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イヤなヤツ

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  けさ6時前の空には、広範囲に薄くれないの雲が浮遊しているかに見えた。捉えかねて県民会館などをアップしている。県民会館の傍らを歩きながら、きょうは光の具合がいま一つ、きれいな写真は撮れないだろうとふと見ると、硝子一面に川向うの建物がくっきりと納まり、一枚の絵画のようでもある。

 昨夜、主人が図書館から借りてきた中に北杜生の随筆があり、ぱらぱらと捲っているうちに、高齢になると頭では考えても体力がついてこないという一行に、やはり肝心なのは体力づくりと、今朝は歩くことを選んだ。写真を撮りながら歩くと距離が長くとも苦役にはならない。

 ことばの単純化で、ことばの持つ豊かな世界が失われてゆく。これは多くの書物を深く味わいながら読んでいる方々はみな仰っている。しかし多くの方々が、私もだが、さりげない単純なことばで癒されたり共感することはある。
 音楽では、ほんとうに音楽を聴こうとするときには、ことばは要らないと仰る方々がいる。いまはマリス・ヤンソンス来日のときのベートーヴェンのツィクルスを聴いているがこれはもう演奏の豊穣さだけで、どんな言葉も付け加える必要などない。バッハは村井先生が仰った「メシと同じ」。しかし讃美歌は音楽としては単純だけれども、潤されることが多い。時には軽音楽も爽快さをくれる。映画音楽はさまざまな場面を想起させる。
 日本語がどんどん壊れていく事を真剣に危惧されてもいる。わたしは軽さ(場合によっては)、単純さ、奥深さ、豊かさとさまざまにあってよいと思っている。ただそれがどんな心根から発せられるかが問われるところかと思う。過去において、随分と無責任に言葉を発してきたように思う。それこそ心にもない事も言ったことはある。ただ斎藤茂太は「嘘はいうべき」といっている。たとえば夫婦が高齢になったときに「元気でいてね」「すてきだよ」などと心にもないことを言いなさいと教えている。すこし的が外れてしまったけれども。
 いまはどうだろう。近頃の自分の言葉遣いのぞんざいさには、今夕うんざりしたところだ。近頃は心根は悪くはないが、物言いが高飛車で独断的になっている。イヤなヤツ、自分をそう思った。ここで心根といったけれども、辿りついたのは、何のことはない、自分の心根の反省ということになった。

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