズアップ現代で自治会が取り上げられていた。民生委員関連も、防災、母子家庭、高齢者の見まもり等、私は正直、全うできるか自信がない。力不足も痛感している。訪問も感謝していただける場合と、迷惑であったかもしれない場合とがある。常に、孤独死や虐待がないかという不安がある。市からおりてきた書類提出が求められるものと、電話などで持ち込まれた事案に当たる駆けつけることで手いっぱいというのが正直なところだ。

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シンフォニエッタ盛岡、もりおか歴史文化館で演奏

 きょうはすっきりとした青空。そして心地よく青く透明な風が、散りゆく枝先を軽やかに巡回しておりました。
 あれやこれやで動きまわっておりましたが、開演15分前にこれは大変と自転車を飛ばし滑り込みセーフ。

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 カメラが持ち主にならい視力が弱くなったか、素敵なお三人に靄がかかってしまい、ためらいつつもアップ。

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 コンサートミストレスの宮野さんの挨拶でスタンバイ。今回は「古の音と今の音」というテーマでした。羊の腸でできた弦(生ガット)のチェロとヴァイオリンを見せてくださいました。この弦は音程が狂いやすく調弦が難しいとのこと。またチェロにはエンドピーがなく脚で挟んで演奏するそう。たしかに調弦には随分と神経を使っておられたような。ヴァイオリンの方は顎あてが無く弓が2㌢ほど短いと宮野さん。ともに穏やかな優しい音色、気持が和みました。羊と聞いたせいか、それこそ朝もやに羊が動いている情景が浮かんだ「G線上のアリア」でした。しかしこの腸弦は奏者にとってはけっこう弾きにくいのではと思いました。バッハの無伴奏も味わいがありました。また畑村さん仰るに、昔は大きくない部屋で演奏したのでこの楽器で足りており楽しめたが、今ある2000人規模などの大ホールに対応できるのはやはり「モダン」という新しい楽器で、大きめの音が出るように調整して作られてあるそうです。畑村さんが家で演奏を楽しまれるときには、古の、バロックの楽器を用いておられるとか。今回で音の違いをはっきりと把握できたのはこの秋の収穫の一つとなりました。
 また鈴木さんは一貫して伴奏を務められましたが、ストンストンと心に落ちる語りかけてくれる音の滴、心地よいものでした。感謝です。

  「天空の城ラピタ」、「となりのトトロ」、この曲が生まれてからもう30年も経っていたとは。真剣に見ていた幼い頃の子どもたちの表情を思い出し胸が熱くなりました。

 食糧難になっても羊の腸は食べません。こんなに優しい音を出してくれるものは食べられません。新たなシンフォニエッタの魅力発見!!
 有難うございました!!

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松見ヴァイオリン教室45周年記念演奏会 2015/11/8(日)盛岡市民文化会館大ホール 開演PM2:00

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 松見ヴァイオリン教室45周年、おめでとうございます。

 双子の姉妹であられる松見和子先生、雅子先生は、武蔵野音楽大学に進学される以前は、岩手大学農学部教授であった小柳達男先生に師事していました。小柳先生は日本農芸化学会鈴木賞を受けられましたが、一方、アレクサンダー・モギレフスキーに12年間ヴァイオリンを学んでおり、村井正一先生とトリオを組むなど、盛岡市の弦楽に大きく寄与されました。松見先生方は、この小柳先生の薫陶を受けております。松見先生方は戦後の弦楽の流れの中に学び、重要な位置を占め、武蔵野音楽大学を出られてからはヴァイオリン教室を開設、多くの後進を育てられました。45周年コンサートはこんどの日曜日、マリオス大ホール2時開演です。

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きょうのことば『昔からの地境』

 早くも11月。街ではもう10月下旬にクリスマスツリーを出している店舗もありました。
 インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)では、クリスマスに向けてトーンチャイムの練習が始まります。
 先週は教団創立記念礼拝が持たれました。

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聖書引証聖句 箴言22:28
あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない。

 國光勝美牧師が、インマヌエル綜合伝道団ができた経緯を、以下のようなプリントで説明して下さいましたのでご覧下さい。

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